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2016年2月20日 (土)

ローラン・カバッソ ベートーベン ディアベッリ変奏曲 ほか @JTアートホールアフィニス 1/19

【ラヴェルとドビュッシー】

ローラン・カバッソはパリ国立高等音楽院の教授を務めるようなピアニストだが、彼のことをフランスを代表するピアニストのひとりと見做している日本の音楽ファンはまだ多いとは言えないようである。ただ、最近では、2015年の「ショパン・コンクール」の覇者であるチョ・ソンジンを同音楽院で指導していることで話題となった。今回は「ねもねも舎」なるグループによる、ほとんど非営利的な招聘による稀有な機会で、カバッソの来日がセットされた。なお、「ねもねも舎」はピアノのメンテナンスや、特殊パーツの販売、ピアノの修理や改造を通して、あらゆるレヴェルのピアノ演奏家をサポートする「石山洋琴工房」という事業体と関係しており、その一部としてコンサートの開催をときどき行っているようだが、演奏会そのものはたったの2500円という席代を見るにつけても、商業ベースに乗るものとは思われなかった。そんな値段でこのクラスの音楽家のパフォーマンスに接することができる機会は、金輪際、期待できないというべきだろう。

内容も、決して演奏が楽なものではない上に、気前良く、豪華なアンコールまでついた。本編は前半がドビュッシーとラヴェルによるフランス音楽、後半はベートーベンの大作『ディアベッリの主題による33の変奏曲』という内容である。私はこの『ディアベッリ変奏曲』には深い愛着を抱いており、もともと、それを目当てにして足を運んだようなものであったのだ。それなのに、前半からカバッソの演奏の凄さは際立っていて、特にドビュッシーの演奏には驚かされた。後に述べるように、ベートーベンの演奏もカバッソのは型破りであったが、その衝撃もドビュッシーほどではない(演奏の奔放さでは、ベートーベンのほうが勝るが)。私は彼の演奏を聴いて、ドビュッシーの音楽がもつ1つの特徴に気づかないわけにはいかなかった。

その点について話すためには、ドビュッシーと並べて演奏されたラヴェルとの比較も考えながら、展開していくのが都合がよさそうだ。実際には1つののコンサートにおいて、この2人のプログラムが並ぶことは決して珍しくはないが、浜コン開催中のインタビューのなかで、ドミニク・メルレは「キャリアの中で、同じコンサートにドビュッシーとラヴェルを並べたことは一度もありません」と述べている。記事のなかで、その具体的な意味については深く問われていないものの、推察すれば、2人の音楽はまるでちがう性質をもっているにもかかわらず、リサイタルの限られた時間のなかで、そのように印象づけるのが難しく、両者の特徴が混同して受け取られる可能性が高いというのが、その理由ではないかと思われる。メルレの姿勢はピアニストとしてきわめて謙虚で、誠実なものである。だが、この日のような例外もないわけではないようだ。

カバッソの演奏から感じられたものを象徴的にいえば、ラヴェルは客席とステージの間にあるという薄いスクリーンの向こう側で物凄いパフォーマンスを披露する天才、もしくはシネマのような存在だが、ドビュッシーの音楽は演奏者と聴き手をひとつの空間のなかで共犯にする・・・そういうことだった。

ドビュッシーの『映像1&2』は「絵画的」と言われることが多いが、カバッソの表現を聴く限り、必ずしも適切な表現とは思われない。その意味が正しいとすれば、アニメ『フランダースの犬』でマルコ少年が遠のく意識のなかでルーベンスの絵のなかに吸い込まれるように寝そべってしまうときのことや、ミュシャの『スラヴ叙事詩』に囲まれた空間に身を置いたときの体験だけが、それに値するようなものだろう。例えば、ダ・ヴィンチの『モナリザ』が向こうにいて、僕が展覧会で、それを覗いているとした場合に、ドビュッシーの音楽がイメージさせるものとは程遠いといえる。だが、もしも私が3D眼鏡をかけて、そのためにつくられた絵画を見たならば、同じような感覚を味わうことができるかもしれない。そのようなものなのであった。

もうすこし客観的に述べるなら、ドビュッシーの音楽は、そこに描かれた風景のなかに聴き手を取り込んでしまうようなのだ。カバッソが『映像1』の最初の音を叩いたとき、私は瞬時に別の空間に置き換えられた印象を抱いた。私は断じていうが、このとき、街の美術館で開かれた展覧会などではなく、ましてや演奏会の会場などではなく、水のなか・・・もしくは露もゆたかな森のなか、もしかしたら水辺の草原のあたりか、そんな場所にいて、広い、広い風景のなかに移し変えられてしまった感覚を味わったのだ。この魔法は、その素材が新古典主義的な発想も明らかな『ラモーを讃えて』であっても、瞬時に消えることはなく、『運動』ではまた一層、異空間に立ってドビュッシーの音楽を感じることになったのだ。

