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2016年9月10日 (土)

神田慶一 歌劇『青い海よりおおいもの』 国立オペラ・カンパニー「青いサカナ団」 9/3 (初日)

【オペラ・シンフォニア】

クラシック音楽は、筋書きのあるドラマだ。何百年にもわたって、誰かがそれを大切に守りつづけてきた。もしもそれが演劇だとするなら、台詞、演じ方も、舞台装置や演出のあり方、間の取り方に至るまで、数百年の歴史のなかで受け継がれてきたものが確かにあるはずだ。新しい時代の人々はそうしたものへの敬意を払いながら、できるだけ丁寧な再現を試みることで芸術家として認められている。こうした態度はオーセンティック、あるいは、オーソドックスと呼ばれている(後者は批判的な意味でも使われる)。一方、ピエール・ブーレーズは歴史的なものの権威に胡坐をかき、博物館で大切にしまわれた宝物のような姿で、伝統音楽があることを強く否定した。現代では、オーセンティックなあり方を守りながら、芸術家が独自の個性で伝統にぶつかり、これを刷新するという考え方と、時代と対話するなかで生じる、まったく未知の領域を切り開く表現という考え方が融合し、これらのグラデーションのなかで、理想的な創造と再現のあり方が模索されている。

加えていうなら、そこには受け手の問題が決して切り離せないまま、残っているのだ。表現者が望むものと、受け手が望むものは、必ずしも一致しているわけではない。私は(文学的な)クリエーターのこころをまだもっているとは思うが、いまのところ、才能があるかどうかは別として、それをハッキリと表現する意思や行動力に欠けており、基本的には受け手の側に立って考えることが多いという情けない存在である。まして、音楽に関してはなにもわからないが、その愛好家として、それなりに経験は積み重ねてきたことを過小評価するつもりもない。私の狭い経験では、聴き手にとってもっとも喜ばしいのは、自分がこうと思うイメージを体現してくれる音楽家に出会った場合であり、そのときの快感はいうに及ばず、大きいものである。しかしながら、体験上、私のクリエイティヴなアイディアをより強く刺激してくれるのは、自分の予想を裏切って、なおかつ、こうであらねばならぬと思わせてくれたアーティストに出会った場合なのである。

オペラ・クリエーターとしての神田慶一と、その仲間たちが成し遂げてきた仕事は、私の知的創造力にいつも多大な潤いを与えてくれる存在だった。だが、今回の歌劇『海の青よりあおいもの』は、かなり予想を裏切る作品だったというほかない。数個の大モティーフを構築し、これを小モティーフと連携させて、構造的に配置していったオペラは、これまでの作品よりもいっそうシンプルで、シンフォニックな構造をもつ作品に仕上がっていた。交響曲といっても、それはベートーベンのような威容に包まれた作品ではなく、最初期のまだ、形の定まらない小さな交響曲(シンフォニア)である。素材は十分、味わうために噛み砕かれたあと、戸棚にきれいに並べられるばかりで、素材と素材の融合は最低限のレヴェルで達成されるが、終幕も日常のなかでおわっていくように、最後の合唱で静かに締め括られて、その形式を閉じる。一瞬、拍子抜けするほどなのだが、これがじわりじわりと香ってくる面白みがあった。

【役割の分散】

作品には人魚姫伝説、ギリシアのオルペウス神話、芥川龍之介の短編小説『蜘蛛の糸』、森の木々にロープを張って迷子にならないようにする子が登場したグリム童話か、なにかのはなし(題名がわからない)などが融合している点で、前作の『ラプンツェル-3058』との共通点も見出せる。しかし、例えば「人魚」は主人公の男性による思い込みに、周りの人たちが話をあわせて乗かっることで、皮肉にも生まれる仕掛けになっており、ほかの素材にも少しずつ興味ぶかいずらしがある。今作ではヒロインとなりそうな人魚姫が空想のなかでしか現れず、その役割は3人の女性によって、別々にシェアされていた。「アオイ」もしくは「ナギサ」と呼ばれるショ-・ガール、主人公の妻だった(死んだ)女性「ナミ」、そして、異世界へと通じるトビラのキーマンでもあったバーの女性経営者「エマ」の3人である。

