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2016年9月22日 (木)

ホアキン・アチュカロ ピアノ・リサイタル アルベニス 「エル・プエルト」「エル・アルバイシン」~『イベリア』 ほか @浜離宮朝日ホール 9/20

【単純性と複雑性との対話】

ホアキン・アチュカロ(アチューカッロ)のピアノ・リサイタルは、本当に不思議な雰囲気だった。ある意味では、期待を裏切られるパフォーマンスだ。アチュカロは1932年生まれ、スペインの巨匠で、世界的にみても特異な位置を占める音楽家といえるが、日本での知名度は、知る人ぞ知るというレヴェルに止まっている。彼は最初の演目として、マイラ・ヘスの編曲によるバッハのカンタータ第147番より『主よ、人の望みの喜びよ』を選び、そうしたイメージをも真っさらにした上で、音楽に集中するよう促していた。私はこの素っ気ない作品の演奏中に、「単純性と複雑性との対話」というキーワードを思いつき、それを念頭に置いて耳を傾けていると、この演奏会が面白いようにうまく嵌まるのに気づいたのだ。だが、そうした予感(あるいは予見)が確信に変わるのは若干、先のほうの話になる。

それよりも、私が真っ先に感じたのは、アチュカロが自己自身について語る、まるで新しいイメージだ。「私は、(皆さんの想像される)そのような音楽家ではありません。私は単純で、素朴なものにいちばんの関心があり、燦然とまぶしく輝く演奏をするよりは、しっとりと、優しく奏でることに長けています。天才よりは、平凡な人を描きたいのです」。

演目は2ビット(バッハ)から4ビット(ベートーベン初期作品)に、4ビットから8ビット(ショパン)へとステップを踏んで拡大された。ベートーベンは初期作品のなかでも、あまり注目されないト長調のソナタ第10番(op.14-2)にスポットを当てている。無論、この時代にも、ベートーベンの傑作とされるような作品は存在し、ハ短調の第8番「悲愴」(op.13)、変イ長調の第12番(op.26)、そして、変ホ長調の第4番(op.7)は、特にリサイタル向けにプログラムされやすい演目だ。これらに対して、第10番は一見して、その凄さが簡単にはわからない作品のひとつであり、恐らく、演奏技巧を示すのにも向いていないだろう。先に私が示したキーワードは実のところ、プログラムをみた段階で、例えば、このベートーベンのソナタの選択によって(あるいは、よく知っているイベリアからの選曲によって)、なんとなく予感していたものだったかもしれない。だが、このベートーベンで、いよいよ主張が明らかになっていくのである。

演奏自体は、それほど特別なものとは言えなかった。会場には彼を神格化でもしたいのかと思われるような、ブラボー屋もいたが、そのような反応とはまったく縁遠いパフォーマンスだろう。鍵盤の範囲の狭さや、音の大きさなど、この時代の限界的なものを敢えて示したうえで、ベートーベンがどのような工夫をしたのかを丁寧になぞっていくだけだった。けれども、その視野は時代精神にさえ及んでおり、貴族の夫人の注文に応じた作品は、中間楽章のヴァリエーションにおいて、弱々しい主題(それほど高い技能がなくとも弾けるうえ、理解がしやすい、短く愛らしいパッセージ)に付曲する苦労を思わせる側面がある。しかし、そうした作品の端々に、キリリと感じられる作曲家の個性、例えば、長調と短調の鋭い切り替えなどは、巨匠の演奏によって、逆に輝かしく閃き、単純で素朴なものを優雅にみせ、また、そうしたものが機能的に重ねられたときに生じる可能性の大きさをも、容易に想像させた。

【幻想即興曲のもつ単純な神秘】

ショパンの時代にも、まだ今日のようなグランド・ピアノは一般的ではなかった。彼が所有していたのは、ブロードウッド、エラール、プレイエルによる3つの製品で、ショパンも憧れたバロック以来の雰囲気を残しながらも、工業品としても最先端の技術を投入したピアノのコレクションになっていたことが想像される。ショパンの演目としては有名な「幻想」即興曲(op.66)と、「英雄」ポロネーズ(op.53)の2曲を用意し、それらが対比的に描かれた。作曲年代では「英雄」が先だが、初級(バッハ)、中級(ベートーベン)、上級(幻想即興曲)のさらに上へと配置される超時代的な作品として、アチュカロはこの作品を、前半の最後に置いた。それゆえ、この作品の演奏では遠慮なく、そこに置かれている鍵盤(スタインウェイの黒)のもっている最高の性能を引き出して演奏する。

