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2017年4月26日 (水)

ペドロ・アルフテル ヒナステラ バレエ音楽『エスタンシア』 ほか 新日本フィル ルビー・シリーズ #6 4/14

【カナリア諸島の優しい風】

スペインで活躍する指揮者、ペドロ・アルフテルが、新日本フィルに客演した。同団にはウィーンで同門だった当時の音楽監督C.アルミンクの招聘に応じ、2006年に初めて出演し、プロコフィエフの交響曲第3番などの演目で素晴らしい成果を挙げた。当時は英語読みで、「ハルフター」となっていた。同年の夏、彼の手兵であるスペインのグラン・カナリア・フィルを率いて、再来日を果たしている(そのときは『アルフテル・カーロ』)が、それ以降は本邦との縁が途切れてしまい、NJPへの出演も実に11年ぶりとなる。今回は母国スペインの曲目で固めたが、特にヒナステラのバレエ音楽『エスタンシア』で、ナレーション・歌唱のついた全曲版の演奏は我が国では珍しい例となる。会場は、すみだトリフォニーホール。

1曲目は、指揮者のアルフテルの自作『グラン・カナリアの鐘』。ペドロは父クリストバル、叔父エルネストも作曲家として知られる作曲家の家系におり、その視点から活躍する指揮者という見方もできる。独特の審美眼に基づき、スペインで初演した作品も多数で、同国の音楽文化に果たした功績は小さくはない。スペインの音楽文化は、パブロ・カザルス、アリシア・デ・ラローチャ、アンドレアス・セゴビアのような超新星を輩出したものの、近年まで、欧米では不毛にちかい土地柄だった。しかし、1990年代後半から2007年ぐらいまでの急成長によって、テアトロ・レアル、リセウ大劇場を中心に、一挙に地位を押し上げた感がある。本土からは離れた景勝地カナリア諸島にあるオーケストラにも、その風は吹いたものと思われる。

作品は2013年、議会の設立100周年を祝うために、地元で長く楽団を率いるアルフテルに製作が託された祝典的意味をもつものの、意外にもシャンパン的なところはなく、弱音を中心とする静かな作品だ。スペインというと、とかくドンチャン騒ぎのラテン的な明朗さばかりがイメージされるものの、もちろん、多様な面があるからこその人間だ。グラン・カナリア島には、静かで優しい風が吹き、そこを愛する人たちも穏やかで、平穏なところをを喜ぶのだろう。しかし、大航海時代には、クリストフォロ・コロンボ(コロンブス)もここを起点にして西回り航路へと旅立っていったのだ。つまり、その静かなで美しい海こそが世界に通じているのである。この作品が描く時間を想像すれば、それは多分、「夜明け」だろうと思われるが、それは後に示すような別のプログラムと響き合っている。

繰り返しがモティーフになっているが、スティーヴ・ライヒ的な現代のミニマル・ミュージックに属するものではなく、例えば風や波のイメージとして、それは表現され、僅かに対位法の香りを感じさせるだけの層の重ね合わせにパティシエの繊細さを読み取ることもできる。事前に、動画サイトで視聴できたのだが、その印象はもっと淡彩なものだった。単純に、グラン・カナリア・フィルと比べて、NJPの表現力はずっと高いということもあろうが、実際、音楽と同じ空間を共有したときには、ひとつの風、ひとつの波に、もっと多様な生命感があることがわかるのだ。繰り返しとともに、音の動きの少ない音楽であることも忘れてはならない。この1曲だけで、作曲家アルフテルの身上を語ることはできないが、それを敢えて推し量ろうとするならば、小さい動きだけで、より大きなものを表現しようとする特殊なエネルギーの作り方を模索しているクリエイターである。

