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2016年3月19日 (土)

クリストフ・ロイ(演出) ヤナーチェク 歌劇『イェヌーファ』 新国立劇場・オペラ部門 2日目 3/2

【ワールド・スタンダードな舞台】

ヤナーチェクの歌劇『イェヌーファ』は、世界的にはポピュラーな演目のひとつであるが、日本国内での上演は2004年の二期会の公演が最後であったと思う。ドイツ語上演ではあったが、舞台全面に土を敷いたマルティン・オタヴァの演出、そして、題名役であった津山恵の鮮やかな変身の演唱は独創的なものであり、終幕の最終場に移る際、イェヌーファとラツァの背後の深紅の緞帳が下り、2人だけが肩を寄せて歌う場面の神々しさなど、今日までも記憶に残るプロダクションであった。このドイツ語訳はフランツ・カフカの友人としても知られる、大文人マックス・ブロートが苦労して織り上げたもので、そうしたものが長くドイツ圏をはじめ、世界の広い地域で上演の主流を占めていたことは理解に値する。

とはいえ、現在ではヤナーチェクの作品は劇場の1年のなかでも、目玉的な公演として組まれることが多く、チェコ語での上演も当然となってきている。演劇的な面白さも追いやすく、演出主導の欧米の劇場をめぐる現状ではヤナーチェクは格好の素材であり、メディアからの注目も浴びやすい上に、聴き手からの支持も十分に得られる音響的な魅力があるからだ。そして、ヤナーチェクの音楽がチェコ語の会話の抑揚と深く関係し、まるでバロック音楽におけるがごとき言語と音楽の有機的な結びつきがあることも、いまでは当然のように知られていることがあるだろう。2012年ベルリン・ドイツ・オペラのプロダクションからのレンタルとはいえ、今回の新国立劇場でのチェコ語上演は貴重な機会となる。一部の歌手と指揮者はクリストフ・ロイ演出の舞台を現地で経験しており、そこからスライドしての出演だ。このうち、題名役のミヒャエラ・カウネと、ラツァ役のヴィル・ハルトマンは新日本フィルの公演で、メッツマッハーの『ワルキューレ』第1幕に兄妹役のペアで出演したことがあるが、そのときに印象づけられたカウネが天性のようにもっている高い演技力は、特に『イェヌーファ』第2幕に決定的な色合いを残したのである。

ロイの演出はオタヴァのものとは異なり、田舎らしい風景は第1幕の背景に浮かぶ麦畑の描写ぐらいに止められていた。その畑にも農薬を散布する鉄塔が数本、合理的に並べられており、土の軟らかさや温かみに対して、冷徹でシュールな印象を残すのである。第3幕における、婚礼の民族衣装の出番もなかった。それは正に、村長の夫人が言うように地味なものであったが、演唱が行われるスペースも舞台全体のうち、2/3ほどに限った狭いスペース(部屋)に押し込まれ、その部屋は幕開きの場面で、まるで警察署の取調室にも見えるほどの殺風景さであった。ただし、調度もなく、模様も、壁掛けの絵画や装飾もない真っ白な壁は、ときに眩いほどの光度を放つこともあった。背景の壁が場面ごとの心理的背景といくぶんリンクして開閉し、第1幕の麦畑や、第2幕の銀世界を覗かせることになる。演出面で既に、何でもやり尽くした感のある欧米ムジーク・テアターでは、主流となりつつあるミニマムの演出であり、改めて歌手たちの高い演技力と、歌唱の精度、それに全体が共有する劇的な深さが求められる難しい舞台となっていた。

【透明な演出】

ロイの演出は、いわば透明なものである。二期会の公演を演出したオタヴァのように、モラヴィアの田舎ならではの素朴さや野趣、土を踏みしめる感覚、伝統的で華やかな衣装といったものをそのまま視覚化するのではなく、人々の微妙な心理の機微に注目し、今日、現に見出されているようなヤナーチェクの作品がもつ普遍的な斬新さをも象徴する発想になっていた点は注意に値する。

