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2016年6月 4日 (土)

澤江衣里 ソプラノ・リサイタル R.シュトラウス 4つの最後の歌 など 東京音楽コンクール入賞者リサイタル 4/29

【さすらい人を継ぐシュトラウス】

ソプラノの澤江衣里は、バッハ・コレギウム・ジャパンをはじめとして、宗教曲のソリストや合唱のなかで活躍しているイメージがつよい。そうした演目で必要とされるのは、シンプルで、情感を内に秘めるような静かな語りくち、さりげなく高度な歌の技巧である。しかし、その彼女がまったく対照的なリヒャルト・シュトラウスの歌曲だけでリサイタルをおこなったのは驚きに値する。今後、コルンゴルトでのプロジェクトにも関心をもっているということで、後期ロマン派の歌曲は彼女のもうひとつの重要なフィールドと見做せるのであろうか。まったく異なる2つのキャラクターがなぜか、私には自然に重なってみえるのだ。

この日の演奏会はシュトラウスの歌曲を初期のものから、晩年の『4つの最後の歌』まで、年代順に歌っていくもので、何人かの作曲家、例えば、この時期ならヴォルフとか、ツェムリンスキーとか、ブラームスを組み合わせて歌っていくよりも、難易度が高いものになっている。よく歌われるものが多いとはいえ、それぞれが同じリサイタルのプログラムに並ぶことは少なそうな演目もみられた。こうして聴いてみると、この作曲家の辿る音楽の変遷が立体的にイメージできて、きわめて興味ぶかいものになったことを報告したいと思う。後述のように、『4つの最後の歌』は、そうしたすべての時期の作品を4つの曲で見事に内包するものとなっているのだ。終曲では、シューベルトの『さすらい人』に引っ掛けて、’wander’の言葉が変形して使われ、二重の別れが示唆されている。彼が歩んできた道には、先導者があったのだ。

通常の場合、若い頃の作品と比べて、後期の作品のほうが熟成を経て深みを増していくのが普通である。ところが、天才的で、なおかつ教養もゆたかなリヒャルト・シュトラウスの場合は、初手から、いくらでも複雑なテクニックを駆使した作品を書くことができた。このようなクリエイターの場合、熟練を深めていくにしたがって、かえってシンプルなものを手掛けようとする傾向があるものだ。シュトラウスの音楽は、正にそれである。若い頃の作品は、個性的なテクストを選び、親密だが手の込んだポエジーに基づいているし、それを言葉の抑揚やイメージだけにあわせて作曲していくという二重に斬新で、シンプルなスタイルを採っている。それが徐々に晩年に近づいていくと、ルバートや技巧的な要素が自由に埋め込まれるようになり、別の意味で簡潔な表現に変化していくのである。言葉以外の素材も多様になり、交響曲の『アルペン・シンフォニー』に代表されるような具体的象徴を交えて、テクストのもつ詩情をバロック的な手法で広げる役割を果たしてくれるわけである。

op.22の『乙女の花』は、そうしたなかでも出色の作品である。テクストは、その前に歌った op.21-1 と同じで、フェリックス・ダーンという人の詩を使っている。詩人として、それほど高名とは言いがたいものの、若い作曲家を魅了しても一向におかしくない親密なテーマが、高雅な変容を経て詠まれている。’Aber’(だけどね)という接続詞で始まる「木づた」は、5つの実が連なる植物の特徴を捉え、「彼女たち」(sie)について歌うところに工夫がみられる。複数形をとることで、言葉の形も変化することなど、仕掛けの多い詩は確かに手が込んでいるだろう。シュトラウスはこうした歌詞に、いかにも幻想的な・・・、つまりは自由な音楽のポエジーを与え、さらに深みを増そうとしているかのようだ。

