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2016年6月10日 (金)

アンサンブル・ノマド 平野一郎 龍を踏む者/ユン・イサン 大王の音楽 ほか 「照らし合うもの」vol.1 パラフレーズの広場、再生の泉 5/8

【木之脇道元プロデュース】

アンサンブル・ノマドの今回の公演は、代表の佐藤紀雄から、木之脇道元にプロデューサーが(一時的に)移行しての開催となる。木之脇は高度な演奏技術をもつフルーティストであると同時に、ジャンルにとらわれない、正にノマドな発想をもった作曲家、そして、脱ジャンル的なミュージック・パフォーマーとしても活躍している。例えば、作曲家の中川統雄とコンビを組んだ、Cockroach Eater(ゴキブリを捕食するもの)というアンサンブルでの活動では、豊富なテクニックと表現語法、さらに電子音楽の可能性を追究する、ロック音楽にもちかい、特殊なムーヴメントが展開されている。そんな木之脇が考えたプログラムは、トランスクリプション(編曲)、リ・コンポーズ(再作曲、再構築)をテーマに、「パラフレーズの広場、再生の泉」と副題されたものだった。

もっとも、佐藤のやりたいプログラムにも配慮しながらの構成で、彼がソプラノ歌手の吉川真澄と組んで発表している「DUOうたほぎ」での活動もノマドへと還元され、吉川と、彼女をミューズとした創作で新境地を開く作曲家、平野一郎のつくるプラットフォームが、きっちりと組み込まれている。また、中南米の作曲家と親交を深める佐藤の影響力の下、アレハンドロ・ビニャオ(アルゼンチン)の作品もプログラムに入り、全体の構成力をより色彩ゆたかなものにしているのだ。ノマドのプログラムはいつも、一様ではなく、多面体の構造であるところが面白い。今回はユン・イサンの『大王のテーマ』を主軸に、バッハの作品に対する再構築がメインストリームになっているものの、それとは直接、関係しない平野やビニャオのインディペンデントな発想力が、再生の新しい原動力を提供してくれるのである。

【平野一郎の快作】

平野一郎の作品については、うたほぎの公演について、ここでも詳細にリポートしたとおりだ。しかし、まだ若干の誤解があったことも告白しておかなくてはならない。平野は日本の現代音楽の創造に携わる者のなかでは、最右翼に位置しているということができるだろう。彼は日本の祭礼や神楽などに深く知見を有し、それらのエッセンスを今日まで、同じく何百年というスパンのなかで育てられてきた西洋音楽の概念やメソッドと、鋭く突きつけることで、他にない音楽のクオリティを生み出すことに成功していると思う。日本古来のものに注目し、そこからインスピレイションを得る作曲家は決して少なくなかろうが、彼ほど深く潜行し、結果として、それを自由に操り、変容させるというところまでいっている作曲家は私の知るところ、あまりいない。多くの場合、西洋文化に媚びを売るかのような日本の創作家たちが、欧米人のイメージし得る日本を日本らしく編み上げた作品からは、なにひとつ感動的なものは期待できない。誇らかなものや、懐かしさよりも、気恥ずかしさや、「クール・ジャパン」的な商魂たくましいところしか感じないものなのである。能楽や歌舞伎、日舞などとのコラボによるものなども、多くは同様だ。

断言してもよいが、国際的に活躍する日本的な作品を追求する音楽家は、ほぼ例外なく、日本を切り売りする商売人にすぎない。だが、平野の作品には、本当の日本が詰まっているのだ。特に彼の「日本」のなかには、消された声がふんだんに用いられている点で、特徴的である。今回、平野が注目したのは戦前に流行し、戦時は禁止された宗教「大本」の開祖、出口ナヲの言葉だ。平野は京都府宮津の出身で、大本の発生地にちかいところの生まれである。平野が愛する郷里、丹後地方のスピリテュアル・ポイント=経ヶ岬は、同時に軍事的に重要な拠点として認識され、日米両軍が敷設したレーダー基地のあるところとしても知られている。平成25年、ミサイル防衛用の基幹施設のひとつ「Xバンドレーダー」の配備が決まり、周辺の景観に大きな影響を与えるだけでなく、地元の方々の繊細な内面をも傷つけ、日本の古い伝統に棹さすような事態が進んでいるという。

