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2017年2月18日 (土)

シルヴァン・カンブルラン(指揮) メシアン 彼方の閃光 読響 566th 定期 1/31

【昔に根づき、かつ、新しい音楽】

先日、NHKのBS放送で米国の放送局制作のドキュメンタリー『鳥たちに人生を重ねて』というプログラムを拝見した。中南米からカナダ方面を結ぶ米国東海岸のニューヨークは、渡り鳥にとっては貴重な中継地。マンハッタンで緑地が一点に集中するセントラル・パークには毎春、200種類を超える様々な鳥たちが訪れ、季節柄、巣を作り、子育てをするという。そんな鳥たちを追う、一歩踏み込んだバードウォッチャーたちの姿を捉えた内容であった。フランスの作曲家、オリヴィエ・メシアンがそのようなことを知っていたのか、私は知らない。1987年、ニューヨークの地から、メシアンに新しい作品の委嘱があった。NYフィルの楽団創立100周年を祝う作品で、1992年の11月に無事、初演されたが、その場に在るべき作曲家の姿は客席にみられなかったという。当年の4月に、メシアンは亡くなっていたからだ。

多分、作曲という仕事に使命を感じていたメシアンは亡くなる寸前まで、創作に意欲を燃やしつづけていたろうが、この作品『彼方の閃光』は、彼の作曲リストのなかでも最後に刻まれることになる(あとは未完の作品だけだ)。ズビン・メータが指揮し、1992年に初演されたという驚くほど身近なプロフィールは、俄かには信じられない。それほど、この作品は彼が生きた初期の時代とよくつながっているというべきだ。1908年生まれのメシアンは、パリ音楽院でマルセル・デュプレにオルガンを、ポール・デュカには作曲を師事している。彼が音楽院に入ったのはまだ11歳の頃であるから、彼がいわゆる天才型の才能をもっていたことが窺われるが、それから1930年の卒業までに、10年以上も音楽院であらゆる基礎を学び取っていくことになるのだ。パヴリックな場所で、最初に演奏された作品『忘れられた捧げ物』は1931年の初演であり、以後、創作は60年の長きにわたった。

ここに報告する演奏会は、1月31日のシルヴァン・カンブルラン指揮による読売日本交響楽団のものであるが、その2週間前に、秋山和慶指揮東京交響楽団の演奏会でも、私は『忘れられた捧げ物』を聴いている。この偶然のコンボが、想像以上に効果的だったのかもしれない。同じ演奏会では、矢代秋雄の協奏曲で独奏を務めた小菅優が、メシアンのやはり最初期の作品であるプレリュードの1曲を披露している。これらの成果から始まったメシアンの作曲人生が半世紀の後に、いよいよ終わりを迎えるときの作品ではあるが、私は遠く、この1930年代のイメージに根をもつ作品だと強く感じており、およそ20年ばかり前の作品にすぎないということには違和感を覚えるのだ。

かといって、その作品は古色蒼然と感じられるわけではなく、今日に至っても、この曲を越えるほどの作品を、私は耳にしたことがない。完璧にして、最高に高められた鳥の声。スコアから溢れ出るばかりの生命感。それを通じて訴えられる内的欲求の切実さと、信仰に基づく整然としたうたの美しさ。その上に、ある意味では素朴な娯楽の要素まで含んでいる。かつて教会のオルガニストたちは、鳥たちや動物たちの声、身近な自然現象などを音でまねて、人々を楽しませたというが、この作品にも、あらゆる鳥の声が象徴的に採録されている。私が演奏中に思い出したのは、サン・サーンスの組曲『動物の謝肉祭』のことだった。ただ、メシアンの鳥の声はそうした風刺的なものとはちがって、こころのより深い部分から湧き上がってきた響きである。

鳥の声は、正にメシアンを癒やすものでもあったろう。彼は確かに、この作品の初演を聴くことはなかったかもしれないが、明らかに、その音楽を「聴き」ながら書き継いでいったように聴こえる。優れた作曲家には、それができるはずだ。例えば、ベートーベンは耳が聞こえ難くても、明らかに「第九」を聴いていたと思われる。そして、マーク・エヴァン・ボンズの著書『聴くことの革命』によれば、巨匠はどうも、この有名な合唱付きフィナーレに疑問を抱いてもいたようである。それはそれとして、鳥の声のない章には、メシアンを襲う不安や苦しみといったものが、宗教的な象徴を借りながらも、よく表現されているだろう。しかし、反対に鳥の声の書かれた楽章にこそ、書き手の抱く情念が深く表出されているといっても間違いではないのだ。しかも、鳥たちが忙しく囀っているときよりも、その曲調がふっと気を抜いたときに色濃く滲み出てくるようだった。私はそうした場面で、何度も涙の味を知ったものである。

