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2017年9月20日 (水)

ラモー 歌劇『レ・パラダン』 ジョイ・バレエ・ストゥーディオ 再演 9/1

【正統派の舞台づくり】

ジョイ・バレエ・ストゥーディオは、2012年の『プラテー』を皮切りに、再演を入れながら、『レ・パラダン』『優雅なインドの国々』とラモー作曲の3つの作品を、フル・スペックでレパートリー化した素晴らしいカンパニーである。私は初回の『プラテー』をみて、このブログのなかで好意的な評価を示した記憶がある。その後、このカンパニーの公演に関心は強かったが、なかなかタイミングが合わずに、これが2度目の視聴となった。『レ・パラダン』は2013年プレミエからの再演であるが、この日の指揮も担当したパリ市立音楽院(CRR de Paris)教授であるステファン・フュジェと、過去の公演でプラテー役を歌った著名なテノール歌手、エミリアーノ・ゴンザレス・トーロのサポートを受けて研究を進め、未だ公刊された現代譜のない作品から、いくつかのピースを現代譜に起こして世界初演する栄誉にも恵まれた。

なお、『レ・パラダン』は2005年にシャトレ座の引っ越し来日公演があり、ウィリアム・クリスティ&レザール・フロリサンによって、日本初演されている。その公演には、以後もコンビでオペラ上演に新鮮な風を送り続けているドミニク・エルヴュとジョゼ・モンタルヴォによるダンスを中心とした演出が施され、日本ではほとんどみられない密度の濃いオペラ表現によって話題を浚った。フランスのプロダクションらしくシャンパーニュ的な派手さに満ちて、一瞬も観客を退屈させることのない驚くべき舞台だった。だが、作品は同じでも、ジョイの公演はやや毛色が異なっている。

その一端は、a’=392Hzという低いピッチによって象徴されているように思われた。一般にピッチ数が高いほど、聴き手に対して聴き応えのある印象を与えやすいものだ。冷戦時代など、オーケストラは対抗する陣営に対して、少しでも華やいだ響きを見せつけることを念頭に、トップ・オーケストラは競ってピッチを上げて演奏したという話もあるぐらいに。一方で、a’=392hzというのは、当時から用いられていたオルガンのピッチなどを参考に、そこから現代の楽器で演奏しやすいピッチに調節した時代的なスタイルであるといえる。今日の標準的なピッチからみても、かなり低めの調律となるため、すこし鄙びたような質素な響きがするはずだ。そして、あまり大きな箱(会場)には向かず、サロン的な公演に向いていると思われる。もっとも、この日の会場である練馬文化センター(こぶしホール)は2階構造で全1400席を数えるため、上演意図に対して、あまり手ごろとは言えなかったのかもしれない。

音響的には、きわめてデッドである。客席前方をピットで潰した公演は非常に貧弱な序奏の響きから始まり、我々をいくぶん心配させた。しかし、尻上がりに調子を上げていき、特に歌手のサポートの部分ではよく訓練されていて、特に弦のクオリティの高さは当初から耳を惹くものだった。3つに分けられた幕間のコーチングも効いたのであろう。歌手陣も幕をはさむと、すこしクオリティが上がるという風なことが多かった。多分、このようなホールにおいて、表現者はまず、自分のおこなっているパフォーマンスを客観的に把握することが難しかったと想像できるのだ。

【意外なほどつよい音楽への敬意】

公演の総指揮を執るのは、バレエ教室の錦織佳子女史である。この『レ・パラダン』においては意外なことに、バレエ・カンパニーの公演としては控えめすぎるほどに、歌劇に寄った演出であった。例えば、初稿譜から現代譜に新しく起こされ、世界初演された第3幕のアティスとアルジの二重唱では、トラディショナルなオペラ演出のように、2人の歌手が僅かな振りを演じ、客席のほうを向かって歌うだけだった。それだけなら、音楽的な新しい成果に対する敬意を払うものとも解釈できるが、いくつかあるバレエ中心のシーンでさえも、その振付はキッチュで、複雑さに欠けるものばかりだった印象である。そのような場所を埋める未成熟なダンサーの愛らしさだけが、観客に好意を抱かせる。件のデュオは音楽だけで引き立たせるにしても、つづいて聴かれるアティスの独唱では、繰り返しを上手に用いて、舞踊を組み合わせることも可能だったはずだ(例えば、繰り返しごとに踊る人数を増やしていくなど)。

音楽に対する深い信頼と敬意が、このような形で表現されていることは悪いことでない。だが、『プラテー』において、純粋なオペラ制作者にはない瑞々しい発想をビリビリと感じさせたものが、『レ・パラダン』からはごっそり喪われてしまった。こうなると、単にオペラが死ぬほど好きなクリエイターが、基本的にはオペラをやりつつ、少しずつバレエやバロック・ダンスといった彩りを添えるという程度に感じられてしまい、どっちつかずの印象を残すことになった。同じものを愛する者としては、決して不快ではないのだし、もしもマダムと席をともにすることができたなら、すこぶる楽しいのではないかと思う。しかし、客観的にみてみると、この舞台は『プラテー』のときほどは、よくできていないようだった。一方で、シャトレ座の洗練された舞台と比べても、歌の魅力については、よりハッキリと彫琢されていたといっても過言ではなかろう。