バーンスタインの歌劇『ウェストサイド・ストーリー』のパロディ、林光の『アメリカ・アメリカ』を歌う吉川の表現にインスパイアされたというこの作品は、多分、林の表現からすれば、全くかけ離れたところに位置している。もっとも、私は林のこの作品を知らないが、大もとの作品を知っていることから、多少の想像はつくところもある。平野はここから、作品を「曲解」したと自分で述べている。プログラムには衣装デザイナーの名前もクレジットされ、私は歌い手の吉川が古代の巫女をイメージして、イタコさんのようなクオリティと、宮廷風の豪華さを併せもつような風体で登場するものと期待していた。実際には、もっと大人しく、音楽のクオリティを決して越えるものは身につけていなかった。後方を振り返ると、背中にはなにか意味ありげな星が象られた幾何学模様が見えるというにすぎないのだ。最高の衣裳こそは、歌い手の吉川自身なのであった。髪型は流行のボブ・スタイル(伝統的には『おかっぱ』という)にし、古さや伝統といったものを決して売り物にはせず、あくまで「いま」を歌うヴォーカリストとして、私たちの前に現れたのだ。

出口ナヲをモデルとする女性シャーマンを演じる吉川は、この作品においても、他に替えがたい作曲家の主張の代弁者として、天衣無縫のパフォーマンスを展開する。出口の「お筆先」といっても、それは過去の偉人による名言ともいささか異なっており、今日ではより相対化した感覚のなかで感じ取られるほかはない。その微妙な感覚を伝えるために、平野は歌い手に薄い紙をもたせて、時折、それを口の前に当てて言葉を発することで、特殊なイメージを与えることに成功した。その行為自体は子どもの遊びのようで、受け手を苦笑させるものだが、言葉もまた、それによってきわめて聴きにくい状態となり、紙の揺れる音そのものはノイズとなる。このことは、巫女のメッセージがどこか、いかがわしいものであると感じさせる以外に、その言葉自体が、何らかの原因によって遮られていたことを示しているはずである。

大本教や、ナヲ、その夫となった王仁三郎(オニサブロウ)の歴史を調べてみると、それ自体がアイロニカルである。それについての詳細はここで述べないが、ナヲの預かった神の志というようなものがもしあったとするならば、既に王仁三郎の時点で歪められていたようにも思われる。彼はナヲの初期からの心酔者であり、夫となる人であって、その教えを宗教的に系統づけて、教団を大きくしたパートナーでもあったという。彼自身、「大本」にとっては聖人であるが、平野の作品にその陰はない。そういえば、私はこの大本教や王仁三郎については、坂口安吾のエッセイ『日本文化私観』のなかでお目にかかったことがあった。亀岡に移った大本本部が、官憲によってダイナマイト破壊された直後、それを拝むために鉄条網を越えて歩いたという坂口は、教団本部跡を訪れた感想として「スケールが言語道断に卑小にすぎて、ただ、直接に、俗悪そのものでしかなかった」と論じている。坂口は私が大学時代に見出した英雄のひとりであり、その言は直ちに信用していたのだが、実際には、もうすこし面白い時代的背景を宿していたのかもしれない。

教養ゆたかな平野なら、こうした事実をまったく知らなかったとは思えないのだ。「私的曲解」という言い方が、既に「日本文化私観」という言い方と似通っているのではなかろうか。あるいは、ただの偶然か。平野は十分なアイロニーをもって、それでも、ナヲの聖典(お筆先)を大まじめに見返してみるほどには茶目っ気があった。それを彼は、子どもじみた歌い手の遊び、そして、カミ(紙→神に通じる)を使った悪戯として表現したのは賢明である。実際に、ナヲの言葉の一部には今日、ますます鋭い舌鋒を伴って聞かれるものもある。ただ、神から預かったという言葉だからこそ、その分、「お筆先」の文体は居丈高である。そこから受ける心証もカミのおかげで、戦前のラジオから流れてくるような、不思議なサウンドとして、うまく拾われているのだ。それをやる吉川のパフォーマンス自体が、本当に可笑しかった。笑いながら、私たちは深く、この作品の核心へと向かって引きずり込まれていく。

英語の歌詞も先に述べたような政治的意味からみても、どこか居丈高に聴こえるというのも偶然ではあるまい。これは拡声器を使って歌われるので、私などは椎名林檎のことなどを思い出してしまう。彼女のパフォは、1970年代に活躍した英国の反体制的ロック・グループ、セックス・ピストンズの影響ともいわれるが、本当のところはわからない。そのヘア・スタイルからみても、平野がある程度、歌舞伎町あたりを彷徨う現代のシャーマン=椎名のような存在をイメージしたことは明らかだったと思うが、こうした象徴自体にも、多様なアイロニーが貼りついていることはいうまでもないだろう。

