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2017年3月17日 (金)

今井顕のシューベルト D568 & D959 & トークタイム「タブーへの挑戦」 3/8

【ウィーン音楽とビーダーマイヤー】

今井顕は、ウィーンの最高楽府=ウィーン国立音大において、24年間の長きにわたって教鞭をとり、オーストリー政府より名誉教授の終身称号を得たピアニストである。古くはフリードリヒ・グルダ、現在もパウル・バドゥラ・スコダルドルフ・ブッフビンダーなどに継承されるウィーンのピアニズムは、きわめて特徴的な音楽である。フランスの瀟洒で色鮮やかなスタイルや、ドイツ・ピアニズムのカチッとした機能美とは異なり、貴族的な気品とともに、ある種の大らかさが感じられ、ウィンナー・ワルツに象徴される自由な揺らぎがあるせいだろう。ウィーンのピアニストは、圧倒的な技巧的な冴えや演奏の迫力で人を魅せるのではなく、自分だけにしかない意外なこだわりや、遊びの領域を広くもちながらも、現地特有の独特なプラットフォームを守り、めいめいの美学によって飾っていくのである。こうしたことの歴史的起源としては、ウィーン・ハプスブルク帝国のビーダーマイヤー時代に醸成された雰囲気が挙げられる。

この日の主役、ピアニストの今井顕は、シューベルトの2つのソナタを演奏する間に、7-8分くらいのトークタイム「タブーへの挑戦」を設ける新しい試みをおこなった。あるいは、そのこと自体が「タブーへの挑戦」だったのかもしれないが。「ビーダーマイヤー」という言葉こそ使わなかったものの、彼が話したのもその時代のことだった。曰く、シューベルトにとって、いちばん素晴らしいのは歌曲の分野。でも、例えば『美しき水車小屋の娘』は、あまり格好のよい素材ではない。ところが、あらゆる言論が監視され、検閲され、規制され、弾圧されたこの時代の基準でみると、『水車小屋の娘』のように男らしくない素材に関心をもっていた音楽家や、その時代の人々に対する印象が変わるという内容だ。青年は粉やの娘に恋をして、失恋して死を選ぶ。このあまりにもナイーヴな選択が、時代的な鏡を通じて見たときには別の意味をもつようになる。ビーダーマイヤー時代には、公秩序を乱すような自殺などは御法度であって、それだけに世人は死への関心を深くしたのだと今井はみる。シューベルトは勇気を奮って、世相と闘った素晴らしい音楽家だ。こう言われて、なんとなく、それが現代人へのメッセージにもなっている気がしたのも付け加えてきたいところ。

つよい共感を持ちながらも、私は同時に、そこに見出される強烈な自己愛について触れないわけにはいかないのだ。これはいわゆるナルシズムではなく、ありのままの個人を尊重するという強い意志だ。現代的な観点でみれば、恋が実らなかった場合、その半ば以上は自分に責任があって、もてる男になるためには、それ相応の努力が必要なのだと思われる。だが、シューベルトの時代では、まずは、そこに生きる人間をそのまま受け容れる観点が重要なのであり、それでも足りない場合には「変身」という裏技が用いられた。不完全ではあるが、『水車小屋の娘』の場合も、無垢で素朴な青年が恋を通じて自己を確立し、変身していく物語と捉えられるだろう。

シューベルトは1797年、ウィーン郊外に生まれている。裕福な家系ではなく、モラヴィアから移植してきた農夫の家に連なり、父親は音楽にも熱心な教父であったという。正に、フランツ・シューベルトその人が時代の揺らぎ、あるいは、ボーダーのなかから生まれてきたような境遇にあったのである。彼は宗教的なコミュニティの輪を通じて次第に変身し、友人たちに支えられて音楽家としての才能を培っていった。今井が言ったように、ビーダーマイヤー時代は彼の思春期と重なっている。夭折したこともあり、彼の抽斗のなかには膨大な遺作だけが残って、今日のように偉大な作曲家と見做されることはなかったが、シューベルティアーデのように親密なサロン音楽の象徴として、彼の歌曲は特に珍重された。偉大な作曲家のもつ真価がより広範に見出されるのは、後世の話である。彼は交響曲ピアノ・ソナタ室内楽歌曲の分野で、「王様」とでももいうほかない物凄い作品群をいくつも残していった。

