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2016年5月 6日 (金)

飯守泰次郎 マーラー 交響曲第2番「復活」 新響 233rd 演奏会 4/10

【飯守泰次郎の音楽】

飯守泰次郎にとって、あまり高機能なオーケストラは必要ない。アマチュアのオーケストラであっても、少しずつ積み上げ、丁寧に磨き上げていくことで、一流のオーケストラでもなかなか出来ないことができるものだ。もちろん、彼らの技量がプロのオーケストラより優れているということはあり得ない。しかし、彼らは自分たちの食い扶持を稼ぐために、年間200回といったような演奏をおこなう必要はなく、多くても年に3-4回のプログラムを大事に煮詰めていくことができる。これは、非常に重要なことだ。かつては新しい、規模の大きな作品をやる場合には長期間の入念な準備が施されたというが(それでも失敗がある)、近年では、そのような周到さは期待できず、常設オーケストラの定期公演であっても、せいぜい1-2日のリハーサルで本番を迎える場合がほとんどだ。そうしたなかで、例えばマーラーの書いたような大曲を、どこまで綿密につくることができるだろうか?

この日の演奏は、ひとつの曲に腰を据えて挑戦することの大切さを改めて思い知らせてくれるものだった。マーラーの交響曲第2番「復活」は6つの楽章、2人のソリストと合唱を要する作品だが、新響のメンバー(合唱は栗友会)は作品のあらゆる場面において、マーラーの内面に付き添った表現を獲得して、音響的な魅力や旋律の甘みを取り出すだけでなく、例えば、そこで何故、大きな響きが必要なのかというところまでを完璧に表現していた。あまりに露骨すぎるために、醜悪と思われるものまで含めて、彼らの演奏はすべてを語りきるものだったといえるかもしれないが、彼らのパフォーマンスは存外に、なにひとつ付け足さず、スコアを綿密に形にしたというにすぎないものだ。

但し、それではプログラムのなかで、マイスター飯守へのインタビューを通して書かれている記事の内容・・・つまり、マーラーの音楽ではスコアに書かれた事細かな指示を守って演奏するだけでは駄目で、心理学的なアプローチに基づく部分が重要だと主張する発言と矛盾するのだが、それでいいのである。なぜならば、その言葉はマイスター流のレトリックであって、マーラーの音楽においても、その核の部分にあるものは決して揺らぐものではない。例えば、その音楽が胡桃のようなものであったとすれば、固い殻に覆われた内側の実は、そのままでは滅多に形を変えることはないだろう。ところが、乾煎りして熱を加えた場合には、殻の隙間が広がって中身を取り出すのに役立つ。弱火でじっくりと煎った音楽は、風味よく、新鮮な言葉を語る。新響には、そうした我慢があるから強いのだ。

私はかつて、東京シティフィルの演奏会で、同じ飯守の指揮で、バルトークの歌劇『青ひげ公の城』をみたときの経験を思い出す。あのときも演奏の中身は、非常に辛口なものだったにもかかわらず、その音楽に込められたメッセージの多さはあくまで具象的に、深い立体性を帯びて浮かび上がり、初期バルトークの芸術的な懊悩の奥深さと、民族の歴史と斬り結ぶ鋭いイメージとを聴き手に実感させてくれたものである。飯守の音楽にはいつも、こうした主観と客観の抜き差しならぬ鬩ぎ合いがみられ、それによって、音楽の揺るぎない中身が自然と温まって見えるようになっているのだ。それゆえに、彼の愛する音楽は、どれも内部に分厚い内面と、揺るがしがたい強い構造をもっているわけである。その最たる例といえるのはもちろん、ワーグナーであろう。