歌劇『イェヌーファ』は、ガブリエラ・プライソヴァーによる戯曲が元になっており、それは新聞に載せられた東南モラヴィア地方の田舎で起きた2つの事件から着想を得て、それらの合成から女史が築き上げた作品『あの女(ひと)の育てた娘』に基づいている。場面の大幅な削除などは行っているものの、ヤナーチェクは音楽作品のために、一言も書き足したりはしていないということである。一種のヴェリズモ・オペラであるが、その範囲には収まらない作曲家の内的衝動が深く感じられ、結局のところ、第1幕で衝動からイェヌーファを傷つけたラツァと、イェヌーファが結びつき、両者が傷つきながらも、幸福な道を歩み出すことになるなど、筋書きには型破りな点が多いようだ。『イェヌーファ』の題名を定着させたのは、先述のドイツ語版に協力したブロートの手腕によるところが大きいが、原題からもわかるように、ここに大きな役割を加えるのは、イェヌーファの継母であるコステルニチカだ。「女堂守」を意味するこの影の主人公は、原作の戯曲と、オペラでは若干、異なる役割を果たしているらしい。

ここではオペラの話だけをするが、コステルニチカはまず、イェヌーファとシュテヴァの関係を妨げる者として登場する。憧れていた義兄の後添えとして入り、長く浪費と暴力に晒されたことで、不幸な生活を送った彼女は兵役免除が決まったシュテヴァが放蕩に耽るのをみて不安を募らせ、結婚生活の破綻を予測。2人の関係に介入し、その結婚に高い障壁を課すのである。ところが、娘は既にシュテヴァの子を懐妊していることを彼女に秘しており、すぐに結婚が許されなかったことで、宗教的には明らかに不義となる子を産んでしまうこととなったのだ。さりとて、シュテヴァとの結婚生活はうまくいくはずがなかったのだから、コステルニチカの分別は現実的には正しいとみられるのであるが、このような事情から、娘を逃げ場のない絶望の淵に落としてしまうことともなり、さらに、その原因を取り除くために、嬰児殺しという第2の罪に自ら手を染めるという結果にもつながっていくのである。

【権威からの脱出】

大人の世知から先回りして、分別くさい判断で若者たちを支配する構図は、ヤナーチェクにとっては、十分に醜悪な行為だったかもしれない。コステルニチカは、その役名からもわかるように宗教的権威と結びついているところに、さらに大きな問題があった。コステルニチカは没落した大農家の寡婦であったが、その高い教育と信仰を味方につけて、田舎の厳粛な倫理的支配者として君臨していたのだ。いつのまにか人間的な思いやりを喪い、あまりにも厳粛となった継母から、その粧いを剥奪して、人間性を取り戻す過程を、ヤナーチェクは見事に描き出した。シュテヴァの仲間たちや、祖母が発する ’ženska’ という言葉はやがて、コステルニチカに対して痛切に響き、その声も老婆役のベテラン歌手、ハンナ・シュヴァルツによって判然と歌われて、指揮者のハヌスが用意した深い間からくっきりと伸びてくることになる。

なお、ウィーン初演の舞台では、コステルニチカが熊手を担ぎ、みすぼらしい姿で登場し、没落しながらも、気位の高い田舎の名士的な雰囲気をもたせたかった作曲家をやきもきさせたようだが、今回の舞台ではスラックスをはいた現代的な女性であり、黒一色で身を固めて、手堅い雰囲気をまとわせている。

表面的には、シュテヴァでさえ、イェヌーファを思っていると口にすることもできた。祖母がおまえ(コステルニチカ)が言うほど息子も、シュテヴァも悪くはないというように、シュテヴァも人並みには恋人のことを想っており、ヤナーチェクも彼に自分自身を重ねている面がある。シュテヴァとラツァを合成すると、確かにヤナーチェクらしい複雑な人間性を形成することができるだろう。正妻との関係はうまくいかず、性的にやや奔放なところのあるヤナーチェクの生涯は、特に晩年のカミラとの関係で知ることができる。『イェヌーファ』の頃には、まだ彼女との関係は始まっていないが、ラツァの最後の言葉などは、その関係を予告するかのようだ。