【思い出された法螺貝の響き】

それでは作品に沿って、感想をまとめてみよう。第1曲「栄光あるキリストの出現」。まず私の席は前から3列目で、中央よりやや左に寄った場所である。何故、このような席をとったかは記憶が定かでない。普段なら、あまり選ばないはずだが、これが意外にも吉と出た。このパートにおける金管の響きは、(私の席からは)ほぼ見えないところから空間を抜けて響いてくる。以下、鳥の声も、それを出す奏者をあまり目にすることはできず、響きが遠くから届いてくることになった。森の奥から聞こえてくるようにイメージされる、このような音響が作品をより神秘的に見せたことは、先に言っておくべきことだろう。

第1曲の響きは清澄なところから、濁りへと向かっていく特徴をもっている。栄光あるキリストの出現は、人間という濁りとの出会いでもあるはずだ。金管の響きは、均整のとれた美しいハーモニーの重なりよりは、一見、醜い襞のような響きを伴っているほうが味わいぶかい。私は以前、大震災のチャリティを目的とした公演で、ところも同じサントリーホールに「相馬の野馬追」の法螺貝が響いたときの印象をよく憶えているが、譬えてみれば、そのような響きだった。ところによっては、若干、ワイドになりすぎた面もあるとはいえ、私は法螺貝の響きと同質のものを読響メンバーの発する響きのなかに読み取っていた。法螺貝は昔のいくさの様子や、より古い素朴な風習を感じさせながらも、同時に厳しい津波の悲劇を思い起こさせて、響きのよいホールにあり得ないほど深く響いたのである。

【普通のことの集積】

カンブルランはパウゼを深くとり、この章がほとんど独立した3つの部分によって構成されていることを明確にしている。3とその倍数は、明らかに作品的なモティーフに組み込まれているものだろう。最初のパウゼによって、私は早くも呆気にとられた。敢えて現代風の汚い表現をすれば、「いきなりぶっ込んできた」という形になろうか。そのように言ってみたくもなるのは、その表現がごく自然なもので、あまり特別なようには思えないからである。カンブルランはこのように、何でもない普通のことの集積として、メシアンの音楽を表現しようとしていた。特別な、普通にはあり得ない表現語法ではなく、彼が人生をかけて追ってきたことからすれば、当たり前の表出としてである。

第2曲「射手座」は、私にとって目の前で繰り広げられた弦楽器の特殊奏法が、胸を衝くような新鮮さで響いた。このモティーフは、のちに出るパートと対応的になっており、第1曲の雰囲気からすれば、対照的なリアリティをもっている。鳥の声の乱舞につづき、またもパウゼ(休止)が深くとられ、いっそう明確に鳥の声が響く場面から、再び弦楽器の特殊奏法につながれて、これらの流れはほんの一瞬のうちに過ぎ去る。パウゼの区切りから、書かれたパートが常に3つずつに切り分けられていることが知られるだろう。まだ霧に包まれながらも、美しく上方に立ちのぼっていく焼香の煙のような終結。

第3曲「コトドリと神と婚姻した都」。光を増す音楽。オルフの『カルミナ・ブラーナ』やストラヴィンスキーの『火の鳥』、それに自身の『トゥーランガリラ交響曲』を思わせる神秘と諧謔のまじった捉えどころなきムード。淡々とした、無意味な繰り返しのなかに潜む底深い情念。第4曲「刻印された選ばれし人々」。ややトロピカルな雰囲気も漂い、ドビュッシーの遠い記憶が漂う。第1曲の終結と同様、仏教的な雰囲気も漂い、カンブルランがメシアンの作品を日本にもってきた理由が徐々にわかってきた。私たちは、よく似たもの同士なのだ。このモティーフは短く凝縮し、第5曲「愛のなかに棲む」へと移行する。鳥たちの声は、ひとつひとつ個々の美しさと、意味をもって響く。では、鳥たちはどんな意味で、啼くのだろうか。そんなことを考え出したのが、ちょうど、このあたりだった。その意味は大抵の場合、愛情か、危険のどちらかに関係しているにちがいない。無駄に「駄弁る」ということは、彼らにとってあり得ないことであって、すべての声に何らかの意味がある。ここにメシアンが、鳥の声に着目する大きな原因があったような気もするのだ。

