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2017年6月22日 (木)

ダニエレ・ルケッティ監督 映画『ローマ法王になる日まで』 ”Call me Francesco” @シネマ・カリテ(新宿)

【導入と時代背景】

ダニエレ・ルケッティ監督の映画『ローマ法王になる日まで』を新宿のシネマ・カリテで拝見した。原題のほうがフレンドリーで、『フランチェスコと呼んで(英:Call me Francesco、伊:Chiamatemi Francesco)』となっており、副題は「みんなのための法王」である。中身はほぼスペイン語で出来ているが、映画冒頭に画面へと浮かぶのは英語題である。私の好むのは一部でも、思いきって意味を放棄したような詩的映画であり、史実をもとにする場合でも、より抽象的な表現こそが映画らしいものと考えている(例えば、ミック・デイヴィス監督の『モディリアーニ~真実の愛』)のだが、この作品は史実を若干、脚色しただけのドキュメンタリー・タッチであり、その範囲においては、非常に質の高いものといえるだろう。そして、過度にリリックな表現を嫌い、ほとんど表現に無駄がないということも強調できる。それでも、じわじわと深い涙を誘ったのだ。

映画はコンクラーベを前にしたホルヘ・マリオ・ベルゴリオ(当時は枢機卿だろうが、そのときの身分は敢えて描かれない)がローマの大聖堂を望む建物の屋上で、自ら洗濯ものを干す場面から始まり、教会に彫り上げられたルネサンス様式の偶像たちの美しさを映して、手厚い信仰の情熱を物語るところから始まった。やがて映画は、彼の若かりし時代へと遡っていく。ベルゴリオは当時、仲間たち、家族、そして、恋人を捨てて、信者の減った日本への伝道の旅に赴こうとしていたのである。ところが、彼の情熱的な提案は上位の司祭たちによって嘲笑され、却下された。哀れむような彼らの笑顔に寄せて、やんわりとだが、ブエノスアイレスの教会幹部の腐敗が画面へと見事に捉えられていた。もっとも、それもまた神の導きであったかのように、ベルゴリオは以後、自国の厳しい問題に向き合っていくことになる。あるいは、日本行きの希望も怖れからくるものだったのかもしれない。映画の大半の場面は、アルゼンチンで軍事的クーデターを起こしたJ.R.ビデラ大統領以下の軍指導者のつくる体制下、白色テロを含む強硬策によって国を治めた時代の逸話に基づいている。明日をも知れない困難な状況のなかで、ベルゴリオが命がけで奔走するのと同じくらいに、軍による拉致、監禁、拷問、処刑、謀略が豊富に描かれている。まるで、両者が背中合わせでもあるかのように。

調べてみると、アルゼンチンのカトリック教会には、この時代へと臨んだ姿勢に強い批判も存在するようだ。その批判は映画のなかでも、ベルゴリオが親しくなる女性判事の口を借りて代弁され、彼も口ごもるばかりだった。作品をみる限りにおいて、ベルゴリオは当時のアルゼンチンの教会組織において、要職にあったものの、最高指導者ではなく、自らの考えに反する決定を強いられることもあったようだ。また、教会関係者のなかにも積極的に軍へと通じている者があり、厳しい監視社会のなかで公的な立場にある者としては、自ずと活動も制限された。管区長という立場にあった彼に対しては、軍や政府が直接、手を下す可能性も比較的、少ないのかもしれなかったが、彼自身の言動は厳しく監視され、その周囲で活動する者たちは次々に安全を脅かされた描写がある。

【異常な時代】

象徴的な事件として、世俗時代に化学研究室で同僚だった女性が娘の拉致・拘禁の体験から行方不明者の解放運動に参加するようになったときの逸話が描かれている。彼女たちのグループが集会を開くはずだった教会に駆けつけた軍人たちによって、不当に関係者は逮捕・拘禁され、その夜のうちに薬物を摂取させられた上で、軍用機から海上に投棄されるという事件が起きたのだ。その直前の場面で、公衆電話から彼女に連絡するベルゴリオの会話を盗聴するように、不審な男性がなんとなく聞き耳を立てているような描写があった。彼はこの痛ましい事件から、自分の行動が直接、身の回りの人たちの危険に通じていることを悟り、積極的な行動をとれなくなったという解釈である。

ある種、異常な時代が中心に描かれているわけだが、映画には直接、描かれてはいないとしても、このようなアルゼンチンの政治的状況は、中南米で派生していた共産革命グループの活動を抑える意味で、米国が裏から各国右派勢力を支援したものでもあったのだ。後世、ベルゴリオが教皇に就任したとき、バチカンの広場を映す場面では短いながらも、星条旗がひらめくカットがあるのは、監督による控えめな風刺としてみられるだろう。独裁終了後の場面でも、高位聖職者の秘書官のような女性から、貧民街の土地立ち退き問題に首を突っ込むベルゴリオに対して、「アカなの?」「あなたとは対照的」と揶揄されている。

独裁による暴力と同様に、その後の開発をめぐる貧しい人たちへの仕打ちも過酷なものだった。映画のクライマックスのひとつは、ベルゴリオが貧民街の破壊を止めるために住民グループと警察関係者の間に立って、ミサを挙げ、一時、和解を促す場面となっている。ベルゴリオはそのとき、それまでは問題もあった上司のアントニオス・クアラチノ大司教を担ぎ出しているのも面白いところだ。ベルゴリオと人々とのやりとりで、クアラチノの名前が挙がった場面では、多少なりとも、蔑みの意味がこもっていたように聞こえる。しかし、映画は、必ずしもクアラチノを評判どおりの悪役としては描かなかった。

