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2017年2月19日 (日)

アンサンブル・ラ・レヴェランス フランソワ・クープラン リュリ讃 ほか 2/18

【太陽王ルイⅩⅣが支援した音楽家たち】

湯島の求道会館で、アンサンブル・ラ・レヴェランスの公演を聴いた。フランソワ・クープランのやや規模の大きな作品を中心に、リュリの作品のチェンバロ(クラヴサン)による編曲ものと、オトテールのオーボエ・デュオを組み合わせ内容だが、その背後にはひっそりと・・・否、堂々たる「太陽王」ルイⅩⅣの陰があった。畏れ多くも、彼はこのプログラムにはっきりと登場していたのかもしれない。リュリの放つフランス的香気と、アルカンジェロ・コレッリに代表されるイタリア趣味を媒介するアポローンの役として。「大クープラン」フランソワは、ややアイロニカルな興趣をもつオマージュ的標題音楽『リュリ讃』において、音楽と神話に関係づけ、彼の英雄リュリがアポローンによって聖地パルナッソス山に招かれ、もう一方の雄コレッリと邂逅し、新たにイタリア趣味を融合したトリオ・ソナタ『パルナッソス山の平和』を生み出すまでの様子を音楽にした。このアポローンがかつてバレエの踊り手として、その役を好んだという太陽王のことを指すのは明らかであり、クープラン、リュリ、オトテールらの支援者として、ルイⅩⅣの存在は欠かせないのである。

【アンサンブル・ラ・レヴェランス】

アンサンブル・ラ・レヴェランスは、オーボエの加瀬孝宏(東京フィル首席)を中心に、フランス・バロック音楽の演奏をターゲットに結成され、これが3回目の公演となる。ファゴット(バスーン)の福士マリ子(東響首席)、チェンバロの根本卓也(新国立劇場スタッフ)に、今回から京都市響のオーボエ首席奏者である高山郁子が加わった。

最初のF.クープラン『コンセール第8番「劇場風」』は、その高山の加入を祝うように、彼女のプリモでスタートした。この奏者の演奏を聴くのは初めてだが、いくらでも声量の出せる人で、最初はこの狭い空間のアコースティックで、やや突出した部分がバロック風に聴こえず、気になったものの、オーボエ奏者らしく耳がよいのか、程なく修正された。ラ・レヴェランスの特徴は役割が固定せず、全員が主役である点に求められるだろう。バロック・ルネサンス期の音楽の編成には比較的、縛りがなく、音域などに無理がなければ、役割の交代はわりに簡単であるという事情もあろうか。このコンセールは、パヴリックな空間である「劇場風」のニックネームからもわかるように、時代そのものを描く鏡のような作品だ。標題性を抜きにすれば、規模はメインの『リュリ讃』とそう変わらないレヴェルにある。厚手の曲集のなかには、この日、メインと見做された2本のオーボエを中心とする作品以外に、バスーンの技巧的なアリアも含まれており、豪華な鍵盤楽器の序奏を伴ったパートも存在する。

ラ・レヴェランスの編成には弦楽器が含まれず、主に通奏低音を担当する鍵盤楽器と、息を吹き込むリード楽器によって音響が構成される。オーボエとファゴット(バスーン)はフルートやホルンと並び、最古の管楽器のひとつであり、ともに時代の花形であった。『リュリ讃』でも大抵の録音は弦楽器を伴っており、それはアポローンがリュリに弦楽器を与える場面もあるので、自然なことだ。しかし、この日の編成はウインド楽器だけで、弦が振るえる感覚はクラヴサンだけにしか見出せない。しかし、そのために一際、目立つのはミュートを用いた1パートだ。オーボエはベルの部分にミュートを装着し、クラヴサンのほうではストップをかけて、弦楽器の響きを模す。この奏法はバロック期において、とりわけ特殊なものではないようだが、少なくとも私にとっては珍しい響きであった。しかも、他の部分において、弦の響きがないところで聴いただけに、いっそう鮮烈な味わいを残したのかもしれない。