こうした感覚と、ラヴェルの『鏡』(第4曲『道化師の朝の歌』と、第5曲『鐘の谷』)の演奏とでは、まるで印象が異なっている。どちらが優れているなどというつもりはなく、ただ、まったく異なっているというだけのことだ。ラヴェルはその方向で極致をいく表現であり、音楽には独特の緊張したドラマ性があるが、ドビュッシーの表現にはまた別の次元があるということである。さらに、改めて『喜びの島』を聴かされてみると、それらのちがいは一層、明確に描き分けられているようだった。この『喜びの島』におけるパフォーマンスは、ほんの5-6分ばかりの世界になんと広大な表現の可能性があるかを知らせる演奏で、圧倒的に印象ぶかく、旋律と詩情、劇的な構造を決定的に引き立てるアーティキュレーションのアイディアに身震いがするほどだった。作品の音構造が立体的に浮き立ち、これまで言われてきたような解釈が表面的なものに思えるほど、カバッソの演奏は多大なインスピレイションを与える。そのために、私たちは単に聴き手という立場を越えて、彼の描き出す表現世界に呑み込まれ、あるいは、これをともに描き出しているのではないかという感覚に陥るのであった。あるいは、自分が正に波に揺られ、幻想の島の姿をしっかと目の裏に焼き付けながら、四苦八苦のうちにそこを目指していく・・・ちょうどマジョルカ島に向けて、サンド夫人とともに旅行したショパンの実感を思い描くことができる。

同じ海ということもあって、この作品に匹敵する重みのある作品としては、3つの交響的素描『海』以外に思いつくものもなかった。『喜びの島』はピアノの響きだけによって、『海』では管弦楽によって活き活きと表現される風景のコントラストや、それらのぶつかり、音楽的な表情の多彩な光と陰を遺憾なく彫り込んだ作品といえるのである。しかも、『海』の表紙には葛飾北斎の有名な『浪裏』図絵が描かれ、彼の浮世絵のもつ遠景と近景の別がない(西洋的には)大胆な構図が、作品が示すイメージを象徴する役割を果たしているが、カバッソの表現も正に、この点で、『喜びの島』を生まれ変わらせたといえそうなのである。

【舞踊と関係の深い表現】

実は、この平面を立体に置き換えてしまうような表現は、メインの『ディアベッリ変奏曲』にも共通していた。前半の曲目も大胆不敵な演奏ではあったが、個性的とはいえ、その表現はまだ正統的なもののうちに収まっている点で、後半の曲目と比べると、まだ穏やかな表現、もしくは、落ち着いた演奏といえるものであった。それも『喜びの島』ともなると、相当の衝撃的な印象を与えたが、『ディアベッリ変奏曲』はまた、まったく異質な個性を描き出すものであり、多分、ブラインド・コンテストで並み居る巨匠たちも抑えてエディターたちの評価を得たという録音に収められた表現とも一味異なっている。それは単に、録音とライヴのちがいというものではあり得ない。この日のプログラムのなかで、カバッソがごく自然に表現をシフトさせたところから生まれる必然であった。

一口に言えば、カバッソはこの作品をひとつのバレエ音楽のように捉えたのである。50人の作曲家に競わせるようにして、ピアノによるパスティッチョの傑作、当時、流行しつつあった変奏曲の究極を余人に先んじて得ようとしたかのような作曲家、もしくは、楽譜出版業者であるアントン・ディアベッリ氏の書いた主題については、「つまらぬもの」と評されることが多いが、ベートーベンはそこに含まれる舞踊的な特徴に関心を抱き、みるみる33もの連続した舞曲を描き出したのである。この点で、ディアベッリとベートーベンとはよく通じ合っていた。

ところで、ベートーベンとバレエの関係については、あまり積極的に語られることはない。ベートーベンのバレエ音楽は2つで、作品番号がつけられたものは『プロメテウスの創造物』だけに限られるが、それもかなり鋭敏な意図に基づく先進的な作品だったと思われる。現在、バレエ音楽としても、純粋な音楽的作品としても、『創造物』はそれほど高くは評価されないが、ベートーベンにとって重要な作品であるのは当時の思潮や、例えば、その素材が後の交響曲第3番、ピアノ独奏曲『エロイカ変奏曲』と共通している事情を考えてみても、明らかなところであろう。台本が残っていないことで、この作品が描き出そうとしていた世界の全貌が現世に明らかでないのはまことに残念でならないのだが、音楽的な中身も『フィデリオ』とさほど遜色のない初期~中期の傑作のうちのひとつに数えてもよいはずのもなのだ。

ベートーベンが手を出したすべての分野において、巨匠は斬新な表現意図を発想し、大部分で、それを実現することを得た。オペラやバレエのような綜合的な表現において、ベートーベンはその可能性を十分に使いこなすところまではいかなかったのも明らかだろうが、後世、ワーグナーがその節目で、頻りに「第九」への敬意を払ってみたように、彼は交響曲、室内楽、ピアノ曲などにおいて、既に、ドイツ・オペラを十分に熟成させるような足跡を残したといってみても、あながち無理とはいえないように思われる。そのことを十分な資料と論拠において書くことができれば、私は音楽学の教授にもなれるだろうが、いま、その点は諦めるよりほかなかろうが。

