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2016年4月26日 (火)

アウエルバッハ アルカヌム ほか キム・カシュカシアン va. & レーラ・アウエルバッハ pf. 共同リサイタル @王子ホール 3/29

【カシュアシアンとアウエルバッハ】

キム・カシュカシアンは現在、世界最高峰にあるヴィオリストである。クリアな音色を正確に奏でる名手であるばかりでなく、音楽の語るメッセージに深くアクセスし、聴き手にそれを感じさせるための手腕にも優れている。また、ソロ・ヴィオリストとしては当然のことだが、現代の作曲家とコラボレートした作品にも積極的に取り組み、その活動を自ら楽しむだけではなく、創作上のパートナーとしても活躍しているようにみえるのだ。中堅の作曲家、レーラ・アウエルバッハにとっても、カシュカシアンとの関係は切っても切り離せないものだろう。米国籍のカシュカシアンだが、そのルーツはアルメニアにあり、ロシアのウラル山脈沿いの町、チャリャビンスクで生まれたアウエルバッハとはどこか、ソウルのレヴェルで近しい感じも抱いているのであろうか?

正直にいうと、私はアウエルバッハがせいぜいマックス・レーガーくらいの時代に生きた人であり、1974年生まれの作曲家とは夢にも思っていなかった。昨年、来日が発表されたとき、ようやく存命の作曲家であることを知ったぐらいで、お恥ずかしい限りである。自分の場合、欧米の音楽事情を知る一番の手がかりは、無料誌『ぶらあぼ』に掲載される欧米の公演情報ということになり、そこにアウエルバッハの名前はよく登場するものの、それだけよく取り上げられる現代の作曲家も、それほど多くはないとあって、歴史的な作曲家のひとりというイメージがあったのだろう。また、たまたま耳にしたいくつかの作品も、新鮮さに満ちていながらも、それほど斬新なものとは思わなかったこともある。もしも、作曲家の仕事をメカニカルに評価できるコンピュータ・システムのようなものがあったとするなら、私の感覚もあながち間違ったものではないことが証明されるであろうに!

【関係の新しさ】

ところで、この日のコンサートで徹頭徹尾、重要となるのは「関係」という問題である。先頃、ピエール・ブーレーズがこの世を去ったが、彼のような偉大な存在がスタンダードへと高めた、音楽を新しく、新鮮なものに保つための潮流は、一方では、いちど生み出された要素の厚みをじっくり増す(熟成させる)ことを妨げている部分もある。反芻し、反省することを社会に赦さず、聴き手の理解に対する丁寧なアプローチも欠く20世紀的前衛主義の波は、必ずしも成功したとは言いがたい。しかも、新しさに対するパーソナルな多様性を奪う方向、例えば、南北アメリカ、中近東、アフリカ、アジアなど、遅れてきた民族的なアプローチの多様さは行き場を失うことになった。日本では、湯浅譲二が「未聴感」というキーワードをもとに、現代の複雑な音楽の価値をある方向に導こうと努力したが、そのメッセージはあくまで重要なものだとしても、「未聴」とはいえなくとも、どこか捨てておけない音楽の存在が一方にあるということは、ある程度の専門家にも、我々のような素人の耳にも、なんとなく聴こえていたような気がするのである。

近年の芥川作曲賞の潮流などをみても、前衛的な頑とした新しさを追うようなものはほとんどなく、特に湯浅がディレクターを降りてからは、そうしたものの陰で、聴き手にシニカルな面白みを与えるような作品が改めて評価されるようになった印象を得ている。実際、そうした作品の追究はいま、避けて通れないものだと思うのである。レーラ・アウエルバッハの音楽も、そうしたもののうちのひとつに入るのではないかと思う。彼女の音楽は、現代社会に呑み込まれた「異物」を優しげに照らし出すような特徴をもっている。また、アウエルバッハの音楽は「関係」の新しさということにおいて、傑出しており、これはいかにも現代的な課題であると思われた。このことについては追々、論じていくつもりである。