一連のモティーフの提示がおわると、それらがより動的に組み合わされ、映画的ともいえる親しみやすいモティーフが出現し、人間の姿も初めてスクリーンへと浮かぶようだった。しかし、その盛り上がりも僅かで、ダイナミズムでは表現せず、いささか層に厚みが加わるだけという具合だ。そこからまたすぐに鳥たちや、空に浮かぶ星々のイメージと入れ替えられていく。題名からは、ヴェルディの歌劇『シチリアの晩鐘(シチリア島の夕べの祈り)』が思い浮かべられるのだが、それは相当に血なまぐさい話だったはずだ。そのイメージは直接、この作品にはないとしても、プログラム全体からすると、島に響く寂しい鐘の音が悲劇と結びつく要素は多少、計算に入れられているのかもしれない。もっとも、解説によれば、サン・サーンスのピアノ作品『ラス・パルマスの鐘』(op.111-4)がアルフテルにインスピレイションを与えたとされている。非常に美しい曲である。

動画の印象と比べて、ゴーンという鐘の音が日本の演奏では大分、重く、複雑だということは気になった。それは明らかに、我々の文化を反映しており、アルフテルもそれが気に入ったのだ。反面、スペインの演奏では、ときどきオルガンの響きのように聴こえる層がきっちりとキープされている。弱音が主体となっており、その分、管楽器の響きのコントロールは難しいはずだが、NJPの演奏はほぼ完璧だった。

【格調高い名演】

ひとつひとつの音のもつ意味を大事にし、全ての瞬間に味わいを与える作曲の発想は、アルフテルにとって、指揮の面にも共通した特徴である。その素晴らしさと、独奏の鈴木大介の格調高いギターの響きが恐ろしいほどに噛み合ったのが、ロドリーゴの『アランフェス協奏曲』の演奏だった。この作品の第2楽章で、冒頭にコーラングレが吹いて、他の楽器が次々に模倣していくメロディは特に有名で、シャンソンやジャズにもアレンジされているほどだ。しかし、その艶っぽいイメージからは遠い悲しみの隠れた曲でもある。そこには荒んだ古都アランフェスへの郷愁と、内戦に引き裂かれた歴史への重い情念が潜んでいるという(自註:ただ、面白いことに内戦の時代を通じて、アランフェスの人口自体は右肩上がりに増加している)。

しかし、そのようなことを頭に入れて、聴いていたわけでは全くない。『アランフェス協奏曲』というと、BBCプロムスなどで世界の名だたる演奏家が爪弾いてみせたり、オケのスペイン系プログラムで客寄せパンダ的に美形のギタリストが弾いていれば、それだけで賞賛がもらえる曲目というイメージだった。ところが、この日の演奏では第1楽章から、まったくちがう音楽の華やかさがあったのだ。慎重に、かつ、しっかりと冒頭のフレーズを爪弾いた鈴木大介に対して、オーケストラの受けも独特だ。どこか音符の形がちがうような響きで、これは素晴らしいことが始まると予感ができた。この曲があるために、わたしはなるべく前のほうに席を取ったが、増幅もなく、大ホールに響くギターの響きの繊細な美しさがこの作品を表現するキー・ポイントにもなっていることを実感する。ひとつひとつのフレーズを考え抜いて、一瞬、アレッと思うような表現も辞さない鈴木の独奏と、一歩一歩、確実に響きを刻みつけていくアルフテルの趣向が照らしあって、ビシビシと胸に突き刺さる最初の楽章だった。

