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2017年6月28日 (水)

ダニエル・ブレンドゥルフ リムスキー・コルサコフ 交響組曲『シェヘラザード』 ほか 読響 名曲シリーズ 6/13

【3つのキー】

スウェーデン出身の指揮者ダニエル・ブレンドゥルフの、多彩なアイディアに驚かされた公演だ。1981年、ストックホルムに生まれた音楽家は、まずチェリストとして、トルレイフ・テデーンやハインリッヒ・シフの教えを受けて、立派に道を拓いていた。のちに指揮者に転向し、ヨルマ・パヌラの手解きを受けることになったという。そのせいか、指揮の動作などは先日、来日したサントゥ・マティアス・ロウヴァリとよく似て、からだ全体を駆使するものだった。驚くべきは、そのヴァリエーションゆたかな曲づくりのアイディアだ。メインのリムスキー・コルサコフの交響組曲『シェヘラザード』は、ロシア音楽の繰り返し(オスティナート)の伝統を反映して、似たような音素材が重ねられていくなかで構築される作品だ。その形式がシンフォニックな構造に寄り添っており、なおかつ、リムスキー・コルサコフ独特の多彩な管弦楽の歌わせ方と相互作用を引き起こして、今日、もっとも有名で、華やかと目される作品のひとつとなっている事情がよくわかった。

ブレンドゥルフのもつ音楽性の多彩さは、既に最初の曲目から印象づけられる。シベリウスの組曲『レンミンカイネン』からの「トゥオネラの白鳥」だ。シベリウスにとっては初期の作品だが、1896年の最初の演奏から、今日のように4曲が揃って出版されるまでには、半世紀以上もの歳月を費やした。神秘的で、すべてを語りきらないワーグナーの『ワルキューレ』第1幕の雰囲気をつよく醸し出す作品であり、それぞれの場面を美しく具体的に描き出しながらも、繊細なダイナミズムを静かにコントロールしていく。当時のシベリウスによるワーグナーに対する深い思い入れを感じさせるものの、既に猿真似の領域ではなく、シベリウスらしい精細な絵画性がよく滲み出る演奏でもあった。北欧の指揮者に特有のソット・ヴォーチェは、シベリウスの透明度の高い表現を自ずから象徴するのだが、ブレンドゥルフもまた、この作品では控えめながら、それを用いている。

シベリウスはもともと、この作品をオペラとして仕上げるつもりであったらしいが、荒涼とした寒空に、トゥオネラ川に遊ぶ白鳥とじっくり向き合うレンミンカイネンを描き上げるだけでも、この始末である。長大なオペラを仕上げようとすれば、どれだけ長い人生があっても足りないと思われたのであろう。結局、彼は終生、オペラ作家としての道を封印し、シンフォニックで、濃厚なポエジーに溢れる作品の大家として歴史に名を残すことになった。

この演奏会のプログラムをつなぐキーは、3つある。まずは、①薄暗く、謎めいていて、悲劇的な筋書き。②繰り返しや似たような素材を巧みに料理して、人を驚かせるテクニック。③楽器のもつ音色を最大限に引き出すためのバランスや、様々な工夫である。

【トゥオネラの白鳥】

最初の『トゥオネラの白鳥』では、『ワルキューレ』第1幕がそうであるように、「死」が象徴されている。トゥオネラ川は、我々にとっての「三途の川」と同じ象徴だが、それよりも、まず、音楽的に深い陰影がある。ただ重苦しいのではなく、この世の音楽とは思えない透明な神秘と美しさがあるのだ。その結果として、私たちが普通、見慣れないもの・・・すなわち、「死」を連想させるという仕方をとっている。序盤から聴こえる、どこか馴染みの「牧人の笛」・・・それはカンブルランの『トリスタン』で終幕を情感ゆたかに描き上げ、長閑で、謎めいたコーラングレの響きを聴かせた北村貴子の出す音だった。ある種の寛いだ雰囲気が、緊張感に満ちた寒々とした荒野に響き出したのだ。生まれたての未熟な英雄を包むかのような、不思議な光のようなサウンドに守られ、場面ごとにコーラングレが歌い継がれていくのが、ブレンドゥルフの演奏ではいっそう鮮やかに描かれる。そのヴァリエーションは笛吹きの努力だけで巧みにつけられていくわけでなく、オーケストラとの深い対話のなかで、次第に移り変わっていったのだ。