しかし、パフォーマンスそのものは初級、中級につづく流れで楽しめた「幻想」のほうが、より衝撃的なものだったかもしれない。私が惹きつけられたのは両端部に位置する華麗で叙情的な部分よりは、またしても単純、素朴な中間部分の演奏ぶりである。独特なルバートなどをそれほど多用せず、あれほど豊満で、イメージゆたかなトリオの演奏はなかなかお目にかかれない。作品番号がついているが、この作品は本来、ショパンの生前には楽譜が出版されなかった遺作で、ごく私的な贈り物としておわるはずだったが、いまでは、ショパンの作品のなかでもよく知られたもののうちのひとつとなっている。しかし、アチュカロの装飾のなさゆえに、永遠につづくかのように思われるトリオの構成からは、確かに気紛れな即興の味わいが醸し出され、いま、生まれ出たような新鮮さを感じさせるのである。それはまるで、一本の木から自然に彫り出されたという慶派の彫刻のようである。

これら2曲の演奏について、減点法で聴いては面白くないだろう。技術の完璧さなら、他にいくらでも優れたピアニストがいる。アチュカロは確かに、技巧的なピアニストだ。若いときは、もっと快刀乱麻な特徴を示していたであろう。生前、チッコリーニがよく言われたように、演奏に出来・不出来がある往年のベルカント歌手のようなタイプでもある。しかし、それ以上に伝えたいものがある音楽のメッセンジャーであり、優雅で、こころに沁みる音楽性をもっているところが特別だ。このような演奏を聴いてしまうと、ショパン・コンクールで有名になるようなピアニストなどは、とても比べものにはならないことがわかるだろう。ややメカニカルな印象もあるが、その演奏は最近のポーランド派による主張よりは、かつて流行のパレデフスキのスタイルにちかい。しかし、左手の揺らぎは僅かで、独特の品があり、聴いていて、とても冷静ではいられない大胆な緊張感を孕んでいた。

「英雄」のほうは、そのような大胆さは後退し、代わって作品のもつドラマが詩的に構築される。特に低音の反復音型がポーランド人民の鬱屈したエネルギーを感じさせる部分の凄さが際立っていた。このイメージは後半のスペイン・プログラムを予見するものであり、闘牛をみるような大衆的な生々しさと、それとは対照的な優雅で女性的な感覚を包含している。アチュカロのポロネーズはテンポ・ルバートによる構築は限定的で、それに代表される人為的な演奏スタイルの形式を、表現者のもつ自然な内的衝動と入れ替えることで成立しているようだ。

【アチュカロのスペイン音楽】

前半のバッハ、ベートーベン、ショパンと、後半のスペイン・プログラムでは、後半の演奏が本体と思う聴き手は少なくないようだ。しかし、私自身は、アチュカロが本当に弾きたかったのは、前半のプログラムのほうだと思っている。母国スペインの演目にも愛情をもっているにはちがいないが、多分に、主催者の注文に応えた部分が大きいだろう。彼は今回、母国の巨匠ヘスス・ロペス・コボスとのコンビ、演目はファリャというパッケージ(読響)のなかで来日することができた。この演目はアチュカロにとって、26年ぶりの日本での披露というオマケがついていたらしい。それとシェアする形でいくつかのリサイタルと、教育的な機会が整えられる。スペインのプログラムは日本ではあまり披露されることがなく、稀少性も高い。しかも、悪いことに(というべきか)、過去には日本でも人気のあったグランド・マザー、デ・ラローチャの存在があって、コアなファンはそれなりのパフォーマンスでは評価してくれないという難しさもあろうか。

アチュカロは、その要求に高いレヴェルで応えることができた。しかも、ラ・ローチャが典型的なものとすれば、およそスペイン的ではない演奏をしている。否、それは誰もが想像するようなスペイン人とは、まったくちがうスペイン人がいるという、シンプルな事実を教えてくれたのにすぎないのかもしれない。そうはいっても、モンポウが、グラナドスが、アルベニスが(!)、あんな風に響くということは、金輪際、まず、あり得ないことだと強調しておきたい。例えば、モンポウのプレリュードのうち3曲を弾いたパフォーマンスから連想したのは、先日、アレクセイ・リュビモフが弾いたシルヴェストロフの作品だった。モンポウは正に詩的な、内的情景を、単純には形にならない音楽の響きへと素直に変換している。こうして私たちは前半の初級、中級、上級から、一挙にワープした世界を感じることになるのだ。同時に、ここでもモンポウからグラナドス、そしてアルベニスに至るホップ・ステップ・ジャンプがみられるが、その跳躍のレヴェルはいっそう高く、優美なのである。