「世間の人なんてどうでもいい、俺たちが慰め合うことができるんなら」

結局、この物語では、登場するほぼすべての人物が傷つき、その結果として、ようやくひとつの幸福と、正しい道が生まれるのである。社会的な倫理や秩序といったものを脱け出ることで、ようやく正しいひとつの関係が成立するというわけだ。イェヌーファは青春の衝動に奔り、責任のとれない子どもを腹に宿してしまった。コステルニチカは若い二人の事情を省みることなく、その判断の過ちを嬰児殺しという形で帳消しにしようとした。そして、ラツァは邪な横恋慕から、イェヌーファを暴力的に傷つけてしまっている。ラツァは今日でいえば、危険なストーカーであり、そのような者と被害者が結びつくなどということは考えたくもない。だが、もしも、その罪を赦すことができるなら、自分のことを思わず傷つけてしまうような愛情をもったストーカーこそが、真に安心できる存在だったということもあり得ない話ではなかろう。ただし、現代のストーカーとラツァが異なっているのは、彼が自身の欲望や、欠乏感の穴埋めのためだけではなく、思いを寄せるイェヌーファ自身の幸福を真に願う存在だったことだ。その思いやりは劇中で十分に描かれていないものの、終幕の「ラツァ、本当にどうもありがとう」の場面で温かく仄めかされることで、2人の信頼関係を実感するには十分である。

現代に蔓延する心理学によるレッテルづけは、時代的なオペラの演出をお門違いの結末に導く場合が多い。それがいわゆる「読み替え」演出のおかしさの、ひとつの原因となっていることも多い。例えば、『オランダ人』のゼンタが夢遊病患者で、(元)恋人のエリックがストーカー同然であり、オランダ人は自己同一性を喪失しているというような解釈で、このオペラを解釈することは不可能だ(以前の新国立劇場の舞台についての考察を参照されたい)。そうした解釈は、オペラが醸し出している神秘的な部分を露わに晒すことで、矮小化する役割しか果たさないだろう。ロイはこうした類型化にはよらず、その場面ごとに微妙に移り変わっていく登場人物との対話を試みており、高等な心理劇として、『イェヌーファ』を生まれ変わらせたかのように見える。ヤナーチェクは後に、心理劇の大家ドストエフスキーの『死の家の記録』を基にして、難解な傑作『死者の家から』を生み出しているが、この日の演出でも、終幕の互いに許し合う雪解けのシーンなどが『罪と罰』の後日譚、ソーニャがシベリアのラスコーリニコフを訪ねるシーンを彷彿とさせ、示唆的なものだった。

【ヤナーチェクの心理的背景】

この終幕は婚礼の華やかなシーンであるが、黒ずくめであり、嬰児殺しの発覚以前から、皆、葬式のような雰囲気である。幸福な大団円を目指しながらも、どこか沈んだ雰囲気は、間近に迫った発覚を予告するものであると同時に、作者ヤナーチェクの心理を踏まえたものでもあろう。彼はこのオペラの着想から完成までに、10年ほどを要したが、その間に2人の子を喪っている。特に愛娘のオルガは、作品の完成が近づくなかで、虚しく息を引き取った。作品完成に寄せて、ヤナーチェクは戯曲のテキストに、次のように書きつけているということだ。

「1903年3月18日、私のかわいそうなオルガが苦しみの末に逝ってから3週目になる。完成。」

イェヌーファの嬰児が8週間もの間、全く泣くこともなく、コステルニチカの手で静かに葬られたことは、オペラのなかでは、せめて苦しまずに死なせてやりたいという気持ちを反映するものだったかもしれない。この作品はヤナーチェクの歌劇のなかでも、ひときわ官能的な作品ではあるものの、こうした代償に基づくものでもあった点が忘れられてはならないのだ(それを知ることで、より深く物語やその細部に共感していくときの助けになる)。もうひとつ見えない要素を挙げるなら、ヤナーチェクは愛嬢オルガが、作中シュテヴァと同じような放蕩癖のある元恋人に悩まされていたという事情も抱えていた。オルガ嬢はもともと虚弱な体質だったが、ヤナーチェクは悪魔のような恋人のことが、愛娘の死に深く関係していると信じていたにちがいない。この作品には、幾重にも重なる死の雰囲気が漂っているわけである。