【澤江の表現スタイル】

澤江のパフォーマンスは、最初の歌からゾクッとするほどの鋭い表現力をもち、思ったより、声の厚みもあるのは幸いだった。たとえ歌唱の技術に共通するものがあるのだとしても、宗教曲を歌う彼女とは、まったくちがうエンジンを燃やしているようにしか見えず、特に歌唱に用いるエネルギーの熱量があれほど豊富だとは意外であった。1曲ごとによく磨き抜かれた歌唱ではあるが、その分だけ、歌曲ごとに生じる表現のコントラストはやや浅くなるのは止むを得ない。それを犠牲にしても、彼女は粘りづよく、ブレない表現を心掛け、それが最後に効いてくるというわけである。いまの『乙女の花』にしても、プログラム全体のなかで2、3設定されたヤマに当たっているものの、澤江の表現はなにひとつ強調的なものではなかった。そうした意味では、どんな分野であっても、時代であっても、歌い手の表現にちがいはないということもできそうである。結局のところ、作品そのものがもっている言葉や、表現の力を、自然に拾い起こしていくだけのことにすぎないのだから。

澤江はまた、2-3の歌曲を1シーケンスとし、朝のように明るく歌い出し、夕べから晩、そして、夜のイメージでシーケンスを閉じるように作品を配置するという工夫もみせた。人間の生が1日によって譬えられるように、歌曲は注意ぶかく配置され、それに従って、また人(歌い手)が生きているような、循環的な書法が印象づけられるだろう。こうしたことにより、人々は容易には理解できないテキストの深みに単体として拘泥するのではなく、より広い振り幅のなかで、言葉のエッセンスを実体的に覚知していくという視点を与えられる。このことは、メインとなる『4つの最後の歌』において、決定的な意味をもっているのだ。季節と時間を組み合わせ、それぞれのイメージに相応しい音楽的表現を巧みに構築して、リヒャルト・シュトラウスはここに、正しく自らの人生を詰め込んだのである。

【4つの最後の歌からみえる2つのヴィジョン】

深い深淵の縁から立ち上がりながら、作曲家が描くのはまず春の明るさだ。言葉の抑揚から流れるように歌が紡ぎ出され(初期作品の特徴)、「9月」と名付けながら、次に歌うのは夏の挽歌。前曲同様に歌のフォルムはコンパクトだが、表現のスケールが大きく、中期のような充実感が滲み出ている。さらに、「もう昼は、私を疲れさせてしまった」と歌い出す第3曲は、やや感傷的な夜の賛歌。歌詞は次第にほどけて技巧的な部分が目立ち、なによりも後を引くような雰囲気が鍵を握る(後期の作品の特徴)。そして、第4曲はすべてを包み込む真夜中の音楽である。華やかでダイナミックな音楽が開いて、歌い手は堂々と空間を描いていく。鳥の声を象ったバロック的な直喩がストレートに、だが燦然と輝き、ステージにまばゆい星空を映し出す。終曲では、ピアノの森が響かせる鳥の声が淡彩なピアノの音色から、見事にその美しい音型を浮かび上がらせ、仕事を終えたソプラノの余韻を秘めやかに歌い継ぐ。その瞬間、私の前にパッと2つのヴィジョンが開けたのである。

澤江は秘めやかに、交響曲のように真実を少しずつ明らかにしていくことで、この作曲家の歌曲がもっている面白さをユニークに主張していこうと試みた。『4つの最後の歌』に代表されるこの日の仕事は、正に彼女にぴったりのものであり、作品を歌うために、彼女はどのようなプログラムがもっとも効果的かを慎重に考え抜いた。恐らくは、このプロジェクトは澤江にとって、難しい部分を多く含んでいる。特に、シュトラウス後期にみられる技巧的な表現は、少なくとも彼女向きのものとは言えないだろう。しかし、例えば、op69-5 『悪天候』のような作品であっても、その表現は十分に歌い手のなかに居場所を定めているのがわかる。彼女は全曲を完璧に支配するのではなく、とりあえず、お互いが安らかに寄り添えるような関係を目指してスタートした。そうでもなければ、『4つの最後の歌』などが歌えるようには思えないだろう。