有名な第2楽章は、楽器どうしの関係がきわめて重要な印象を残すように思われた。まず、この楽章はストリングスがベースをつくり、コーラングレが先にも触れた旋律を吹くところから始まっていく。ギターは序盤、伴奏に入り、黒子となって、彼らを支える役割をしているのだ。作品はヴァリエーションのように、各楽器がコーラングレを模倣している間に、いつしか、彼らを支えるギターの響きに視点が移っていき、後半になって、音楽的にはやや厳格ともいうべきカデンツァが出現する。この曲における鈴木大介の演奏は、彼が例えばバッハや武満に向かい合うのと同様の雰囲気で、「格調高い」と表現すべきだと思っているが、このカデンツァに至ると、もう咽ぶほどの苦しさが私を包み込んでしまい、号泣するしかなかった。第2楽章の祈りに満ちた雰囲気は内戦や、作曲家の家族にまつわる逸話と関連して理解されるものだが、さしあたって、そういうものとは全く関係ないところで、深い感動が生じた。例えば家族、死んだ息子への想いなら、第3楽章の冒頭にさり気なく書かれているのが、より興味ぶかく感じられる。それは明らかに子守唄のようであり、その楽章全体は天国の響きで書かれている。エリック・クラプトンの”Tears in Heaven”を思い出す音楽だ。

第2楽章は、ただ響きだけが人間の内面を蝕むというような異色の体験である。もっとも、蝕まれたところには愛が擦り込まれるのだ。ところで、哀愁のある響きはラテン世界やスラヴ圏といった、やや遅れた文化圏で特徴的に愛されるものだが、その秘密の一端は、その音楽がバロック音楽に根ざしているところにも関係しているかもしれない。『アランフェス協奏曲』にみられる、どこか誇らしげな暗がりは、同地の王宮在りし日の深い栄光を象徴する音楽、つまり、バロック音楽に根ざしている感じがした。スペインでは10世紀に「賢王」アルフォンソ10世を輩出して、カスティーリャ国王の余技とは思えない聴き応えのある音楽作品が生まれた。バロックはドメニコ・スカルラッティ以降、一挙にクオリティを高めたといえそうだが、国力の高い地域であったため、音楽的にもイメージよりは分厚い伝統を誇っている。例えば、メゾ・ソプラノ歌手のロミーナ・バッソは、16世紀のアロンソ・ムダーラから、実に4世紀にわたるスペインのユダヤ音楽の歴史を1枚のディスクに収めている。

ギター作品の有名なロドリードだが、初めのうち、意外なことに、あまりギター演奏に深く通じていなかったということで、この作品をつくるときにはヒーノ・サインス・デ・ラ・マーサという名手に多くの教えを受けた。当時、大ギタリストであるセゴビアがスペインで活躍していたが、ロドリーゴは、デ・ラ・マーサに作品を献げた。しかしながら、ロドリーゴの頭のなかにはジュリアーニの作品や、古い時代のリュート作品などのイメージもあったのではないかと想像する。彼の作品から感じ取れるもっとも直截な影響は、バッハのような音楽から来るものだと想像する。

この作品に冷淡だったことで知られるセゴビアは音域が高すぎると感じ、作曲家に調を変えることを勧めたというが、もしも、そういうことに同意してしまったら、鈴木が弾いたような繊細な味わいのうちの一部は、きれいに消えてしまったことだろう。後世、問題になるように、ギターの音量が小さく、大会場に向かないことも、作曲家の思惑を考えれば、自ずと表現のかたちに結びついていくはずだ。彼は確かに民族的なアイデンティティを作品に滲み込ませ、色濃く、感情ゆたかに表現しようとした。それでも、ただ派手なだけの表現は望まなかったのだ。これは、『グラン・カナリアの鐘』の発想とよく似ている。人間には人間らしい、ステロータイプとは異なる在り方があるべきで、この場合、非常に穏やかな表現が好まれているのである。内戦や、家族の事情が絡んでいるなら、尚更、そのはずだろう。むしろ、室内楽的に大人しく奏でられるほうが、この作品らしいものだ。ギターにとって出にくい音も、彼の想いに寄り添って書かれたものにちがいないと思えないだろうか。鈴木が絞るようにひねり出した、あの高い音の印象を忘れることなどできないだろう。

新古典主義的な、美しいが、既に喪われた表現を復活させたかのような表現手法も垣間見られる。喪われたものを大事に表現したいなら、そのような表現に自然と行き着くものだろう。傷ついた王宮、内戦に震える祖国、死んでいった息子といったモティーフにも、見事にフィットする。だが、党派的な感じのする言葉を出すと、ロドリーゴの音楽にいちばん似つかわしくないものと感じられるかもしれない。

