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2016年8月22日 (月)

ラザレフ グラズノフ バレエ音楽『四季』/ショスタコーヴィチ 交響曲第8番 日本フィル 定期演奏会 #682 7/8(初日) 

【ラザレフの9年間】

アレクサンドル・ラザレフが日フィルにおいて、首席指揮者として過ごした9年間を、彼としては念願のプログラムで締め括った。トップ・ポストを若手のインキネンに譲っても、両者の関係はつづくようだが、一応の区切りとなる公演を聴いてきた。ラザレフと日フィルは、純粋に音楽的なパートナーとして互いを認め合った。ラザレフは鬼軍曹的に強烈なカリスマでアンサンブルを率いるようにみえるものの、彼一代にして、日フィルを大きく変えたというような存在とまではいえないと思う。もっとも彼はひたすらオーケストラを愛し、ことあるごとに信頼を口にした。2011年の震災時、東京での公演を準備していた彼だが、当日に予定されていた公演自体は中止となっても、日本を見捨てずに来演をつづけたアーティストのひとりでもある。彼はロシア音楽を中心に、日本の聴き手の趣向に寄り添いながら、その真価をみせる働きを幾重にも巡らした。

ラザレフがトップ・ポストにいた時期は、震災を含む楽団の大きな岐路に属しており、財政的な基盤を整える必要があるなど、難しい再建の道程にも添っていた。優秀な楽団員は、次々に周囲へと引き抜かれた。そのなかでも、日フィルは特徴を守り、自信をつけ、そのことが外部からの評価に直結した。日フィルは従来より、小林研一郎の録音などを収めて、エクストン・レーベルのお気に入りのひとつだが、ラザレフ時代のリリースは負けず劣らず、多かった。

グラズノフの演目は以前からラザレフが熱望していたプログラムのようだが、厳しい状況下、楽団がなかなか許可できないものにひとつでもあった。この最後の公演ではバレエ音楽『四季』を取り上げ、インキネンの新体制の下では、交響曲第4番を日本へと献げる予定になっている。これらに限らず、ラザレフのキャリアを考えれば、日フィルでの活動はあまりにも保守的なものであり、チャイコフスキー、ラフマニノフ、マーラー、ショスタコーヴィチといったようなストリームに、本来、もっと多様な色味を加えられたはずだということも忘れてはならない。

もっとも、打てば響く(逆にいえば、打たなければ響かない)という日フィル的なアンサンブルの特徴は、正に前線指揮官としてのラザレフにはぴったりのものであった。彼は楽団が好むような細かい指揮ぶりで、手足のようにオーケストラを操って、独特の演奏を繰り広げた。だが、彼は何でも指揮者の意のままになるような、依存的なアンサンブルを好むわけではなく、楽団の特長を生かしつつも、オーケストラのメンバーが自信をもって、アンサンブルに溶け込めるような空気をつくっていった。日フィルはいよいよ誇り高く、勇猛で、機動性の高いアンサンブルとして、個性を発揮していったのも当然だ。

【展覧会の絵】

この日はグラズノフのバレエ音楽『四季』と、ショスタコーヴィチの交響曲第15番という対照的なプログラムになっていた。グラズノフは特殊なリソースや特殊奏法は使わず、真正面から当たり前のリソースを完全に生かしきった明るい作品を書いている。ショスタコーヴィチもそれなりに明るいのは同じだが、楽器のもつ本来の持ち味を殺し、隠して隠して、破裂させて、ずれさせて、その先で手に入れたちょっとした自由をうたう「チャカポコ」(オーケストラの背景の下、終結部で繰り広げられる打楽器を中心とした風刺的アンサンブル)が象徴となっている。どちらの演目にも、日フィルは100%でぶつかっていったのは確かである。彼ららしく、がっちりとスクラムを組んだグラズノフでの演奏も、冒険的なショスタコーヴィチでのアンサンブルのポップ(吹き出し)もともに見応えのあるものだった。

特に個性的と思えたのは、ショスタコーヴィチのほうだ。コラージュ素材はバラバラに分断され、牢獄の独房に1点ずつ飾られた「展覧会の絵」を覗いていくように、各モティーフが明晰な表現として構築された。演奏された2つの作品は、ムソルグスキーの有名な作品を想起させる表現で共通性があった。本来、多様なイメージがそれらのタブローを集めた個展の形で凝縮し、全体的な統一を成しているのである。しかし、ショスタコーヴィチの作品には、絵画的なものが急に立体性を帯び、魔物めいて発展する不思議さもある。生きていることが逆説的に確かめられる世界の厳しさが感じられるのだ。

一方、グラズノフの作品と、その時代にも狂気が見てとれる。音楽院の楽長だったグラズノフは、その立場にもかかわらず、いつも酔いどれていたという。華やかな秋祭りに紛れ込む酒神バッカス=ディオニュソスの陽気ながらも、暗い影。酒でも呑まなければ、到底、書いていられないような音楽。もしくは、酒が回っていることが言い訳になっているような音楽。グラズノフの作品のなかでは、そのような見えないイメージが生きているようであった。ワーグナーの歌劇『トリスタンとイゾルデ』も媚薬を飲んだことが言い訳になることで、マルケ王の赦しが存在できるわけだし、マエストロ・ゼッダが強烈に印象づけたようにロッシーニの歌劇『ギョーム・テル』は、イタリアではなかなか実現できなかった民族による抵抗が描かれた音楽だ。こうした作品がショスタコーヴィチの交響曲を彩っているのは、意味のあることであろう。ドラマトゥルギーが強烈に音楽に溶け込んでいることを、演奏自体が物語っていた。

