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2016年6月16日 (木)

アレクセイ・リュビモフ ピアノ・リサイタル シルベストロフ ピアノ・ソナタ第2番 ほか @豊洲文化センター 5/18

【概要】

ピアニストのアレクセイ・リュビモフについては、あまりよくは知らなかった。2011年にすみだトリフォニーホールの公演で来日しているが、それも逃している。私は今回のプログラムがとても好きで、ようやく足を運ぶ気になったほど遅れ馳せであるが、その素晴らしさにたちまち魅了されたというほかないだろう。生粋のピアノ好きを多く唸らせる鬼才は、フォルテピアノのような時代ものの鍵盤を自由に操り、古楽に関するレパートリーも手の内にしているし、ペルトやシルベストロフといった同時代のロシアの作曲家をはじめ、現代のプログラムにも幅広い知見を有しているようだ。ロシアの高名なピアノ楽派、ゲンリッヒ・ネイガウスとレフ・ナウモフから直接の薫陶を受け、伝統的なピアニズムの継承者としても申し分のない立場にある。

また、リュビモフの活動の独特さは、大ホールでの英雄的な活躍というよりは、小規模でも、熱心な聴き手を相手とした個別的な活動に感じることができる。日本では、2014年の京都法然院での演奏会が名高いが、今回の来日でも、広島の教会で特別な一夜を過ごしたということだ。この日の演奏会場、豊洲文化センターホールもニッチな会場で、まだリニューアルから間もないという事情もあるとはいえ、コアな音楽ファンにもそれほど知られていない環境である。席数は300。音楽専用ではないものの、最新式のファツィオリ・ピアノが備え付けられている点では、只者ではない空気を感じさせるだろう。そのとおり、音響的には申し分ない。ステージを見下ろすように全席が設置され、親密で適度な広がりをつ空間が用意されている。背景は可動壁がオープン可能で、自然光も取り込むことができ、全開の場合には、硝子壁の向こうの遠景に美しい橋梁と東京湾を望むことができる。もっともホールは5階と比較的、低層のため、道路を走る自動車なども視野に入るのが難点で(救急車が通ったりすると気になるものだ)、また、隣接の高層ビルは、向こうが窓を開ければ中の風景を覗けそうなぐらいにちかく、近景は遺憾ながら殺風景というほかなかった。

主催は、ここにピアノを提供したファツィオリ日本代理店「ピアノフォルティ」。

【心酔】

演奏会は、C.P.E.バッハの嬰ヘ短調『幻想曲』(H.300)からスタートした。父のヨハン・セバスチャンではなく、エマヌエル・バッハから入るのがまずお洒落のポイントだが、「幻想曲」という曲種もまた、このリサイタルを象徴するものになっている。来たるべきロマン派時代に大流行する幻想曲とは有り体にいえば、一定の形式に縛られない、何でもアリの曲種である。厳格な形式に敢えて従う場合もあれば、思いつくままに発想が飛び交う場合もある。作曲家たちは自由なアイディアを羽ばたかせ、即興的な味わいも加味して作曲し、ときにはお気に入りの先達の仕事や、広く馴染みの旋律を本歌どりする目的でも使われた。嬰ヘ短調の幻想曲は、内省的な暗がりに広がる詩情を有しているものの、リュビモフの演奏はまた、一味ちがって、暗がりにも眩い一条の光を描くことを忘れない。形式の束縛を受けない10分ちかい作品は聴き手にとって、ちょっとした旅・・・、それも地図のない旅だ。先が見えないなかでも、演奏に身を任せることができたのは、早くも私が、彼のピアノに心酔した証拠である。

リュビモフは、時代的なピアノもよく演奏すると聞いていた。OTTVAで喋ってくれた情報によれば、彼は時代的なピアノの演奏法を習得するのに、3年間は、現代型のピアノに手をつけなかったという徹底ぶりである。だが、このエマヌエル・バッハの演奏において、ファツィオリが木製のピアノフォルテのように響くということはなかった。身も蓋もないことをいえば、現代ピアノにおいて、スタインウェイ、ベーゼンドルファー、ヤマハ、ファツィオリ、カワイなどの工業製品の間に、決定的なちがいあるわけではない。リュビモフが響かせたのは、あくまで工業製品を使ったモダンな輝きを伴う音にすぎなかったといえる。このファツィオリはまだ新しいということもあり、透き通った情報量が鮮明に映りやすく、シャンパンのように新鮮な飛沫を保っていた。その若さを素直に讃えながらも、名騎手がサラブレッドの新馬を乗りこなしていくように、徐々にリュビモフがピアノに響きを教えていくような雰囲気が楽しめた。

【ピアノを叩く哲学者】

つづくシーケンスでは一転して、ペルトの2曲を渡しに使い、シルベストロフのソナタにつながっていく。ペルトの作品はそれぞれ異なった時期の作品を用意し、作曲家の代名詞でもあるティンティナプリ様式への飛躍を簡潔に語るものでもあった。特に、数分でおわってしまう『アリーナのために』の凝縮した時間が、自分には印象ぶかい。この作品を含め、前半のプログラムは比較的、彫像的なパフォーマンスだと言えるだろう。特にシルヴェストロフのソナタ第2番の演奏は、造形的なものをイメージさせる。パッセージの一部が丁寧に削り取ってあり、そこから生じる波のようなフォルムが自由に綾をなすことで、無数のニュアンスを醸し出すのが面白い。解説にも書いてあることだが、これほど見事に再現するピアニストは稀だろう。

