2017年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    
無料ブログはココログ

« カンブルラン バルトーク 歌劇『青ひげ公の城』 ほか 読響 567th定期 4/15 | トップページ | フェドセーエフ チャイコフスキー 交響曲第4番 ほか N響 1861st定期 Cプログラム »

2017年5月19日 (金)

ピンカス・スタインバーグ ベルリオーズ 幻想交響曲 ほか N響 オーチャード定期 5/7

【時代的矜持と良心の代表】

以前の来日が放送され、気になっていたピンカス・スタインバーグが、それから12年もの歳月を経て、再びN響の指揮台に立った。オーチャードホールは好きでなかったが、本拠地よりはマシであろうし、前半の独奏がアンヌ・ケフェレックということもあり、聴きに出かけた。メインの『幻想交響曲』も、生で聴くのは久しぶりだ。私の記憶に残っているのは、2006年のジョアン・ファレッタ(都響)による見事なパフォーマンスであり、スタインバーグの前回の来日と大差ない時期だ。私のなかではある程度、「解釈」が決まって、お蔵入りしていた演目ということになる。つまり、それを覆すに正当な根拠、発想力、イマジネイションを発することのできる演奏を選んで聴かなければ、意味がないことになる。さもなくば、私のなかにある音楽が改めて鳴らされるだけであり、目の前で鳴っている音は、ただのカラオケ音源にすぎなくなってしまうからだ。

その点で、スタインバーグという選択は打ってつけだった。父親のウィリアムから2代つづく音楽家の家系であるが、フリッツ・ライナーの急病に際して、コンサートマスターから指揮を執ったのがキャリアのスタートで、やがて、カラヤン等の薫陶を受けて、地に足のついたカペル型の成長を遂げた。豊富な経験を生かし、独創的な音楽の歌い方を展開する絶滅危惧種の音楽家である(昨今の指揮者ときたら、いくら経験を積んでも実にならない音楽ばかりをつくっている)。1945年生まれの氏は現在、70代の前半であり、モーツァルトのソリストを務めたケフェレックとも、ほぼ同世代だ。戦後まもなくの厳しい環境から生まれ、その後、急速に爛熟した音楽環境のなかで、地味ながらも、深々とした青春を送ったこの世代の音楽家は、いまや、クラシック音楽界の矜持と良心を代表している。スタインバーグの父はユダヤ人に対する迫害を体験し、ドイツからパレスティナに移住、イスラエル・フィルの前身を立ち上げ、米国に渡った来歴をもっているわけであり、正に、その子がまた、時代そのものをうつす象徴のようになっているのも頷ける。

彼のつくる演奏を聴いていると、N響にウォルフガング・サヴァリッシュ、ハインツ・ワルベルク、ホルスト・シュタイン等が出入りしていたころのクオリティを彷彿とさせる。とはいえ、単なる懐古趣味というのでもなく、彼の音楽は常に更新されているようだ。

【じわじわと炙り出される毒】

今回の『幻想交響曲』も、これほど人口に膾炙した曲でありながらも、まったく型に嵌まらない演奏であって、まったく新しい曲を聴いたような感覚でいた。そのそも、『幻想交響曲』は、そのような新しさを内包した作品である。ベルリオーズはベートーベンの直後に登場した作曲家だが、それとはまったくちがうタイプの交響曲を生み出したことで知られる。形式においても、音響、管弦楽法、ドラマトゥルギーのいずれをとってみても、ベルリオーズの作品は独創的というほかない。そのせいか、ベルリオーズはこの倒錯した風刺的な作品を正当化するためには、アヘンや夢というものの手助けを得ねばならなかった。