【演奏の可能性】

素晴らしい演奏ではあったものの、「有終の美」というほどに完璧な名演ではなかったことが惜しまれる。よくあることだが、日フィルのメンバーは気負いすぎて硬くなっていた。これは初日の公演であったから、翌日以降、もっとよくなることに期待をもつことはできた(自分がそれを耳にできないことは置いて)。グラズノフではもっと自由に、ポエジーが跳ね回り、ショスタコーヴィチでは主役をひとりにしない、前半のグラズノフで示した精神が何度もよみがえるような演奏になるはずなのだ。当夜の演奏では、ショスタコーヴィチにおいてはトロンボーン藤原の優れたパフォーマンスが突出していた。というのは、あとの2人との差が激しすぎたのであり、これでは印象的な転換のモティーフを効果的に語ることはできない。本当はこうではない。日フィルの金管はN響や読響、新日本フィルなど、周囲から引き抜かれてしまうことも多いけれども、それでもまだ、日本一のクオリティを保っているワケだから。

もっとも、ショスタコーヴィチの交響曲第15番は、オーケストラ・ダスビダーニャ(ダスビ)による2007年の演奏が忘れがたいものであり、それと比べても個性的な演奏であることから、一定のクオリティを指摘することはできるものの、反面。長田雅人のようなスペシャリストがアマチュアの熱心な音楽家たちと手を組んで、1年間を費やしてつくる手間のかかった演奏とは比較にならないのも明らかである。作品の規模はさほどではないとしても、この作品は、それだけの深い表現領域を抱える大作だということは見逃されがちだろう。

一方、グラズノフのほうは2005年にロジェストヴェンスキー&読響で演奏した独特のパフォーマンス(合間に、各季節に対応した西行の短歌を朗読する演出をつけた演奏)よりも圧倒的に高いポテンシャルを示していた。最初に吹雪が舞いだした部分で、もう涙が出るような美しさがあり、ラザレフいうところの「ンパンパ節」ではないものの、やや単調な面もある舞踊作品のクオリティに、退屈な場面がほとんどないという出来映えであった。しかし、同時にこうした音楽とともに、踊り手が舞ったならば、どれほど素晴らしいかと想像させるのも、ボリショイ劇場などを長く指導した音楽家のなせる技である。

【選挙の季節】

時節はもろに、選挙の季節だった。ショスタコーヴィチのように皮肉のなかに真実を隠し、グラズノフのように、酔い潰れて真実を語るべき時代が、残念ながら、日本を支配しようとしているのを憂慮しながら、演奏を聴いていた。とかく物事は、こちらの思い通りには進まないものである。それが、いけないのではない。人々の選択を軽々に語ることはできず、逆に、他人が私の支持するもの、あるいは、それを支持する私自身について迂闊に語ってしまうのも、気持ちの良いものではない。私は現在の日本に、倫理や正義を越えた抜き差しならない対立があるのを感じる。強者は自然とまとまるのだが、弱者はまず、みずからを弱者と認めるまでの時間がかかり、その間、ギリギリまで分断される。歴史的にみると、そのあと闘うのでは多分、遅すぎるのだ。

グラズノフの最後は、正に目が覚めるような音楽になっている。ロシアの四季は、冬の沈黙から始まり、春、夏を経て、実りの秋へと通じている。秋を支配するのは、もっとも多様な顔をもつ反秩序の神、ディオニュソスだ。彼への参加は、グラズノフらしいぎっしりした楽器の組み合わせで、豪奢に構成されている。グラズノフの時代、ギリギリ赦された風刺の表現が、反面では宗教的な祝祭の意義を兼ねて、美しく、優雅な『四季』の舞台へと詰め込まれている。この作品はグラズノフにとっては、まだ初期のものだが、来たるべき時代を先取りして、「目覚めよ」と呼びかけている風情もあろうか。このあと、グラズノフはペテルブルクの音楽院で、アルコール依存症とソヴィエト政府を相手に一風変わった闘争に身をすり減らすのであった。

【こころの窓を開く多様な価値観】

また、ラザレフによれば、グラズノフの『四季』こそが、物語から独立した最初のバレエ作品ということだが、私には、それに先立つ例もあるように思える。それはともかくとして、ラザレフはいつも、なにか新しい発見を我々にもたらすことが、音楽家としての使命であると考えているのかもしれない。もっとも、彼の考える新しさには多様さがある。彼はチャイコフスキーにさえ、決定的な斬新さを認めており、その主張には十分に首肯できるものがあった。単一な基準による新しさ・・・これまで聴いたことがない響き、構想されることがなかったような音のシステム、見も知らない演奏法などを、それと定めた場合には、作曲家の内的欲求は必ずしも作品へと自然に反映されることなく、思わぬ硬直性が生まれてしまう場合も多いのである。チャイコフスキーがそうであったように、グラズノフが斬新といわれることもまた珍しいが、そう考えることによって、私たちのこころの窓は大きく開くのであった。

【プログラム】 2016年7月8日

1,グラズノフ バレエ音楽『四季』
2、ショスタコーヴィチ 交響曲第15番

 コンサートマスター:扇谷 泰朋

 於:サントリーホール

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