【変身】

今井は当夜、そうした王様級の作品をひとつと、それとは対照的な素朴な傑作をひとつずつ選んで演奏することにした。ピアノの分野においては、王様級の作品は D958ーD960 の3曲を中心に、晩年の作品に集中し、多くのピアニストが頻繁に演奏している。近年、日本では D960 にわざわざ「遺作」とつけて(シューベルトに遺作は多い)、著名な演奏家に弾かせる例が多い。ベートーベンやブルックナー、マーラーの交響曲ツィクルス商法と同様に、愛らしくも、疎ましい傾向だと思う。一方、ドイッチュ番号にして500番台、600番台のような作品にも魅力的なものが多いが、こちらは後期の作品ほどは演奏に接することのできる機会は豊富でない。しかし、著名な作品とも作曲年にして10年ぐらいの開きしかなく、その間に生まれる作品の魅力もそれほど変わりのあるはずがない。より簡潔で、壮大さには欠けるものの、D557、D568、D664のような演目が入っていたら、その演奏会はシューベルトという作曲家に親密さを感じる演奏家によるものと考えられるため、「買い」だろう。

今井の演奏を実演で聴くのは初めてだが、彼はピティナのピアノ曲辞典にもいくつかの音源を送っており、優れた表現に魅了されるところがあった。冒頭からしばらくの間は予測に反し、大らかな面のほうが目立った。既に最後の来日をおえたバドゥラ・スコダの演奏でも、打鍵の過ちに寛容でない人たちからみれば、辛辣な批判もないわけではなかったのを思い出す。今井も打鍵の精度という観点からみれば、若干、不器用な部類に入るのかもしれなかった。しかし、そのような中にもひしひしと感じられるのは、それ以上に情報力の多い主張のあるピアニズムである。特に、最初のキーワード「変身」を思いつくまでに、それほど多くの労は要さなかった。打鍵のミスは見逃せないにもかかわわらず、彼が並々ならぬ精度で実現させる磨き上げた響きの凄みは全く損なわれないの不思議である。

ところで、D568 の演奏は、ウィーンにベースのある音楽家と、ドイツ系のピアニストではまるで様相がちがってくるものだ。例えばドイツ系の代表格であるゲルハルト・オピッツによる録音は構造的な美しさを極限まで磨き上げたものであり、優れて均整のとれた名建築のような録音である。一方、ウィーンでリヒャルト・ハウザーの薫陶を受けた内田光子の録音は、アーティキュレーションも、打鍵の質も躍動感に満ちみちて、生きた収縮があるのが特徴と感じられる。今井は明らかに、後者の部類に属しているようだ。そして、彼は内田と比べると、ひとつひとつのパッセージを異常に深い集中力で弾いている。シューベルトのこの時代の作品は近接した鍵盤を軽やかに叩く性質の作品が多い。そして、Aという音からBCDEという4つの音を経て、Fに到達するパッセージがあるとすると(自註:ABCDEFは音名ではない)、Aから経過区を挟んで、Fという到達音にいったときに、どのように変わっているかが重要な意味をもつのである。この表現において、今井の繰り出してくる工夫はいちいち印象的なのであった。変身を生み出すために施される小さな技、言葉にすることなどできない細かな時間の操作を書き出せばキリがないほどだ。

シューベルトのピアノ・ソナタは、そうした小さな意味の集積なのである。かつてバロック音楽では、そこに言語機能的な意味もあったが、シューベルトの場合は、単に詩的な印象の羅列、もしくは、それらの些細な結合があるばかりだ。D568 のような作品の場合、連歌のように、小さな詩情のつながりが無限に連鎖していく印象を与えるだろう。それが自由で躍動的な舞踏会風の雰囲気とあわさって、シームレスな音空間を生み出してもいる。ある種の田舎くささも残しながら、そこから変身した高雅なメッセージが何度も聴き手を驚かせるのだ。それは正に、舞踊の支配するビーダーマイヤーの世間に生きる、シューベルトの似姿そのものかもしれなかった。

【壮大な計画】

この印象は、後半の D959 に至っても変わらない。だが、この作品ではより壮大な計画があった。まず構造を丹念に眺めてみると、この作品はベートーベンのソナタ op.111 に範をとった2部構成だ。4楽章構成だが、第1楽章と第2楽章の関連性が深く、それらによって主要な内容を構成しており、第3楽章と第4楽章は神への感謝で占められている。しかし、そのような古典的模倣だけではなく、最終楽章には大ドンデン返しが仕掛けられてもいるが、それについては後述する。

第1楽章で驚くべきところは、総じてイン・テンポでいくなかで、終結で対位法的な構造が顕著となる部分において、急にテンポを滞留させ、深い情念を内に秘めて深々と演奏したところである。テンポを落とし、淑やかに余韻を残しておわる例は珍しくないが、今井の演奏はさらに厳粛さを加えている点で特筆できる。このスタイルがつくる荘厳な雰囲気は、後続の第2楽章の雰囲気を先取りするものだ。正確にいえば、先取りして、引っ繰り返す役割を果たしている。プログラムのなかでは、今井はこの第2楽章について、孤独と絶望を極めた「悲痛な結末」だと述べていた。そう書いておきながら、彼が演奏するに当たっては、この美しい結末から孤独と絶望を連れ去って、深い慰めを与える工夫について、ずっと考えていたはずである。そして、彼は前楽章の最後でいっそう深い響きを加えるだけで、この問題が一挙に片付くことを発見したのだ。悲痛な第2楽章も、その部分の厳粛な雰囲気と比べれば、慰めでしかなくなる。