第4曲と第5曲はその意味で、長さも雰囲気も対照的だが、つがいの音楽と見て取ることができるかもしれない。第2曲以降で、常に鳥の声で歌っていたメシアンが、ついに自らの言葉で喋り出したのだ。しかし、不思議な懐かしさがある。それは私たちが、武満徹の音楽を知っているせいだろう。だが、メシアンの音楽はより純真で、柔らかい。武満が白い絵の具を使ったとすると、メシアンは結果的に同じであっても、特殊な絵の具を使って、活き活きとした白を生み出しているかのようだ。普通の絵の具なら、黒くなってしまうだけだというのに。第5曲は、やはりのちのパートと対応的にできている。ひとつひとつの部分は実際のところ、あまり重要ではない。しかし、精巧にイメージを重ねていくうちに、私たちが知らないうちに、ある程度、共通した解釈をもつに至ることを彼は知っていたようなのだ。私がいま、鳥が声を発する意味について考えだしたのも、あながち偶然ではないだろう。

【いくら考えても完成しない音楽】

大きく捉えれば、第2部の開始を告げる第6曲「トランペットをもった7人の天使」。この題名は耳で聴いたイメージとは、もっとも齟齬がある。実際に響くのは、地獄の門口を叩くかのような荒々しい太鼓の響き。死の象徴であるトロンボーンの野卑な咆吼。死者を吸い落とすかのように、寂しく響く銅鑼の響きだ。カンブルランは力を込めて拳を振り、音楽をつよく率いていくことにした。パターンを憶えてきた頃に、ちょうどよく音楽が断ち切られる。死の秘密は、まだ決してメシアンには見えていないのだろう。トランペットの音色であるはずのものが、トロンボーンの響きで聴こえてくるのは、臨死的な体験に基づくような気もする。これを序章に、第7曲「神は人々の目から涙をあまさず拭いたもう」が緩徐楽章を構成する。R.シュトラウスの『サロメ』を想起させるトレモロの素材は、中間の素朴な描写を経て、僅かな動きのある素材を浮かび上がらせたあと、静かにイメージを閉じてしまう。

これらの部分の頂点に、第8曲「星たちと栄光」が君臨する。宗教的なテーマは、この曲では常にメシアンの情念と結びついており、これと聖的な鳥の声が対置されて表現されてきたが、この曲において、両者は初めて融合される。一方で、鳥たちの声は「ずれ」と親しくなり、そのさり気ない揺らぎのなかを、メシアンの情念であるテーマがふらふらと漂って歩く。その頼りない行進が、一方で深い威容を誇るときもあり、鳥たちをおののかせるような感じにユーモアがある。素材はあまり重ねられず、ひとつひとつ順番に処理されながら、巧妙に重ねられていく構造は、またも共通した発想だ。それが束の間、和声的に重ねられるものの、すぐに休止し、締め括りのコラールとなる。

第9曲「生命の樹に棲む多くの鳥たち」は、指揮者やコンサートマスターによって統制できない音楽だ。高い見識をもつカンブルランでさえも、この場所に立つときは、いつも見守ることしかできない。のだこのパートで見せたオーケストラ団員たちの、高いアンサンブル力は傾聴に値するものの、彼らの誰一人とて、そのとき、自分のことを笛吹きと思っていた人はいないように思われた。彼らは本能の赴くままに、声を発した。鳥たちの気持ちになって・・・、否、鳥たちそのものとして、互いに囀るのだ。完全な自由ということは、あり得ない。例えば、体の大きさなど、鳥たちにはそれぞれに自らもって生まれた分限があり、それによって、互いの関係も規制されるようになっている。好き勝手に歌うことはなく、それぞれの生息区域で、求愛や危険の共有など、何らかの必要があって啼くのである。その範囲においては、自由に声を響かせることができる。このイメージは、いくら考えても、決して完成しない音楽として残された。優れた後継者たちが完成を信じて働きつづけてはいるものの、もはや完成というゴールが想像できないガウディのサグラダ・ファミリアのようだ。とにかく、一心に吹いてみるしか方法はないであろう。

この音楽はまた、決してひとつに揃わない音楽でもある。かつて、ラ・フォル・ジュルネのマスタークラスのなかで、フルートの工藤重典が言っていたことを思い出す。木管楽器というのは2本あったら、隣同士でもぴったり揃うということはあり得ない。彼らはいつも、それを合わせろと求められるのだが、反対にずれていることを許されるのはサイトウキネンと水戸室内管だけだという内容だった。メシアンも揃うことより、揃わないことを当然と考えた作曲家だったのかもしれない。鳥たちの自由に囀る森は、最高のオーケストラが音を奏でるコンサートホールにも勝るだろう。それは、神の与え給う奇跡の空間だ。これがニューヨークのセントラル・パークのことを指すのか、欧州のどこかであるなのか、あるいは、また、メシアンのこころの中にしかない或る場所なのか、それは問題ではないだろう。

