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2016年10月 5日 (水)

小林秀子 va 室内楽演奏会 「ヴィオラの巨匠、ライナー・モークを迎えて」 9/18 @ムジカーザ

【欧州に腰を据える日本人】

この演奏会の中心にいたのは、ひとりの音楽家だった。小林秀子はドイツで、ヴィオラ協会の会長にまで上り詰めたステイタスの持ち主で、その見識と技能、それに人望の高さには疑うべきところもない。彼女の師はライナー・モークであり、カラヤン時代のベルリン・フィルで一時期、首席奏者を務めた実力者だが、程なく生地のケルンに帰って、後進の指導に喜びを見出すこととなった。小林もドイツのマンハイム音楽大学で、教授職を務めている。その弟子のひとりがこの日、ヴァイオリンを弾いた白田照頼だ。そして、第1ヴァイオリンを弾いたのは、小林の夫で、ダルムシュタット国立歌劇管で長年、コンサートマスターを務め、室内楽でも活躍するヤツェック・クリムキェーヴィッチ。東京フィル首席チェロ奏者の金木博幸が、我々にとって、もっとも身近だが、彼は小林の日本における学友である。

一般的な知名度にかかわらず、欧米で活躍する日本人の音楽家も決して稀ではない。彼らの内情についてはわからぬが、向こうで応分の活躍がみられても、結局、日本に帰ってきてしまう人も少なくないところをみると、愛国心もあるにはあろうが、その暮らしぶりが決してラクではないことを物語っている。自分ひとりならまだ良いが、子どもの養育、社会保障、医療などの点において、ドイツやオーストリアといった先進国であっても、なかなか日本の手厚い社会的サーヴィスに及ばず、外国における差別的な偏見や、慣習、文化のちがい、それに宗教などの問題が絡むと、難しい問題もあるはずだ。日本で教職などの安定した地位を得られる期待がある場合、選べる仕事が多い欧州での暮らしぶりより、日本での生活のほうが割に合うというところはあるのかもしれない。

例えば、声楽家の甲斐栄次郎はウィーン国立歌劇場で10年あまりも歌い、当たり前のように、主要役を占めてきたバリトン歌手だが、2013年に完全帰国した。彼の地位は声楽家として、誰もが簡単に得られるものではなく、それを捨てて、甲斐が日本に戻るということは驚きだった。その理由としては表向き、ある程度、主要なレパートリー・ロールを演じきったということと、子どもの教育について挙げている。アルテンブルク・ゲラ劇場でながく歌い、日本人として初めて「ドイツ宮廷」歌手の称号を得た小森輝彦も、授賞から間もなく、日本に帰ってきている。彼も震災後、祖国のために何かしたかったという理由とともに、子どもの教育について触れていた。だが、オーストリアやドイツの教育が、それほど悪いものとは思えない。例えば小森が信奉するらしいシュタイナー教育の総本山は、もちろん、ドイツにあるわけだ。

日本において、声楽家はもっとも成功しにくい分野だと思う。常設の歌劇場が新国立劇場しかなく、しかも、そこでは外国人歌手を中心としたラインナップが組まれ、あとは同業者組合的な2つのカンパニーと、教育機関による公演、地方組織主体の市民オペラ、オーケストラ公演に組み込まれた機会、それに市民合唱団の主催する公演が、彼らの活躍できるほぼすべての分野なのである。これらの団体は横の連携も稀薄で、演目にも偏りがあるし、知名度やコネクション中心の起用になってしまう問題もありそうだ。このような環境をもちろん、私以上に理解しているにもかかわらず、実力ある声楽家が日本に戻るには応分の理由がなくてはならない。

現実的な事情を乗り越えれば、まだまだ、欧州に釘付けになっている音楽の秘密は確かに存在するだろう。音楽のインターナショナル化という潮流のなかでも、その秘密をまだ、大事に守っているガーディアンたちの存在があることを忘れてはならず、その一部が日本人であるとしても、なにも驚くには当たらないだろう。インターナショナル化は当然ながら、ローカルを打ち消す方向に作用するのだが、反面、より多くの背景をもった人たちが秘密にアクセスできるようになったことを示しているのかもしれない。私たちがドイツらしいと思うゴツゴツして手応えに満ち、腹の底から発する分厚い響きをもったアンサンブルは、いま、ベルリンのような都市では体験できないのではないかと思う。名声の高いオーケストラではバイエルン放送響のようなオーケストラだけが、奇跡的にその命脈を保ち、いくつかの歌劇場管が最後の砦となっている。