これまでの神田作品では、こうした重要な役割を担う女性がひとりだけ存在した。『あさくさ天使』のユメコや、『僕は見た、こんな満開の桜の樹の下で』のサクラが、その典型的な存在だ。清純であるにしても、悪意的であるにしても、こうしたキーマンと主人公との衝突こそが作品のモティーフの中心を占め、大抵、恋愛的な情念と、人の意志や自立性、自由といったようなものが抜き差しならない関係として、組み合う姿が中心に描かれてきた。しかし、今回はその役割が分散されることで、非常に穏やかな雰囲気がつくられたといえるだろう。アンチ・クライマックス的で、これといった感情の極点がない。オルペウス同様、異世界から妻を連れ帰ることに失敗して、主人公が失明したあとは、おもむろに元の世界へと帰ってくる。この話は結局、ナギが閉じ込められたエレベーターのなかで、たまたま居合わせた人に語ったエピソードにすぎないし、もしかしたら、すべてが幻想で、嘘なのかもしれない。だが、目の見えなくなった人がそこにおり、「クジラの唄」も確かに聞こえてくる事実だけは消えないというわけである。

いずれにしても、ナギの特異な体験は彼の人生観を一変させるには十分なものだが、これまでの主人公たちと比べて、彼の苦悩は若干、穏やかなものに止まった。ヒロインを殺したり、その日、演じた舞台を構成した環境のすべてをぶっ壊すという必要がないのである。

【武満の言葉が実を結んだクジラの唄】

ところで、「クジラの唄」は作曲者にとってウン十年も昔、大先達の武満徹と交わした話がきっかけになっているということだ。神田青年は武満に対して、オペラをつくるとすれば、どんなものを書きたいかと訊ねたところ、「クジラが歌う唄でオペラを書いてみたい」と言ったそうなのだ。残念ながら、その発想が実現することはなかったが、ウン十年後、青年をその言葉のとおりに動かしたというのは感動的な話だろう。私はハッキリと断言できるような力をもたないが、このクジラのモティーフは、作品の重要なモティーフからクラスタを集めて、テクニカルに完成したものである可能性が高いかと思う。歌詞はいまいちよく聞きとれず、あるいは、無意味な母音を組み合わせただけのものかもしれない。もっとも、このクジラの唄はしばしば、言葉をもつ登場人物の歌声と重ねあわされ、あたかもクジラが歌っているような幻想を抱かせるのである。

音楽の重ね合わせの効果は、近年、神田とサカナ団が積み重ねてきたような活動とも密接に関係して表現されている。鍛え上げられたプロの発声の良さと、そうではない(練習は積んでも)素朴なアマチュアの発声の良さが、上手に組み合わされて表現されている近作の神田オペラだが、この作品ではそもそもの発端となる子ども時代の逸話を語る場面で、プロ歌手のうたう大人のナギ&ナミと、ジュニアの演じ手がうたう子ども時代の2人(女の子のほうは必ずしもナミと同一人とは限らないが)の姿として、印象的に対比されたのである。

【世界観と歌手(キャラクター)の構成】

時代は近未来的だが、一方で、時代が退行していると見えるような描写もある。例えば、2つのサッカーチームのサポーターが集うバーでは、小さなラジオを囲んで、ナギを除く、ほぼ全員が一緒になって試合の様子に耳を傾けている(ラジオは壊れやすく、コツさえ知っていれば、簡単に直せる)という具合だ。社会的にはテロリズムが横行し、頻繁に爆発事件などが起こる状態になっている(いま、中東や欧州で起こっていることが近未来、日本に上陸したとしても驚きではない)。そのなかで、ナミは街のカフェにいて、爆発事件に巻き込まれて死んだという設定であった。