【宮田大の特別なパフォーマンス】

2曲目は、ショスタコーヴィチのチェロ協奏曲第1番だ。第3楽章に長大なカデンツァを含むチェリストにとっては重要な作品で、ブレンドゥルフとしても思い入れのふかい作品にちがいない。師のひとりであるシフの録音を聴くと、よく似ていた部分もあったが、その演奏の指揮を務めた作曲家のご子息でもあるマクシム・ショスタコーヴィチ氏と比べると、バックのオーケストラはずっと尖鋭に束ねられていた。この日のソリストは、宮田大である。彼の演奏を聴くのは記憶に残っている限りで2回目だが、今回の演奏には本当の意味で、敬服した。このパフォーマンスならば、ブレンドゥルフとしても異存はあるまい。

第1楽章はかなり速い演奏で、ショスタコーヴィチらしい風刺性という観点からみれば、それほど強いインパクトを感じるものではない。むしろ、演奏からくるイメージは友人も多く、サッカーのようなスポーツを愛したという作曲家の性格的な明るさをよく描き出しているようだ。「また同じことをしている」と揶揄されたいかのようにもみえる、ショスタコーヴィチ特有の旋律を用い、機敏に動く楽章の機動性をさらに高めている。カデンツァを含む中間2楽章は、第1楽章の華麗な特徴と比べると、一転して、重い哀歌の風情を宿していた。もっとも長いモデラートが、この作品の心臓部になっていることは誰にでも読み取れるメッセージだが、さらに、ショスタコーヴィチは長いカデンツァを独立させて第3楽章とし、作品のもつ味わいを丸裸にする工夫を採っている。

ショスタコーヴィチの作品は厚みのある独奏を用意しているにもかかわらず、フランコ・ベルギー楽派的な華麗な技巧性や、特殊奏法は限定的であり、シンプルな旋律を野太くうたうチェロの持ち味を重視している。そして、バックの響きが分を弁えながらも、よく響くことで、その持ち味がより直裁に生きるようにできていた。ただし、バックにいるオーケストラのチェロはあまり浮き立たせないようにするところが、ブレンドゥルフの繊細な配慮を示しているだろう。その部分は、独奏にすべての印象を向けるべきだからだ。宮田の弾くチェロはファルセットを含めて、すべての音域で切れ目なく、自然な歌を流すことができることで特徴的だった。これに加えて、機動的な部分では、宮田がチェロのボディのあらゆる部分を生かす独特なクオリティを持っていることも明らかになり、このことが私に衝撃を与えたのだ。

大抵の弦楽器奏者はある決まった道筋を思い描いて、楽器の筐体からフルに安定した響きを引き出すことを通じて、演奏している。ところが、ヴァイオリンのスヴェトリン・ルセフや、ヴィオラのアントワン・タメスティの演奏を聴くと、いささか異なる印象を抱くのだ。彼らのつくる響きはより多彩で、ひとつの楽器でいろいろな響きがする。ハーモニクス等のテクニックが優れていることもあるが、それ以上に、響きのヴァリエーションが底から充実しているのだ。宮田もまた、こうした特別なアーティストのひとりであり、かつ、楽器が大きいだけにいっそう顕著に特徴がわかる。彼の演奏を聴くと、まず楽器の様々な部分を使ったように多彩な響きがして、まるでチェロがからだ全体を使って、歌っているような印象をもつ。そして、特に機動的な場面では、それぞれのフレーズに最適なからだの動きがあるように思われて、その対応を聴いているのがなんとも面白いのである。

後者の面白さがもっとも際立っているのが、終楽章であった。独特な舞曲の味わいを弾きながら、それに付け加えて、抽斗も豊富に、チャーミングな響きを披露してくれたのだが、聴き手がそれに浸っていると、ほとんど時間を感じる暇すらないほどに短く思われた。終盤は、それまで謙虚だったチェロ独奏がプレゼンスを引き上げ、オーケストラの雲の上に浮かびあがって、壮麗なステップを踏んでいくときの迫力が静かに、物凄かった。もっとも、オーケストラを厳しく抑えて、独奏部を引き立てた上で、要所ではぐっと開放するブレンドゥルフの華麗な演出も見逃せなかった。

【限界のない多彩な発想力】

前半2曲の演奏だけでも、ブレンドゥルフに対する印象は素晴らしいものとして、残っただろう。しかし、ここから先が、彼のもつ只ならぬ可能性をより顕著に示すことになったのだ。私は事前にいくつかの動画や、NMLの録音(指揮、もしくは、チェロの双方)を検討し、SNSの投稿において、ブレンドゥルフが先頃、ベルリン・フィルのトップに立つことが決まったキリル・ペトレンコにつづく素養があるのではないかと予言していたが、その言葉がこれほど見事に、現実のものとなることまでは想像できなかった。私が聴いたなかで、彼ほどに強い可能性を感じる中堅・若手の指揮者は他にいない。同門のロウヴァリ、ロレンツォ・ヴィオッティロベルト・フォレス・ヴェセス、そして、既に高いステイタスを得ようとしているクシシュトフ・ウルバンスキエイヴィン・グルベリ・イェンセンコルネリウス・マイスター、我らが山田和樹。面白い人材は意外に多いのだが、器の大きさにおいて、ブレンドゥルフこそが一番星だ。