そして、その場合に必要なポイントは、このサイクルをきっちりと第2楽章までにおわらせることにあった。だから、この楽章全体の雰囲気は意外にも流れがよく、間違っても、棺桶を引きずるような雰囲気ではない。

スケルツォを経て、ロンドー・フィナーレとなる。トークで歌曲の話をしたせいか、ロンドー主題の歌謡性はつよく印象づけられる。瀟洒な変奏形式が印象づけられるかと思われたが、徐々に雲がかかり、暗い霧に呑み込まれる風景を描写しないと、表現のすべてを受け取ったことにはならない。終盤、素材の回想が行われるが、そこはさほど引っ張ることなく、休符もスコアに書いてある以上には深くなかった。問題は、それよりも以前の部分にある。いったん素材を気軽に巡ったあと、2巡目に入るぐらいからの展開が尋常ではない緊張を孕むようにピアニストは工夫した。例えば左手を飛び越して、右手が左右を行き来するパッセージがあるのが、夢の始まりを告げる静かな鐘の音のようである。実は作品の前半にもそうしたパッセージが表れていて、そこも印象的に弾かれていた。回想的なエピソードが作品の多くを支配しているのは間違いないが、今井の解釈では、それが大分、前倒しで始まっているようなのだ。回想=夢は一瞬にして、小さなきっかけだけで壊れてしまうから、ピアニストは慎重の上にも慎重に弾いていくしかない。その深い緊張感の持続が、聴き手を身じろぎもさせないような集中へと導いていくのだ。

そして、ある意味では瞑想的な、この忍耐の時間だけが、シューベルトの音楽のすべてだとも思えてくる。歌曲と覚しき素朴な素材が、身じろぎもさせないような深い情念と構造のつくりだす地獄につながっている。ところで、「回想」とは、構造的にみれば、素材を組み合わせた再創造の段階となる。だから、結局のところ、今井が示したのはシューベルトという構造的な作曲家だけがもつ、緊張感のある美しさなのであった。そして、シューベルトの晩年の美しさは、彼がどこまでその結末を予期したかという問題こそあれ、悲痛なところにつながっていたのである。これこそが、「壮大な計画」といえばいえるのではなろうか

【補足】

先のトークにも関連づけて、アンコール・ステージにおいて『アヴェ・マリア』が弾かれたのは、3月11日を3日後に控える時期からも導かれたものだろうが、後続の『クッペルヴィーザー・ワルツ』と『楽興の時第3番』という流れは、シューベルト弾きのリサイタルではお馴染みすぎるほどのものだった。心のこもった『アヴェ・マリア』の演奏は自編によるもので珍しかったが、先頃の悲痛さとはまた別の意味で、胸に響くものであった。もとの歌曲はヒーリング系歌手の録音などにもよく入り、人口に膾炙したものだが、このクラスのピアニストによるリサイタルで耳にする例は意外に稀少だ。

今井が、このようなリサイタルを開こうとした意味は、単に自らの習い憶えてきたものを、この日本に伝えるという使命感だけによったものであろう。ピティナへの音源提供にしても、その一環である。ところが、今井というピアニストは、それほど器用なタイプの人間ではない。その分、出版や編集にも頻りに携わっており、学府での研究成果は還元され、演奏活動も補完されている。ブログ「かやにかパパの打出の小槌」も、必ずしも音楽専門の内容ではないが、面白い。そのことからトークも面白いだろうと思われたが、若干、初級者向けの趣があり、関係する部分を鍵盤で弾いてくれるわけでもなかった。しかし、平易な内容ながら、結論に向かって、ぐっとメッセージが凝縮していく様子は彼のピアニズムとも無関係ではないようだ。

このような対話力については、多くの音楽家に対して、参考になるところであろうと思った。彼のようなステイタスをもったピアニストでさえ、これだけ考えてやらなければならないのだ。タブーへの挑戦=トークも含めて、「今井顕のシューベルト」は大成功であった。次回があるなら、ベートーベンに期待したいものだ。

【プログラム】 2017年3月8日

1、シューベルト ピアノ・ソナタ D568
2、トークタイム「タブーへの挑戦」
3、シューベルト ピアノ・ソナタ D959

 於:東京文化会館(小ホール)

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