それはともかく、イェヌーファも、ラツァも、そして、コステルニチカも罪を背負って生きることになり、最後に赦しがあるということでは、ヤナーチェクもまた宗教的な面を無視したわけではないようだ。彼が反発するのは信仰そのものではなく、それが既製(レディ・メイド)化して、人間性に対して先行するような権威として存在した場合である。人間は、罪を犯してはならないというのではなく、その過ちとどのように向き合うかということを重視したのだ。コステルニチカのように、初めから罪を犯さぬように道を整えるのは間違っている。また、シュテヴァのように、そもそも罪の認識がない子どものような存在も罰せられるべきだ。実際、コステルニチカは第2幕の最後に、イェヌーファとラツァの関係の成立を言祝ぎながらも、対照的に、こう言い放っている。

「あの男(シュテヴァ)と私に災いあれ」

こうした悪魔の契約とともに、「承知した」とでもいうように、一陣の風がコステルニチカの部屋を吹き抜ける。ロイはこの場面を一種のオカルト的な雰囲気で描くが、吹きつける強い風が窓から入ってくる表現は『トリスタンとイゾルデ』第1幕の場面を想像させるものでもあった。

【音楽的な面】

オペラの醍醐味のひとつは、劇中で起こる日常を超えた異常な事態によって、そこに生きる人々が決定的な成長を遂げ、幸福であれ、不幸であれ、常人には望み得ない高貴な体験に至るところを観客が目撃し、その体験を、観客自らがこころの糧にしていくというところにある。イェヌーファとラツァは常識的な恋愛の枠組みから脱し、まったく新しい関係によって結ばれることになった。それゆえに、あれほど高貴な結末が生まれるわけである。ヤナーチェクは死を象徴する聖なる楽器トロンボーンを愛用するが、同時にトランペットの輝かしい響きを上向きに書き入れ、曙を描き混み、地が迫り上がるような熱い響きを盛り上げて、堂々と音楽を締めている。ただし、この日の演奏では、トランペットは傍目にも明らかにわかるほど、アンサンブルから落ちてしまい、幕ぎれの輝かしい印象に水を差してしまっている。東響の金管セクションは総じて、そこまでは素晴らしいパフォーマンスであったのに!

ここでオーケストラのほうに話を向けると、この時期を担当するオーケストラである東京交響楽団は、東日本大震災によって、正に足下を揺さぶられる(ミューザ川崎の天井崩落によって、長らく本拠地の利用ができなくなった)2011年までは、ヤナーチェクのオペラを定期的に取り上げる試みを続けていた。その最後の公演は2009年の『ブロウチェク氏の旅行』であったが、このシリーズは2006年の『マクロプーロスの秘事』、2000年『カーチャ・カバノヴァー』、1997年の『利口な女狐の物語』まで遡っていける比較的、厚みのある伝統を誇っていた。2016年、この歴史に久しぶりの代表作『イェヌーファ』を書き込むことができたのは幸運なことである。もっとも、2009年当時からみても、団員の入れ替わりは決して小さくなかろうが、こうした伝統は楽団のなかに色濃く保持されていて、今回の上演を成功に導く鍵となっていただろう。