後半の『シェヘラザード』は、やや予想を上回る強い音圧で始められた。獰猛な王の主題である。それによって打ち砕かれたような難破船のイメージが、月明かりに優しく照らされる。ヴァイオリン・ソロはコンサートマスターの長原幸太だが、有効な表現の起伏が少なく、艶やかに作品を彩るというところまではいかないものの、まずは自分のところでぶち壊しにしない精確さを第一に期して、その面では十分に及第点であった。ここから作品は前述のように、ロシア音楽の繰り返しの伝統を引き継ぎながら、旋律を大事に使い、歌を重ね、響きを変えて、帆船が進むがごときペースによって、じっくりと詩情を宿していくことになる。最初の楽章の作り方は、それまで見せてきたものと、さほど変わらなかった。しかし、古今東西を通じ、傑出した管弦楽法の達人であったリムスキー・コルサコフの作品とあって、前半と比べ、かなり響きは多彩になったのは間違いない。

もっとも、ブレンドゥルフの解釈は王朝絵巻風の豪華さを欠き、絵画的に大胆な筆致というのはあまり見られない。ルーベンスの絵画がもつような圧倒的な雰囲気、あるいは、優れた小説や叙事詩のもつプロットからくるロマンティックな表情は、この演奏会における主題ではなかった。これらに代わって、彼がこの作品において強調するのは、音の構造を巧みに用いた表現の奥深さであって、シンフォニックな構造を利用した重層的な音響の味わいや、変容である。モティーフが重ねられ、オスティナート的に展開するほどに、ブレンドゥルフはいっそう見事に変容を展開した。もうないだろうと思っても、必ず次のアイディアがあったのだ。

前半のパフォーマンスなら、彼が示す魔法使いのごとき、変幻自在の舵取りの巧さに魅入られたはずだ。しかし、『シェヘラザード』のような作品においては、それだけでは通用しない。それまでに見せてきた彼の姿では退屈であり、眠気を誘ったことだろう。多くの指揮者たちは、より豪華に、厳しく響きを攻め立てることで、そんな部分にヴィヴィッドな特長を与えてきたものだ。ところが、ブレンドゥルフは一貫して、優雅な音楽の使徒であった。しばしばバレエ音楽のような密集した音組織が機能的に動き、それがひとつのコンセプトをつくっている。この作品はなにも、バレエのためにつくられたわけではないが、ミハイル・フォーキンはのちに、この作品に振り付けて、今日にも残る古典作品のひとつとして尊重されている。先賢のプティパが振り付けたアドルフ・アダンの『海賊』を意識したのかもしれないが、フォーキンのように優れたコリオグラファーでなくとも、作品から肉体的、舞踊的なインスピレイションを得ることは難しくはないだろう。もっとも筋書きの上では、フォーキンは王が密通を知り、愛妾を自死へと追い込む「千夜一夜」以前の事件に焦点を当てており、敢えて描き上げるドラマトゥルギーをずらす発想をみせていた。

バレエ音楽のような能動的な機動性をベースにしながらも、ブレンドゥルフは巧みにオーケストラのもつソリスティックな魅力を嗅ぎつけ、悠々と生かしつつ、ダイナミックに展開していく。まず、音楽の展開力には推進力があり、ダンサーがいなくとも、その動きに聴き手は食い入るように注目する。ダンサーの役割を果たすのは、楽器の響きがもつ魅力であった。その素材を大事に扱っていけば、場面ごとの印象は意外と簡単に決まっていく。もっとも、楽器ごとにもっともよいパフォーマンスを引き出すための勘どころは異なり、その余裕をつくるのが指揮者の役割である。指揮者は奏者たちがどのような間合いやスペースを欲しているかを正しく把握し、オーケストラ全体が共有できる落としどころで、表現をつくっていくことになる。例えば、ルバートなど、テンポのコントロールがそのための有力な武器になる。もっとも、これは諸刃の剣であって、下手にやれば、音楽は途端に優雅さを失い、いかにも人工的で、不自然な表現となってしまうだろう。チェホフは「文章は形容詞から腐る」と言ったそうだが、同じように、音楽も修飾から腐るのである。

