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2017年5月15日 (月)

カンブルラン バルトーク 歌劇『青ひげ公の城』 ほか 読響 567th定期 4/15

【イントロダクション】

かつて、日本では十分な準備期間がとれないことから、オペラは振らない(振れない)と明言していたシルヴァン・カンブルランだが、その後、読響と関係を深めたあとでは発想を変え、限られたリソースのなかでも、どうにかできないかと可能性を探るようになってきた。カンブルランは生粋の劇場人であり、その可能性を知らずして、彼の音楽を理解することなどできない。氏の構築する知的なプログラムも、ある意味では劇場的なドラマトゥルギーをそれぞれの演奏会にもたらそうとした結果であるとみることもできようか。かくして、読響とカンブルランにとって、節目ごとに刻まれるオペラ公演は活動の柱と位置づけられるようになってきた。『トリスタンとイゾルデ』、そして、『アッシジの聖フランチェスコ』といった目玉上演を中心に、彼らの活動は組み立てられるようになった。現在は、アッシジに向けて、歩を進めている最中である。

とはいえ、この日の演奏会はバルトークに主眼があった。歌劇『青ひげ公の城』の演奏はたった一夜の夢にすぎなかったが、この組み合わせにとって、望み得るなかで最高の舞台となったのである。プログラムはメシアンの最初の公的な作品『忘れられた捧げ物』と、ドビュッシーの交響的断片『聖セバスティアンの殉教』、そして、『青ひげ』というフランスからハンガリーにつづく空想の大河の流れに沿ってプレゼンテーションされた。これらの作品は時間的、空間的、さらに劇的な、ある種の歪みのなかで一体化し得る内容をもっている。多分、「忘れられた」捧げ物とは何かという回答に、青ひげが当てられており、聖セバスティアンは多重的に、この謎解きを読み解くためのヒントになっている。

【民謡と対話】

『青ひげ』については、以前に東京シティフィルの演奏会において、飯守泰次郎が取り上げた際に多くを学んだつもりだ。私は当時、愛欲を通じて、支配者層と被支配者層が入れ替わる風刺的な作品として、これを印象づけるに至った。非常に高慢で、美しく、もはや何でもできるはずだと多寡を括っている気高い女性が、その高慢さによって、かえって陥穽に囚われ、青ひげの所有する別次元の世界を構成するピースへと転落するメルヒェン的な悲劇である。バルトークはいわば、支配者が自ら革命のスウィッチを入れるように仕向けて、女主人を破滅に追い込んでいくような物語を書いたといえる。反面、世界の完成によって、青ひげ自身が幸福になることはなく、寂しく消えていくばかりなのだ。音楽がなくなるときには、すべては燃え尽きてしまうのである。

このオペラは本当のところ、もっと複雑なポエジーを示すはずの作品かもしれない。すべてを知ったあとでも、なお、謎めいた部分が多くあり、竜安寺の石庭のように、1つの位置、1つの視点だけで、すべての石(世界)をみることはできず、それらはいつも、一時的、仮想的に認識されるばかりだ。前回の記事でも、私はそれに類するひとつの思考実験をおこない、ある程度の結論を得たが、それだけがすべてであるはずもななかった。プロット、音響、ポエジー、歌い手の演唱、オーケストラの扱い、演技や、演出の仕方によって、オペラは万華鏡のようにちがう見え方をする。優れた作品ほど、益々、傾向は顕著である。今回は演出面が何もないという前提から出発せねばならなかった。その事情に便乗して、カンブルランはすべて装飾的なすべての手段を取り去ることに決めたようだ。例えば、重要なものとしては、7つの扉が開くときの青ひげの「溜息」がない。シティフィルの公演では凝りに凝って、題名役を歌った小鉄和広が溜息を録音までしていた。それが、今回はないのである。