【パーソナルなレヴェルで】

この日の演奏についていえば、第1楽章と、第5楽章の器楽部分が圧倒的に素晴らしかった。そこでは死から復活に至るドラマが、まるでオペラのような具体性を帯びて描かれているのだ。例えば、第1楽章のおわりでメンデルスゾーンの交響曲や、ワーグナーの歌劇『パルジファル』でよく知られている「ドレスデン・アーメン」のような音型が出ると、R.シュトラウスの交響詩『死と変容』のように、人間が正に死へと向かう様子が細密に語られる場面があった。この楽章で語られるドラマは、時折、形式によって中断されるため、全体を統合して考えるには障害も多いものの、死に臨んで地獄をみて、さらにその門まで開いてしまった人間が、(地獄のオルペウスのように)魂として漂い、ついにベッドの上で目を閉じるまでの夢=現実の世界を表現している。中間で、地獄を彷徨う「自分」を描いたかのような表現は寒けを催すというより、「そこまでやるのか」という想いがして、あまりにも醜悪でみていられないところがある。ところが、そうした嫌悪感にもかかわらず、私たちはその音楽にどんどん惹き込まれていくのを止めることができないのも不思議なことだ。

また、終楽章の器楽場面では、音楽の切れ目(楽章間)で突如として天国の扉が開き、波に揺られる大船が無数の死者を引き連れて、ローエングリンの王子帰還の場面、あるいは、トリスタンの終幕の場面を思わせるように、イメージが描出されていくような音響的演出が判然としていた。この日の演奏は死というパーソナルな体験がいかにして、(音型がところどころで繰り返される)ewig...、すなわち永遠や普遍性に結びついていくのかというドラマを、これでもかというほどに強調したものでもあった。つまり、マーラーの内面的で特殊な感覚と、宗教的なものにも結びついた普遍性が、作品を体験するなかで静かに反芻され、それがいかに大きな外的世界と結びついているかを知ることになるのである。

例えば、(震災から5年という)このタイミングでは、我々日本人はまだ震災と大津波について思い出すことになるのだが(演奏ののち、熊本県での地震群がこれに加わることになった)、例えば、ユダヤ人の歴史について考えてみれば、それぐらいでは購えきれないほどの深い代償を経てきたことも確かであり、マーラーはそうしたものを背負いながら、他方ではクラシック音楽の創作の歴史(これは人間の魂の問題とも考え得る)、とりわけ、ついにワーグナーへと到達した表現の死と、復活とを、真剣に模索していたことも窺われるのだ。

面白いのは、マーラーがこうした問題をパヴリックなものではなく、あくまでパーソナルなレヴェルで表現しようと試みていることである。聴き手はどうしても、スケールの大きな表現から集団へと音楽を引き寄せて考える傾向があるのだが、マーラーはそれをまた、個人へと引き戻すような表現をしている。ちょうどイエスが、人類すべての罪をひとり背負って死ぬのと同じである。もっとも、そのことが具体的にどのような音楽表現と関係しているのか、私には明確なアイディアがない。だが、それにもかかわらず、私はこの音楽に接していて、私たちは・・・というよりも、私は・・・と語ることを強いられるように思い、ユダヤ人とは・・・とか、日本中が・・・とかいうイメージやキーワードを思い浮かべる度に、同時にそれを背負う誰か・・・つまり、この場合は自分がいなくてはならないことに気づかされる。

【演奏の素晴らしさについて】

ところで、私は思うのだ。この日の演奏はmp、mf のレヴェルで、常に詩的な表現を貫き、決して過大ではなく、効果的な盛り上がりを築いて、聴き手に意味ありげな台詞を印象ぶかく聴かせるところに味わいがあった。彼らの誠実で、愛情に満ちた演奏は、ただならぬ緊張感として空間を覆い、とても第三者的な冷静さで聴いていることはできないものだった。わざとらしさもふんだんなこの作品で、これほどまでに激しい涙を流しつづけることになるとは予想がつかなかった。マーラーという人間がもつ、独特のアクの強さは随所に感じ取れるものの、そうしたものを嘲笑するわけにはいかず、私たちが受け止めきれないほどの切実な想いまでもが感じられるせいだろう。