管弦楽における修飾は、ダイナミズム、テンポ・コントロール、バランス、アーティキュレーション、強調という5点によって決まってくる。ブレンドゥルフは、これらの要素を絶妙にブレンドして、音楽に様々な表情をつけていった。例えば、「テンポ・コントロール」に関していうと、「ルバート」とは局所的にテンポの進みを止めて、弾くべき音符をあとに寄せるコントロールである。ブレンドゥルフは構造的な美観を崩すことなく、多彩なルバートを中心として、ソリスティックな響きを存分に引き出しながら、優雅な音楽を保ちつづけた。中には、ウィンナー・ワルツのルバートにちかいものまであったが、そうしたもののユーモアは十分に感じさせながらも、決して不自然とは思わせないところが巧みなのである。

むしろ、そうした部分では、時代背景について感じさせるところがある。改めて調べてみると、『シェヘラザード』が書かれた1888年には、ヨハン・シュトラウスの率いるウィンナー・ワルツのカンパニーは、円熟の最中にあった。シュトラウスの仕事は父親の存命中の裏街道での活躍から、楽団の継承、ロシアや新大陸など世界での活躍、劇場音楽への進出という形で発展していくが、1874年には既に喜歌劇『こうもり』をヒットさせ、『ヴェネツィアの一夜』『ジプシー男爵』など、今日、上演されるほとんどの演目が既に完成されていたという時代である。『シェヘラザード』という作品が、どのような環境のなかで生まれたのか、これでハッキリする。フランスでは1875年、ガルニエ宮建設を境にして、それまでのマイヤーベーアやグノーといった素朴な素材から、ドリーヴ、マスネといった洗練されたものが生まれてくる。やがて、バレエ・リュスの活躍も始まることになるだろう。リムスキー・コルサコフは、歴史的な興行師となるセルゲイ・ディアギレフの師匠でもあった。自身の才能の不足を、彼は周囲に集めた音楽と舞踊、それに美術の天才たちによって埋め合わせ、時代を席巻することになる。

ブレンドゥルフは見せかけの大胆さや、華麗さにはあまり興味がないが、それにもかかわらず、各場面は雄々しく自立して、華々しい印象を絶やさなかった。いくらでも力強く、派手にできるのに、あるいは、ロマンティックに、甘くもできるのだが、それらにはいっさい興味がなく、1頁ごとに丁寧な仕事を重ねていくことで、結果的に深い印象を塗り重ねていった構図である。その理知的な演奏スタイルは、ちょうどエルネスト・アンセルメの演奏を想像させた。細部を疎かにせず、中弱奏を中心に繊細な表現を組み立てていくところも、よく似ている。だからこそ、テンポのコントロールもあざとくはならない。ルバートをやれば、そこに組織が組織のまま、整然と、華々しく流れ込んでいくのである。そのまま、次の展開へと大胆に突き進むことも可能だし、一歩、退いてみるのも面白い。

フォーキンがその作品で示したように、筋書きは、こうした作品であまり意味をもたないものだ。最初と最後だけ、僅かにドラマトゥルギーが働く。その間にあったのは、ただ圧倒的な音響のドラマだけであった。その最後のドラマとは、ほんのりと寂しげで、この日の演奏会を覆う仄暗いテーマが貫かれたことがわかる。深い熱狂にもかかわらず、じっくりと噛みしめるように盛り上がった会場の雰囲気が印象的だった。ダニエル・ブレンドゥルフ。この名前は、つよく脳内に記銘していて損はないはずである。

【プログラム】 2017年6月13日

1、シベリウス トゥオネラの白鳥~組曲『レンミンカイネン』
2、ショスターコヴィチ チェロ協奏曲第1番
 (vc:宮田 大)
3、リムスキー・コルサコフ 交響組曲『シェヘラザード』

 コンサートマスター:長原 幸太

 於:東京芸術劇場(大ホール)

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コメント

ブレンドゥルフやっぱりかなり良かったですよね。
あの白鳥はオペラの予定だったのですか。
彼の音楽限りなくオペラ仕立てなのにあざとさの無さが好印象でした。全体を通してあれだけ細かく掛けてたルバートに機敏に反応した読響も見事でした。
この指揮者は私も要チェックです。

トゥオネラの白鳥は、カレワラからとった筋書きをもとにしたオペラ作品の序曲となる予定になっていたようです。この作品から、完成したかもしれないオペラを想像するのは楽しいことです。

確かに、オーケストラも素晴らしかったですね。名曲シリーズで、定期よりは位置づけの低いシリーズですが、効率のよいリハーサルができたものと想像します。

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