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2017年8月 4日 (金)

フーゴー・ヴォルフ 『イタリア歌曲集』 太田直樹(Br)、天羽明惠(S)&花岡千春(pf) 7/20

【ヴォルフのイタリア歌曲集】

フーゴー・ヴォルフの『イタリア歌曲集』全曲(46曲)を、ソプラノの天羽明惠、バリトンの太田直樹が歌い分け、花岡千春がピアノを弾いたリサイタルを楽しんだ。日本にいると、ドイツ歌曲の演奏会はシューベルトとシューマンの作品がほとんどで、女声は他にリヒャルト・シュトラウスを取り上げてくれることもあるが、他ではベートーベン、メンデルスゾーン、マーラーを時々やるぐらいのものでしかない。ブラームスやシェーンベルク、現代のアリベルト・ライマン、そして、ヴォルフなどは、もっと意欲的に成果を積み上げてほしいレパートリーだと思っている。

とりわけ、ヴォルフは声楽家にしか取り組めない領域であるといっても過言ではないので、私がもっとも深く敬愛する作曲家のひとりは、日本では、もっとも無関心にさらされている作曲家というほかない。彼の名前はしばしば、ブルックナーの追従者のひとりとして聴き手の目に触れることもある。恐らくは、彼が優れた歌曲の作り手であり、若くして亡くなったことも、それなりに知られていようかと思う。ところが、その作品が実際、どれほど凄いものなのかということについては、なかなか伝わりにくいのである。ヴォルフの作品としては、アイヒェンドルフ、ゲーテ、そして、メーリケの詩による出来のよい歌曲が知られている。それらの詩は決して、近寄りがたいほど難解なものではないとしても、深淵で、ときには本歌取りのように、宗教や文学、哲学についての一定の教養を求められるように感じるかもしれない。

しかし、『イタリア歌曲集』では、もうすこし身近な素材が取り上げられている。作品は後年、ノーベル賞を受けることになるパウル・ハイゼがドイツ語に翻訳したイタリアの世俗的な詩集からインスピレイションを受け、付曲したものである。ハイゼは22歳のときに1年間、大学の給費を受けて旅したイタリアの印象をもとに、数々の傑作を生み出していったということである。ドイツの知識人にとって、イタリアはある種の安らぎを与える場所、もしくは、そのイメージで捉えられている。ヴォルフが傾倒したワーグナーにしても、しばしばイタリアを訪れて、中でもヴェニスのヴェンドラミン・カレルジ家を定宿としたことはよく知られているが、運命の最期には、その場で息を引き取った。ヴォルフはこの歌曲集と、弦楽四重奏による『イタリアン・セレナード』により、自らの抱いている文学的、音楽的な当地のイメージを体現した。さらに直接、イタリア的な要素が色濃く出ているわけではないが、ヴォルフ晩年の作品にミケランジェロの詩に付曲したものがある。

さて、ヴォルフの『イタリア歌曲集』で歌われているのは、ほぼ男女の色恋に関するもので、46の形が示されている。それらは必ずしも、一貫して歌われる必要はないものだと思われるが、すべて歌ったとしてもそれほど長くはなく、近接するナンバー同士の関係が非常に面白くできてもいる。NMLを用いて様々な録音について調べてみると、1番から順番にナンバーどおりで歌っていくものは、ほとんどないといっても過言ではないほどだ。その中で、シュヴァルツコップとフィッシャー・ディースカウがまるでお手本のように、番号順に歌っているのだが、調性のバランスや明暗をみながら、自由に構成して歌っているものが多い。全曲を歌っても70~80分程度には収まり、1曲の長さは1分にも満たないものから、長くても2分程度のものまでであり、例えば番号順に歌っていった場合には、ほとんどダイナミズム的な起伏は感じられない。すこし感情的な、激しいナンバーが出た場合も、直後に、それを茶化すような歌詞で始まったりすることがあり、意図的にクライマックスを構成しない発想さえも感じられるのだ。多くの歌手たちは、そうした特異な構成に畏れをなし、自然な波をつけるために番号を入れ替えたりして、歌ったりしているのであろうか?

ヴォルフは最初、1890年から91年の間に22曲を書き上げ、その後、アイディアの枯渇に悩みながらも、合間を置いて残りの24曲を書いて、全46曲を完成させた。先に調べた録音では第1集と第2集を特に意識せず、例えば1番(第1集)の次に39番(第2集)を歌ったりしていることもザラであるが、今度のリサイタルでは、第1集の22曲は、その範囲のうちで並べ替えられ、第2集は24曲のなかだけで曲順を工夫している。この姿勢は4年もの中断を経て、作風にも変化が生じたらしいことを考えると、学術的にも意図のあることと思われるが、私はそれについての詳細な解説はできかねる(リンクに参考資料を示す)。

【太田の雰囲気がもたらすもの】

この日のリサイタルは天羽の歌声で、溌剌とスタートした。天衣無縫な歌いまわしを見せ、自由に歌い演じる天羽と、あくまで真摯に、格調高いリート歌いとして振る舞う太田のマリアージュも、当夜はよく嵌まっていた。2人はほぼ常に傍へ立って(1mほど外すこともあったが)影響し合い、歌ってないほうも表情を変えたりして、オペラ的な表現も取り入れている。そして、ピアノの花岡も伴奏者として、背景をゆたかに盛り立てるだけでなく、男女のやりとりを批判的に観察する役割を果たしていた。詩の内容からみて、太田が歌うには年齢やビジュアルからみて、若干、艶っぽいところもあるのだが、それがまた、不思議と味わい深く聴こえるのは、どうしてなのだろうか?