溜息どころか、まず、扉がない。さすがに鍵だけはなくもないようだったが、ある世界から別の世界に移っていくときの、境目を敢えて明確にしないのであった。プロット的には、ユディトと青ひげは、1つずつ扉を開いていくことになるのだが、本当のことをいえば、既に2人が城館に入る前の場面で、既にすべての扉が開いているようなものなのだ。その後の展開は、想定された結果の確認にすぎない。7つの世界は単純なモティーフの変化によって、明確に区切られているものの、実際には切れ目なく最後の階層までつづいている。そして、通常の発想においては、それぞれ部屋の描写の細々とした美しさに対して、オーケストラの努力が評価されていく。だが、これは本来のオペラの見方ではないと、彼らは主張しているかのようだ。それらは、あくまで背景にすぎない。青ひげの存在そのものも、背景なのだ。彼は多くの場面で合いの手を入れるだけで、同じようなことしか言わない。そして、8割方の台詞はユディトのほうが歌う。これはある意味では、バルト-クが前半生において、丹念に収集した民謡の世界に似ているかもしれないのだ。

カンブルランは、作品が1曲の壮大な民謡だと思ったのであり、その線に沿って、今回の上演を工夫した。歌手の選択にも、その発想は反映されている。ユディト役のイリス・フェルミリオンは、その姿も、歌声も、いま、欧米において特筆できる華々しさと、厚みを備えた歌い手である。一方、題名役にはハンガリー人のバリント・サボーを起用している。それほど頑丈な声はもたないものの、発する言葉には流石にリアリティが宿り、身体から絞り出すような詩的な表情のある歌いくちも特徴的で、それは終幕のポエジーに満ちた歌いまわしで存分に発揮されていた。この組み合わせは、作品の示す民謡的な構造とよく釣り合ってもいる。女性が大いにうたって、男性が合いの手をつける民謡としてならば。

もっとも、民謡に対話はないはずだ。この作品において、バルトークのもっとも独創的な点は、そうした民謡に対話の構造を入れたことである。ユディトのうたう長台詞と、青ひげが絞り出すように出してくる合いの手に、同等の重みがあるのだ。敢えて余分な言葉を弄するなら、人間の発した声そのものよりも、エコーに底知れぬ値が感じられる。もっとも、エコーの部分は単純なら、単純なだけよい。その背景をつくるオーケストラの演奏も、単純さの極致だ。すべての部分が、単純さによってできている。ところが、その組み合わせとして構築されたものには、無限の複雑さがあるというのが、城の全体像を印象づけている。

城には窓もなく、ユディトたちが扉を開いていくと、その分だけ光が入ってきて明るくなる。これは暗い被支配階層の闇が、それまで支配階層のほうにあったユディトのもたらす明るさ、例えば、富や権力といったものによって救われるという政治的暗喩になっているものの、いま、述べたようなことから、音楽的にも暗喩を含んでいるものと思われる。もっともブリリアントな響きは当然、宝物庫と花園を経て、第5の扉(国土)を開いたあと、輝かしく鳴る壮麗なメジャー・コードである。あまりにも壮麗な音楽に圧倒されながらも、ユディトは血塗られた赤い雲に気づいて、ここからは徐々に城の輝きが深い闇に沈んでいく過程を描いていくことになった。この作品は、城の明るさをめぐって、ドラマが明解なコントラストを成していることにも気づくだろう。

【神に祝福された公演】

フェルミリオンのうたうユディトは、女性的な繊細さを湛えながらも、最初から堂々とした主人の風格を兼ね備えている。優れた歌い手だが、裏表がなく、個人的なことをいうと、彼女によく似た知人をもつこともあって、どこか身近な感じがする事情があった。青ひげとの関係では、未知の緊張感は失わないながらも、初めから互いに通じあうものがあった印象を如実に感じさせる。結局のところ、ユディト役の出来如何によって、上演の質は半ば決定されるので、彼女がその位置を占めたことで、驚くほどの順風で音楽が進んだのも当然である。一方の主役はオーケストラであるが、彼らに与えられた準備期間は、決して潤沢ではなかったことが推測される。この公演はトリスタンやアッシジとは異なり、目玉公演というほどの位置づけではなく、1夜限りでもあり、前の週末まではマーラーの公演が組まれていたのだ。ところが、読響は驚くほど完璧に、この作品の味わいを形にしていった。