彼の人生を改めて俯瞰してみると、生前は経済的にあまり恵まれず、社会的地位も才能に相応しいほどには向上しなかった。管弦楽法に長じ、宗教的、かつ、愛国的で、壮大な作品に多大なる才能を発揮したとしても、費用対効果という点ではビジネスにならない。近年、劇場がリソースを賭ける巨編オペラ『トロイアの人々』にしても、長く砂塵に埋もれた作品であった。ヨハン・シュトラウスの場合と同様、金満なロシアの支配者だけが、彼の懐にその持ち分に相応しい金貨を詰めることができたのだ。さて、ベルリオーズの立場からみると、その地位を守るためには、理性と信仰が、強烈なロマンティシズムとバランスされて存在することが必要だった。ロマン派時代、ギリシア・ローマ神話がもてはやされた背景には、「現代」では許されないような神々の奔放な振る舞いを、自由に描くことのできる素材だったことも大きいのだろう。この点で、シェイクスピアも同じような意味をもっていた。既に地位の定まった創作家の著名な作品であればこそ、堂々と、そこに描かれている背徳を描き上げることも可能だったのだ。

このような背景とは別に、スタインバーグが構築した『幻想交響曲』は、むしろ古典的な系譜をよりしっかりと踏んでいる。第1楽章の序盤は、艶消しされたような響きに始まり、早速、古典を擬する控えた表現が印象的だ。ノリントンのいわゆる「ピュア・トーン」の悪い影響から、ようやくN響も脱しつつあるのか、響きは削っても、美しいヴィブラートが繊細に動いているのがわかる。そこからメジャーに移り、一転して艶やかな響きが広がるときに説得力があった。時代と、響きがリンクして、ダイナミックに構築される音響世界が、このように予告されていく。微に入り、細を穿つ表現力をもち、スタインバーグが劇場指揮者の特徴をもつとしても、その表現は過剰に芝居がかかってはいなかった。全体的には、カラッとしている。ドラマトゥルギーよりは、構造的な美しさに魅力がある。しかし、それゆえに、じわじわと深い毒が炙り出されるというわけだ。

【革命の明暗】

この作品でベルリオーズが苦しんだのは、恐らくは革命によって生まれた近代フランス国家の明暗と、隣国に生まれたベートーベンという巨大な存在が生んだ明暗である。古典的という点でいえば、『幻想交響曲』は第一に、ベートーベンとの対比が重要になっているが、このことは、スタインバーグの演奏でいっそう顕著である。第3楽章では序盤の内面的描写を静かにこなしたあと、しとしと雨が降り出して、つよい風が起こり、いよいよ「田園」の嵐のモティーフに似た素材が出ると、そのあたりから、(ベートーベンの)作品を巻き戻しながら素材を拾っていき、(音響的にも)ちょうどいい場所で凶行が起こるような形になっていく。あわれな凶事が突発しても、巻き戻しは止まらず、終盤はその彼岸へと辿り着き(ベートーベンの『田園』なら、第1楽章の終結で、汽車が目的地に着いて警笛を鳴らすようなイメージ)、宗教的なモティーフ、対位法が邪に使われ、歪んだ祈りの響きだけが静かに奏でられるのだ。

「恋人殺し」という愛らしくも、神秘的なドラマトゥルギーだけに囚われていると、このように描かれている巧妙な音楽的な対比には気づくことができない。例えば、ジャン・マルティノンの録音は、ドストエフスキーの小説のような深い内面描写で、「ある芸術家」の情念の疼きを徹底的に描き上げていくのだが、スタインバーグの演奏は、それとは対照的だ。内面描写よりも深い、構造的な風刺性に気づくような音楽をつくっていく。それだけ、表現に冷静さがあるのだが、一方、受けてのほうはというと、それほど冷静というわけにもいかなかった。このギャップこそが、知的で、独特な楽しみのある雰囲気をつくっていくのである。

ところで、私がこれまでに聴いた演奏では、第3楽章で起こる凶事は2つに分割される場合が多かった。それはいま、申し上げたような場面と、この楽章の終結のあたりの両方で描かれる。その場合、計画と妄想、そして、実際の凶行が重ねて描かれることになるので、ドラマトゥルギー的にも深みが出るのだ。特に、終盤はオーボエとティンパニの連打だけによって、それが表現されるため、いっそう好奇なオカルトじみた雰囲気を催すのである。スタインバーグの演奏では、そうした二重性はなく、終盤は行為の確認と、内面的な反芻だけに当てられている。静かに自分の行為を眺めるがために、その異常性がかえって際立つのであった。

