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2016年5月18日 (水)

下野竜也 フィンジ 霊魂不滅の啓示 ほか 読響 557th 定期 4/14

【誇らしくも涙の日】

ゲラルド・フィンジについて知っていることはごく僅かだが、その音楽は逆らいようもなく魅力的である。彼がどのように考え、どこで、どのようにして、作品を生み出したかということに、私は珍しく、あまり興味を感じないのである。フィンジは1901年に生まれて、1956年に亡くなっている。溢れる才能にもかかわらず、彼は時代的中心において、主導者として活躍するというイメージからは程遠かった。恐らく、フィンジの音楽にもっとも詳しい同時代人は、彼が隠棲したアシュマンズワースの土地に住んでいたアマチュアの楽士たちであったろう。

今日において、その音楽が普及した背景には、NAXOSレーベルの貢献がきわめて大きいように思われる。世界各地の音楽で、従来、メジャー・レーベルが意欲を示してこなかった魅力的な作品を廉価に紹介することで存在感を示したインディペンデントなレーベルにとって、フィンジは格好の素材であった。そのリバイバルは2006年ごろから始まり、例えば2008年には、アマチュア時代に世界選手権を制したフィギュア・スケートのジェフリー・バトルが『エクローグ』を踊った。「ジェフ」は羽生結弦の振り付けをするなどしており、日本でも知名度がある有能な振付家としても知られる。無論、フィンジの音楽はそれまでにもまったく知られていなかったわけではなかろうが、ナクソスの新しいライブラリーが、我々が接することのできるフィンジの作品世界を見事に豊富なものにしたことは確かである。

我が国では、フィンジはさして有名な作曲家とはいえないだろうが、クラシック音楽・・・特に英国音楽に関心のある聴き手にとって、その音楽は決して無視できるものではなかった。『霊魂不滅の啓示』もナクソスによるリリース以降、愛好家同士の会話でもなぜか、よく話題にのぼる作品だったように思われる。私もまた、この作品に特別な愛情を抱いており、読響の演奏会にそれがあがると聞いたときには信じられない想いだった。もっとも下野竜也ならば、確かにそうしたことをこれまでにも何度か、実現してきたのである。例えば、2014年にはカレル・フサの大曲『この地球を神と崇める』の演奏を実現したのだが、その公演を高いレヴェルで成功させたときなど、私にとっては夢のような時間だった。

もしも、同日夜、やがて「熊本地震」と呼ばれることになる大規模な地震群の第一波を告げた「震度7」の揺れがなかったとすれば、私はこの日をいっそう誇らしく語ることができたのであろう。先の大震災のあった2011年3月の数ヶ月前に生まれ、楽団の定期演奏会500回記念に初演された池辺晋一郎の作品『多年生のプレリュード』が再演、それから5年の間に、それぞれが送ってきた旅について一括りして、語ることもできたであろう。ところが、その5年後にまた新しい震災が起こるとは、予想もしていなかった。無論、この地震列島に住んでいて、絶対に安全なところ、時期というのはないということはわかっているつもりなのだが。

【前半のプログラム】

池辺晋一郎の『多年生のプレリュード』は、もっとも素晴らしいのが題名であるという点で、ある意味では現代的な特徴を示している。この作品によって池辺自身について語ることは難しいが、彼にとってのヒーローは多分、ストラヴィンスキーであることはわかりやすい。作品は楽団の節目を祝う機会に作曲されたため、編成が大きく、派手な構造をもっている。しかし、その中心部にはストラヴィンスキー的な響きのシステムや、構造、ひと癖のある舞踊性が潜んでおり、私たちが今いる場所が、どういう場所から始まっているのかというのを想像させるに十分なほどには、豊富な香りが漂っていたのだ。その上、2011年1月の初演という時期が偶然にも、作品のもつメモリアルな価値を高めているようである。