繰り返しになるが、そのようなものを感じさせるのは、細部にわたって、厳しく磨かれた演奏だけが為し得る芸当なのである。規模の大きな曲だから、周到な準備にもかかわらず、思いどおりにいかない部分もなかったとはいわないが、そんなとき、ちょっとしたミスでアンサンブルが乱れそうになっても、驚くほど上手に互いを庇い合って、フォルムを修復していた様子は、むしろ感動的でさえあった。そうした部分は指揮者もきちんと聴き取って、さりげないルバートを入れることでサポートしていたりもした。そうした部分は決してネガティヴなイメージにはならず、その献身的な助け合いに音楽のもっている特徴がよく合うように思われたのである。これはバンダが裏にまわり、表の奏者と掛け合う場面でも顕著に感じられる。むしろ、その陰の部分にこそ、マーラーは音楽が表現すべき情感を深く流し込んでもいるのであった。

深い慟哭や、悲歌であるにもかかわらず、その最終的な結末は、壮麗で明朗である。ある意味で、単純といってもよい。この作品では、第1楽章がまず複雑で、その後、2-4楽章は単純な意味合いをもっている。その雰囲気は、ポルカやフリアントの明るい踊りを交えて行われたという、スラヴ人の伝統的な葬礼の在り方と関係していると考えると、さらに理解が早いだろう。第5楽章では、再び複雑となる。器楽部分の手の込んだうねりは、ベートーベンの交響曲第9番に比せられる。そして、声楽が入ってからは、また徐々に単純さへと向かっていく。2人の歌手は、いずれもこの作品に相応しい特徴をもっている。

メゾ・ソプラノの池田香織は『原光』の歌唱において、特に歌詞に力点を置いた表現を試みている。一体に、『原光』は言葉に十分なスペースを与え、派手で技巧的な言い回しがないのが特徴であるが、池田ほど、その特徴を美しく表現した歌手も珍しいのではなかろうか。前半部分から、曲調が替わる後半部分への推移は、いわゆる「ブルックナー休止」のように深く、それでも表現の軸はぶれていない。安井陽子の歌唱は、どこまでも純真で汚れがない。高音の澄みきった響きが彼女の身上であり、二期会の公演などで、アジリタ満載のロールで起用されるのには忸怩たる想いをもっているが、こうした演目こそが、その美しい歌唱の特質を遺憾なく引き出してくれる。池田と安井の組み合わせに対して、合唱もよく統制がとれており、これは手堅い栗山文昭の仕事であった。

飯守&新響の演奏の特質をまとめれば、①mp、mf といったベースの領域で詩的な緊張感がつづき、マーラーの語るメッセージがどこよりも豊富である②深い共感と情熱に満ちながらも、その表現は十分に醒めた姿勢で受け継がれていき、急な場面の転換も自然にこなしている③アンサンブルは互いに支え合い、大規模な曲だけに生じざるを得ないトラブルにも驚くほど柔軟に助け合って、演奏の緊張感を守っている。

【まとめ】

今回の演奏会のテーマは「祈り」ということに尽きると思うが、そのスタイルは決して一通りではないものだ。前半には別宮貞雄の『管弦楽のための二つの祈り』が演奏され、ここのところの新響は、以前ほどは日本人作曲家のレパートリーに熱心でないと思われただけに嬉しいことだった。これら2つの作品はまったくちがうものであるが、地獄的な祈りと、天国的な祈りの双方が描かれている点では共通している。別宮作品はマーラーの巨編と比べてみるには分が悪いが、作品に導入されているフーガ的な手法の使い方や、個性的なファンファーレには互いに通じるものがあるし、全体として若い時期のフランス体験を詰め込んだ表現のなかにチーンと鈴(リン)の響きを忍ばせてユーモラスに振る舞うところなどは、マーラーの第2-3楽章に通じる気質を示しているだろう。第1楽章’DOULOUREUX’の手の込んだつくりから、既存の手法を応用した単純な第2楽章’VAILANT’の対比も、マーラーの描き出す音楽世界の様相を凝縮している。演奏はマーラー同様によく準備されており、それぞれの完成度に差がないということも演奏会全体にとってはよいことなのである。

【プログラム】 2016年4月10日

1、別宮貞雄 管弦楽のための二つの祈り
2、マーラー 交響曲第2番「復活」
 (Ms:池田 香織、S:安井陽子、chor:栗友会合唱団)

 於:東京芸術劇場(大ホール)

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