この日の演奏会の前半は、ショスタコーヴィチの『24の前奏曲』(op.34)に当てられていた。原曲はピアノ独奏であるが、ショスタコーヴィチの友人で、伝説的なロシアの弦楽四重奏団「ベートーベンSQ」の第1ヴァイオリン奏者、ドミートリー・ツィガーノフが作曲家公認の下、その大部分をピアノとヴァイオリンのために編曲し、さらに、アウエルバッハが欠けている部分を穴埋めした上で、ヴィオラ用に直したものの演奏である。ピアノ版ではロマン派の作品の大部分がそうであるように内省的で、神秘的な美が静かに謎めいて輝く作品となっているが、カシュカシアンとアウエルバッハという表現者の性格も相俟って、編曲版はより多様で、ポップな(浮き出る)特徴を有していた。

本来は1人のピアニストだけで演奏できる曲だが、ピアノとヴィオラという2つの声部に分かれることで、作品がそもそも有していた多様な関係性が浮き彫りになっている。そうしてみると、この作品は不協和音を中心に、民族的なものや舞踏音楽など、新しい時代には、クラシック音楽の枠組みからいったん取り除かれていたものを再び取り戻す役割を果たしていることがわかるだろう。ピアノで弾くのではなかなか感じにくい要素も、こうして聴いてみると、なんとも大胆に、ぎっしりと詰め込まれたアイロニーだったと気づかされ、その常人にはとても考えられない発想の深さに愕然とさせられるのだ。「未聴」であると感じさせることは難しく、そうした音楽を生み出す発想も驚愕すべきものだが、同時に、こうした種類の驚きも音楽には重要なのである。

対位法など、使い古された用語によって説明できることもあるが、ツィガーノフやアウエルバッハは、この作品がより自由で、活気に満ちた新しい関係によって成り立っていること、また、その素材の組み合わせの面白さに、素直に驚嘆しているようなのだ。ツィガーノフの手が残る部分には、図書館で借りた本にしばしば誰かが引いて残っている線のように、興味深い部分を「弦楽器」というポップで浮き上がらせたようなわかりやすい強調がある。一方では、分を弁えた上での表現の斬新な組み替えがみられ、編曲者たちはひとつの作品によって、作曲家のもつ多様な顔を余分に印象づけようとしているかのようである。

演奏面ではカシュカシアンよりも、むしろアウエルバッハの弾くピアノの柔らかさに着目した。作曲家にして、ピアノの名手という人は少なくないが、アウエルバッハは室内楽の伴奏に長けた特徴をもっている。すなわち、その特徴とはメナヘム・プレスラーがいうように、弦楽器の音色を模倣するということであり、もうひとつは、相手の呼吸を巧みに読んで、その人がやりたい表現を予め準備しておくということである。こうした表現は相当に高い演奏技術がないとできないものであり、同時にテクニックの問題以上に、柔軟なコミュニケーション能力に基づいていることは言うまでもない。アウエルバッハは音楽以外に、デザインや文学の才能にも長けたダ・ヴィンチ型天才マルチ・アーティストだが、その高貴な器にもかかわらず、芸術的なパートナーの意見をよく聞き、生かし込んでいくことを厭わない性質の持ち主でもある。

そのことは、アンコールで弾いた幻想曲にも、よく表れている。彼女は演奏前にコメントし、その作品はできたばかりで、まだ楽譜も出版されておらず、東京でみた美しい桜にインスパイアされて一晩で書き上げたものだと述べたのだが、それはいささかレトリックに包まれた発言だろう。正に「秒速5センチメートル」(これは新海誠監督によるアニメの題名であり、5cm/s は、桜の花びらが散るときの速度に一致するという)のテンポでゆったりと、神秘的な趣をもった前奏につづいて聴こえてきたのは日本古謡『さくらさくら』の旋律であって、なるほど、そのテンポもまた、5cm/s から自然に導かれてきたものにはちがいなかろうが、かといって、それが生でみた桜の風景と一緒に響いてくるはずもあるまい。あるいは、どこぞの桜祭りの会場で、BGMとしてかかっていたものであろうか。その可能性もなくはないが、日本でのスケジュールもゆるくはないわけだし、作品は来日前からある程度、形になっていたと考えるほうが自然だろう。もちろん、その過程では、日本側招聘スタッフの誰かとの対話が想像されるのである。いずれにしても、彼女はそうした対話のなかにさえ、見逃せないものを見つける才能があるということが言いたいわけだ。