第4楽章はいうまでもなく、断頭台のモティーフが中心となっている。自由、平等、博愛の標語とともに、フランス革命を象徴するのが断頭台だ。専制主義による弾圧の意趣返しとして、トビアス・シュミット(優れたクラブサンの制作者で、音楽家としても歴史に名を残す)が開発し、ブルボン家王族、そして、のちには、革命側の脱落者たちや、罪もない市民たちのいのちを奪うに至った強力な暴力装置だ。いままでは、この楽章では、恋人の殺害にまで及んだ主人公の倒錯した心理が層を重ねて描かれるところだけに注目し、その死さえもが快活、かつ、豪奢に描かれる大胆さに驚嘆していたものだ。同じモティーフが反復的に繰り返される構図は、しかし、それだけで説明できるものでもない。スタインバーグの演奏では音楽的モティーフからより重大なメッセージを読み取り、「ある芸術家」の個人的なドラマトゥルギーとしてではなく、社会のなかに生きた彼の歴史を物語っている。その場合、第4楽章における殺伐とした響きは、こころも凍る最後の一発だけではなく、あちこちで落下するギロチンの残響として聴こえるのであって、そうしたものが流行した「恐怖政治」の時代を思わせるのである。

ベルリオーズの『幻想交響曲』は1830年に作曲されたが、その年の7月には、いわゆる「7月革命」がおこなわれた。それ以前に、新しい王党派「ユルトラ」による巻き返しは進退を繰り返しながらも、徐々に実を結び、1825年に指導者のシャルルⅩがランスで堂々たる格式に則った戴冠式を執り行う。以後の復古王政が7月革命によって、一部、覆された形にはなるものの、急進的な動きを望まないブルジョアジーの支持を得る形で王族ルイ・フィリップが間をとって交代し、復古の18年後に再び革命が起こるまでは、宙づりの政体(7月王政)がつづく。ベルリオーズのような同時代人にとっては、半世紀ほど前にあった動乱がすぐ目の前に迫っていたことになるのだろう。既に「群論」などで優れた発想を示しながらも、なかなか公に認められない天才数学者のエヴァリスト・ガロワは、1832年に仲間うちの「愛国者」たちとの決闘がもとで死んでしまう。恐怖政治ほどではないしても、ベルリオーズが予見したような、血なまぐさい時代が到来したことの象徴としてみられる事件だ。ガロワがもうすこし安定した時代に生きていたら、先輩のコーシーの支援を受け、その傑出した才能に相応しい地位を築くことも可能だったはずだ。

異常な性向をもった「ある芸術家」だけが、特別ではなかった。今回のスタインバーグのパフォーマンスによって、私は初めて、そのことに気づいたといえる。それだからこそ、次のサバトにも面白みが出てくるのだ。

ところで、この作品に重要な要素として、宗教音楽との関係がある。クラシック音楽は結局のところ、宗教音楽と、その一般化によって、発展してきたといえる。そして、この作品ほど、その関係を如実に物語る作品はない。豊富な宗教的モティーフや、その体現であるところの対位法の表現が、それらとはかけ離れたドラマトゥルギーのなかで活用されていくからだ。例えば、宗教的な作品において、聖なるものの象徴として用いられるトランペットの役割が、この作品では多く、トロンボーンに入れ替わっている。N響のインタビューに答えて、ヘルベルト・ブロムシュテットが話していたように、トロンボーンが象徴するものは死だ。その意味で、トロンボーンが作品に用いられる例は必ずしも珍しくない。しかし、いま申し述べていることは、トランペットが果たすべき役割がそのまま、トロンボーンで代行されているということだ。つまり、これは死が祝福のように響くということを意味するのである。