【弱点のある人】

ベルゴリオは終始一貫して、スーパーマンのように活躍する高潔な司祭としては描かれない。教会組織の一員として、自分にできる最高のことを追い求め、がむしゃらに実践していたにすぎない。それよりは劣るとしても、クアラチノだって、自分の領分のなかで、できることはしていたつもりなのであろう。ベルゴリオが一足ちがいで、神学校に匿っていた政治犯を逃がすことができた逸話からもわかるように、一歩まちがえれば、彼らでさえもたちまち処刑される可能性があった。政府首脳と厳しい交渉をおこなうなかで、もしかしたら、殺されるかもしれないと覚悟したものか、グレゴリオが郷里の母親に会いにいく場面も胸を打つ。なお、この映画では「結び目を解く聖母マリア」の象徴に寄せてか、あまり父親の存在は描かれない。ベルゴリオの父も登場しないし、女性判事の子どもたちの父親で、不倫関係にあるという相手も登場しない。化学研究所にいた同僚の娘は登場しても、その父(同僚にとっては夫)は登場しない。単に無駄な登場人物を減らすための努力をしたのかもしれないが。

ところで、ベルゴリオは総じて、帰属に縛られない人物である。熱烈で強攻的、原理主義的な信仰グループとして知られるイエズス会の所属でありながら、宗教改革を指導したマルティン・ルッターの故地、プロテスタントの聖地であるアウクスブルクを訪れる場面では、いささか戸惑いを覚える。あとから考えてみれば、それは後世、教会の改革者として振る舞う彼を予告するものだったかもしれない(映画では描かれないが)。ベルゴリオは、そこで出会った中米の移民女性から「結び目を解く聖母マリア」の教えを聞き、自らが経験ゆたかな司祭でありながらも、反対に彼女の言葉に救われるという場面があり、この作品の本当のクライマックスといえる部分を構成している。彼は、そのように弱い存在だったので、教えを聞いて深く後悔し、涙ぐんでしまうのであった。そうした弱さから生じた結果の一部がジャーナリズム的な批判に結びついたとしても、人間的な評価とはまったく無関係だというように、映画は描かれているのだ。

ベルゴリオはしばしば、ひどく怯えているようにも見える。それも当然であったろう。聖職者がすべて、死をも怖れないというような存在ではないのだ。一方、身近な者の死に対しても、深く感情的になる場面はさほど描かれない。これら2つの顔が、ベルゴリオに対するルケッティ監督の省察につながっているように思われる。つまり、彼は普通の人間として、教会組織のなかで、いわば官僚的に生きるひとりの人物の奮闘を描いたにすぎない。独裁政権下で神学校に踏み込んだ軍人も、ナチスのアイヒマンと同様に、自分は命令に従っているだけだと主張していた。だが、ベルゴリオは、自分に命令するのは良心のみであるといって、彼を暗に批判する。同時に、ベルゴリオは慎重で、いのちを大事にする姿勢をもっている。彼は周囲の友人たちに、しばしば慎重に行動するように呼びかけていたが、彼らは必ずしも助言には従わなかった。それはそれで、立派な態度だったのであるが、自分よりも立派と思われる人たちが先に死んでいく辛さたるや、ベルゴリオにとって、いかばかりの苦しみであったろうか。彼は教会の権威や立場も守らなくてはならないし、悔しさや悲しみを押し殺して、ときにはいのちを賭して闘いもするのだが、基本的にはじっと待つことに堪える人だった。

それは、クールなことなのか?

【最高のテーマは愛】

映画の序盤、彼はひとりの女性との別れから出発することになる。ある種、冷徹な決意であっても、彼の行動には常に愛があることの象徴とわかる表現だ。作品の訴える最高のテーマは、彼のもつ愛の深さにこそある。信仰や正義よりも、それが先に来なくてはならないのだ。彼は貧しい人たちをこそ、まず真っ先に、ふかく愛す。それが、他の人とは異なっているのであろう。どれほど道を過ったとしても、その愛だけは決して否定されることがない。エンドロールに重ねて、ラビリンスのような貧民街をいき、彼がときどき若者たちに話しかけながら、歩く姿が映されていたのも象徴的だった。

作品のほとんどすべての場面に登場するベルゴリオ役は、ロドリゴ・デ・ラ・セルナ。ウォルター・サレス監督の『モーターサイクル・ダイアリーズ』で、中南米の革命家、チェ・ゲバラの相棒役に挑んだのにつづき、歴史ものでの出演である。彼の演技の飾らない素晴らしさというのはあるが、それ以上に、名もなき脇役や、エキストラたちの姿にこそ、真の感動が潜んでいた。音楽的には、アルゼンチン・タンゴ風のギターの響きが、場面によって、微妙に変奏されて流れるのが興味ぶかい。

この映画を語るためには、いま、書いてみたように、ほとんどすべての部分のプロットを語り、用いる必要がある。それほどに、無駄のない映画でもあった。重く、苦しく、全体で2時間もないのだが、ずっしりとした時間が流れていく。そこに刻み込まれた教皇の半生を、じっくりと味わいたい。断片的なものとはいえ、いくつかのミサの場面は信徒以外にも、特別な緊張を強いる。僥倖であった。

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