【虚を突く新鮮さ】

前半のカシュカシアンは挑戦的なプログラムに、さほど十分ではない準備だけで臨んだという印象をもっている。この作品はヴィオラの多様な表情を引き出してくれるし、ヴィオラ奏者にとって、かなり魅力的な特徴をもっているものの、それだけに相当、充実した準備がなければ、本当に満足なものはできない難しさも孕んでいる。そのことはアウエルバッハのピアノ演奏についても多少はいえることで、少々、奔放に飛ぶような場面があったことは私も否定しない。

これと比べると、後半は目が醒めるような出来になった。特に、ドヴォルザークの『ソナティネ』(op.100/原曲はヴァイオリン)からアンコール・ステージ、つまりは、例の「さくらさくら」による出来たての新作と、カシュカシアンのルーツ、アルメニア民謡による小品までのプログラムは、「関係」というキーワードに再び焦点をあわせながら、現代的な前衛主義からは徐々に排除されていった民族的なものに愛着や歓びを感じるメッセージを、よりいっそう明らかにするものだった。特にドヴォルザークの演奏は、聴き手の虚を突く新鮮さを伴っている。

この作品の著しい特徴は、ドヴォルザークらしい躍動的な旋律の運びやリズムの味わいにあるのだろう。形式的にはやや小ぶりな分、省略的なところもあるが、この作曲家らしく伝統的なものをそのまま踏襲している。ところが、ここで重要となってくるのはヴァイオリンとピアノの関係性であった。ドヴォルザークはその活気に満ちた作品の息吹を表現するために、他の作曲家ではあり得ないほどスリリングなタイミングで両者の響きを衝突させ、そこから弾かれたものを巧みに回収する形で進むのだ。2人が表現したのは、このような形でも音楽の新鮮さが生まれ得るという発想の転換であった。現代音楽に「未聴感」があるかどうかという重要な基準は、単に音響システムや和声の斬新さ、そのほかの方法論的なものだけによるのではない。そのことを、彼女たちは強烈に印象づけたのである。

【広い世界のなかで】

ただし、この曲をメインに論じるのは、さすがにこの演奏会の全体像からみて適切でない。確かに、『ソナティネ』の演奏は記憶に残りやすいメッセージを聴き手にもハッキリと残してくれたが、演奏会全体の柱はやはり、アウエルバッハの『アルカヌム』をおいて他にはあり得ないのだ。この作品は2013年に作曲され、カシュカシアンに献呈されたものだ。レマン湖にちかいウヴェイで、両者によって初演されたという作品だが、ウヴェイは歴史的な指揮者エルネスト・アンセルメーの生地で、その縁だろうが、ストラヴィンスキーと関係が深い(ウヴェイのホールにはストラヴィンスキーの名前が冠されている)。さて、作品は「死」に関する題名を各4楽章につけた上で、そのイメージも多様性に満ちて表現される。重苦しく、空虚なもの、もう会えない寂しさ、もしくは、宗教的なものに基づいた一種の喜び(死は神さまに近づく近道だから)だけではなく、さらに広がりのあるイメージを喚起するものであった。

第1楽章の静謐な美しさ、機動性の高い舞踊的な音楽によるトリッキーな楽章、後半は神秘的な動きによって全体がゆっくりと揺さぶられ、特にフィナーレは能楽のような幽玄で静やかな雰囲気をもち、さわさわと揺れるピアノのベースが美しく、印象的だった。能楽というには、やや音楽的要素が多弁であるものの、後のコメントで日本の文化に関心をもっていると述べた言葉に程よく照応する。特殊奏法も多く使われていたが、ヴィオラの響きは基本はシンプルに構築され、爽やかなものであって、カシュカシアンの音楽性にもよく調和していた。

