2017年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    
無料ブログはココログ

« ダニエル・ブレンドゥルフ リムスキー・コルサコフ 交響組曲『シェヘラザード』 ほか 読響 名曲シリーズ 6/13 | トップページ | フーゴー・ヴォルフ 『イタリア歌曲集』 太田直樹(Br)、天羽明惠(S)&花岡千春(pf) 7/20 »

2017年7月13日 (木)

クァルテット・エクセルシオ ブラームス 弦楽四重奏曲第2番 32nd 東京定期 7/8

【日本では彼らにしか組めないプログラム】

この日のクァルテット・エクセルシオ(エク)の演奏会のプログラムは、日本のなかでは、彼らにしか組めないよう演目が並んだ。その内実は、すべてメインで通用するほどの十分なクオリティをもっている。しかし、ベートーベンの後期作品、シューベルトの「死と乙女」「ロザムンデ」のように、ニックネーム付きの著名な作品と比べると、広く知られてはいない。ブラームスだと、3番は比較的、よく演奏されるものの、2番となると稀だ。作曲年は、2年しかちがわないというのに。

あるいは、シンフォニーを書き上げる前に、ブラームスはこうした作品で手馴らしをしたとも考えられる。なぜなら、SQは交響曲第1番の前年に仕上げられた第3番が最後となっており、ブラームスが主に関心をもつ分野ではなかったからだ。ベートーベン、シューベルトなどの先達による仕事が凄すぎて、挑戦する意欲がわかなかったのかもしれない。さて、いつものように、ブラームスはこの作品における弦楽器の表現において、友人のヨーゼフ・ヨアヒムの助言を受けており、彼のモットー「自由、然れども、孤独(FAE)」の素材を挿入している。今日、「孤独」といった場合には、あまり良いイメージとはならず、特に人々が群れる国ニッポンでは、例えば「ぼっち」ほど寂しげなキーワードもないものだ。しかし、ロマン派の時代には、若干、矛盾を伴うはなしだが、真似のできない単独者のところにこそ、有為な人たちが集まったというわけである。

エクは年2回の定期公演を中心に、音楽ホールなどと連携した活動を定期的に行ってきており、このようなグループは、今のところ、彼らの他にはない。彼らは初期から高い技能と、めくるめく発想力をもったグループであったと思われるが、しばしば欧州から出るような、はじめから何事にも完璧なアンサンブルとは若干、趣が異なっているのかもしれない。彼らはできることをひとつひとつ鍛え、自分たちの武器として獲得してきた。学生時代からやってきた彼らの活動に出会うのは遅く、私の場合、2005年に初めて耳にしたのだが、それ以来としても、彼らが一時も絶えることなく、常に成長しつづけていく姿を追い続けることができた。このブラームスにおいて、彼らはまた、新しい一面を手にしたといえるだろう。

【眠気も吹っ飛ぶほどの凄艶】

ブラームスの2番は、交響曲でいえば、第4番のような苦みのある作品だ。ロマン派的な響きの味わいは深いものの、重苦しく、まっすぐではない。SQの作品としては、ほとんど過剰ともいえる濃厚な重ね合わせと、緻密な構築。辛口のブランデーの味わい。これらの反省点から、つづく第3番では長調の作品にして、フルーティな古典的テイストへと反転させる。もっとも変ロ長調なので、見かけの爽やかさと比較して、深みのある味わいが感じられる部分も放棄したわけではない。だが、ここでブラームスは、あることを悟ったのだ。シンフォニーにおける音響的、構造的理想と、室内楽で求められるものとでは本質的に差があることを。第1番と第2番は op.51-1、op51-2 で、それ以前に多大な犠牲を強いながらも、ようやく作品集に固定された2曲である。これらはいずれも短調で、縦の重なりが濃厚に組み立てられた和声的な作品といえるだろう。

このような作品においては、横のつながり、つまりは旋律的な問題はさほど重みがないものだが、ブラームスの2曲においては、いずれも断片的なものとはいえ、旋律が重要な意味をもっている。もっとも、その旋律らしきものは常に身を潜めるようにして存在し、その発展も慎重で、完全に熟すか熟さないかのタイミングで、いつも掌のなかに隠されてしまうのだ。少なくとも、エクの演奏では、そのように解釈されている。

この日の3曲では、最初のベートーベンは既に、全曲ツィクルスを達成したこともあって、既に自家薬籠中のものとなっている。シューベルトの11番は独特の仕掛けを試し、まだ粗削りだが、我々に最近のラボでの成果を披露するものだったという印象を受けた。そして、ブラームスの2番こそが、正にいまの瞬間、十分に煮込まれたパフォーマンスだったと見ることができようか。op.51 の作品のどちらでも、エクはいま、自分たちが手にしつつあるレシピの素晴らしさを表現できたろうが、そのうち、満を持して、メインに据えられた2番の魅力は多くの聴き手に伝わったものと思いたい。