ヴォーカル、エレキ・ギター、サックス、パーカッション、ベース(ダブルバス)という控えめな編成ながら、歌い手を中心に、作品世界は凶暴なまでに拡大し、私の身体には見知らぬところから入ってきた図太いエネルギーが充満した。作品は経ヶ岬の「穴文殊」の伝統に立脚し、そこを舞台に龍を呼び出す仮想的な能楽作品として構成されたということが、本人によって語られている。意味を考え出せば、途方もないほどの宇宙が広がっている。私はただ、そこに生きる精神と音楽、そして言葉そのものがぶつかりあう、厳しい衝動に注目するのみであった。激しい騒音のなかで、シャーマンはついに少女のようにうずくまってわめき声を上げ、龍へと変化を遂げたのだろうか。背中の星型模様は素朴すぎて、ある意味では期待を裏切るものなのだが、見かけだけではよくわからないし、想像の目を羽ばたかせるしかないという問題、それ自体がこの日の表現によくマッチしているのかもしれなかった。

作品は結局のところ、最高の熱狂から、沈黙へと落ちていく。楽器の奏で手もそれぞれ得物を置き、佐藤などは恭しくエレキのコードを抜いて、それぞれがシャーマンを追うようにして、それ自体まで儀式でもあるかのように、静かに退場していった。このような作品を、完全に理解するなんてことはあり得ないだろう。人々がそれぞれの体験や知見のなかで、大事にしているものを借りなければ、作品は作品として成り立たない。少なくとも私には、そうするしかなかったのだ。この作品はあまりにも多大なるイマジネイションに満ちており、平野自身がもっているのと同じだけの深い教養とスピリット抜きに、儀式の全体について知ることなどできないだろう。そのことは多分、我々が普通に目にできる祭礼や儀式をめぐる事情と、あまり変わっていない。だからといって、氏子たちが自分たちの祭りに誇りをもち、威勢よく神輿を担ぐことや、深くは事情を知らない人たちが伝統の神楽をみて美しいとか、幻想的だと思い、夢中になるのを批判することなどできないはずだ。

【音楽的対話のあり方について】

このこと自体が、現代音楽をめぐる事情とよく通じている。私たちはそれが成り立ち、立脚する要素のすべてを知り、理解しなければ、音楽を楽しめないということはない。しかし、同時に神秘はどこかに存在するわけだ。聴き手にとって、作者とはいつも神秘的な存在で、どれほど熱心なファンであろうとも、彼自身が知っている彼とは、まったく別のものをみているのにすぎない。ここには、ひとつの緊張した関係がある。私たちが作品について語るとき、あるいは演奏について喋るときは、いつでも、彼ら(作者および演奏者)の側からの一方的、かつ、致命的な攻撃を覚悟しなくてはならないのだ。あるいは、何も語らないか。料理人たちは、食べた人の批評など聞きたくはないものだ。ただ、うまかったか、そうでなかったかという結果を知りたいだけである。だが、私は自分のような物好きは珍しいとしても、大抵の場合、その能力さえあれば、誰にでも、自分の感じたことをもっと深く語りたいと望む本能があるものと信じている。これもまた、同時に聴き手の側からのつよい要求である。

もっとも、その要求はあらゆる形で、歪んで表現されることが圧倒的に多く、冷笑家たちは結局、そうしたものが好き嫌いにすぎないと強弁したがるものだ。もちろん、私はそうではないと断言する。彼らがある程度、まじめな態度で模索しているのは、どこかに必ず存在する神秘の源というべきである。冷笑家たちは、そうしたものに大抵は無関心なだけであって、我々はその分、彼らよりは優位に立つことができる。面白いことに、作り手自身がそうした源を知らないということもあり得るのだ(特に日本のクリエイターにはそうした種類の人が多い)。私はこうした空間において、いま述べたような神秘について、平均的な人よりは少しだけラディカルに追究しているつもりである。

【現代音楽における手づくりの魅力】

木之脇は根っからの新作でないとはいえ、この日、3本のワールド・プレミエを花道に添えた。彼が掛け替えもなく尊敬に値すると考えたのはユン・イサンの『大王のテーマ』だった。正に題名からみても、富貴な素性に包まれた作品は、2013年に木之脇がさらに編曲している。12音技法の鉄則として、調性を感じさせる3つ以上の音の連続をつくらないというルールがありながら、この作品では最初の3つの音によって、最初からその鉄則を破っている、と木之脇は主張している。このルールに象徴されるように、現代音楽におけるトランスクリプション、リ・コンポーズでは、ミキサーで粉々にして、原形を残さないようにするのが暗黙の決まりみたいなところがあるが、木之脇はそうした流れに敬意を払いながらも、従いきれない矛盾を指摘しているように思われる。

