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2017年3月15日 (水)

井上郷子 ピアノ・リサイタル #26 「近藤譲 ピアノ作品集」 3/5

【波のような創作史】

井上郷子は、以前から聴いてみたいアーティストだった。かつて両国門天ホールへアイヴズを聴きにいったときのこと、その企画の芸術監督だった彼女が偶々、私のすぐちかくに座っていたのを記憶している。不明ながら、私はその人を知らなかった。

調べてみると、井上は甲斐説宗の弟子で、電子音楽や作曲も学んできた人である。しかし、その活動を特徴づけるのは、やはり、近藤譲を中心とする同年代の日本の作曲家の作品や、ジョン・ケージやモートン・フェルドマンなどの作品を、ピアノという楽器を通じて翻訳する作業であった。古典に比べて、現代音楽はその意味するところをより精確に、美しく奏でることによってのみ、その本質を輝かせることができるものだ。だから、現代の作曲家は故ピエール・ブーレーズや、彼にちかいグループ、クロノス・クァルテット、アーヴィン・アルディッティのクァルテット、バーバラ・ハンニガン、パスカル・ガロワ、キム・カシュカシアン、古くはムスティフラフ・ロストロポーヴィチなどのところにいくのだ。彼らが演奏してくれれば、自分の作品が意図するところは聴き手に対してハッキリと伝えてくれることだろうし、そのうちに、彼らが公の場で演奏してくれるということ自体が、その作曲家の価値を定めるような形にもなっていくのである。井上郷子は日本において、そうしたセンターのひとつと目される存在かもしれない。近藤譲も、彼女のために当夜の委嘱新作を含めて9曲を書いたということだ。

この日のオール・近藤譲・プログラムによる演奏会は短い休憩を挟み、3部に分けられた。当初の計画を変更し、最初の3曲を演奏したあと、井上は5分の休憩を設けている。その後、また2曲を演奏して15分の休憩をとり、最後に4曲をまとめた。時代はバラバラで、2000年以降の作品が多いものの、もっとも古い作品『視覚リズム法』(1975年)から、世界初演の作品まで、近藤譲のいくつかの時期を一夜にして確認できる内容にはなっている。しかし、面白いことに、近藤譲の作品は時代ごとに成長していくのではない。行きつ戻りつを繰り返しながら、波のような創作の流れが確かめられるのである。

【三段活用】

全3部は正に、ホップ・ステップ・ジャンプという形で構築され、まるで人間の音楽史を辿るかのような道筋をも示していた。1曲目の『イン・ノミネ(レスニェフスキー風子守唄)』(2006年)はグレゴリオ聖歌に基づく素材を用いて、ルネサンス・バロック期に多くの音楽家が『イン・ノミネ』と名付けて作曲を繰り返した伝統を拾い、今日にリバイバルするドイツのアンサンブルの注文に応じて書かれたものなのだという。まずは素材がありきというわけか。近藤の作品も、完結したひとまとまりの作品というよりは、パスティッチョの一部のような素材の提示に止めている点が特徴的だ。つづいて、『夏の小舞曲』(1998年)は即興的につくられた作品で、素材から一歩進んだ構築が成されていることがわかるだろう。即興的な作品のひとつの特徴は、方向性のない繰り返しがしばしば挟まることにあり、目まぐるしいアイディアの迸るなかで、一瞬の逡巡が聴き手にかえって大きな印象を残すものである。この作品でも、そんな逡巡を擬することによって、即興的な特色がいよいよ明らかであるように仕掛けがなされていた。この創作はある意味で不確定的な音楽と、繰り返し音楽(ミニマリズム)に対する二重のアイロニーとなっているが、近藤の作品自体は不思議な清浄さのようなものを湛えている。

3曲目は「メタフォネーシス」(2001年)である。演奏会の3つのパートをホップ・ステップ・ジャンプの構築にするとともに、第1部の中身も三段活用で構築されたとすれば、この作品がいよいよ跳躍的とみえるのであるが、それでも、まだ小さな飛躍に止まっているというのが適切だろう。素朴な素材から即興、そして、音と音との関係がこの作品ではじめて論理的に構築されるのだ。作品の多くの部分は単純な線によって描かれており、和声の重みは故意に減じられている。まだまだ「変奏」のような高度な変容には至らないし、この演奏会を通じて、それ以前の歴史に止まっていたことが特徴として語られるべきなのだ。近藤譲の作品は、その創作史を音楽史に重ねてみるならば、ようやくバロック・ルネサンス期をあとにしようという段階までしかいかなかったといえるのだろう。