もっとも、神田は我々が生きる世界と死後の世界の間に、「アガルタ」という中間の世界を設けて、そこで時が満ちて、人々が去っていくまでは、生前の考え方や姿を保っているようにした。皮肉にも、先に示したような世相のなかで、アガルタの住民は増える一方だ。住民は白いシーツを衣服のように被り、キリエ・エレイソンをうたっている(日本の死者がなぜ、ラテン語でキリスト教の神に帰依しなくてはならないのかはわからぬ)。その管理者で、鍵を握っているのが、実はナギの行きつけのバーの女主人という具合になっていた。

ここで歌手の構成を考えてみる。まず、主要役のナギ(岡戸淳)とアオイ(岩田有加)はニュートラルな表現で、作り込まれていないわりに、それぞれの個性が出やすいタイプの歌い手である。岡戸はコミカルな役を中心に、早くから神田作品に出演をつづけており、岩田も近作は連続して出演しているが、今回、いよいよ主役格に上り詰めた。彼らの歌を聴いていると、技術云々というよりも、まず、作曲家が書いたものに忠実な形でうたうことが、歌劇の素材について、どれほど意味のあることなのかを教える結果となっている。岩田はあわや人魚役を歌うところであったが、実際には、歌の得意なコミュニケーション力の高い水商売の女として登場した。お水の女性は、上手に男の話題に調子を合わせてくれるので、彼女のいうことも、どこまでが本気なのかはわからない。そのこと自体が、ひとつのモティーフになっていたのかもしれない。岩田はショートパンツ姿に変装した場合、驚くほどスタイルが良く、背中からのシルエットが際立って美しいのは歌手ならではのことだろうか。

一方、装飾的な役として、ナミ(蔵野蘭子)、エマorバーの女主人(畠中海央)、そして、アオイを追うシャチ(高柳圭)という三役が注目されるところだ。もっとも蔵野は今回、岡戸や岩田のスタイルに大分、近づいた表現を主体にしていることで、これまでに出演した神田作の舞台で、いちばん、よく背景に馴染んだ演唱になったと思われる。その代わり、彼女がいつも担当していた存在の重さをカヴァーしたのは、畠中という歌手であった。特にアガルタのマダムとしてうたう彼女の芯の強い歌声と、鋭い演技力には敬意を払うべきだろう。神田作品への出演は恐らく初めてだが、技術さえあれば、誰でも最初からできるというわけではない特殊な世界にあって、驚くほど馴染んだ演唱だ。蔵野と畠中がいれば、どんな作品でも立派に表現ができあがるだろう。オルペウスの黄泉下りのような試練に挑むと決意したナギに、酒盃を高く掲げて献げる畠中の振る舞い方は、私にとって、すべての場面のなかでもっとも印象ぶかいものとして、こころに残った。

シャチは店の社長から金を奪い、逃げたナギサ(アオイ)を追う店の実力者だ。普段は女たちのスカウトを担当し、ブラックバイトの店長のように、若者たちの高い意識を誘う言葉によって、魅力的な「商品」を集めるのが主な仕事となっている。性格は粗野で、自分勝手。考え方もろくでなしだが、ナギの思い描く人魚のエピソードに沿って話すところなど、可愛げのある表現も。彼の人間性は、擬似的なルバート(つまり、表現者が自由につけるのではなく、予め楽譜に書かれた=プログラムされたルバート)で表現されている。彼は欲情や保身によって人間性を歪ませ、本来、もっているコミュニケーションや洞察の力、人間的な魅力が欠点に変わってしまい、他人の痛みを感じない行動をとるようになってしまった。これまでの作品では所谷直生が歌っていたような役で、彼が歌っているところも容易に想像できるが、この役にもテクニカルな表現力が求められた。高柳は中途半端に高い音の表現が異様に巧く、まだ技術的に完全ではないものの、ときに歌の鋭さがあって、キャラクターが濃く、ゆたかな素質を感じる歌い手だ。