ちなみに、この部分は第6曲で、リュリにアポローンからヴァイオリンが授けられ、その音楽や存在におののく人々が地底にざわめきを起こしたあと、描かれる「嘆き」の部分に当たっている。ストップの効果ではあるものの、ジャックと弦のエンゲージを程よく限定し、2本のオーボエとのアンサンブルのなかで印象的に聴かせる手法は、決して誰にでもできるような芸当ではなかろう。このクラヴサン奏者、根本卓也はこのプログラムの前座として、ジャン・アンリ・ダングルベールの編曲によるリュリの作品を独奏でパフォーマンスしているが、その演奏も目を瞠るものであり、リュリの多彩さと、その奥深い才能を端的に、かつ、激しくアピールするものであった。優れた鍵盤奏者であると同時に、多彩なマルチ・アーティストである根本の活動は新国立劇場の裏方としてのもののほかに、チェリスト山本徹とのF.クープランのコンセール全曲演奏についてのプロジェクトや、この日も友情出演的にナレーターを務めた文学座所属の女優、金松彩夏とピアニストを起用した谷川俊太郎の詩を用いたプロジェクト(作曲)が予告されており、今後も注目に値する。あるいは、ラ・レヴェランスの中心は彼なのかもしれない。

2人のオーボエ奏者はそれぞれの味があり、どのような経緯で結びついたのかはわからないが、音楽的な姉弟(兄妹?)のようである。しかし、先述のように高山が声量ゆたかなドラマティック・ソプラノのタイプであるのに対し、加瀬はよくバロックになじむ鄙びた音色を愛しているリリコの奏者といえるだろう。この個性ゆたかな家族に対して、常に私の耳を惹きつづけたのが福士マリ子の吹くバスーンであった。ラ・レヴェランスは弦を欠くアンサンブルのため、かえって旋律と対旋律の動きを追うにはわかりやすいのが特長だ。もっとも、その良さはオーボエの対角線上に浮かぶ旋律が、どれほどゆたかに響くかによって天と地ほどのちがいがあると思われる。福士はクラヴサンと平行してバッソに入るのでも、幅広い音域を自在に歌うのでも、かなり高いクオリティを示すことができる。タンギングの多いコンセール第8番の技巧的な場面も、そして、ふくよかに広い音域をうたう『リュリ讃』の見せ場でも、彼女は聴き手が息を呑むようなパフォーマンスを披露した。それも見事だったのだが、どちらかといえば、私は主役を譲り、後方でクラヴサンとコンビをつくり、かつ、きっちりと独立して、風景画のように、凜とした「背景」をつくる福士のパフォーマンスのほうに深い関心を寄せることになった。

【リュリとクープラン】

ところで、リュリの特徴とは一体、何なのであろうか。私には、その答えを的確に用意する楽識がないものの、ひとつには、彼が絵に描いたようなエリート層とはちがうところから生まれてきたことが大きいと思われる。粉挽きの息子だったリュリはほぼ独学で楽器の演奏法を身につけ、ときの権力者の気まぐれによって、信じられない栄達を果たしたようだ。当時の音楽家はJ.S.バッハやF.クープランが一族をなしたように、音楽家といえども、世襲の部分が多くを占めるものだった。バッハやクープランの一族と同じように、ベンダ一族、サント・コロンブ親子などが活躍し、トリッキーなところでは、画家の世界から音楽に展開したシャルパンティエ一族の例もある。創作的なところがつよい話だが、大バッハもブクステフーデの行き遅れた娘をもらっていれば、その後継となったであろうし、映画『めぐり逢う朝』(創作的な話ではあるが)では、マラン・マレが当時の権威であるサント・コロンブの娘に接近し、その業を盗んで地位を確立しようと画策していた。

翻ってリュリには、そのような縁は与えられず、別の偶然と気まぐれから、太陽王ルイにとって非常に近しい音楽家となった。このことの意味は、リュリがフランス宮廷に伝えられた音楽の規範から、比較的、自由に作曲できたことを表しているのかもしれない。

一方、クープランはリュリとは対照的なエリート宮廷音楽家の一族にあり、叔父のルイ・クープランの後任として、教会オルガニストになったりした経歴がある。彼自身は17世紀から18世紀はじめのフランスにおいて、後世のバッハのような役割を果たし、その百科事典的な教養により、当時の音楽世界を一時、総括する仕事を成し遂げた。彼は明らかに、リュリの音楽と存在を嘆く側にいるはずだったが、宮廷というよりは、教会の音楽家として成長したクープランにとって、熾烈な世俗的競争に興味はなかったものか、リュリの音楽の素晴らしさを素直に認めるだけの器量があった。クープランは2つのアポテオーズ作品を組み、そのひとつはリュリで、もうひとつはA.コレッリだったのである。そして、これらの融合を音楽的理想として掲げ、ライフワークとした。もっとも、クープランにはジャーナリズム的な風刺性もあり、それは既に示したとおりである。風刺といっても、自らがその立場にいることを自覚していたであろう彼からすれば、例えば「嘆き」にしても美しく語られねばならず、攻撃的な前衛主義とは一線を画すようだ。