グラナドスの演奏は、アチュカロとしても快心のものだったと思われる。最初の部分で、アチュカロはまず、キャンバスに架かる絵をイメージさせた。やがて階段的な旋律の動きから始まって、深く絵の内的世界に踏み入る瞬間があり、そこからは絵の書き手ゴヤと、作曲家グラナドス、そして、演奏するピアニスト(アチュカロ)の内的な対話が始まる。そして、それが次第に描かれたマハの心情に通じるという、本来とは逆のルートを辿ることになるのだが、アチュカロの神秘的な、つまりは、少しずつ心根を開いていくような演奏スタイルが、こうした作品に驚くほど見合っているのが愉しかった。この作品もまた、同様の音型が舞曲のように巡りめぐるなかで、微妙に内面が推移していくところに面白さがあり、単純さの極致が、難しいパッセージの連続と不釣り合いに生じていた。

アルベニスの『タンゴ』は、敢えてレオポルド・ゴドフスキの編曲を用いている。ゴドフスキは作曲家でもあり、歴史的なピアニストとしても名高いが、振り返ってみれば、ここに取り上げられた作曲家たちはピアノ、もしくは、鍵盤楽器の名手としても鳴らした人たちだ。また、特に前半の作曲家は、ピアノの歴史の重要なところに立ってもいた。つまり、ヨハン・セバスチャン・バッハは初期のピアノがもっていた新しい可能性を認め、その普及に貢献したし、ベートーベンの時代にはピアノの技術が大きく発展して、鍵盤も61鍵から徐々に低/高音に拡大された(ベートーベンは将来の楽器の発展を予想して、いま、そこにはない楽器を想定して作品を書いたりもした)。ベートーベンの生まれた頃の生地ボンに、まだ立派なピアノはなかったそうだが、ショパンの頃にはピアノも大分、広く普及しており、その国の産業水準を示す技術競争が始まり、先に触れたような最新式のピアノも生まれてくる。アチュカロはここにヘス、ゴドフスキといった名ピアニストの編曲をも登場させ、音楽の歴史の奥深さを物語っていた。彼らは一風変わった筋道によって腕を磨き、独特の音楽性を形作ったアーティストだったといえる。

同じくアルベニスの『イベリア』から「エル・プエルト(港)」の演奏が、スペイン・プログラムの頂点になっていたと思われる。アチュカロは、通常、ピアニストがこのような曲を弾くときに意識するものをまったく排して演奏した。誰もが意識するスペインのイメージ、ありふれた強調や、それらしいアーティキュレーションは、アチュカロにとってみれば、ある種の誇張にすぎないと思われたのであろう。何のために、中級編でゴドフスキを弾いたというのだろうか。彼は、その意味を痛切に感じさせた。絵画のもつ詩的な喚起力(それはいかなるスト-リーとも関係なく、独自に存在し得る。例えば、誰か具体的な実在の人物や、物語を描くにしても。)や、船が波に揺れるような感覚が、見事に共通しているのである。多分、テンポ設定は幾分、遅かったであろう。そうでなければ、それほど豊かな想像力が働かない。多くのピアニストは、この作品がもつ動的な魅力を如実に感じさせようとして、大事なポエジーのもつ内的な表現力を無視する結果となっている。アチュカロはそうしたイメージを幾重にもわたって掘り起こし、作品にまったく新しいイメージを与えることに成功していた。もっとも、これはアルベニス自身がハッキリと譜面に書いていたはずのものなのである。

スペインの人たちの特徴を示すものとして、信仰も重要だ。イベリア半島には、ピレネー山脈の向こう側よりも長く、イスラムの支配と影響がつづいた。エル・アルバイシンのあるグラナダには、有名なアルハンブラ宮殿があり、イスラム時代の遺産が大事に保存されている。レコンキスタの波のなかでも、スペインの人たちはこうした遺産を取り壊すことはしなかった。もっとも、スペインはイタリア、フランスと並び、カトリックの熱心な土地柄であり、アジアや中南米への熱狂的な伝道で知られたイエズス会も、スペインの発祥である。坂の多い街「エル・アルバイシン」は『イベリア』のなかでも、異国情緒のゆたかに漂う街と思われるが、アルベニスはそれを逆手にとり、宗教旋法を鍵にして、街を取り巻く神秘的な雰囲気を我がものとして表現しようとしたようである。