【うたとその変容】

第1部の3曲を受けて、次のパートでは「うた」の世界が俎上にあがる。すなわち、それは『ギャマット』と『テニスン歌集』である。これらは2012年と2011年の作品で、比較的、現在から遠からぬ時代に書かれたものといえるだろう。原曲で共演するアンサンブルの楽器構成は異なるものの、いずれも歌曲を編曲したものであり、それらを1台のピアノで演奏できる「抽象的な器楽曲」として生まれ変わらせたものだ。ここでようやく、編曲という新しいイディオムが登場したが、どちらの作品もそれ以上の激しい変容を伴うものではない。うたの旋律も、静かに生き残っていた。『テニスン歌集』はこの演奏会ではじめて、「前口上」と3つの歌というパートを区切る作品で、ステップとジャンプを兼ねている。口上の部分とうたの部分は明らかに異なる印象を与えるが、後者はまた別の異化を伴っており、原曲のうたとはまた別の構造が読み取れる。

【独立した4つの解】

最後のパートは4楽章のソナタ形式の出現を念頭に、構築されたのかもしれない。しかし、それらは(当然のことだが)いずれも独立したポジションを支配し、仮に『間奏曲』であっても、なにかの間に弾かれる曲ではなく、ブラームスのインテルメッツォのようなジャンルの作品である。あるいは、また、敢えて数学的に言ってみるなら、この演奏会の結論部分に置かれた4つの独立した解であるということもできようか。

最初の『視覚リズム法』は、作品を構成する4つの楽器のパートが1つずつ変化し、他はまったく変わらないというスタイルで進み、小さな変化を耳と知性がどのように捉えるかというトレーニングのような作品になっている。第2部の作品も同じだったが、原曲はヴァイオリン、パンジョー、スティール・ドラム、電気ピアノ、チューバという面白い楽器構成だったのが、1台のピアノに詰め込まれ、逃げ場のない構造的な魅力がより厳密に確かめられたということになる。案の定、作品は楽器のもつ魅力だけに負うものでなく、その緩やかな変化をつくる作曲家の視点の面白さによるところが大きいとわかったのは収穫である。

『リトルネッロ』は、この第3部「4楽章」構成のなかで正に間奏曲的な役割を果たすのだが、『夏の小舞曲』と同じ即興的な手法で構築された性質がいかにもそれに相応しかろうと思われた。『カッチャ・ソアヴェ』は昨年の作品だが、もともとトイ・ピアノの奏者のために書かれたもので、ピアノ版はこれが世界初演となった。アレンジをテーマにした先の作品を思い出させるが、過剰にトイ・ピアノの音色を追うわけでなく、若干だが、プリパレーションを用いてピアノの響き(一部)を加工したフシが窺える。「その構造を耳で確認することはできない」というのだが、この作品では輪唱の形式が用いられており、近藤が一貫して素朴な形式の異化に関心があることが見て取れるのではなかろうか。

最後の『間奏曲』が、この日のための委嘱初演作品であった。このパートの4つの作品は、なにかしら先行する2パートに存在した作品と対応する部分をもっているが、この作品は線的で複雑な構造という観点において、第1部の『メタフォネーシス』と対比できそうなものに思えた。『間奏曲』という題名は、この作品のモティーフとなったイェイツの詩の断片から、近藤がイマジネイションを広げたところから来ているのであって、その題名自体に大きな意味はないという。もっとも、この作品は近藤が思索を巡らし、新たに発想を生み出す前兆的な「あいだ」に位置しているのも、また確かではなかろうか。作品はまた、不思議な浮力を以て、静かにその詩情を宿し、まだ先があるかのように我々へ背中を向けて、遠ざかっていく。