3つのプログラムのなかで、ベートーベンの交響曲第2番は特殊な演奏という感じがする。このページではよく言っているのだが、古典派のプログラムを東京で聴くなら、新日本フィルか東響に限る。それらのオーケストラはフランス・ブリュッヘンやユベール・スダーンといった個性的で、知恵の多い指導者に学び、年間、もしくは一定期間を通じて、古典派の演奏に必要なルールやクオリティの出し方を十分に学んできた成果を、今日まで見事に生かしきっているからだ。こうした経験の十分でない各オーケストラとは明確な差があり、基本的な技量において優れる読響やN響といったグループであっても、容易に追い越すことはできないのである。読響のアンサンブルは特に、スクロヴァチェフスキ時代を経て挑戦的で、自主性の高いアンサンブルの在り方に力点を置く傾向があり、その場合、ピリオド的なアプローチでは響きが横滑りする印象を強くする場合が多い。

下野の演奏は、もっとも厳格なタイプのピリオド的アプローチに基づいているが、結果として、読響×下野の組み合わせでは、ベートーベンの音楽はあまり弾力性のないものとなってしまい、音楽の区切りも厳密すぎ、いささか幅のないものになっていたのも確かである。しかし、そうしたところで聴く音楽にも、下野はまた別の味わいを付け加える。聴き慣れたこの作品の素材にもまったく角度のちがう見え方があることを教え、私たちの頭脳を刺激的なもので満たすことは忘れない。そのアプローチは私からみて、作品をコンパクト・シンフォニーの極致として捉えるものであって、例えば舞踊性といった連続的なものから、和声など個的なものへとバランスを傾斜させた形にみえる。歴史的な解釈を重視する音楽家は、そのピリオド(時代)に相応しい生気溢れる音楽を造形する傾向にあり、下野のように、鋭利な現代性によって切り取ったパフォーマンスは稀である。

NMLのリストを具に調べてみると、唯一、ルネ・レイボヴィッツの演奏、あるいは、フェリックス・ワインガルトナーの演奏が部分的にこれにちかい解釈を示しているのを確認した。こうした即物的な解釈に、オーケストラが古典派ならではの揺らぎのある規則を学び、指揮者がさらに深みのあるアイディアで応じたならば、大化けする可能性を持った演奏であることを指摘したいが、現時点ではまだ、熟成が浅いといわざるを得ないだろう。

【チーズを味わうためのワインのような音楽】

メインのフィンジ『霊魂不滅の啓示』の演奏は、やはり前半2曲とはクオリティがちがっている。そのパフォーマンスは歴史や言葉、あらゆる意味づけを越えて、私たちのこころに染みていく実質をもっていた。フィンジはロマンティシズムのおわりで、最後の圧倒的な成果に身を浸し、音楽を書いた人である。この作品がワーズワースの『幼少時の回想から受ける霊魂不滅の啓示』の大部分に付曲されたものであるように、フィンジは他に代えがたい特徴と個性を有した文学作品を扱うことで、作曲家としても多大な利益を得ている。彼の音楽はそれらをチーズのようにして味わう、ワインの役割をもっているということもできそうだ。チーズの味そのものを論評することは難しいが、ワーズワースの詩の深遠な味わいを語ることもまた容易ではない。ただ音楽というワインだけが、それを私たちの身体に否応なく染みこませてくれるのである。これは、ロマン派音楽のもつひとつの特徴でもあった。

ベートーベンとは対照的に、静かな独白から主要テーマがドラスティックに立ち上がり、その最初の部分で、私は既に夢心地になった。NMLでは自社の録音に加え、ヴァーノン・ハンドリーやリチャード・ヒコックスといった先行世代の録音も聴けるのだが、そうしたものと下野の解釈では若干、味わいが異なっている。多分、ハンドリーやヒコックスにとって衝撃的で新鮮すぎた要素が、下野にとってはより穏やかで、いくらかは爽やかな音楽にみえているのである。独唱のロビン・トリッチュラー(トリシュラー)も、そうした解釈に影響を与えている。下野が一番に意識していることは、歌い手がこの作品に対して自然にコミットできるベース、あるいは、居心地の良い空間をつくることだ。このことは同時に、聴き手が作品に参加するのを容易にすることでもあった。私はまるで、「第九」を聴くときのように、歌いながら音楽を聴くという感じで客席についていた。そうしてトリッチュラーは会場に広がる無数の歌心を感じながら舞台に立ち、コーラス部にも入り交じっての歌唱をおこなう。