【主要モティーフとその関係】

主要なモティーフは、作品的な主題と関係して、確か3つである。モティーフⅠは外題にもなっており、「海の青よりあおいもの」が見たいというナミの願望から来ている。これは子ども時代、ナギが味わった悔しさと通じており(海の水を汲んでも、その青さは再現できず、海の素晴らしさについて言葉だけで語るのは難しい)、反面、彼の一途な想いを慕いながら、いつまでも自分の殻に閉じこもって出てこない夫に対する苛立ちを表現するものでもある。この詩的なモティーフはナギ、ナミ、子ども時代の2人、そして、アオイによって共有されている。同じモティーフを別人がなぞることで、少しずつクオリティが変移していくところも興味深かった。

これに対して、ほかの2つの大モティーフが対置される。1つは未知なるものを怖れず、時が満ちるのを待てと命ずる哲学的なモティーフである。これは神田のような創作者、歌い手や管弦楽のアーティスト、それに、観客が真に共有しなければならない重要なモティーフでもあり、人々の関係性に直接、響いてくる内的なメッセージだ。作品では最初にナギがそれを仄めかし、「アガルタ」のエマがそれを完全な形で初めて口にする。彼女はその言葉をびっしり決めると、一瞬、ドヤ顔をつくるあたりに可愛げがある。以後、様々な形で変容し、作品全体を熟成させる役割を果たした。モティーフⅠがいわば懐古的な、内省的な詩情であるとすれば、このモティーフⅡはそこから外へと開かれるエネルギッシュなモティーフとなる。

このモティーフを支えるのが、海の底のトビラのモティーフだ。これは巧みに隠されながら、ナギの、アオイとの最後の場面で、劇的に開放される。幼時、海で溺れたアオイが開こうとして、仲良しのイルカたちに止められたという冥界への入口。言葉遊びで、「溺れる」ところなら、海でなくともトビラはあり、ナギにとっては、酒に溺れるバーこそがそれであったという設定になる。トビラのモティーフは、神田作品によく登場する装置のひとつとなっている。『僕は見た・・・』では、ヒロインのサクラが演出する幻想の世界と、我らが生きる現実世界の鍵となっているのが彼女自身で、主人公が彼女を刺すことによって現実に戻れるという仕掛けになっていた。また、『おわらない夏の王国』でも、開かずのトビラが子どもたちを閉じ込めることになっており、これら居心地のよい世界を捨て、人々がそれを意志の力で打ち破っていく瞬間は、その先にどんな悲劇が待っているとしても美しいというのが、神田作品の多くに共通するモティーフとなっている。しかし、扉を開けることは、何らかの別れをも意味していたのだ。

旧作と比較すると、今回のトビラは若干、意味が異なっているのかもしれない。このモティーフⅢは現代のオルペウス=ナギにとっては、それまで生きてきた世界を超越して飛び込んでいく異世界への入口である。トビラを潜ったあと、オルペウスが失敗し、罰を受けることは多くの人が予感するだろうし、実際、そのとおりとなる。だが、その失敗の原因はオルペウスと同じ愛情であるものの、同時にシャチを筆頭とする周囲の欲情にも邪魔されている点は皮肉である。ある種の改変(グルックのオペラなど)では、オルペウスは超越的な力によって救済されるが、現代のオルペウスは特別扱いを望めない。ナギは目が見えにくくなり、依然として孤独なままだ。

【救済】

しかし、神田はこのオルペウスを別の意味で救済した。このような目に遭っても、ナギの内面は以前よりも安定しており、そのことを不思議に思う人もいたにちがいない。彼は他人に自分だけの思い出を語っており、そうしたことが可能な場合、その人は過去の悲しい思い出を既に克服していることになるだろう。反対に、以前の彼は行きつけのバーで、ママ以外には、爆発事件で妻を喪った自分の境遇を話していない。ところで、彼が成し遂げたことといえば、「アガルタ」にいたナミに、最後の絵を届けたことぐらいだ。そこには、「海の青よりあおいもの」が描かれていたというが、私たちも実際、絵を目にすることはできたのに、その意味はよくわからないままだった。海の青よりあおいもの?