指揮者はトマーシュ・ハヌスという若者で、ブルノのJAMUでJ.ビエロフラーヴェクにつき、2007年からは3年間、ブルノ国立歌劇場においてGMDを務めるなど、伝統的な叩き上げのキャリアを築きつつあり、隣国のベルリン・ドイツ・オペラでも『イェヌーファ』の上演を指揮したので、今回はその成功を辿っての招聘であろう。ヤナーチェクの演目では、特にドイツ圏で高く評価されている風が窺われる。才気煥発という感じではなく、ゆったりした音楽の運びで、オペラのもつ音楽的、言語的、表現的特徴を深く理解しており、一方では彼の才能だけに依拠することなく、欧州の劇場で『イェヌーファ』(ばかりではない、ヤナーチェクの諸作品)の上演経験が我が国に比べて、相当に分厚いものになっていることをも教えてくれるのだった。その上でハヌスはパウゼを一杯にとり、場面の切り替えを鮮やかに印象づけることを得意としていたことは明らかだし、また、言葉の抑揚に合わせて作曲したという、ヤナーチェク独特な音楽の味わいも自然に、かつ、ハッキリと感じられ、馴染みのない言語でも、やりようによっては、その感覚が受け手に直接、伝わっていくことを体感した。

チェコ系の指揮者ではT.ネトピルや、都響でも活躍するJ.フルーシャなどが世界的に有名であるが、このハヌスも特に歌劇の分野において、近い将来、頭角を現して来る逸材であろう。2015年9月には、かつてサー・チャールズ・マッケラスも活躍したウェルシュ国立歌劇場で、芸術監督に選任されているという存在だ。

【幕ごとのヒーロー/ヒロイン】

この『イェヌーファ』では3つの幕で、やや異なった歌唱のテクニックが求められる。第1幕はほとんど流れの切れない会話劇で進み、そこに民謡や舞踏の音楽が絡み合っていき、忙しい。第2幕はラツァやシュテヴァも登場はするが、ほとんどの場面がイェヌーファとコステルニチカのきれぎれの対話、もしくは独白で成り立っており、ゆったりした流れのなかで、内面的な深い表現が求められる。そして、第3幕はまた第1幕の雰囲気へと戻るが、劇的な幕切れに向かって厚みのある歌唱力が必要である上に、喜び、不安、後悔、怒り、消沈、絶望、赦し、希望など、めまぐるしく変わっていく心情をゆたかに歌い上げることも必要となる。これらすべての幕で、軒並みの高得点をあげる歌手というのは、そうそういるものではなかろう。

今回のキャストでいえば、第1幕ではバロック音楽の対話形式に慣れたジェニファー・ラーモア(継母)と、一所懸命に持ち場を精一杯に歌う日本人キャストの役割が素晴らしく、ハルトマン(ラツァ)は頑丈だが、初めからアクが強すぎ、カウネ(イェヌーファ)は流れに乗れていなかった。この幕では一部にPAの使用があり、牧童ヤノが喜んで本が読めると騒ぐ場面や、楽士たちが登場する直前の場面でも、セット後方に置かれたスピーカから響かせる方式になっていたように思われる(私は1Fのほぼ中央に位置したので、上階での対応はわからない)。ハヌスも全体的に、重要なモティーフを除いては響きを刈り込んでキャストの台詞(歌唱)を立てており、自然に歌うことが何よりも大事だが、このプロダクションを体験したメンバーはよく心得たもので、反面、いつもは、ともするとバックに負けてしまう日本人のキャストが一生懸命に歌ったりした場合には、むしろ声が強すぎることで、肩肘の張った雰囲気に聴こえることもあった。このあたりはやはり、場数の差というほかはない。

なお、第1幕の演出的な特徴について付け加えるなら、特にシュテヴァの登場以降、男性がネクタイなどで女性を縛るような描写があり、田舎の、そして、時代の事情もあり、現代よりは、かなり深いジェンダーの問題が絡んでいることを示している。また、第1幕では直接、声を発することなく、リブレット上は第3幕になって登場する人物も、この舞台では最初から姿を現していたことも面白かった。これは世間が狭いムラ社会を象徴するとともに、ヤナーチェクが削除した場面を示唆的にながらも描き出す意図があったと思われる。こうした面でも、脇役の人たちも同様に、このプロダクションでは重要な役割を果たし、演劇的な要素が決め手となる。