ちょうど彼の歌い方から思い出すのは、同じく読響の演奏会でアンドレアス・シュタイアーがモーツァルトのピアノ協奏曲第17番を演奏したときのこと(過去記事を参照)であり、そのときのシュタイアーはときにピアノ独奏部を離れて、トゥッティにピアノの響きを埋め込むことで、自らの思い描くイメージにオーケストラの演奏を近づける役割を果たしていた。だが、それは経験未熟なアンサンブルへの皮肉ではなく、むしろ、より大きな敬意に基づいた質のよいクリティックのようなものだったのである。トリッチュラーもコーラス部に声を加えることで、何らかの効果を狙っている・・・というよりは、自然にそうした動きをとっているようだった。彼の場合は、この作品の独唱部が突出したものではなく、全体が歌う詩情のなかに宿る精霊のようなものであることを示す意味合いがつよいだろう。今回のパフォーマンスにおいて、トリッチュラーは傑出して凄いものをみせることはなかったが、一方で、この空間にいる音楽家と聴き手の代表として、彼ほど素晴らしいソリストがいたとは思えない。

トリッチュラーはリンクに示すように、第1次世界大戦をモティーフにした興味ぶかいアルバムを制作しており、特に歌曲の歌い手として申し分ない知性と、アイディアの持ち主であるが、当夜、それ以上に印象的だったのは感じ取り、それを形にする才能であった。

コーラスは二期会合唱団だが、冨平恭平(合唱指揮)の仕事により、あたかも(冨平の関わっている)新国立劇場の合唱団かと見紛うほどの凝縮したパフォーマンスであった。最近は先輩の三澤洋史の受けもっていた仕事を大部分は引き継ぎ、高いクオリティで仕上げつづけている冨平だが、この日の演奏で、いまは誰が、それを作り上げているのかということを証明したように思う。彼が指導すると、二期会合唱団もある程度、新国のクオリティに近づくのであるが、同時にそれは、このコーラスが舞台で活躍する声楽家による組織である二期会の合唱団であることからきた成功であることも間違いない。この作品は宗教的な色合いも帯びた合唱曲だが、その詩情は多分に演劇的な味わいをもっている。英国といえば、演劇と合唱、それにブラスが盛んな国であるが、民族的にはユダヤに属するとはいえ、フィンジも明らかに、そうした文化的風土に馴染んだ「英国の」作曲家であった。

演劇、コーラス、ブラスという英国文化の三要素は、アーノンクールがその著書のなかで18世紀英国のバロック音楽を高く評価して、大陸よりも親密に、温かい雰囲気で音楽を楽しんでいたと書いた事情が、その後の覇権主義を経てもなお、英国に生きていたことを示しているうように思われる。要するに、私が言いたいのは、当夜の演奏が口から息を吸うようにして、すっと身体のなかに入ってきたという感覚なのである。頭脳を介さない、この自然な詩情の風合いこそが、英国音楽の究極なのかもしれない。

大陸における20世紀音楽の醍醐味は、ショスタコーヴィチヒンデミットによって代表されるアイロニーの精神に表れている。それは自由にはものがいえなかった時代の産物であり、それから多少、時代が進んで、世界がある程度の自由を手にしたあとでも、かえって味のある、神秘的な物言いとして時代に生きつづけたものである。ところが、フィンジの音楽には、そうした方向での意味ぶかさはなく、決して明け透けではないものの、素朴な言葉の感覚が生きている。それは実のところ、「言葉」といったときの表意的な感じとも全然、無縁なものであり、その言葉は透明で、私たちのこころのなかに、紅茶のなかに溶けていく小匙でひとつ分の砂糖のように、すぐに見えなくなってしまうものなのだ。ぱっと見えるものだけに価値があるのではなく、見えないものを感じることがこの作品を楽しむ前提にして、最高の条件なのかもしれない。