根本によるリュリの独奏は、劇的で情念ゆたかな作品から、当時の風潮に沿った舞楽を挟み、再び劇的な作品で幕を閉じている。最後の歌劇『アルミード』のパッサカリアはルネサンス・バロックから現代に至る「パッサカリア」の系譜のなかで、もっとも典型的なものひとつであり、かつ、最高に魅力的な傑作である。アプローズとセッティングを挟んだものの、この曲から『リュリ讃』へ移行した効果はすこぶる尖鋭であり、リュリの圧倒的な素晴らしさと、それに感応するクープランなりのリアクションが真正面からぶつかりあうようで面白かった。

【演奏の厳しさが神への捧げ物】

ところで、最初のコンセールにおいて、ラ・レヴェランスが互いちがいに主役を入れ替えて演奏したのには、現実的な事情もありそうである。つまり、ウインド楽器において、かなり規模のある作品を演奏することは、体力的にも困難がつきまとうということだ。コンセール第8番は、全曲で20分ほどの演奏時間がある。また、次のオトテールの作品は通奏低音を伴わず、2本の旋律楽器(オーボエ)のみで休みなく15分ほどの演奏時間がある。区切りが細かく、技巧的な部分が多いバロック音楽において、このような作品を演奏することは、その厳しさ自体が神への捧げ物であった可能性もある。

J.M.オトテールはとりわけフルート作品において著名であり、オーボエについても、楽器の表現性を広げるための改造において功績のあった一族とされている。この日、演奏された op.4 ロ短調の作品は、リコーダーによる演奏がもっとも有名で、オーボエでのパフォーマンスは珍しいかもしれない。プリモを追って、セコンドが追いかけていく第1曲に始まり、ロンドー、ジーグ、パッサカリアなどの舞曲の形式を歴訪する作品は、先のクープラン作品と同様に、時代を映す鏡として機能するものだ。もっともクープランと比較すれば、ずっと日常的なところに焦点を絞る鏡であったろう。オトテールはその事績からみても、素朴でコントラストの薄い作品よりは、楽器の改善と、その奏法の教授において、偉大とされる人物であった。演奏された作品はまず十分に魅力的であるが、演奏することの難しさを思わせるところもつよく、彼の名声もまた、信仰と無関係ではないことがわかるのではなかろうか。

【構造がクオリティを引き立てる】

メインの『リュリ讃』においては、既に触れたように、文学座の女優である金松彩夏がナレーションを担当した。小柄な人だが、黒くボリュームのあるイヤリングと、胸もとを飾る豪華な宝飾が印象的にみえた。特に後ろからのシルエットが可愛らしい。彼女はテキストを読んだり、作品の雰囲気を表現をするというよりは、ちょっとした解説にちかい役割を担当している。声にはまろみがあり、本来は、もっと積極的な表現性をもっているはずだ。彼女が担当したテクストのなかには、ヴァイオリンがイタリア的な音楽の象徴であることが語られていたりもした(そうなのか!)。録音では1曲ごとに、クープランがつけた標題をフランス語で読んでから演奏するものもあるが、それとは異なり、数曲分のあらすじを語り、まとめて演奏する形式としており、そのほうが音楽的興趣を分断せずに、切れ目なく詩情に接することができたように思われる。

作品は、リュリの「パッサカリア」と対応する重い曲調から始まり、進退を繰り返しながらも、徐々に軽くなっていくような雰囲気だ。劇的なコントラストは顕著でなく、1曲ごとに詩情を大切にしていくパフォーマンスで、実が詰まっている。しかし、そのなかでも既述の第6曲には不思議なウェイトがあり、そこを境に、次のパートに移っていく構造が確かめられた。作品は序盤、自らの音楽を仲間たちと楽しむリュリがアポローンの介在によって、周囲のざわめきを引き起こす場面で一区切りされ、その後、アポローンとリュリのこころの交流を探るパートが挟まり、リュリとコレッリの音楽的対話からトリオ・ソナタへ移行する第3部というように区切られている。このなかで、やや強調されるべきなのはトリオ・ソナタが独立的に扱われず、第10曲のフランス風序曲に始まる対話の締め括りとして扱われている点である。