第2幕は、カウネの独壇場だったろう。歌のキャラクターが表面にくっきりと滲み出るだけでなく、演劇的な要素では世界的に見ても、まず一級品の表現力を誇っており、彼女が演じ歌うイェヌーファは正にはまり役というべきだ。重い内面的表現を分厚く歌いながらも、底面にべとつくことなく、しっとりとした後味があり、劇的な進行を妨げることもなくて、キャラクターの心情がビンビンと胸に響いてくるのだから、堪らない。我が子への愛情に満ちているが、結局、その子のための鎮魂歌となってしまう題名役の祈りのうたは、カウネの表現でいっそう痛切に響くものがあった。そうなると、この歌がまた、ヤナーチェクの子どもたちへの想いと重なるものでもあることに気づくことができる。もしかしたら、それだけでもない民族全体の発する響きなのかもしれぬ。とにかく、ヤナーチェクはおかしな時代に生きていたのだ。

例えば、先の牧童のエピソードにしても、それなりに深い意味があると思われる。イェヌーファは、このヤノと、粉やの使用人バレナに文字を教えたらしいのだが、彼らは通常、ろくな教育も受けられないような、この地域の貧しい人たちを象徴していると思われる。その上、当時のチェコでは現地(チェコ)語が禁止され、支配者側のドイツ語が幅を利かせていたようである。ヤナーチェクの夫人もドイツ系で、夫婦となってみると、愛国心の強い、それもプラハよりはローカルなモラヴィアに思い入れがあるヤナーチェクとの間では、文化的な背景もあって、2人の関係は次第に疎遠となっていったという。ヤノの喜びは教育が人を変えるという信念に基づいていて、その素晴らしさをこの劇のなかで、多分、嬰児の次に純粋で、屈託のない少年ヤノに語らせてみたのである。このモティーフはイェヌーファが、「私の知識など川に流してしまった」というように、それほどの広がりをみせず、全体のなかに呑み込まれてしまう。結局のところ、知恵も倫理も、イェヌーファを救いはしないのだ。俗っぽい言い方にはなるが、大切なのは愛だけだった。

なお、私も末席を汚す「日本ヤナーチェク友の会」が発行した対訳書には、作品のウィーン初演の模様が描かれている。これによると、第2幕のおわりでティンパニの連打が轟くと、観客たちは熱狂し、ヤナーチェクは舞台上に引っ張り出され、プライソヴァーやブロートが作曲家のところを訪ねてきたということである。この日の第2幕も、そんな雰囲気をよく醸し出している。陰鬱だが、見逃せない第2幕の内面描写の頂点で響くティンパニの連打は、なるほど直截に胸を打つものだ。この日の上演は殊の外の盛り上がりをみせ、ウィーン初演とは異なり、第1幕終了後の割れんばかりの拍手には、普通の舞台とは大きく異なるものを感じることになった。第2幕ではそうした熱狂的な支持と、私と同じように、胸にナイフを突き刺された衝撃に胸が破裂したグループが相半ばしたのか、より深々とした雰囲気に包まれる。

第3幕になると、ラツァの歌唱が特に素晴らしかった。結局のところ、彼の誠実さと勇気、それにしみじみと深い愛がすべてを救うのである。このヴィル・ハルトマンは以前、『ワルキューレ』で耳にしたときは、それほど質の良い歌手という風にはみえなかったのに、あの日、たまたま調子が良くなかったのか、あるいは、ここ数年での成長が著しかったのか、よくわからないが、とにかく、最初から最後まで立派な声を前面に張り、存在感があった。各幕を通して、打率がいいのはさすがに経験値の多いラーモアで、カウネは既述のように第2幕で圧倒的だ。各幕ごとにヒーロー(ヒロイン)がかわり、それは歌劇の本質ともよくかかわっている。ひとついえることは、日本組、ドイツ組を含めて、この舞台には一体感があった。舞台上の声楽アンサンブルは互いに深い関係性を示し、そうしたものがオペラの本質であることを教えてくれる。先述の牧童ヤノの喜びのようなものさえも、オペラには欠かすことのできない要素なのだ。それをPAという形で、しっかり補っているあたりも芸が細かかった。これは今回、ロイに代わって来日した演出補と、日本側劇場スタッフの手腕でもあろう。