【ドイツ音楽の特徴】

もっともドイツの音楽というのは、さすがに奥が深い世界をもっている。その秘密を容易に知るためには、現代の巨匠の助けを借りなければならぬ。例えば、インゴ・メッツマッハーの録音による『ヴォツェック』を聴くと、その言語(シュプレヒシュティンメ)のなかに、ドイツ音楽の秘密を濃厚に感じることができる。そこにはステロータイプ的な朴訥で強い響き以外に、しなやかな洗練があり、透明さがある。数十年前のN響の響きを聴くと、なるほどドイツ的に厳しく仕込まれた音の伝統を感じるが、それにしても、後者の部分が著しく欠けていることに気づくのだ。カラヤンはそうしたものをノーブルに、厳しく仕上げる天才であって、オイゲン・ヨッフムは、より柔らかく明るい響きで仕上げることに長けている。ヨッフムの響きは、どちらかというとウィーン風である。これら2つの路線のグラデーションのなかで、ドイツの音楽は練り込まれ、強調されてきている。

この日のアンサンブルは、モークがカラヤン指揮下で弾いていたことが象徴的である。図太く、身体(もしくは楽器)の芯から響くような音でありながら、一本調子ではなく、実に柔軟な歌いこなしがあり、ときにブリリアントな輝かしさを放ちながら、ベートーベンとブラームスのプログラムを緻密に練り上げていた。ベートーベンの音楽は、特にその輝かしさが必要な音楽だ。往時のライプツィヒ・ゲヴァントハウス管はフランツ・コンヴィチュニイ、ヴァーツラフ・ノイマンといった指導者の下で、そうしたものを体現し、さらに、美しい信仰心で練り上げた極上の音楽を聴かせていた。1960-70年代は巨匠の時代といわれるが、それ以上に、オーケストラの個性が際立っていることは後世(に聴く録音)からも容易に窺えるほどだ。ライプツィヒとドレスデンでは、同じ作曲家の作品でも、まったくちがう音楽が鳴っていたのである。北へ行くほどに厳しく、海に出ると柔らかくなり、反対に南へ下った都市ではウィーン=プラハの文化的影響を受けて、明るめに響きが開かれていくのは面白い現象だ。

その意味で、ゲヴァントハウス管は正にドイツの憧れだったであろうし、ドレスデンは異質な文化的交差点であったと想像できる。現在、その威光は薄れてしまってはいるものの、例えば1930年のゲヴァントハウス管のカペルにはブルーノ・ワルターを頂き、コンマスにシャルル・ミュンシュ、ヴィオラにフランツ・コンヴィチュニイ、オーボエにはルドルフ・ケンペを擁していたという具合である。

【内面性を抉るべートーベン】

さて、この日の曲目はベートーベン(op.29)とブラームス(op.111)が1曲ずつで、演奏時間はトータルで1時間にも満たない。しかし、それは弾き手にとっても、聴き手にとっても、決して短時間ではなく、内容が詰まっている。2つの演目は、それぞれの作曲家が人生の重要な地点において書いた作品(しかも、その後、再び切り返して創作を活発化させる)という点で、共通する部分もあった。ブラームスは当作品をもって断筆を覚悟したが、程なく素晴らしいクラリネット奏者と出会って、こころを変えた。ベートーベンは耳の障害がわかって哀切になる気持ちから立ち上がり、最初の交響曲を書いて、プライヴェートには新たな恋路にもつくという扉が開かれたときの傑作である。もっとも、ベートーベンが青年期の若々しい時期にあったのに対して、ブラームスは晩年に入っているので、そのコントラストも演奏に反映している。

例えば、ベートーベンは第3楽章に敢えて、ハイドン風のスケルツォを入れていて、終楽章の斬新さに背景を与えているが、その極点でおもむろにモーツァルト風の穏やかな曲想を挟み込んで、これを跳躍台に最後のシーケンスで改めて形式の昇華を試みている。ハイドン、モーツァルトの時代を「部屋の中」とすれば、正に扉を開くような構造が目に浮かぶようだ。ベートーベンの得意な「タタッタラー」というフレーズの3拍目に強いアクセントを置く舞踊的モティーフが、難度もドアを叩くように繰り返され、作品のイメージが象徴されている。生演奏ということもあるが、尋常ではない深彫りで、当夜の5人はこの作品のもつ内面性を立体的に抉ることに成功した。