終演後、指揮者のカンブルランは顔を紅潮させ、傍目にも感極まった表情をみせた。演奏家たちは皆、誇らかに立って、歌手の2人も大はしゃぎという態度をみるだけで、言うことがない公演だったことがわかる。というよりは、神に祝福された公演だった。聴く側の趣味の問題はあろうが、カンブルランが形にしたかったことは、ほとんどオーケストラが実現してくれたのであろう。クラシックの演奏には多様な個性があるものの、極限まで辿り着いた表現には紛れがなく、自ずと似てくるものであるという印象を、私は抱いている。そして、この日の演奏はきっと、そういうレヴェルに達していたのだ。

悲劇的な終末でも、明るい響きに転じて、妻たちを讃える青ひげの歌には、いつも感動を禁じ得ないが、このような部分をうたうのには、出身地(アミアン)とは関係なく、カンブルランの示す南仏的な明るさがよく効いてくるようだった。民謡の構造は入れ替わり、これまで合いの手に徹していた青ひげが、完全に女声を支配する。もっとも、彼は妻たちのことを立てて、虚しく消えていくだけであることは前にも書いたとおりだ。ユディトの後悔や嘆願は、もはや、彼自身にもどうしようもないもので、一見、聞く耳もたない冷徹さも読み取れるところだが、それは実際、彼自身にも、どうしようもない性質のものなのだ。そして、こうした部分こそが、この演奏会の本論だったとみることも可能である。

【忘れられたものの群像】

さて、ここで、前半のプログラムについても振り返ってみたい。前半の2つのプログラムは、ドラマトゥルギーにおいては、イエスと聖セバスティアヌスという殉教者を描く内容であるが、音楽的には、きわめて純粋なポエジーを示している点が特筆できる。特に『聖セバスティアンの殉教』は、もともとが劇に付随する作品であるにもかかわらず、驚くほどピュアな音楽的内容をもっているのだ。ダヌンツィオによる4時間あまりの冗長な劇作品のうち、ドビュッシーが書いた音楽は1時間ほどであったそうで、さらに、そこから半分以下に凝縮した交響的断章は、プロットからは一端、切り離された音楽の詩情に溢れる名品として編み直された。

ドラマトゥルギーとしては、メシアンの『忘れられた捧げ物』が簡潔にすべてを語っている。この作品は10分弱の切れ目ない3部構造になっており、人類のために犠牲となったイエスの「十字架」、それを忘れて「罪」に奔る人々の姿、そして、「聖体の秘跡」による浄化までがワンセットで描かれていく。ドビュッシーとダヌンツィオによる協働の作品は、それがもともと、どういった形のものであったのか、いまではほぼ完全に忘れ去られた形となったが、そのために、かえって意味のある作品(交響的断章)として記憶されるに至った皮肉さがある。そして、『青ひげ公の城』は本来、実り大きく、自然ゆたかに、広々とした土地、それらが血塗られていく歴史、そして、そこで流された涙といったものがすべて忘れ去られたあと、それらの輝きを回復することによって、音楽が圧倒的な存在感を放つということを、我々に訴えている作品で、その点になんとなく共通点が見出せた。