例えば、木之脇のプレミエ作品「幾りえ」(キリエ)という作品では、プログラムにも記載があるように、「切り絵」の発想で、手でちぎったような感覚が明らかになっており、そのため、元の曲が完全には壊れていないのが面白いのである。機械ミキサーを使うのではなく、手でちぎるというような行為が、クラシック音楽のフォームには大切なのかもしれない。IRCAM系のアーティストをはじめとして、今日では、コンピュータや電子音、増幅などを用いた表現も主流を占め、木之脇もそうしたものによる創作と無関係ではないものの、そこに手づくりの雰囲気をいかにして残すかということは恐らく、大切なテーマとなり得るだろう。演奏家としての木之脇も、そうした問題を胸に刻んで、パフォーマンスを続けているはずだ。

そのことが決定的によくわかるのは、ピアノ伴奏によるフルートの独奏曲”NOMAD rmx ~聖なる舞踏”だ。この作品は大胆にも、平野の大作の直後に休憩もなく、プログラミングされている。新作ではないものの、この作品は平の労作に対する、木之脇からの答礼と見なすことができる。ベートーベンの交響曲第7番の最初の楽章から、モティーフを借りたものである。壮麗で活気に満ちながらも、肉体の重みを感じるフィジカルなベートーベンの作風と、彼のもつ技巧的な厚みが1対1で対応しているのがわかるだろう。

木之脇による編曲もので、最高の出来を誇ったのは『6声のリチェルカーレ』だ。指揮者の佐藤にも敬意を表し、出演者を総動員して華々しく作り上げた舞台は、正直に、木之脇のやりたかった世界を体現するものとなった。フーガの優雅な構造に乗り、個性ゆたかな奏者たちが自由に踊る。テーマは、まるで壊れていない。壊れる余地がないのだ。こうした完璧な音楽に出会いたいと願う気持ちは、ユン・イサンも、自分も同じである。ただ、声楽の使い方には期待したようなクオリティがなく、課題が残ったかもしれない(なにしろ、あれだけの歌い手なのだ!)。なお、私はこの構成をみて、『6声のリチェルカーレ』に声楽が入り、グノー編『アヴェ・マリア』からの編曲に声楽が入らないとは予想できなかった。すべての華やかな儀式がおわったあと、フルート、クラリネット、ヴァイオリン、チェロ、ピアノというシンプルな編成で構築された静かな「歌」の世界は、空間を優しげに包んだ。

もはや、すべてが成し遂げられた。それにしても、2曲目にすべてがもっていかれたとの印象は拭いがたい。佐藤紀雄の見つけてくるものは、なかなか他に及び得るクオリティではないということだ。平野にしても、エベルト・ヴァスケスにしても、さすが代表の見つけてくるプログラムには隙がなく、木之脇のように新鮮な志をもつ知者でさえ、簡単には追いつけないものもある。とはいえ、小さな星が、より光のつよい恒星の輝きに隠れてしまったとしても、その星のもつ価値が、ひときわ明るい星よりも必ず劣っているというわけではない。それら小さな星の輝きに、大王の輝きをみた木之脇の価値観にも、私には十二分に共鳴するものがあったのである。

【プログラム】 2016年5月8日

1、ユン・イサン/木之脇道元 大王のテーマ
 <バッハ 『音楽の捧げもの』
 fl:木之脇 道元 cl:菊地 秀夫 vn:甲斐 史子 vc:菊地 知也 pf:稲垣 聡

2、木下一郎 龍を踏む者
 ~女声、エレクトリックギター、サクソフォン、コントラバスと打楽器のための秘祭
 <林光 『アメリカ・アメリカ』 <バーンスタイン 『ウェストサイド・ストーリー』
 vo:吉川 真澄 エレキギター:佐藤 紀雄 sax:鈴木 広志 db:佐藤 洋嗣
 perc:宮本 典子

3、木之脇道元 NOMAD rmx ~聖なる舞踏
 <ベートーベン 交響曲第7番(第1楽章)
 fl:木之脇 道元 pf:稲垣 聡

4、木之脇道元 NOMAD rmx ~幾りえ
 <バッハ、モーツァルト、ヴェルディ、フォーレの「キリエ」
 
5、ビニャオ リズムの手帳
 <ドビュッシー 夜想曲、ワッカーリの歌い手=ヌスラット・ファティ・アリ・カーンの歌唱

6、バッハ/木之脇道元 6声のリチェルカーレ
 <バッハ 『音楽の捧げもの』

7、バッハ/グノー/木之脇 アヴェ・マリア
 fl:木之脇 道元 cl:菊地 秀夫 vn:甲斐 史子 vc:菊地 知也 pf:稲垣 聡

 於:東京オペラシティ(リサイタルホール)

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