【重ね合わせ】

これに象徴されるものの、より判然といえば、ヤナーチェクの書いた音楽は、声楽アンサンブルを縫うように設計されている。ハヌスの指揮の優れた点は、こうした縫い糸の使い方の巧みさにも見受けられる。また、反対に、縫い目が切れているシーンでは深いパウゼが要求され、そこから、どのように展開するかで、劇の流れは運命のように決まってくるわけだ。また、ブリヤ家の粉屋という稼業から思い出すのは、シューベルトの歌曲集『美しい水車小屋の娘』である。そこから連想される内面性のゆたかさや繊細な表情、あるいは、次第に変わっていく流れの趣といったところに、ヤナーチェクは挑んでみせたのかもしれない。

もうひとつ、第2幕の風が吹き込む場面でも述べたように、ワーグナーとの重ね合わせもみられる。例えば、第1幕のラツァは大した考えもなく、衝動的に白鳥を射殺してしまう「無垢なる愚者」パルジファルを連想させる。作品の片方では、そうした彼の人格的成長が欠かせない要素となっている。幕を追って少女から成長し、ついに赦しを与えるに至ったゼンタのような題名役の成長は、もちろん、作品の鍵を握っている。ラツァとイェヌーファは次第に成長し、常識の殻を破って、上り坂を歩み始めた。ワーグナー作品によくあるように、おつきの中年の女性が深い役割を果たしてもいる。母親同然とはいえ、血のつながっていないコステルニチカがそれに当たるが、ゼンタに古いオランダ人の伝説を話したのは、この劇の祖母役のような乳母であった。そして、第2幕でコステルニチカは娘を深い眠りに誘い、赤子から引き離すために、クスリを使う。これは『トリスタン』の「媚薬」とは若干、意味が異なるものの、やはり重ね合わせの意味がありそうだ。クスリの効き目があったのかなかったのか、本当のところ、よくわからないのも共通している。

ヤナーチェクも、こうした伝統の上に自らの独創的な作品を立脚させていくのである。今回の上演は、私のような世代にとっては、チェコ語による日本初演にもちかい舞台だった。マックス・ブロートの血の滲むような苦労は認めながらも、流れるように言葉が響くヤナーチェクの世界は、たとえ、その言葉によく通じていなくとも深い感銘を残すものだ。今回はレンタルとはいえ、欧米でも成功している舞台で、歌手もよく、オーケストラもよく、ほとんどケチのつけようのない舞台となって、深い満足を与えた。

【劇場の発信力】

唯一、気がかりなのは、この公演が興行的にはかなりの苦戦を強いられたことだろう。既に発表されている来季の新国立劇場のプログラムを見ると、劇場の創造性は、ほんの僅かしか発揮されていないようにみえる。飯守監督の情熱と、劇場のもつリソースはワーグナー上演ばかりにとられてしまって、これもまた、そもそもG.フリードリヒの古い舞台である。来季の演目では既に発表されている情報で、唯一、『ルチア』の狂乱の場でグラス・ハーモニカを使うというのが画期的なぐらいであり、演目だけをみると、世界の劇場なら、ひとつも新聞や専門誌に載らないような、つまり、国が予算をかけて行うには恥ずかしいポピュラー路線が採られた。権力と戦う意思がない芸術監督には、音楽的には深い敬意を献げるとしても、組織運営者としては失望するばかりだ。しかし、ヤナーチェクの上演がこのような状態なら、劇場の選択も正当化されてしまうかもしれない。