ピアニストとも連携して、2人でつくりなおした表現はやや明るめにとられた響きを特徴としている。そのことで、苦労しながらも、コツコツと序盤から澤江が構築してきたものが一挙に、聴き手のなかに流れ込んでくるという仕組みになっていた。2つのヴィジョンとは、手の届きそうにないものにも賢明になって腕を伸ばし、一歩ずつ進んでいく勇気。一方、辛苦の末に辿り着き、手にしたものも高嶺の花とは据えずに、たとえば野に咲く花のように、誰にでも手が届くものとして、謙虚に飾りたいという想いをもつこと。これらの両方である。

【一本とられた】

公演もおわったいま、それぞれの歌詞を改めて検討してみると、こうした表現になんとなく沿っているものが多いのは偶然でもなかったと思う。ロマン派特有の気高い表現を含みながらも、作品は恋人どうしの親密な関係を謳うものが多く、野山や森の風物、植物や花のもつ生命感を生かしながら、あくまで素朴に、叙景的に情感が描かれているものがよく選ばれているのだ。反対に、op27-2 「ツェツィーリエ」 のように宗教的示唆に満ちたものや、op.68-2 「花束を編みたかった」 のように死を感じさせるようなものは、今回の構成に相応しいとは思われなかったのであろうか。なるほど、澤江の歌唱はこうした選択によく見合ったものということができ、知的な構成であることは間違いない。

もっとも、その分だけ、序盤にも述べたようにひとつひとつの場面を緊張の糸でつないでいく作業は、いよいよ難しくなるわけである。澤江の成功は、『4つの最後の歌』に至るまでに聴き手の集中力をしっかりつなぎながらも、一方では使いきらずにとっておくという芸当ができたところにかかっていた。その場限りの効果に酔うことなく、一刀ずつ丁寧に鑿を振るうような職人的仕事が、聴き手に好もしい印象を与えたことで、そうした成功も可能となったのである。率直にいって、私はこのリサイタルの大部分に満足していなかったが、その感覚は誤りであり、綿密に設計された力強い仕事によって、五分五分の評価は最後にすべてプラスに転じた。正に「一本とられた」という感覚にならざるを得なかった。1人の作曲家の作品だけで声楽リサイタルを組み立てるのは難しいことで、滅多に耳にすることもないが、その構築には多大な知恵とエネルギーを要するわけで、結局のところ、澤江の示す、芸術的にまだ新鮮な感覚がこうした困難を可能にしたのであろう。

パートナーとして支えたピアニストの森裕子は、澤江と比べると、どこか直感的なピアニストという印象になるだろうが、こうしたエネルギーの供給源としても十二分に機能したと思われる。緻密で穏和な表現ではなく、失敗しても、ひとつひとつ懸命に鑿を振るうという点で、歌い手とは必ずしもマッチしていないスタイルとはいえ、そうした個性のずれが欠点として映るよりは、互いに補い合っている面が大きかったようだ。私の好みとは合わないものの、この日のリサイタルにはまず、外せない人物だったと考えられる。「ブラーヴェ」と称えたかったが、彼女は常に一歩下がり、前には出てこなかった。ここで改めて、その仕事の確かさに感謝したい。

【プログラム】 2016年4月29日

オール・リヒャルト・シュトラウス・プログラム

○「何も」「夜」「万霊節」~『8つの歌』 op.10
○「わが想いはすべて」~『素朴な歌』 op.21
○「帰郷」~『5つの歌』 op.15
○「セレナーデ」~『6つの歌』 op.17
○『乙女の花』 op.22
○「ときめくこころ」~『3つの歌』 op.29
○「薔薇のリボン」~『4つの歌』 op.36
○「子守唄」~『5つの歌』 op.41
○「変わらないもの」「悪天候」~『5つの小さな歌』 op.69
○4つの最後の歌(遺作) TrV296 (pf 伴奏)

 pf:森 裕子

 於:東京文化会館(小ホール)

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