【バロック音楽に根ざす国民楽派の音楽】

アランフェスの名演を前にしては、ヒナステラの演奏は多少、霞むという面も否定はできないが、『エスタンシア』も孤高の演奏のなかで望み得る最高のものだった。スペインの音楽がそもそも、本邦の音楽事業からはパージされている印象があるのだが、さらに南米に渡った音楽は、なかなか顧みられることもないものだ。スペインは欧州のなかでも、やや後進的な地域とみられてきた。WWⅡでナチスやイタリアのファシストたちが倒れたあとも、スペインのファシストたちは独伊と距離を置いたために、変わらず政権を存続させた影響も小さくない。彼らの独裁体制がおわるのは、1975年にファン・カルロス国王がフランコの死により政権を受け継いだあとのことだ。パブロ・カザルスは、そんな国の変化を見ることなく死に、抵抗の象徴として望郷の想いも深く、カタルーニャ民謡『鳥の歌』を弾きつづけた。デ・ファリャやアルベニス、グラナドス、ヴィラ・ロボス、ピアソラなどの一部の作品を除いて、スペインと南米の音楽はあまり関心の対象になっていない事情には、そのような背景もあった。

アルベニスやグラナドスのピアノ作品を知ったことも大きいが、私がスペインの音楽に大きな敬意を払うようになったきっかけは、2008年にマリア・バーヨが紀尾井ホールで開いたリサイタルの影響が大きい。トルドラやモンサルバーチェといったプログラムでみせた彼女の歌唱は、スペイン音楽の奥深さを端的に形にしたものだった。また、ホセ・デ・エウゼビオによるアルベニスの歌劇『ペピータ・ヒメネス』の録音(DG)も、私に大きなインスピレイションを与えたものといえる。この歌劇が日本で上演されるとしたら、本当に幸せな夢が叶うことになるのだが。フアン・バレラの原作に基づく作品だが、スペインにはセルバンテスばかりではなく、詩人のガルシア・ロルカなど、優れた文学的素材も多く、歌曲や歌劇のための素晴らしい素材には事欠かない。『エスタンシア』も、ホセ・エルナンデスの叙事詩『とあるガウチョのマルティン・フィエロ』を素材としたバレエ音楽として構想されたが、歌詞をみると韻が踏んであり、古典的な有韻詩の形式に則っていることがわかる。ガウチョとは、アルゼンチンのパンパなどで狩猟先住民との抗争を繰り広げ、一時、英雄視されたが、その後は次第に社会から締め出されていった遊牧民たちのことを指す。

時代の流れのなかで、ガウチョは正負両面のあらゆるイメージに曝されてきたようだが、現代ではモダンな社会に馴染まないながらも、独特のスタイルで時代を生き抜いた民族の男根的英雄としての視点でみられることが多い。ヒナステラは、この『マルティン・フィエロ』の一部から彼らの生活を切り取り、吟遊詩人フィエロが登場する夜明けに始まって、マテ茶を沸かして好いた女が起きるのを待っていると、鳥たちが目覚める朝の風景。詩的で、哀愁に満ちた夕暮れから夜の風景。そして、序奏の再現によって夜明けへと返っていく構造を作り上げた。こうした時間の流れは、最初の『グラン・カナリアの鐘』とよく似ており、『アランフェス協奏曲』の世界観とも響き合っているように思えた。