一方で、その造形にも内面的なモティーフが隠されており、特に内部奏法を使った部分などは破壊的な衝動をもたらしているように感じられた。つくりながら、自ら壊すという矛盾した行為が繰り返されているようである。もっとも、冷戦期のソ連時代の活動について、その苦労話でも聞きたがっていたようなOTTAVAのパーソナリティに対し、リュビモフはそんなに大したことではなかったと答えて、拍子抜けさせている。シルベストロフが、ショスタコーヴィチと同質のアイロニーを歌っていると考えるのは偏見だろう。ただ、このような厳しさは、ペルト『アリーナのために』にも同様に感じ取れる内面性であり、こうした時代的な波にリュビモフ自身も翻弄されてきたという事実を思うと、やはり言葉がないのである。

リュビモフは技術が凄いとか、響きが美しいというのもあるが、まず第一にピアノを叩く哲学者といえる。彼のパフォーマンスはひとつひとつで、独立した思想であり、音楽をめぐる圧倒的な情報量を秘めている。その特徴はよく知られた古典派やロマン派の作品でも、現代の作品でも等し並みである。

【近代音楽と、古典派】

ドビュッシーの作品については最近、ローマン・カバッソの演奏を聴いて、まったく別次元の世界を体験してしまった。そのときの様子は別の記事で確認していただきたいが、ごく簡単にいえば、カバッソはドビュッシーを空間全体を用いたイリュージョンのようにして、聴き手を幻惑する音楽として弾いたのである。リュビモフの演奏はそうしたものではなく、対照的に、ミニアチュールを細密精緻に、さりながら、大胆豪放に描いていくような、ユトリロ風の気配が窺われたのである。ユトリロの絵は、モディリアーニやスーチンのような奇抜さを含まないが、実際に近くで目にすると、その小まめな表現に狂気が隠れているのを知ることができる。カバッソが弾いたのと同じ『喜びの島』では、島がいよいよ近づいてくるように、ダイナミズムを利用して演奏するリュビモフが、いくらかエロティックな、もしくは官能的な部分をうまく引き出しており、カバッソとはまた異なった味わいを醸し出すことになった。実は、こうした点も、この日の全曲に共通している特徴だったのだ。

後半は、モーツァルト一色の予定だったが、恐らくはアンコール曲と入れ替えて、ソナタ第9番のあとに、シューベルトの即興曲 op.90-2~4 をソナタ仕立てにして演奏するひねりをみせた。当夜のプログラムにはアンコール・ステージを含めて、ベートーベンの曲目は含まれていないが、すべてのプログラムから浮かび上がってくるイメージはすべて、そこにつながっているようだった。それと言わずに、目当てのものを表現するというのは、最高に瀟洒な表現である。シューベルトが本プログラムに入ることで、その視点はいよいよ明らかになった。

シューベルトは先行したモーツァルトの3楽章ソナタに対比して、3曲で構成し、古典的なソナタの形式を模した形で演奏した。op.90-2では単調な遊びのような左手のベースが、途中で左右の手が役割を交代した途端に恐ろしくデモーニッシュな深さを醸し出すことを教え、op.90-3では終盤にしか出てこないと思っていたパッセージが、既に序盤に醸成されていることを教えるトリックがあった。そして、op.90-4では、これまでの演奏会の内容を踏まえ、ダイナミックなフォルムを立ち上げた。一方、モーツァルトのソナタ(K.311)は、アンコールで演奏するファンタジーと同種類の自由な息吹きに満ち、予想していたよりも、情感的な厚みのあるパフォーマンスで弾いてくれる。エマヌエル・バッハの場合よりは時代的ピアノで弾いた場合のインテリジェンスが効いており、ピアノのほうもいよいよ、言葉を憶えてきたという様子である。

【まとめ】

当初、本プログラムに予定されていたモーツァルトの幻想曲を皮切りに、サービス満点につづいたアンコール・ステージも充実していた。瑕疵はあったものの、ショパンの『バルカローレ』は一際、印象ぶかい。船ということで、『喜びの島』と対応する演目だが、本来、ヴェネツィアのゴンドラを描くはずの音楽にも、リュビモフならではの自由な発想が紛れ込む。神秘的なフォルムの構築と、舟が橋下にもぐったときに聞こえてくるような、舟唄のさりげないエコーの挿入(即興的な)に面白みを感じた。また、この作品で、ショパンは舟唄の輪郭をぼかして描いている。その分、見えない船は、ヴェニスの小舟のようにも、大西洋をいくタイタニックのようにも描くことができるだろう。リュビモフの演奏は、正にそうした自由さからもたらされたスケールの大きな表現だったのである。

最後がスクリャービンだったが、ドビュッシーのようにも、ラヴェルにも、フォーレにも聴こえる振り幅の大きな演奏だった。明日、同じことをやっても、リュビモフはちがうように弾けるのだろう。その発想の凄さというのが信じられないし、同時に、そうしたものがめいめい、完全に磨き抜かれたものから生じている点も見逃せない。もしもここにプロのピアノ弾きがいたとしたら、明日から、また一から出直しだと思うにちがいない(思ってほしい)。そうしたレヴェルの演奏会だった。

【プログラム】 2016年5月16日

1、C.P.E.バッハ 幻想曲 H.300
2、ペルト パルティータ第2番
3、ペルト アリーナのために
4,シルベストロフ ピアノ・ソナタ第2番
5、ドビュッシー 雪の上の足跡、ミンストレル~『前奏曲集』Ⅰ
6、ドビュッシー 喜びの島
7、モーツァルト ピアノ・ソナタ第9番 K.311
8、シュ-ベルト 即興曲 op.90-2、3、4

 於:豊洲文化センター

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