しかし、繰り返していうが、プロット的な複雑なアイロニーに対して、音楽はごく単純という構図が、これらの作品にもっともよく共通する特徴なのである。『青ひげ』では特に、先日のNJPのコンサートで感じたような、バロック的な味わいもよく効いている。国民楽派の音楽は大抵、バロック音楽の要素に根づいているが、そこに遡る中継地点として、19世紀のフランス音楽に立ち寄っている場合も多い。例えば、ヤナーチェク、マルティヌーといったチェコ音楽の巨匠たちは、アルベール・ルーセルに大きな尊敬を置いていた。例えば、マルティヌーはパリにおいて、直接、ルーセルの教えを受けており、ルーセルの師はヴァンサン・ダンディだ。彼はフランキストとして知られているが、彼の尊崇するセザール・フランクはまた、ボヘミアの戦災孤児となり、ドイツにいた親戚に養われたアントニン・レイハ(アントン・ライヒャ)に習っており、遠回りしてチェコに還ってくるのは偶然でもないのだろう。レイハは、ベートーベンの同時代人で、パリ音楽院で教鞭をとり、多くの歴史に残る弟子たちを輩出した。

バルトークの音楽も、フランス音楽を経由することで、よく理解しやすいのである。この日の演奏では、そうした起源がフランスからハンガリーへの、川下りの過程で明らかになっていったと思う。これも、忘れられた要素のひとつだった。バルトークとフランスの関係性はさして強調されるものではないが、この日の演奏を聴けば、驚くほどのマリアージュの深さに感動すら覚えるほどである。逆にいえば、「フランス」「ハンガリー」「ドイツ」というような国籍を考えないで、これらの音楽を貫く特質に注目すべきなのかもしれない。バルトークの音楽は、ヤナーチェクと同じように、類例をみないものだが、ドビュッシーやメシアンの切り開いたフロンティアを共有するには相応しい存在感を示してもいたようだ。

【補足】

メシアンの作品については、秋山和慶と東響の組み合わせで同じ曲を聴いたばかりだが、まったく別の曲のように、2つの演奏が相照らし合うものだったのは喜ぶべきであろう。敢えて比較的にいうならば、読響の演奏の透明度は、東響には真似のできないものであった。絵を描き上げる前に、カンバスを白く清らかにする技術という点では、読響は他のオーケストラにはない利点をもっており、それはカンブルランの時代になって、決定的に深く仕込まれた要素といえる。このような特徴は例えば、ドビュッシーの作品においては圧倒的な効果を発揮する。読響×カンブルランの組み合わせによるドビュッシーは、『おもちゃ箱』のようなちょっとした作品であっても、忘れ得ない体験としてしまうほどなのだ。響きは潤いに満ち、繊細な色彩感ありありとを示す。日本のオーケストラとは思えない響きを、時々、彼らだけはつくることができるのだ。この日はメインのオペラが強烈な印象を残したものの、やはり、ドビュッシーの印象も、それに比して、決して色褪せるものではなかったであろう。

冒頭の発言からもわかるように、カンブルランは生粋の劇場人だから、丁半博打でオペラ公演を打つことはないはずだ。この公演の成功が難しいものであることはわかっていたが、不可能は、この場所では、必ず可能になるという直感があったことが窺われる。直感といっても、そこは周到な準備に基づいている。科学技術の発展をつなぐチャートのように、彼らは論理的にプログラムを組んで、そこで培ったものを先の演奏に生かすようにしているのだ。今回のプログラムはアッシジへ向かう道程で生まれたものだが、同時に、この公演を生み出すチャートのなかにも、十分に論理的な筋が通っていたと考えられるのである。結局のところ、オーケストラの成長は、こうした複雑なチャートを豊富にして、いつでも、高いレヴェルで音楽が構成できる条件を整えることにあるわけだ。読響はその面においても、近年、著しい成果を挙げてきたのである。

【プログラム】 2017年4月15日

1、メシアン 忘れられた捧げもの
2、ドビュッシー 交響的断章『聖セバスティアンの殉教』
3、バルトーク 歌劇『青ひげ公の城』 *演奏会形式
 (Bs:バリント・サボー Ms:イリス・フェルミリオン)

 コンサートマスター:小森谷 巧

 於:東京芸術劇場

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