だが、ナミは最後の場面でその絵を大事そうに抱いており、どうやら意味が通じたらしいようにみえる。最後の結末は、ナギとナミの間にしかわからない・・・そのように、作者がつくったという風に解釈する以外にはないのだろうか。そのことで、恐らくナミの時は満ちて、次の世界に渡っていけるはずだ。彼女こそが、クジラになるのかもしれない。もしそうなら、ナギが1万キロを隔てた遠くにいたとしても、いつでも彼女の唄を聴くことができるはずだ。失敗はしても、「アガルタ」で2人の想いは遂げられ、互いに時を満たすことができた。それだけに、ナギとナミはいずれも幸福そうに最後の場面を迎えているのだろう。

私は例の女主人がクスリを渡す場面でゾクッとして、涙が止まらなくなっていたものの、それでも冷然と舞台を見つめている自分が他にいるものなのだ。オルペウス神話と、カンダタの糸の組み合わせから、容易に先を読むことはできた。実際、そうなって、シンフォニーのように最初の素材が回帰すると、「これは神田さん、どうおわらせるべきか、収拾がつかなくなっているな」と感じる面もあった。大詰めの合唱がおわり、最後に絵を抱えるナミにスポットが当たって、多分、これで幕が切れるとは踏んでいた。でも、もうひとつ驚きがほしいと感じる自分もいた。私と同じ気持ちの人は多分、少なくなく、カーテンコールが始まるまでに舞台と客席にある種の緊張が走ったことは否めない。実際、幕は切れたのだ。期待は裏切られた。だが、この方が本当によいのだと思うまでに、それほど多くの時間はかからない。

【落語的なオペラ】

この作品の手法は演劇的、小説的ではなく、詩的なものである。最近の立川志らくのひとり芝居についての体験と引っかけてみた場合、落語的な作品とみてもよさそうだ。つまり、落語的というのは、筋書きやプロットが完結していなくてもよいということである。むしろ、話のアヤがつかないことが想像を膨らませるのである。

そのような意味でも、この作品は神田慶一と青いサカナ団にとって、また新しいステージの始まりとして、見ることもできたのではなかろうか。私はこの作品から、いくつでも新しい作品がつくれると思った。例えば、ナギとナミの結婚生活は、ナギが経緯(いきさつ)をうたうなか、若き日のナギを演じるパフォーマーとナミ役がマイムを演じ、ダイジェスト的に語られるという驚きの工夫があった。ここだけでも、2時間のドラマがつくれるはずだろう。ナミは夫の妙ちきりんなこだわりに辛抱強くつきあってきたが、「海の青よりあおいものがみたい」という彼女の問いに、いつまでも真正面から向き合わない彼に愛想を尽かして、キャリーバッグひとつを携えて家を出た(その問いは暗に、夫が求める答えがこの世にないことをわからせるためのものだったかもしれない)。ナギを捨てたのか、しばらく頭を冷やして戻るつもりだったのか、そのあたりもよくわからない。そのなかで、彼女は爆発事故によって不慮の死を遂げるのだ。

あるいは、少年時代のエピソードでも、2時間くらいの作品はつくれるだろう。どんなに青い海の水を汲んでも、青い水がバケツのなかに残ることはない。彼はどのようにして、少女に海の青さを伝えられるだろうか。それを考えるだけでも、私の想像力はどこかに旅立っていけそうなぐらいだ。もっとも、この話にはすこし頭をひねる点もあった。いま述べたように、青い海の水を汲んでも、海の水は決して青ではない。結局、海よりあおいものはたくさんあるのではないか?