アチュカロは通常の演奏とは、まったく異なる作品のシェイプを彫りだし、悠然とした街の風格をイメージさせることに成功している。耳に残るのは、ゆったりと、静かにこだまする宗教的な響きだった。この頃には、アチュカロの示す音色の、独特な薄い広がりにも気づいていた。彼はひとつの音を点ではなく、面として表現することができる。あとで浜離宮朝日ホールのページを見てみると、指揮者サイモン・ラトルの言葉を引用し、「ピアノの音がレガートとなって、あたかも溶け合い膨らんでいくような感覚にさせることができる」として、このことが表現されていた。私などがラトルに楯突いても無駄な話だが、私はアチュカロの示す妙技をして「レガート」という感覚には、やや首を傾げざるを得ない。私はこれに代わって、ショパンの楽譜を例にした方がイメージがしやすいかと思うのだ。ショパンはかなり長いフレーズを、スラーでつないでいたりするからである。パヴェウ・カミンスキ教授は、これをテンポ・ルバートで表現するべきものとして説明していたが、アチュカロのような表現もまた、そうした記譜法にぴったりと嵌まってくる答えのひとつのように思われるのだ。

【最後に】

ところで、テンポ・ルバートもまた、単純性と複雑性をつなぐキーワードのひとつだ。単純さといっても、そこにはまた、複雑なグラデーションがある。旋律の単純さ、繰り返し、オスティナート、トレモロのような単純で、素朴なムーヴメントが、人々の知性や感性を刺激する複雑な波をどのように引き起こすのか。アチュカロはその見事なメカニズムを、空間のなかに浮き彫りにしてみせた。ショパンはそうしたことの魔術師であり、ごく単純な素材と、その組み合わせによって、作品に無限の可能性を与えることができた。その手腕は、後世の多くの作曲家によって模範とされるが、アルベニスもそのひとり(もっとも濃厚な)であって、演奏の2曲も海と関連が深く、波や揺れのイメージがルバートによって、見事に捉えられているのがわかる。

アンコール・ステージでは、スクリャービンが素晴らしかった。『左手のための2つの小品』の夜想曲(op.9-2)は、オーケストラのコンサートでも弾いたようで、アンコールのアンコールとなったようだ。左手1本で弾く作品は、正に単純性の極致といえるが、、その作品が本当に単純なものとして、聴き手に受け取られることはないだろう。彼がこの作品で、最初の3つの音を弾いたとき、私の涙腺はついに崩壊した。私が自分勝手に設定したテーマが、これほど見事に解かれるとは想像もしていなかった。それにしても、なんと素晴らしく、ふくよかな響きだろう!彼の演奏は、ピアノをまったく別次元の楽器へと変えてしまうのだ。あんな音がどうして出るのだろうか!

この日の演奏会はマチネだったが、アチュカロは、夜や暗がりを意識した作品を多く取り上げた。ノクテュルヌ、ナイチンゲールといったようなものだ。これはスペインといって、まずイメージされるような熱い太陽とか、情熱的というキーワードに反している。もしも、それだけがスペインのすべてだとしたら、国籍がどうであろうと、アチュカロは決して、スペイン音楽に適した弾き手ではない。彼の音楽は、やんわりと内に染みてくる。そして、いちど染みた以上、もう決して引き離されたりはしないものだ。彼のつくる音楽は、数日のプローヴェだけで、もはや音楽の真相に迫れると仮想する現代の音楽シーンとはまるで無縁である。彼は多分、聴き手にそれほど簡単に理解されるとも思っていない。だが、そのために表現のレヴェルを押し下げ、わかりやすい魅力をつくろうとは考えもしないのである。彼はただ、自分の信じる音楽に没頭する。そして、それについてきた人たちがいる。そこに、彼の名声が生じたのだ。

闘牛やフラメンコ、FCバルセロナ、あるいは、フェルナンド・アロンソのような存在だけが、スペインなのではない。「エル・アルバイシン」に描かれていたように、アチュカロの描くスペインとは、もっと静かで、落ち着いた場所かもしれないのである。

【プログラム】 2018年9月20日

1、バッハ/ヘス 『主よ、人の望みの喜びよ』
2、ベートーベン ソナタ第10番
3、ショパン 幻想即興曲
4、ショパン ポロネーズ第6番「英雄」
5、モンポウ 第1番、第9番、第7番「星でできた棕櫚の葉」
         ~『12の前奏曲』
6、グラナドス 嘆き、またはマハと夜啼き鶯~組曲『ゴイェスカス』
7、アルベニス/ゴドフスキ タンゴ~組曲『スペイン』(op.165)
8、アルベニス エル・プエルト(港)、エル・アルバイシン(坂の多い街)
           ~組曲『イベリア』

 於:浜離宮朝日ホール

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