【自然のエネルギーと向き合う】

2011年初演の、池辺作品によって始められた演奏会。5年後のこの日、それが演奏されたのには意味があったようだ。『霊魂不滅の啓示』はその歌詞からみて、人間が喪ってしまったものを糧にしながら、到底、その爽やかさには及ばないものの、それでも、人生のより深いステージに向けて準備をしていく人間の姿をポジティヴに歌ったものである。これは震災から5年、そろそろ新しい時代に踏み出していかねばならない日本の事情に、よく沿ったものだったはずである。そして、個人的なことをいえば、正指揮者、首席客演指揮者として、G.アルブレヒト、S.スクロヴァチェフスキ、S.カンブルランという個性溢れる巨匠たちの下で、かなりの部分、やりたいことをやってきた下野にとって、この楽団における最後のシーズンを飾る仕事のうちのひとつであることとも無関係ではない。下野なりに考えた別れのメッセージが、この作品の演奏には込められていたのだろう。

それだけに、この日、あのような地震が起こるということは皮肉なことだった。幸い、人的被害は東日本大震災、阪神・淡路大震災のときほどではないものの、地震規模はそれらの機会と比べて遜色ないばかりか、長期にわたって継続し、正に日本全体を揺さぶろうとするかのような質の悪さである。被災され、避難されている方々も十分に多い。演奏がおわったあと、東京にもその余波が伝わったらしいが、それよりも深い感動で、こころの揺れに心身を覆われていた私には、なにも感じられなかった。

下野の演奏の特徴を、ここでもうひとつ挙げるとするならば、同じ場面が決して二度とは現れないということである。この作品は交響曲的な構造を採っており、甘く憂鬱なモティーフが度々再現することで作品が語る詩情を成長させていくのは見ての通りである。ところが、下野はそれらのどれにも、まったく異なる表情を与えている。このことは「かつて目にしていたものとはいえども、もはや目にすること能わず」と歌うワーズワースの詩とよく対応している。下野はむしろ、それぞれの部分で新生するイメージを加えることで、プレイヤーと歌い手のイマジネイションを新鮮にし、ヴィジョンを広げる役割を果たしているのだ。

下野の導きにより、作品はより構造的に明確な線を描き、詩情は立体的に膨らみ、イメージはいよいよ鮮やかに胸に響いてきた。作品にはいくつかのテーマがある。すべてが輝かしい時代、若さを喪ったあと、人がなお生きていくことの喜びをどのように感じるべきなのか。そのひとつの鍵として、ワーズワースとフィンジが共有しているのが自然への深い尊敬、もしくは傾斜とでもいったようなものだ。ここにこそ、下野がこの作品に賭けた想いが詰まっている。特筆すべきは、曲想の柔らかな推移であり、いつも尖った音楽づくりをしてきた指揮者にとっての、本質的な成長がみられた部分である。瞬間ごとの鋭さよりは、じわじわと浸透していくもののほうが、実はあとに残りやすい。厳しい解釈よりも、微笑みに満ちた解釈のほうが難しいし、それが正しいものなら、いっそう効果的なのだ。その点で、私をもっとも深く魅了して止まないのが、オイゲン・ヨッフムという指揮者の音楽である。下野には、それにちかづく素質があり、このフィンジの音楽では、彼の新しい面がより判然と引き出されたというべきだろう。