太田は途中から椅子に座ったりして、いっそう落ち着いた雰囲気を醸し出していたが、その周囲で、コロコロと動く天羽の動きと、これも好対照で面白い。作品は男の側が動的で、セレナーデを歌いにいったり、修道士に扮して目当ての娘のところを訪ねてみたり、忙しい。反面、太田のパフォーマンスが容易に動じるものでなく、足場が固まっていることで、歌詞のもつ若々しげな特徴がいよいよ際立つのである。

【イタリア歌曲集の多様性】

ヴォルフの『イタリア歌曲集』はシンプルだが、言葉と音楽、そして、鍵盤で弾かれる伴奏のマリアージュが精巧につくられており、完璧な美しさを誇っている。詩句がいささか凝った表現であっても、その意図は明確で、ある意味、明け透けでさえある。ハイゼにとって、イタリア語の詩の翻訳は初期の仕事に属するのであろうが、ヴォルフはキャリア終盤の、もっとも脂の乗った時期に作品を手掛けている。あるいは、これはヴォルフの天才が閃くことのできた最後の時期であり、1903年に40代そこそこで亡くなるまで、ほとんど時間が残されていない。人生のおわりには梅毒の害に苦しみ、自殺を試みたり、まともな活動に勤しめるような状態ではなかったからだ。作品には、二面性がある。戯けていて、ユーモアに満ち、大衆的である一方、人間の見方はシニカルで、描かれる情感的なものも意外に深いところへと届くのだ。

作品に出てくる46の恋の形は一見、大衆的であるが、ときにはより高い階層が下々の気分になって楽しむような娯楽としてみることもできそうだ。例えば、かなり多くのナンバーで、男が女の家の前に現れて、ドン・ジョヴァンニのごとく、セレナーデを歌って、相手を誘おうとする古典的な趣味がみられる。また、市井の恋愛関係では、男女の仲が親の介入によって妨げられることは、実際には少なかったと思われるが、いくつかのナンバーでは、手厳しい親の反対が恋人たちの間を切り裂こうとしているのである。これには、イタリアという土地柄も影響しているのだろう。ローマ教会のお膝元であるイタリアはカトリックのつよい影響下にあり、表立っては純潔な関係や、親子の絆というようなものが強調される土地柄であった。宗教的な倫理観というものをまったく無視して、『イタリア歌曲集』の性質を論じることは不可能だろう。それが前提にあればこそ、表現できる音楽というものもあった。

【曲順の構成と表現】

曲順の構成と、その表現についても、深く検討しておきたい。このリサイタルを読み解くためには、緻密な構成によって浮き上がった、いくつかのドラマトゥルギーの流れを整理しておく必要がありそうだ。既に述べたように、第1曲は女声で始まった。天羽の溌剌とした歌声を生かす意味もあるのか、このリサイタルは全体として、表情ゆたかな女声のオペラ的表現に対して、男声が言葉を慎重にかさねて、雰囲気を落ち着けるという役割を担っている。これは、歌い手それぞれの個性から自然に導かれる表現スタイルでもあったろう。言葉の扱いは2人とも細かく、丁寧だ。序盤は、女が1曲うたうと、男声が2つ返すような割合で進んでいた。まず、最初の3曲は、2番「遠くへ旅立つと聞いたけど」を抜いて番号どおりだが、互いに個性に合ったものを選んで、各々の特徴を端的に印象づけるのには幸便であった。その調子で、4番「誰があなたを呼んだの?」に入り、男が「いい気なもんだね、綺麗な娘さん」と返すところから、ドラマが動き出した。実際、男の曲は12番であり、ここで曲順は初めて大きく飛んだことになる。

ここから、ヴァイオリンの音色を真似てピアノが響きを奏でる特徴的な「ずっと前からあこがれていた」まで、対話的な雰囲気で進んだ。数曲の間、一旦、筋書きが途切れ、ピアノの響きが大きく雰囲気を左右するナンバーがつづく。ある意味で、花岡のパフォーマンスが主役である。マーチ風の響きが印象に残る「戦地へお出かけの若い兵士さんたち」は、さり気なく世相を映し出しながらも、女性のもつ母親的な部分をも描き出したトリッキーな魅力に満ちている。レチタティーボ的な部分から、カヴァティーナ的な表現に遷移する面白い構造をもつ「なぁみんな、坊主にでもなってみないか」、さらに「あなたの魅力がすべてありのままに描き出され」までは、先に述べたような宗教的なものとの関連(反動も含めて)も窺われ、その主要なテーマは「平和」だと思われる。