ヒナステラの『エスタンシア』は当初、バランシンのカンパニーが踊るはずだったものが、その解散によって上演ができなくなり、代わりに編まれた組曲版で広く知られるようになったという。それとは異なり、全曲版は管弦楽での演奏に加えて、詩の朗読とバリトンによる歌唱のつく作品となっている。もっとも、朗読や歌唱は管弦楽の音楽と完全に一体化したものではなく、独特の形式である。そのためか、アルフテルは朗読の場合、歌手を舞台上の下手脇へ顔を出させるだけにして、歌唱の場合だけ、中央へと来るようにさせた。これを担当したのは井上雅人で、場合によっては日本語でのナレーションも考えていたらしいマエストロを安心させ、想像以上に素晴らしいクオリティをもつ語り手であり、同時に、十分な厚みをもったパワフルな歌い手ということを私たちにも示していた。とはいえ、オーケストラの端っこで朗読をするというのは、詩と音楽の距離を乖離させる印象があり、あまり良いアイディアとはいえなかったかもしれない。

作品は、かなり騒々しい音楽で始まる。一見して、民族的な舞踊の音楽だが、レスピーギの作品などでよく知られる「サルタレロ」にちかい毒々しいまでのリズムの攻撃性を感じることもあり、ヒナステラがイタリア系の民族に属するということを考えると、なるほどと思うところでもあった。フィエロに扮するガウチョの独白を、バリトン歌手が詠じる。朗読との対応は、一転して静かな音楽、もしくは無音になっている。夜明けから朝の音楽はインパクトが強いものが多いが、アルフテルの芸風や、こうした作品に慣れないオーケストラの問題なども重なり、どことなく淡々と積み上げられていった印象が残った。当方が物珍しげに聴いていたこともあり、朝の雰囲気は一方で飛ぶように去っていった。ニュアンスゆたかになっていく後半と比べると、前半はいますこしイメージを深彫りにすることも可能だったかもしれない。

もっとも、アルフテルの筆致は繊細な部分に多くのインスピレイションを割いており、勢いでガッツリ盛り上げる世界観には基づかない。むしろ、彼の描く『エスタンシア』からは時折、バロック音楽の変容された(もしくは、そのものとも思しき)響きが聴こえてくるのが不思議だった。私は以前から繰り返しているように、NJPがオーケストラとしてもっている特徴として、ブリュッヘンらによって継続的な指導を受け、古典音楽を描くための特別なルールに通じ、その技法を発展させてきたことを挙げている。その素晴らしさは、こうした場面でも生きてくることになった。日本のオーケストラも近年は目に見える長足の進歩を遂げたグループも多いなか、3つのことが大きな課題になっている。1つは、強奏になったときに厚みを増した際、響きに十分な透明度がなく、雑に聴こえがちとなる点。2つは、対位法的な表現になった場合、演奏から自然と感じられる信仰に基づく表現がなかなか出てこないこと。3つは、古典的なルールに則ったボウイングやアーティキュレーション、呼吸が十分に緻密には聴こえない点である。このうち、第3の点は特に達成しているオーケストラが少なく、私がよく聴く東京のアンサンブルに限定すれば、東響とNJPがそれに当たり、そして、地方では札響にもその特徴を見出すことができる。

この作品でバロックの響きを感じられるのは、例えば、「夕暮れの牧歌」と題されたナンバーなどである。面白いことに、これらの場面は同時に、ヤナーチェクの音楽のような斬新さとともにあり、特に夕暮れ以降の音楽は趣向が深く凝らされて、真新しい息吹に満ちていた。一方で動的な部分はストラヴィンスキー、リムスキー・コルサコフ、そして、バルトークなどの音楽を下地に、ラテン世界と南米の舞踊的な旋律を極彩色で飾っていることになる。「夜の歌」では低音のドローンから鳥たちが眠りながら声を上げる不思議な響きがモティーフを構築し、ハープを含む弦楽器による神秘的なトレモロから、バリトンによるヴォカリーズを経て、あまり抑揚のない節で最後の詩が歌いあげられる。朗読から歌唱となり、いよいよ井上のパフォーマンスにも迫真の力が宿った。夜は深まり、すべては再び寝静まり、夜明けの再生を迎える。死にもちかい、深い夜だ。イントロではやや騒々しいと思えた終結の踊り「マランボ」も、まるで印象のちがう生気を伴って、見事に復活を遂げた。快活で勢いのあるオスティナートのなかで、これまでに味わってきた素材が整然と並べられると、私の場合、リズムの奔流よりは、知的興奮のほうに焚きつけられた気がするのだ。