【近藤譲のわかりやすさ】

近藤の作品は誰も真似ができないほど緻密で、私のような素人が簡単に理解できるようなものでもないはずだが、それでも、その知的なスマートさ、優雅な論理性の放つまばゆい光がもつ魅力について、理解することは簡単だ。例えば、私たちがキリスト教をそれほど深く知らないとしても、宗教的な音楽のもつ雰囲気の清らかさや美しさに感応することが無理でないのと比較して考えればよい。もしも、あなたがアインシュタインの相対性理論について、その理論を多少、かじったにすぎなかったとしても、その尖鋭な発想の特徴に興奮することは可能である。あるいは、もしあなたが宇宙について興味を持ったとしても、それについて理解するための知識はほんの僅か、もっていることにしかならないであろう。それだからといって、あなたが宇宙の神秘や、素晴らしさを実感するのに十分な材料はあるだろう。もしあなたがガロワの群論について、数式も知らず、その概念のみを知っていたとしても、青年ガロワだけがもっていた知性の驚くべき鋭さを感得することとて、無理ではない。

数年前にみたデイヴィッド・ビントレー振付のバレエ作品”E=mc2(乗)”の元ネタ、デイヴィッド・ボダニスの同名の書籍(伝記)では、このようにエレガントなイディオムを多様なアイディアで翻訳し、科学的知見が十分ではない読者にも理解可能なように変質させた。そして、小賢しい読者に対して、知的刺激を与えるだけでなく、娯楽的に十分充実させることにも成功している。近藤の作品もまた、これにちかいクオリティを放っていたのである。そのような意味で、近藤譲の作品は確かにわかりやすいのかもしれない。演奏が終わり、彼の書いたノートを見直してみると、その意図は比較的、簡単に理解することができ、確かにそうだったと納得もできる。その先に、どのような真実や神秘、発見があるかということは、また別の問題なのかもしれないが。

【天使はうたう】

さて、ここまでは井上の演奏というよりは、個々の作品がもつ特質と、それらがリサイタルのプログラム構成に反映されたとき、どのように受け取られたかという問題について、中心的に論じてきた。しかし、実際には、そのこと自体が井上の翻訳に基づいており、いわば重訳をつなげてきたにすぎないのである。彼女の演奏の特質は、それほど長い曲ではなくとも、1曲ごとに袖に戻り、また次の曲を新たに始めるというスタイルにも表れている。また、今回の演奏会では、第1部の3曲のあとに5分間の休憩を入れている。これは近藤譲の作品があまりに緻密につくられていているために、聴き手の受容メモリーがオーバーフローを起こさないようにする配慮ともとれるが、まず第一に、ピアニスト自身にとって必要な時間だったと思えてならないのである。

質のよいピアニストを見分けるポイントは、どれほど音の多い作品にせよ、それらの音のひとつひとつに意味があり、その表現が徹底的に磨き抜かれていることがわかる点にあるのではなかろうか。装飾の多い作品の場合は、主音と装飾音の区別が明確で、しかも大袈裟ではなく、それぞれの役割がハッキリしているのである。近藤の作品の場合は、それほど音が多いという感じはしないが、それだけに、音楽的に聴かせるための結合、もしくは、それ以前の一音ごとの重みというのが決定的な価値をもつはずであった。井上は、その点において傑出した努力のできるピアニストと見做されるのである。

とはいえ、井上は重々しく、アンタッチャブルなものとして、現代音楽を秘仏のように扱う音楽家ではない。彼女はいわばシェルパの役割を果たすのであり、高い山と未熟な登山者のあいだを結ぶ天使なのである。その天使は白と黒のボーダーで清潔な美しさをもつ衣裳に、耳もとに時折、キラキラと輝くイヤリングをささやかに飾って、長くのびてサラリと垂らされた髪といったビジュアルからも印象的であった。しかし、このような曲を弾いて、あれほどまでに親密な、優しい音色を感じさせることができる点に彼女の、彼女にしかない特徴を見出すことができるのだ。現代音楽を得意とするピアニストは、目も眩むような技術の冴えをビンビンに張ったピアニストが多いなかでは、井上は若干、彩りが異なっている。どこまでも透明で、吸い込まれるような魅力があった。その本質は、第2部の歌曲2つにより凝縮して窺えたのである。

【プログラム】 2017年3月5日

オール・近藤譲・プログラム
1、イン・ノミネ(レスニェフスキー風子守唄) @2006年
2、夏の小舞曲 @1998年
3、メタフォネーシス @2001年

4、ギャマット @2012年
5、テニスン歌集 @2011年

6、視覚リズム法 @1975年
7、リトルネッロ @2005年
8、カッチャ・ソアヴェ @2016年 WP(ピアノ版)
9、間奏曲 @2017年 WP

 於:東京オペラシティ(リサイタルホール)

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