ともかく、カバッソはそうしたものの延長として、『ディアベッリ変奏曲』を演奏したのである。流行を先取りする変奏曲形式の卓越した成功例というだけではなく、同時に、ナンバーの1つ1つが舞曲のように活気に満ち、バレエ音楽のような跳躍力と、ドラマ性を兼ね備えているのだ。カバッソの演奏では、そうした事情が明らかだろう。厚みのある演奏だが、同時に繊細そのもので、1つ1つの音に微妙なふくらみや減衰があり、その意味を考えると退屈な時間がなく、聴く者を「どうして、どうして?」で一杯にしてくれる。彼の演奏の前では、いかなる博識な聴き手も子どものようになってしまうであろう。彼が何にでも興味を持って、母親に「なんで?、どうして?」と問うように音楽を聴いてしまうからだ。それほど、彼の演奏は普通ではない。普通な部分がほとんどない。「そうする」ことに理由のない瞬間は、ひとつもないはずである。その意味で、ドビュッシーやラヴェルの表現とは次元のちがう個性を発揮していたのだ。

【補足】

アンコールも盛りだくさんで、サービス満点の内容だ。50人のうちのひとりだったシューベルトの書いた『ディアベッリ変奏曲』の1ピースに加え、ベートーベンの次の世代で、ウィーン舞踊音楽の伝統を大成したヨハン・シュトラウスの名曲『ウィーンの森の物語』によるパラフレーズ(エドゥアルト・シュット)が見事だったし、最後には皆がよく知る名曲、シューベルトの『楽興の時第3番』をもってきた。シュトラウスの編曲ものは物凄いヴィルトゥオーゾ・プログラムだが、最近のよく手の回るテクニカルなピアニストがつくる響きとは一線を画す表現だった。それはまず、この時代を象徴する舞踊の魅力を余すところなく語るもので、優雅で、ゆたかな感情に満ちた表現が詰まっているものだった。『喜びの島』から『海』の響きが聴こえたように、シュトラウス作品のパラフレーズから、明らかに管弦楽曲に匹敵する立体性が浮かび上がり、皆が踊っているような共鳴にまで襲われる。装飾音の絵も言われぬ個性や、際立ちは、作品から生まれ出る音の、いのちの価値を何倍にも高めてくれたし、ひときわ深い余韻を感じさせるものでもあった。

ここで当夜、私は自分がイメージした音楽の聴き方が、それなりに理に適ったものであったということを確信した。この演奏会の隠れたテーマは、舞踊的な表現の究極を『ディアベッリ変奏曲』を中心にして、読み解くことであって、それは実に、前半のプログラムにも共通する特徴だったのだ。

なお、先に述べたような装飾音の効果は、声楽の技巧的な曲において、ベルカントの技巧的な歌手たちが示すアジリタの素晴らしい情感の表現と、よく似たものである。「ベルカント歌手」とは何かと問われたなら、私は首をひねりながらも答えるだろう。特殊な技術を情感に変える、声のスペシャリストであると。ピアノの「ヴィルトゥオーゾにも、同じようなことがいえるのだ。彼らの表現は、言葉や音楽が表現する全体の意味を越えて、1つ1つの音の動きそのものに感動的な魅力がある。こうしたものは、論理や数値によって示すことはできないし、私たちがその場で受け止めるよりほかにないものなのだ。いくら歌が器用に歌えても、それだけで語ることができる歌い手は少ないし、ピアノ・ヴィルトゥオーゾといったら、さらに僅かなものだろう。例えば、ピエル・ロラン・エマールと、アルド・チッコリーニのちがいがそこである。カバッソは既に、後者の領域に足を踏み入れた表現者のひとりとなりつつあるようだ。

勿論、いま述べたように、完璧な技術はそのものが深い感動を与えるものであり、表面上、両者のタイプにそれほどのちがいは見られないかもしれない。だが、皆さんがコンペティションの映像を見たりすると、物凄いテクニックをもった若者が難しい編曲ものなど弾くのを聴いて、確かに素晴らしい技ではあるが、「それがどうした?」と思うことも珍しくないと思う。カバッソの表現にはそうした虚しさがなく、ただひたすらに響きが親しげに感じられるのだ。それがもっと、音の少ない表現にとったら、決定的な魅力を加えることになるのも明らかだと思われる。

カバッソの次回の来日など、期待できるだろうか? それが可能なら、今度の10倍のフィーを払っても耳にしたいものである。

【プログラム】 2016年1月19日

1、ドビュッシー 映像1
2、ラヴェル 道化師の朝の歌~『鏡』
3、ラヴェル 鐘の谷~『鏡』
4、ドビュッシー 喜びの島
5、ベートーベン ディアベッリの主題による33の変奏曲

 於:JTアートホールアフィニス

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コメント

今夜放送のベスクラの内容を見たところ、聞いたことないピアニストでありパスしようかと思いましたが、曲目を見ていっきに関心を呼びました。プログラム編成も演奏家の能力の一端がわかるものです。
それで、ローラン・カバッソを検索し、こちらに参りました。
ぜひ聴きたいと思います(録音をして)。期待が高まります。
ありがとうございます

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