プロットの問題よりも、この作品は音楽的に印象が深いということができるかもしれない。恐らく作者は、「クジラの唄」に相当の手応えを感じている。もしも、この作品(シンフォニック・オペラ)にコーダがあったとすれば、それは終幕の「クジラの唄」の合唱であったと思われる。ここには、すべてのキャラクターが参加しており、彼らが残した素材が少しずつボディを構成し、重ねられているように思われた。しかし、この作品の肝は、必ずしもそうしたところに求められるとは限らない。

暗転した舞台、前方席を削ってピット化したところから、短い前奏的な部分が始まる。音楽のクオリティはレハールを思わせる優雅な明るさと、どこかメランコリックで、土着的な風情をもっている。プッチーニ的ともいえる。もっとも全体的には、少しボルトが外れたようなバランスを中心にしており、こうした音楽が全編でつづくわけではないが、それでも、各場面で音楽面のゆたかさと、厚みは、ドラマの緊迫や、声楽的、もしくは演技的な熱の高まりと、同等に熱を帯びている。楽器編成は管楽器が厚めではあるものの、それでも各パート=単管編成にすぎず、弦楽器もコンマス&弦楽四重奏だけの構成でできている。小屋の小ささを割り引いたとしても、この編成であれほどのインパクトある響きをオペラに、じっと連れ添わせる発想はなかなか真似ができないものだろう。こうした作品では編成に鍵盤が残る場合も多く、この作品にもキーボードが使われているものの、その手助けもあまり目立つものではなかったから、尚更、賞賛に値する。

プロローグの前奏部分と同様に、第1幕第2場で、ナギとアオイが出会う場面の最初にも、夢見るようなヴァイオリンとフルートの二重奏から、徐々に楽器を加えて、イメージが膨らんでいく聴かせどころがあった。これらのほか、この作品には従来の作品よりもスムーズに、音楽的に立体性を増す部分が多く、しばしば耳を惹く瞬間があった。それらのご褒美として、最後に「クジラの唄」が生まれたというわけであろう。

神田作品には、盗人にも五分の魂がある。シャチは相手をからかう意味もあろうが、ナギの空想的な話にのって、相手を納得ずくで黙らせようとしたり、乱暴な子分を押し黙らせて、バーのママの顔を立てたりしようとする場面が、とてもチャーミングに映った。「アガルタ」の管理者エマも秘密結社の親玉のようで、実は悪役のひとつだろうが、相手を巧いこと言いくるめると、先に述べたように得意な表情を一瞬みせたりするのが可愛らしかった。この作品のヒロインと見えた「人魚」アオイも、実は悪玉といえる。うまく話を合わせて、ナギのことを利用する。最後は一瞬、ナギの純粋さに改悛の情もみせるものの、結局、大金をせしめた若い恋人と逃げていくのが描かれる。断じて、人魚などではない。しかし、ナギと触れあうおかげで、彼女の奥底にしまい込まれていた人間性が輝き、あの素晴らしいステージへと通じ、ナギにトビラを開かせ、最後のチャレンジへとかき立てる役割を果たす。彼女の素晴らしさを見抜く、悪辣なシャチの洞察力も引き出してみせた。

結局、人間が人間を照らし、それがすこしだけ幻想の月に照らされるだけで、まるでちがう人間に変わっていくこともあるという発想が凄いのだと思う。今回の作品は、特にスーパーマンが登場しない作品だ。エマだけは特殊な力をもっていそうだが、彼女自身が意志をもって現実を動かすことはない。人魚もあくまで、イリュ-ジョンだ。そうした点では、旧作『アゲハの恋』にちかいクオリティを持っている(でも、アゲハは特殊な力をもっていた)。だが、ナギはいっそう普通の人間とみえる。絵は描くが、画家ではなく、「ペンキ屋」で、オルペウスのように優れた芸術家というわけではない。ファンタジーにファンタジーを重ねた世界のなかではあるが、当たり前に生きる、当たり前の人間なのだ。あるいは、すこし抜けているかもしれない。そのような面でも、落語的な作品だと思う。