アンコールでは、この最後の部分がリピートされ、後列にいたパーカッショニストの一部などは必要以上に振りをつけるなどして、最後は理屈にとらわれない音楽の楽しさを体現していたようだ。私のほうは反対に、今度は冷静に音楽の構造に耳を貸してみることにしたが、その緻密なつくりを聴きとると、なるほど、感嘆するしかないのである。遊べるパーカッショニストとは対照的に、弦楽器の奏者は全体の響きをガッシリ受け止めるのに余念がなく、その役割をこなすのにも、なかなか苦労が要りそうな風体であった。ヒナステラの「マランボ」は単体で、南米では非常にポピュラーな音楽であり、その祝祭的な響きに人気があるようだ。しかし、実際にはガウチョの嘆きとセットになっており、「夜の歌」の最後の歌詞はプログラム解説の記述(濱田滋郎氏)に従うと、「不幸なガウチョには、苦しみを訴える相手もいない」となっている。実際、尖鋭な社会運動を展開した詩人のエルナンデスは一時、祖国を追われることにもなってしまう。最後の音楽はやはり毒々しいものでありながら、風刺的な皮肉に満ち、それゆえに圧倒的な可笑しさとエネルギーによって、人々を目覚めさせるのであろう。

『エスタンシア』が特別な作品である理由は、エルナンデスの国民的文学が素材になっており、それに相応しい風刺の効いた鋭い音楽がついていることだ。その音楽の基板となっているのは、バロック音楽であるが、その延長線上にというべきか、バルトークやヤナーチェクに通じる新鮮な要素も見出せる。これら国民楽派の音楽が、バロックに根づいているというのは当たり前といえば当たり前なのだが、興味ぶかい発見かもしれない。そして、このような発見をもたらすほどに透明にしたのは、アルフテルのつくる緻密な音楽なのであった。

【補足】

想像よりも、かなり良い演奏会に満足した。その成功には、鈴木大介と井上雅人という2人の素晴らしい日本人の貢献があった。鈴木のほうは実際の素晴らしさほどではないとしても、事前にそれなりの計算もできたのだが、井上のほうは私にとって新しい「出会い」となった。また、10年以上も前に聴いて気になっていたアルフテルがやはり、優れた指揮者であったと確認できたのも面白いことだろう。その頃の私だって、それなりに良いセンスをもっていたと知ることは素直に嬉しいものだ。下野竜也、フランソワ・グサヴィエ・ロス(ロト)、ペドロ・アルフテルらは、早くからの見込みどおり順調にキャリアと実力を積み上げたが、そうした人材の成長を見守るのもまた、楽しみのひとつである。無論、これは私の審美眼が特別に優れているというのではなく、彼らのもつ能力を見込んで、日本へと連れてきた人たちの功績がまずあるはずだ。ほかには、アンソニー・ブラマル(ブラモール)やヘンリク・シェーファー、ラモン・ガンバ、平井秀明などの名前が印象に刻まれている。彼らとも、またどこかで「再会」したい気持ちはもっている。チャールズ・ディケンズは、次のように言っている。「別れの痛みなど、再会の喜びに比べれば何程のものでもない」。クラシック音楽の楽しみというのも、大体、そこにかかっているように思われるのだ。

【プログラム】 2017年4月14日

1、P.アルフテル グラン・カナリアの鐘
2、ロドリーゴ アランフェス協奏曲
 (g:鈴木 大介)
3、ヒナステラ バレエ音楽『エスタンシア』(全曲)

 コンサ-トマスター:豊嶋 泰嗣

 於:すみだトリフォニーホール

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