【最高に輝かしく神聖な響き】

一方、後半のブラームスでは、どのフレーズにも内的な衝動に基づく詩的なモティーフが寄り添っており、彼らの演奏は、ブラームスの配置した音や、その重なりがもつ真の声(意味)を聴かせてくれるのである。第2楽章、弱奏で表現されるポルタメントから、まったく別の形式が隆起し、ねじってねじったあとに生じる深い宗教的テーマは、ブラームスの音楽の、正に核心にあるものだろう。この作品は元来、交響曲として構想されたともいわれるとおり、第1楽章は冒頭のチェロを皮切りに、各声部が堂々たる威風を示し、全体のバランスも素晴らしくて、スケール感に溢れていた。第3楽章は得意のヴァリエーション的とも聴こえるが、そのわりには短くおわる点が興味ぶかい。

そして、最初の楽章と対を成す終楽章は、もはやベートーベンのように新しい扉を開くには至らないものの、最高に輝かしく、神聖な響きをもっている。クリミキェーヴィッチのヴァイオリンの響きはやや上ずる感じもあったが、ほとんどヴィブラートがなく、あるいは、瞬間的な音のふるえが有効に使われて、天使のソプラノを聴かせる。一方、それよりも洗練された白田の弾くヴァイオリンの透明さについても、私は強調しておきたい。終幕の5人のダイアローグは奇跡的な美しい結合によって、ユニゾンのような味わいになった。終盤にいくほど、ヴィオラ2本の存在感が高まり、こうなると、チェロも形なしだろう。しかし、このことによって、かえってチェロの役割がよくわかるのかもしれない。この楽器の響きが消えるとき、アンサンブルは最高に美しく、一体化しているのである。

アンコールは、抒情歌の『故郷』と『赤とんぼ』を順につないだ、この日のための編曲が演奏された。モークからクリムキェーヴィッチのソロにつなぐ『故郷』と、モーク&小林の師弟によるヴィオラ二重奏から始める『赤とんぼ』の前奏部が、夢のような雰囲気だ。特にヴィオラ二重奏は凄かった。

【補足】

マニアの集うところと聞いていた「ムジカーザ」に、私もとうとう足を踏み入れた。多分、設計者が同一で、やなか音楽ホールと似ており、スタジオ風に内装がむき出しだが、階段を配して狭いスペースを立体的に用いることで、スタイリッシュな空間に仕上げている。今日は平土間だったが、上階にも麗しい響きが届くであろうと思う。

この日の演奏について、本当に伝えなければならないのは、その響きの素晴らしさだ。このメンバーが頻繁に集い、十分な磨き上げを積んでいけば、さらに透明さは増すだろう。しかしながら、今回のパフォーマンスでも、彼らの伝えたいものを実感するには十分すぎるほどである。私は最近、ドイツ音楽の表現に関する神髄に触れるいくつかのパフォーマンスに触れてきたことから、その総決算として、この公演があったことに無類の感動を覚えた。そして、当記事の半ばは、私の抱くドイツ音楽に関するイメージを表現するものとなった。残念なことに、今、そうしたクオリティはドイツのどこででも、体験できるものではなくなってきていると思われるだけに、彼らの演奏はいっそう貴重なのである。

「日本人が?」「なぜ?」「ここで?」

そのように問われつづけたであろう人たちが、ドイツの誇りとみられるような音楽に現在、もっとも近い位置にいるという事実が、ゲストのモーク氏によって照らされる。小林のいるマンハイムは大都市ではないが、教育が盛んな大学都市に指定され、特に河川交通の要衝、工業を中心とする産業も発展。NATOの軍事拠点でもあるという土地柄だ。歴史的にはいわゆる「マンハイム楽派」の拠点として知られ、ここからハプスブルク帝国などの宮廷に、多くの音楽家が送り込まれた。その伝統が時代を通じて、まったく途絶えなかったとはいえないだろうが、音楽大学は1971年には再び国立大学に指定されて、権威を回復している。むしろ、国立化が遅れたことで、独特の古さが残ったのかもしれない。その間も、マンハイムからはドイツその他の主要なオーケストラ、劇場に人材を送り込んできた実績があり、日本からの留学者も少なくないようだ。小林はいま、そこで指導に当たっている。

長きにわたる誠実な取り組みに敬意を表し、改めて感謝の意を表したい。

【プログラム】 2016年9月18日

1、ベートーベン 弦楽五重奏曲 op.29
2、ブラームス 弦楽五重奏曲 op.111

 於:Musicaza (代々木上原)

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