この作品で決定的に重要なのは、4人のコミュニケーション能力だ。緻密な対話に基づき、旋律の流れをどこで、どのように切るのか、そのギリギリの凌ぎあいがなければ、作品は自律しない。そして、その前提として、ひとりひとりの奏者が自分自分の物語をつくっていく発想力と、かつ、それを自在に語るための音色と動きのヴァリエーションをもっていなくてはならない。これが見事につながった第1楽章は特に、眠気も吹っ飛ぶほどの凄艶であった。

【シューベルト初期作品の特質】

シューベルトの D353 は、この演奏会のテーマからみると象徴的な作品ということもできるだろう。つまり、この作品はかつて、カール・ツェルニーの証言が重用されて、より後期の作品として扱われていた。歴史的要人のメッセージに加えて、内容的にもそれに相応しい印象を備えていたことが決定的だったのだろう。しかし、後世の研究の結果として、この作品はシューベルトが10代のうちに書いた作品であるという考えが一般的になっている。もっとも、早熟なシューベルトの場合には、同じような時期に、交響曲ならば、第5番のような完成度の高い作品も書き上げていることから、何の不思議もないのだ。若書きで、知名度もあまりないとしても、作品はそれとは何の関係もないほどに充実したものであった。

この日はいまひとつ、うまく弾けていなかったが、冒頭のフレーズで、その中央に第1ヴァイオリンで挿入される高音の装飾が、この作品のすべてを物語っているといっても過言ではない。全体的にみても、この作品は豊かな装飾に彩られた古典趣味の作品としてみられるだろう。あるいは、それを擬したサロン文化の成熟を垣間見せる。作品そのもの、構造やそれを構成する素材や哲学の美質というよりは、まず演奏し、聴く楽しみが重くみられている風が窺えるのだ。然れども、誰もが気軽に弾けるという安易な作品というわけでもなかった。一見、単純なようだが、一筆書きのように連結し、パズルのように知的に組み上げられていく構図を完成させるには、たった一コマの扱いさえ、邪険にすることはできない。西野のヴァイオリンが最初のところで若干たりともノッキングを起こし、それをカヴァーするために調整された僅かなタイミングが、ほとんど全体を台無しにしたというほどの厳しさがあるのだ。

もっとも、「台無し」というのは明らかに言葉が過ぎるが、全体がひとつの編み物のように連動している構造的な感覚は、後期の傑作とも共通している。特に舞踊楽章以降に現れる音楽の活き活きとした表現は、この日のエクにとっても、よく表現し得たところであった。また、既に述べたように、細々とした装飾をひとつひとつ丁寧に彫り上げて、作品の華やかな特徴を端的に伝えた点でも評価に値する。シューベルトの D353 の作品は、自らの作品群の発展の基底にあって、潜在的な充実を既に内包しており、過渡的な作品ではあるが、それ自体が多様な解釈を可能にするイマジネイションに満ちた佳作である。

【もっともシンプルな発想に基づくベートーベン】

ベートーベンの op.18-2 がもつシンプルな曲調と、濃厚でシンフォニックなブラームスの作品の間をつなぐのも、シューベルトの役割だった。エクのベートーベンということになると、結局、昨年の全曲ツィクルスはついに1曲も聴くことなく終わってしまったが、これまでの経験を含めて考えると、きわめてスタイリッシュな形にまとめられている。もっとも、当然ながら、そのスタイルも作品によって濃淡があるが、この日の演奏は、徹底して自然な味わいに仕上げられていた。ベートーベンだからと無理に背伸びするところもないし、反対に、モーツァルト・ハイドンへと過剰に歩み寄る風でもなかった。早速、エクらしい独自の曲づくりが窺える。最初のほうでも述べたように、彼らは多分、この作品がメインでもおかしくないと思って弾いているわけだが、だからといって、それに見合った重々しい表現をとろうとはしないのだ。ありのままで、その重さがあると表現しなくてはならない。