完全な自由であると見えながら、そこには何か定められたルールがあるようにも見受けられる。アーノンクールも言ったように、ロマン派以降、クラシック音楽の聴き手は音楽について考えることを止めた。楽譜を手にし、考えなくてもわかる音楽がつくられたからだ。その終末点においてメシアンが構想したのは、演奏する側、聴く側の両方で、思考力を再生する音楽であった。生きた鳥の声を使えば、それはまだ可能かもしれない。彼らを律するルールがどこにあるのか、メシアンは考えてほしかったのだ。その答えが、集団の前に立って手を振るう指揮者や、演奏者のリーダーである立場の者にあったのでは興醒めである。その可能性はいま、すべて排除された。メシアンは、チャンス・オペレーションや不確定性の音楽についても、知っていたであろう。この音楽は、それともちがう。それらが否定するものこそが、メシアンの音楽の基部にあるからであろう。

【異なるこころは通じあう】

どこか天国的な空間の第9曲をおえると、大部の作品もあと2曲となる。第10曲「見えざる道」となるが、このパートにはややアイロニーを感じる。振り返ってみれば、作品は鳥の声に代表される神秘的な部分と、ふと現実に返ったようなパートが3:1ぐらいの割合で交互に現れる。「現実」の場面は、かなり風刺的に描かれてもいる。この第10曲はそれに先んじた第9曲とは対になり、既に墓穴に半ば足を突っ込んでいる作曲家が自虐的に振る舞うような感じも窺えるのだ。最後は重い響きを残し、自ら石棺の蓋を閉じる。これで、すべては終わったのだ。そのことで、反対に天国の扉が開く。第11曲「キリスト、天国の栄光」では、バッハならフーガを書くところで、メシアンは瞑想的な音楽を書くことにした。「天国的に長い時間」といわれる手法だ。ただ、カンブルランは徹底して明るい音楽をつくろうとした。終曲では見えないチェンバロの響き(実は打楽器の音色)が、時代を飛び越える通奏低音のように響くが、そうした特徴が音楽に言い知れない温かみを与えることだろう。特に厚みのある当夜の響きは、自分がここにいて価値があったと知った人だけが、自信を持って書いた音楽として聴こえた。

それでいて、あと1曲書けば象徴的な12に到達するのに、それを避けたのは、自分がまだ未完成であるという謙りの表現かとも思える。それにしても、メシアンは本当に引き締まった人生を送ってきた人だ。『前奏曲集』や『忘れられた捧げ物』から始まった彼の音楽家としての人生、そこでひとつずつ積み上げてきたもの、例えばトゥーランガリラや弦楽四重奏曲、オルガン作品などで培ってきたものが、最後の曲に改めて、きっちりと積み上げられているのを目にすると、作曲家にとって、本当に無駄な仕事などないということがわかるのだ。『彼方の閃光』には、メシアンの音楽的な創造がすべて詰まっているといっても過言ではない。しかし、メシアンは多様な作曲家であり、それだけに作品の独創性と偉大さはなおさら強調されるべきだろう。もっとも、彼の多様さのうち、多くの部分はキリスト教的な信仰の純粋さに起因することは間違いないところである。例えば、オルガンにしても、宗教的な概念を抜きにしては存立し得なかったであろう音楽装置であり、それに基づくと思われるメシアンの発想はすべてキリスト教的だということも可能である。

メシアンの音楽がまず宗教的であることは明らかだが、その純粋さにおいて、信仰者以外にも訴えるところが大きいのは、あらゆる宗教的作品の傑作と同じだ。音楽が何のためにあるのかということは難しい議論になるが、その究極は多分、音楽によって作り手がその作品に込めた内的欲求を聴き手に感じてもらうことである。その意味で、『彼方の閃光』ほど、作曲家が自らの思い描いた世界を完璧に表現した作品も珍しいと思うのだ。メシアンがどのように考え、何を、どのように使ったか、この作品ほどに判然とした芸術世界は、どの分野においても稀である。そして、それを見事に可視化したのがカンブルランであり、読響のメンバーであったといえるのだ。もし宗教がちがったとしても、その中心にあるものは誰にでも共通する。異なるこころは通じあうことができる。

例えば、次のようなこともいえるだろう。われわれ日本人に、日本の伝統芸能や、神社に古くから伝わる神楽の響きが染みるのは、それが昔から、我々の暮らしのなかにあったからではない。むしろ、現代とは全くちがう、異質さこそが、こころに染みてくるのである。況んや西洋音楽をや。この日の演奏会は、本当に染みるものだった。私のなかで、きっと何十年とつづく体験となるだろう。

【プログラム】 2017年1月31日

1,メシアン 彼方の閃光

 コンサートマスター:長原 幸太

 於:サントリーホール

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