ところが、直後のいくつかのナンバーは、男女の交錯するこころがシニカルに歌われており、心中、平和を願う男と女の気持ちとは裏腹に、穏やかで幸福な時間は、いくつかの条件によって切り裂かれていく。例えば、家族の問題もそこにあった。深みのあるナンバーもいくつか挟んで、「仲直り」までつづき、女の涙で締め括られるシーケンスは前半のハイライトを構成している。男が和解を切り出して、19曲「わたしたちは長い間黙りこんでいた」で、それが成就する場面は感動的な構成と思えた。第1部の終盤は、第1集のなかでも選りすぐりのロマンティックなナンバーが並んだといえるだろう。「わたしの恋人が家の前で、月明かりのなか歌っている」は母親が関係に介入し、娘はベッドのなかで血の涙を流すというような歌詞だが、コミカルな「セレナードを奏でるためにわたしはやってきました」と並べられ、悲劇的で生々しい表現はやや抑えめである。

第2部に入ると、歌曲の対話性はいっそう増して、2人の関係はいよいよ距離を縮めていく。天羽はより遠慮なく、ストレートな人物像を歌い、衣裳もグリーンからスカイブルーに替えて、髪型だって、やや若々しげに垂らされたように見えた。男のほうも男のほうで、前よりも誇り高く振る舞い、容易に譲らない。構成は自然に刺々しくなり、その分、表現は大げさに聞こえ、おかしみも増していくのであった。男は徐々に疲れて、時折、激しながらも、あの手この手と関係を沈めようとするが、終盤の女はもはや、何を言っても聞こうとはしないのであった。だが、そこに生じる雰囲気は絶望というよりは、喜劇的である。方々に恋人がいると歌う46番「ペンナにわたしの恋人がいる」によるフィナーレに向けて、ほぼナンバーどおりとはいえ、愉快な構成であった。

【想いの詰まった歌曲集】

この作品は親しみやすく、簡潔だが、反面、多くの想いが詰まっている。一見、どこにでもありそうな男女のやりとりが、人間の奥深い衝動の根源、情感の機微に張り巡らされた襞のすべてにわたっていることが分かるが、それだけでなく、戦争や宗教、家族の問題、死と生、宇宙、嘘や欺瞞、旅立ち、伝統的な習俗、料理、建築、草花、カラーなど、これほどに豊富なものが歌われている曲集は、なかなか見つからないだろう。

また、第1集と第2集の冒頭には表向きの詩情に加えて、創作論ともとれる表現が窺われる。例えば、「小さいものでも」は短くシンプルな詩集を、真珠のように美しく価値があり、オリーヴの如く、暮らしに欠かすことができないほどに、ばらの花のようにかぐわしい曲集として仕上げたという矜持を示しているように見える。第2集冒頭に入れられた「どんな歌をおまえにうたってあげたらいいだろう」も、正に歌詞どおりに誰もつくったことがないような作品を仕上げるために、どうすればよいかという、それまでのヴォルフの苦労を語るものともみられるのではなかろうか。既に述べたように、ヴォルフは第1曲の22曲を仕上げたあと、4年の中断をはさんで、残りの曲を完成させている。「どんな歌を・・・」は最後に完成した曲ということだが、それを敢えて第2集の冒頭に据えていることは興味ぶかい事実であろう。もっとも踏ん切りさえつけば仕事は早く、第2集はたったのひと月ほどで完成した。閃くような天才と、泥沼にはまり込むような苦悩が裏表になっているかのようだ。

天羽、太田、花岡千春によるこの日のパフォーマンスは、そのような才気煥発さを仄めかしながらも、ひとつひとつ丁寧に彫り込まれた表現が印象的だった。歌詞については、大意をプロジェクターで壁に映し、開演前、休憩後、そして、最後の曲の直後にはユーモアのある言葉も気楽に浮かべられた。非常に意欲的なコンサートだが、友人をもてなす宴のような心づかいも忘れていなかった。いま述べたように、歌詞の大意だけは表示されたものの、私はリンクのサイトより対訳を印刷して持参したことで、より深く楽しむことができたと思う。歌曲のリサイタルで、事前に曲目がわかっており、かつ、その言葉に十分、習熟していない場合は、こうした準備がものをいう。正直なところ、言葉に馴れていないにもかかわらず、ヴォルフの作品は歌詞とその内容、音楽の対応がきわめて精巧につくられているのがハッキリわかる。このような作品は、地図をもって聴くことで味わいも倍加するのだ。しかし、最高の地図はもちろん、対訳ではなくて、演者のパフォーマンスや、構成から導かれる印象にほかならない。私がその印象について、多少なりとも立体に書けていたとしたら、それは幸せなことと思う。最後に3人の歌い手とピアニストに、感謝と尊敬の言葉を捧げて、結びとする。

【プログラム】 2017年7月20日

 ○ヴォルフ イタリア歌曲集(全46曲)

 Br:太田 直樹 S:天羽 明惠 pf:花岡 千春

 於:ハクジュホール

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