この作品では、一種の余裕のようなものも感じられたが、とはいえ、そうしたゆとりが、楽曲の表現に若干の隙を与えた可能性は否定できなかった。逆にいえば、エクは今回、この作品をもっともシンプルな形で、例えば料理でいうと、素材に少し塩を振って炙った程度の手の加え方で、聴き手に印象づけてみようと図ったのかもしれず、それならば、半ばコンセプトは成功している。この視点で演奏会全体を振り返ると、構造が骨組みを露わに示すベートーベンと、徹底的に艶やかな装飾を施されたシューベルト、そして、何事も深く燻されてから用いられ、厚く構築されたブラームスという具合になる。前半のプログラムはこれだけ味のある作品の、意図に満ちた演奏であったにもかかわらず、私にとっては、まだ問題提起に留まるパフォーマンスと思われた。そして、ある程度は予想どおりだが、実際にはかなりの驚きを与えるレヴェルで、ブラームスの2番はエクにとって、近年、もっとも素晴らしいパフォーマンスのひとつに数え上げられてもよいほどのものだった。

【結び】

2012年の定期では、同じくブラームスのSQ3の演奏がおこなわれたが、当時の感想は、「この作品の演奏はこれから始まる、という印象をつよくもった。その道を追えることが常設としての、彼らのメリットなのである」というものであって、この5年間で、3番と2番というちがいこそあれ、エクが着実に道を歩み、不十分だった答えに実をつけ始めているのを感じることができた点は、ファンとしても大いに喜ばしい。エクがまた、新しいものを得たのだ。そのようなことが常に感じられるグループである点は、初めて、その演奏に出会ったときから変わらない特徴ともいえる。例えば、私が最初のうち、とても強い感銘を受けたアルカント・クァルテットとか、レ・ヴァン・フランセといったようなグループは、それぞれの楽器でとびきりの名手の集う華やかなアンサンブルだが、何回も聴いて、楽しみになるようなパフォーマンスは求められない。多少、レパートリーが変わっても、本質的には何も変わらないのだ。だから、もう彼らのコンサートが日本であったとしても、私にとっての優先事項には選ばれなくなっている。

エクの演奏会に足を運ぶ人たちは、さすがに耳が肥えているようだ。前半のおわった後の反応と、後半のブラームスでは、まったくリアクションがちがう。これがある意味では、エクの作り上げてきたものの本質だろう。確かに、そこのパフォーマンスにはある程度、目途がついた。だが、私が期待するのは、実のところ、シューベルトだ。彼らは後期の作品において、既に日本の室内楽を牽引するアンサンブルとして、どこに出しても恥ずかしくないパフォーマンスを獲得している。それは普遍的で、スケールの大きいものだろう。新しく彼らが取り組みはじめた分野は、そのスケールを小さくしていく方向にあり、その分、細かな部分の表現をより美しく、繊細に築き上げていくことが必要となる。それゆえにこそ、我々のための表現という気がするのだ。西野が第11番の冒頭部分で、構造にチャーミングな装飾を入れる部分は、H.I.F.v.ビーバーが有名な『ロザリオのソナタ』で、あるナンバーで弦をクロスさせて十字架の形をつくって演奏させたような、ある種のバロック的な趣味を感じさせる。それと同時に、まるで瑞々しい女性の首筋に、きらりと輝く可愛げなネックレスをかけるようなファッショナブルな印象も感じさせるのだ。

既にエクは、ハイドンやモーツァルト、ベートーベンの集中的なシリーズで、多くを得てきたのであるが、このシューベルトのプロジェクトが順調にいけば、彼らは一段と優雅な気品を自ずから手にすることになるであろう。私は正直、この日の演奏には満足感を得なかったが、そういうときのほうが、エクの将来にとっては面白いのだ。これまでの例が、そう示している。シューベルトの初期から中期のプログラムで、ここ数年のうちに行われる彼らの仕事は、特に必見である。

【プログラム】 2017年7月8日

1、ベートーベン 弦楽四重奏曲第2番 op.18-2
2、シューベルト 弦楽四重奏曲第11番 D353
3、ブラームス 弦楽四重奏曲第2番 op.51-2

 於:東京文化会館(小ホール)

« ダニエル・ブレンドゥルフ リムスキー・コルサコフ 交響組曲『シェヘラザード』 ほか 読響 名曲シリーズ 6/13 | トップページ | フーゴー・ヴォルフ 『イタリア歌曲集』 太田直樹(Br)、天羽明惠(S)&花岡千春(pf) 7/20 »

室内楽」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/543421/65512631

この記事へのトラックバック一覧です: クァルテット・エクセルシオ ブラームス 弦楽四重奏曲第2番 32nd 東京定期 7/8:

« ダニエル・ブレンドゥルフ リムスキー・コルサコフ 交響組曲『シェヘラザード』 ほか 読響 名曲シリーズ 6/13 | トップページ | フーゴー・ヴォルフ 『イタリア歌曲集』 太田直樹(Br)、天羽明惠(S)&花岡千春(pf) 7/20 »

ツイッター

  • ツイッター

最近のコメント