ここから再びドヴォルザークを経て、日本とアルメニアを旅するアンコール・ステージを見なおすと、一見、遠く離れている地域が、「ウラルーアルタイ語族」などと言われるように、実はひとつにつながっていることがよくわかり、それゆえに、アウエルバッハの曲が初演された2013年という時点において、「死」というテーマが何故、重要だったかも実感できるのである。なぜなら、その時期はちょうど、世界がイラク戦争、アフガン戦争後の混乱や、「アラブの春」を経て、テロリズムと向き合い始める時代だったからである。特にアフリカと中東では、その波はいっそう高くなり、現在に至っている。常軌を逸した発言が目立つトランプ候補の活躍する大統領選を睨んでか、2016年、キューバと広島で再びリベラル路線に回帰するオバマ大統領の姿は欺瞞に満ちており、非人道的なグァンタナモ収容所も長く閉鎖せず、国内的には大幅な情報管理をおこない、憲法の理念を危機にさらしながら、何もしていないと嘘をつき、その一部はエドワード・スノーデンによって曝露された事実を隠しはしない。

こうした問題を見つめる視点と同時に、世界の広さと、そこにある多様な内面性を感じる演目は、ある種、リリックな感動をももたらすことになったであろう。音楽的な表現の上で、特に重要となるのはそうしたものであるべきで、実際にそうなっていた。

関係するということは、まず関係しようとする意思から始まる。アウエルバッハは、音楽を通して「死」を見つめるところから、世界に対して関わろうと願った。だから、このような作品が生まれたのである。もちろん、そうした問題はなにか特別なときだけに生じるものではなく、人々の内面に時折、重く圧しかかる重要なモティーフでもあるわけだ。広い世界のなかでは、あらゆる関係が生じ得る。シリアで人が浚われたとき、日本国内でテロリストを揶揄する漫画が流行るというのもひとつの関係だろう。音楽においても、そうした関係が絶えず問題になってくるのは当然のことだ。楽器と楽器、作曲家と演奏家、弾き手と聴き手、オペラのキャラクターどうしの関係、楽譜と演奏、和声と旋律・・・諸々の関係が音楽を成り立たしめているわけであるが、近現代を貫くひとつの流れのなかで、こうした問題は十分に考えられてこなかったともいえる。

それどころか、人々の円滑な「関係」だけが突出したときに、つまり、過度な自由主義や個人主義が、対立よりもさらに罪深い無関心を増幅させている。アウエルバッハの活動は、そうした道に人々を再び導くためのものであるといっても過言ではないだろう。人々が無関心に打ち捨ててきたものの復興のために、自らに溢れる才能を注ぎ込もうというのだ。気高い精神ではなかろうか。ただし、この日、私たちが耳にしたのはそうした魂の気高さよりは、落ち葉を集めてあるく少女、貝殻を拾いあるく少年のような無垢な表情である。アウエルバッハの曲の最後に、たっぷりと描かれているような、一見、大人だけにわかるような世界が、そういった子どもたちにも、同等に開かれているという事実は興味ぶかいものであった。

カシュカシアンの演奏は、前半に関しては既に述べたような部分もあり、一時期より若干、鋭さが薄れたことは残念に思うが、その分、示唆に富んだパフォーマンスと、音色の豊かさには磨きをかけており、依然、同時代を代表するヴィオリストであることが確認された。また、アウエルバッハとの相性は抜群によく、今回の日本でのそれぞれの日程をみる限り、2人の演奏を煮詰めるためには、それほどの準備期間もなかったと思われるのに、十分に満足な公演に仕上がった。アウエルバッハの音楽に関する言及が多くなったが、あくまで演奏会の目玉はカシュカシアンの発する、様々なヴィオラの響きであった。その豊かさこそが、この音楽家の身上である。

【プログラム】 2016年3月29日

1、ショスタコーヴィチ 24の前奏曲 op.34
 (D.ツィガーノフ編、L.アウエルバッハ編・補筆、ヴィオラ版再構築)
2、アウエルバッハ アルカヌム
3、ドヴォルザーク ソナティネ op.100
 (原曲:ヴァイオリン・ソナティネ、L.アウエルバッハ編)

 va:キム・カシュカシアン

 pf:レーラ・アウエルバッハ

 於:王子ホール

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