冒頭のホルンに始まり、旋律がゆるやかにエコーを重ねる構造は、行っては帰る波の動きを感じさせるが、英国にとっても、日本にとっても、やはり海は母親のような存在として重みをもっている。しかし、海には優しさと、ときに激しさがある。潮が満ち、奔流となって勢いを増すときの、音楽の緊張感は何物にも代えがたい。この作品では、最初の部分でコンマスによるヴァイオリン独奏から、独唱が初めて入る部分の鮮やかな効果や、’Now,while the bird...’のところでシロフォンのソロが全体の花を咲かせる部分の味わいがあり、誰もがすぐにつかめるようなキーを用いて、聴き手が自分で扉を開くことができるようになっている。

もっとも、そうして開いたドアの向こうに広がっているのは、そう単純な歓喜の世界ではない。作品は宗教的カンタータの形式にちかく、”Intimations of Immortality”という題名も神秘的で、直訳すると「不滅の暗示」ということになるが、よく知られた和訳は「霊魂不滅の啓示」としているので、イメージに拍車をかけている。音楽素材としても、フィンジは宗教的な色合いを取り混ぜ、フーガのように聴こえる部分もあるので、和訳のつくるイメージは必ずしも誇大的なものではないだろう。だが、宗教的モティーフのなかで最高のものである「復活」は、既に示したように、そのままの形では出現しない。形式的にも、スピリテュアルな観点からも、ちょっとだけ球筋を外している点が面白いのである。

この作品からフィンジの宗教観を探ることは適切でないが、推測するに、彼にとってキリスト教は権威的に歪められたものであり、その原初のエネルギーとして、自然を求めているのだ。今度の熊本地震で、阿蘇社が大きな被害を受けたが、大きな神社は大抵、自然災害と関係の深いところに置かれている。阿蘇社は山の神、伊勢神宮は海の神と深く関連しているにちがいない。神社はそうした神々の起こす恐ろしい被害を、なんとか避けたいと願った古代人の想いの上に立脚していると考える。恐らくフィンジも、現世で広く信じられている宗教的権威よりも、素朴な自然の脅威と向き合って生きることによりで、人間性の回復が図られると信じた芸術家である。そのような意味でも、下野はこうした作品をこの日、演奏することに意義があると考えたのであろう。

どんな素晴らしい音楽であれ、それぞれの時代に生きる人の胸に生きるためのマッチングを経たあとでなければ、真に胸を衝く芸術とはなり得ないものであり、そのなかでタイミングもきわめて重要な要素だ。例えば、バッハの音楽が後世において再認識されるきっかけとなったとして、近年、知られるようになったメンデルスゾーンによる『マタイ受難曲』の復活蘇演が1829年だったことは歴史の必然である。このとき、厳密な意味でのクラシック音楽が始まったと言えるだろう。下野は早くから、作品を演奏する機会を窺っていただろうが、たとえ、その季秋を逃す可能性があったとしても、粘りづよく、この日まで待ったところに、彼の指揮者としての卓越したバランス感覚を感じないわけにはいかない。

【おわりに】

演奏がおわり、時間が過ぎれば過ぎるほど、じんと深く染みこんでくる情感に、この日は胸が熱くなった。それだけに、ああいうことがなければ・・・と、いっそう強くおもうのだ。好きなことだけを語っていればよいのではない時間が、また5年ぶりにやってきたのだろうか。しかし、せめて私の空間であるこの場だけでは、じっくりと噛み締めておきたいものだ。こころの平和を! そして、2011年からつづいた過酷な経験を独特な形で刻み込んできたページを、いったんは改めておきたいと思うのである。然るに、その混乱さえも収まらぬなかで、また新しいことが起きてしまったというわけである。そして、今後、こうしたことはつづいていくにちがいない。まずは、犠牲になられた皆様に哀悼の意を表し、多少なりとも連帯の誠を尽くせるように努力したいと思う。

【プログラム】 2016年4月14日

1、池辺晋一郎 多年生のプレリュード
2、ベートーベン 交響曲第2番
3、フィンジ 霊魂不滅の啓示
 (T:ロビン・トリッチュラー chor:二期会合唱団 合唱指揮:冨平 恭平)

 コンサートマスター:長原 幸太

 於:サントリーホール

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