トリオ・ソナタはリュリの従者たちにはまだ、戸惑いを誘うものだったというテクストが読まれ、そうであっても、この演奏を聴けば、蟠りも意味のないものだったことがわかるだろうと結んでいる。4楽章構成のトリオ・ソナタ『パルナッソスの平和(和解)』は、リュリらしい内的な深い主題を追う冒頭楽章から、フランス的な舞踊的伝統を構築する第2楽章、そして、牧歌的な温かい雰囲気のなかにも、宗教的な和解を示す素材が聴かれるような締め括りの第3楽章。そして、新しい時代に開かれたジョイフルなコーダ(第4楽章)によって構成されていた。この見事な音楽的論法は、正に百科事典的なクープランの存在に相応しい気品を放っている。そして、この日のような管楽器と鍵盤楽器による素朴なアンサンブルが、いっそう、その美しさを引き立てたのも間違いない。弦楽器を欠くことで、構造的なエレガンスは引き締まったものとなり、ここのパートがもつ詩情はいよいよ明らかとなった。そのキーマンとして、福士の吹くバスーンの響きが鍵となったのではないかと思われた。

【歴史的な見地】

また、この演奏会は、歴史的な見地からみても深彫りのできる内容であった。最初のほうで述べたように、ここに登場した音楽家たちは、太陽王ルイⅩⅣの宮廷において、それまで積み重ねられてきた音楽の伝統とは、また別の理想を追った者たちである。それほど深い霊感に満ちていたわけではないオトテールでさえも、楽器の改造や演奏法という観点から、新しい表現への道を開いていったということもできるだろう。新しい楽器の出発点。また、「ソナタ」という形式の誕生ではないとしても、より幅広く形式が広まっていくときの、境に当たるような世界の様相。王宮での肩の張らない音楽と、舞踊の伝統のなかで生きてきた退屈な音楽の刷新。形式や教養的な面白さから、後世の聴いてわかる音楽への移行。また、情念の深い発露としての音楽の再生。こうしたものが、太陽王による厚い庇護の下で、一挙に花開いたときの風景が示されたのである。とはいえ、彼らはクラシックの伝統的な継承の重要さに気づき始めた世代でもあるのだろう。

【その他】

なお、日本では、ルネサンス・バロック時代の音楽はバッハへの取り組みに偏重しており、テレマン、シュッツといったドイツ系のバロック、その支流としてのヘンデルや、英国のバロックの一部(パーセル、ダウランドなど)、ヴィヴァルディ、モンテヴェルディや、ごく限定的な声楽作品(カッチーニなど)によって親しまれるイタリア・バロックの演奏伝統は根強いものの、ラモー、クープラン、リュリ、シャルパンティエ、マレといったフランス・バロックの演奏は、あまり積極的におこなわれていないという印象が強いのだ。このような傾向に、ラ・レヴェランスの活動が少しでも風穴を開けるきっかけになれば素晴らしいと思う。この日のパフォーマンスでも作品の素晴らしさと多様性、音楽家が選択し、創造できる表現の広い可能性は明らかであった。

会場の求道会館は真宗大谷派の宗教家で、独特の仏教運動を展開した近角常観による創建であり、大正4年に武田五一の設計により建てられた個性的な建築物だ。途中、長らく放置された期間もあるが、平成に入って都の有形文化財に指定され、修理工事を経て平成14年にオープンしたという。一見、キリスト教会風の構造だが、祭壇が設えられ、六角型の厨子には阿弥陀如来が鎮座して花が生けられているほか、正に多国的な趣味の融合がみられる不思議な雰囲気の場所であった。音の響きはすこぶるよく、室内楽や声楽の演奏には、十分に利用可能である。

【プログラム】 2017年2月18日

1、F.クープラン コンセール第8番「劇場風」(◇○◎)
2、J.M.オトテール 第1番 ロ短調(◇)
             ~『2本の旋律楽器のための組曲』(op.4)
3、リュリ(ダングルベール編) クラヴサン曲集より(◎)
4、F.クープラン リュリ讃(◇○◎♡)

 ob:加瀬 孝宏、高山 郁子(◇)

 fg:福士 マリ子(○)

 cemb:根本 卓也(◎)

 ナレーション:金松彩夏(♡)

 於:求道会館

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