【最後に】

もっとも落語は常に大衆文化として存在したが、オペラや交響曲といったものは、より大きなものを背負った伝統文化であったといえる。神田慶一の作品も、規模の大きな『あさくさ天使』で高い評価を受けたことで、その後の道はやや身の丈に合わぬものとなった可能性もある。佐川吉男賞受賞作の『あさくさ天使』の場合、地域を巻き込んだ参加可能なアート・プロジェクトとしての意義は大きかったが、その分、再演ができないという悩みに直面することにもなり、日経新聞の池田卓夫氏が応援につくなど協力はしてくれたものの、当時のような威容を再び再現できる見込みはいまも立っていない。もっとも、神田はよりコンパクト化した改訂版『あさくさ天使』を独自に再演しており、私もそれに接することができて、作品の素晴らしさを痛感することはできた。授賞直後の支援の厚みと比べれば、サカナ団の運営も落ち着いたものとなってきているが、もとの音楽仲間に新しく育成した市民グループの輪が加わり、この公演で新境地に到達した。

神田慶一という作曲家は、数少ないリソースで高い効果を狙える音楽をつくることができる。彼が用いる最高の楽器は人間の声であり、それを引き立てるシンプルでありながら、舞台の迫力を増す方法(バランス)が開発された。人間の声はプロとして鍛え上げられたものから、天然のクオリティを大事にしたものまで自由自在に扱うことができる。あくまで自分が書きたいものを押し通そうとした時代もあったが、現在はそれぞれがもっている声の持ち味を素直に生かす方向へと転じつつあるようだ。これも鍛錬された歌手たちが構成してきたオペラ芸術として、意味のある変革である。

神田は脚本家でもあり、演出家でもある。文学的な面で、神田の書くものは創意に満ち、こころあるものだが、音楽的なものほど完全とはいえない。例えば、この作品ではエレベーターの故障で2人が閉じ込められ、外部ともすぐに連絡がとれないことが話のアヤを成すが、現代のエレベーターでは外部連絡用のマイクが必ず設置されており、LTE&VOLTE時代においては、エレベーター内でもほとんどの場合、携帯電話の通話が可能である。それと、先にも書いたような海の青は、実は、それほどあおくないのではないかという疑問。序盤でやや破綻した設定がつづくのは、作品に良い影響を与えるとは思わない。もちろん、それだけによって、何かが損なわれたということはないだろう。ただ、私はそうした部分に目をつぶって、鑑賞したのだということはいっておく必要もあろう。神田作品では、こうした小さなエラーがいつも些細だが、弱点となっている。共に作品をつくる誰かが、指摘することはできないのだろうか?

それでも、私は素直に、この作品を楽しんだといえるだろう。これまで述べなかったが、アガルタでナミと一緒になる学生と教授のコンビの対比。シャチを死亡させる「アケミちゃん」こと、サトミの復讐劇などにも本来は言及すべきだった。彼らは皆、アマチュア(もしくはプロを目指す)の歌い手 or 演じ手で、ユーモラスな繰り返しの紋切り型素材を担当し、それが後段、プロット上も重要な役割を果たすという意外さを持っている(意外とはいったが、いずれ何かに発展することはミエミエだった)。この公演には、将来に夢のあるヴィジョンをもった若い素材が参加して、それが前向きなエネルギーとして舞台上に発散し、ヴィジュアル面でも華やかさを加えている。多分、彼らの存在は、客席を埋めるのにも貢献してくれるだろう。これまでサカナ団でも主役を歌った吉田弥、役者を目指す瀬口杏奈(公演2日目の9/4は設定どおりにリアル・バースデー)や、富田バラハス(モンゴル人)、横山美桜などは、SNS等を通じ、具体的な活動も窺われる。神田の作品には、そうした若い力の背中を押す効果も十分にあるだろう。

こうしてみると、サカナ団は、神田慶一を中心とする音楽仲間の集団から、まったく別のミックスをもったグループへと変貌しているのがわかる。ただ新しいオペラをつくるという、それだけではない創造力が加わっている。これは、力強い成功であろう。

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