今回、劇場としてはありとあらゆる形で、『イェヌーファ』のプロモートを行い、それはそこそこ実を結んだが、その苦戦の原因は実のところ、演目の問題ではないように思われる。欧米でも、クラシック音楽の価値の退潮傾向は東アジアよりもいっそう顕著であるが、レパートリーを豊富にし、現代ものも上手に組み込んで、演出を刷新する試みなどもおこないながら、必死の発信的施策に取り組んでいる。当たり前の演目よりは、こうした挑戦的な試みにより好意的に反応する観客の層が維持されている。反面、我が国の新国立劇場をめぐる客層は身近な、よく知った演目の良さを劇場で確認するぐらいことを目的とするにすぎない。その範囲では、皆様がよくご存じではあるものの、各々の体験を広げ、自分の視野や内面を大きく開くには何の役にも立たない公演ばかりが並ぶことになる。この原因は、劇場が観客たちとの対話を欠いていること、そのことがもっとも大きな原因となっているのだ。

オペラ部門ではトーマス・ノヴォラツスキー、バレエ部門ではデイヴィッド・ビントレーが率いた一時期を除き、新国立劇場の運営は多くの公的事業体と同じく、企業幹部の経験者や官僚出身者によって粛々と担われている。ノヴォラツスキーも本業はビジネスマンだから、自分に与えられた権限だけを駆使して、それほど荒っぽい波風は立てなかったが、ビントレーのごとく、露骨に戦う姿勢をみせた芸術監督はいかに高度な芸術的成功をあげ、スタッフやアーティスト、それに観客の支持を得ていようとも、すぐに追い出されてしまうのだ。蓋し、劇場運営者の関心事は文化庁を通じて、国から多額の補助金を引き出し、彼らの職場を守ることでしかなく、芸術的な創造など、あってもなくてもよいようなものなのであろう。彼らが真に恐れているのは、観客動員が低いレヴェルに止まることで、大阪市の文楽のように行政から数字で批判を受け、劇場に予算がとれなくなることなのである。それはもちろん、避けなくてはならない事態だが、もっとうまくやらなければならない。劇場のなかには、こころから芸術を愛し、自分たちに与えられた条件のなかで、公演を少しでもよいものにしたいという良心をもつ者も存在することは、今回の騒動を通じてもよくわかる。だが、彼らの個別的な取り組みは、劇場全体としての取り組みとはあまり関係しないように思われるのだ。

私が今回のトピックから感じ取ったのは、「劇場の発信力」のなさというキーワードに尽きるだろう。繰り返しになるが、海外の劇場ではヤナーチェクの演目は人気があるし、「ルネッサンス」期といえそうな以前ほどの状況ではないものの、メディアの話題も集めやすい素材であることに変わりはない。ロンドンのコヴェントガーデンでは、トーマス・アデスの作品が人気の演目である。ドイツでは日生劇場が取り上げたようなライマンの作品とか、現代ものの上演に熱心だ。世界的に評価される細川俊夫などは、日本では通常、諦めなくてはならない新作のオペラをドイツで発表している(それに関する皮肉な事情を含むドキュメントと公演の録画中継がNHKで放送された)。どれもクラシック音楽をアルヒーフに送らないための、賢明な努力である。日本の新国立劇場は来季、より深刻な発信力の低減に襲われるのが確実だ。正に、故ピエール・ブーレーズが「劇場を爆破せよ」といったときの状態と同じというか、多分、ブーレーズが発言したときのほうが、ずっとマシだったぐらいに酷い状況が日本を襲っている。これは、悪循環を引き起こすことになろう。志ある観客は劇場を見捨てるであろうし、旧来の観客層は高齢者が多いために、黙っていても、漸次、減少していく運命にある。ポピュラーな演目のほうが短期的には人を呼びやすいものの、中長期的にはこのような文化的施設にとって致命的な結果をもたらすのは必定だ。指揮者と歌手が、欧米の一流劇場並みというプレミアはあっても、近いうちに飽きられてしまうだろう。

今度の『イェヌーファ』は今季、もうひとつ期待される『ウェルテル』の上演とともに、新国立劇場で最後の徒花となるのかもしれない。劇場は自分たちの役割を自覚して、民間でも十分にできることは、国立の劇場でやるべきでないということを肝に銘じるべきである。

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