終楽章はホールの問題で、舞台下手裏に設置された鐘の音は聴こえにくかったが、かえって、目立ちすぎる鐘の装飾のないところでの音響的、内面的な風景の凄まじさがダイレクトに伝わるよい結果となった。この作品は往々にして、この鐘がどうだったか、話題の中心になりやすい。鐘の合間に、音楽の動きを聴くような構図が外れ、その点でいえば、今回は物足りないのかもしれないが、舞台前面の響きがより直裁に伝わった点で、発想の切り替えが容易であった点を喜びたい。スタインバーグも、鐘そのものに決定的な意義を見出してはいないようだ。むしろ、彼の興味の中心は、響きの全体が生き物のように蠢き、厳しいオーガナイズに従って動くエネルギーの凄まじさであった。徐々にテンポを速め、ミュンシュの録音を彷彿とさせるような奔流が豪快に響いた。

【すれちがったままで】

一方、前半の演目はモーツァルトのピアノ協奏曲第9番「ジュノム」だった。フランス人鍵盤奏者ヴィクトワール・ジュナミとの秘められた関係をモティーフにする謎めいた作品は、モーツァルト初期の協奏曲では、もっとも演奏頻度が高い。相変わらず、人形のようなケフェレックが、師ブレンデル愛奏の作品を弾くと、雰囲気も弥増しに増したものである。水が流れ落ちるような下降音型、煙がのぼるような上昇音型、風の吹くような天然始原の響きが聴かれ、モダン・ピアノに封印されたピリオド楽器の音色をなんとか再現しようと試みる女史の工夫に畏れ入った。この作品にも、宗教的なモティーフが個人的な情念と絡めて、巧みに用いられており、風のモティーフなども、2曲で共有できるものだった。この風のモティーフの紡ぐ歴史はいずれ、アイルランド王女イゾルデ妃を運ぶ船のなかで、侍女が窓を開け放った瞬間に、勢いよく吹き込んでくる(悪魔の)不穏な風のモティーフとして、伝えられることになろう。

この流れでは、アンコールにヘンデルを弾いてほしいと願っていたところ、そのとおりに彼女が弾いてくれたので、これは運命だったと思うしかない。その曲のもつ雰囲気で、2曲をつなぐテーマが「悲恋」だったことも窺えるのだ。モーツァルトと、ジュナミの関係は不明のままだが、どうやら片想いの印象が強い。ケフェレックへのインタビューによれば、モーツァルトは珍しく、この曲のカデンツァにも付曲しているという。それだけ想いは深かったはずだが、作品のなかでも、既にすれちがいが窺える。件のカデンツァにしたところで、演奏する側の女性からしてみたら、作曲者からの異常で、行き過ぎた束縛、あるいは、弾き手への信頼の欠乏と解釈できるのかもしれない。あるいは、そのような失敗があったがために、後世、モーツァルトが積極的にはカデンツァを書かなくなったという解釈もあり得なくはない。

演奏会のプログラムに明確なドラマトゥルギーが刻まれている場合、協奏曲のソリストもそれに加担する場合がある。この日のケフェレックもまた、彼女らしく、甘い印象を付け加えた。人々は愛し合う。ただ、すれちがったままで!音楽家と聴き手も同じ。政治と、人民もまた然りである。なお、偶然であるが、当日は、極右指導者の活躍が注目されたフランス大統領選の投票日でもあった。その結果は、ご存じのとおりである。

【プログラム】 2017年5月7日

1、モーツァルト ピアノ協奏曲第9番「ジュノム」
 (pf:アンヌ・ケフェレック)
2、ベルリオーズ 幻想交響曲

 コンサートマスター:伊藤亮太郎

 於:オーチャードホール

« カンブルラン バルトーク 歌劇『青ひげ公の城』 ほか 読響 567th定期 4/15 | トップページ | フェドセーエフ チャイコフスキー 交響曲第4番 ほか N響 1861st定期 Cプログラム »

オーケストラ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/543421/65301064

この記事へのトラックバック一覧です: ピンカス・スタインバーグ ベルリオーズ 幻想交響曲 ほか N響 オーチャード定期 5/7:

« カンブルラン バルトーク 歌劇『青ひげ公の城』 ほか 読響 567th定期 4/15 | トップページ | フェドセーエフ チャイコフスキー 交響曲第4番 ほか N響 1861st定期 Cプログラム »

ツイッター

  • ツイッター

最近のコメント