歌手たちも、いちいち歌曲をうたうような丁寧さで、それぞれの場面を披露している。ヒロインのアルジ役は高橋美千子で、2014年の『プラテー』以降、同カンパニーの公演には連続出演している。同じ市立音楽院の出身でパリ在住、フュジェ氏の指導も受けており、この公演で助力を得られたのも彼女の力添えがあったからと想像できる。もっとも、フュジェ氏とともに、高橋はプレイング・マネージャのような存在であり、経験の少ない歌手アンサンブル全体が彼女の歌唱に影響を受けていたようなのも明らかだ。私がみたジョイの『プラテー』初演の舞台は、あまり著名とはいえないが、個性的なスキルをもった歌唱陣を見事に集めてきて、印象的な公演をつくったことにも勝因があった。しかし、この公演は高橋を中心に、がらりと陣容を変えている。彼らはまるで和歌の交換をする平安貴族たちのように、気品のある歌いまわしをめざしたかのようであった。パシッパシッと音を立てて篝火が焚かれ、幽玄な雰囲気のなかで行われる能楽と狂言の間のようなものというイメージで捉えられた。ときどきは、そこに歌舞伎の要素も入っている。あるいは、先に述べたピッチの問題も考えれば、英国バロックのような独特な雰囲気である。

【技巧的な歌唱のスタイルと今回の上演】

しかし、歌のみに焦点を絞った公演だけに、よく目立つのだが、作品の性質からみて、この上演において選ばれた歌唱のスタイルが本当に妥当なものだったかについては疑問も残るのだ。ラモーは50代になってから頻りに舞台作品の制作に携わるようになり、『プラテー』もまた、1745年に60代で書いた作品なのであるが、『レ・パラダン』はさらに15年後、最晩年の作品となっている。独特な声種を集めているものの、さほど技巧的ではない『プラテー』と比べると、『レ・パラダン』は技術的にも相当に精巧な要素が増えている。

ラモーは生前から尊敬を集め、亡くなったときには国葬が行われたほどの人物だったが、反面、同時代のブフォン論争では筋を違えたオペラの象徴的存在として、ルソーらの啓蒙派によって槍玉にも挙げられた。既に自らの音楽のスタイルを確立したラモーがそこから直接的に、何らかの変化を遂げたとは思えないが、リンクにみられるような論争の経過によって、結果的に、ラモー派とリュリ派の対立は氷解し、ラモーの行使できる音楽的自由も広がったように思われる。晩年の『レ・パラダン』は『プラテー』ほどは感情的にゆたかでなく、ABA式の歌の構造も露骨な古典趣味であるが、そこに技巧的な表現の旨味を加えており、ほとんどの歌手が清らかで、落ち着いた表現をもちながら、機動的なアジリタには欠けるというこの日の状況は好ましくなかった。終幕で妖精マントが自ら出張ってくるときに、田中健晴の歌唱だけが際立って遊びに満ちていたのは、その役柄から自然なところであるが、牢番的存在として厳粛なようでも、実は道化役であるオルカンがさほどタフでもなく、あのように真面目な歌唱では舞台が引き立たない。また、田中は最初のうちだけ、新鮮な印象を与えるものの、その幕を通じて深い印象を刻み込むほどには多様な表現をもっていなかった。

このマント役は、この作品の声楽陣のなかで、もっとも香ばしい役であり、シャトレ座の舞台でも、そこをうたう歌手に人気が集まった。だが、この日の舞台では、彼の歌うようなお題目を実践するのが、アティスとアルジのカップルであるというのがハッキリしていたのはよい。彼が語るのは、ブルジョア的な視点からみた帝王学のようなものだ。支配者アンセルムによる、力まかせの骨董品収集のような美学を否定する。そして、こころのなかに宮殿を育てよと気高く主張した。しかし、アティスとアルジはマントよりも気高く、どこにも従属しない「遍歴騎士(レ・パラダン)」として幸福の絶頂を迎えるのだ。彼らはやがて、自らの実力次第で封建君主から自由にできる封土を切り取り、自立していくことになるだろう。オルカンのような宮仕えの武士は気概もなく、やがて廃れていく存在であった。ラモーはそのような転形期の雰囲気を、さり気なく描いているのかもしれない。

【もっと自由に、もっと踊れ】

きわめてバレエらしい仕掛けと思われる壮大な背景画の美しさは、このプロダクションで際立っていると思われる。例えば、暗鬱だったアンセルムの城館が、マントの生み出す幻影の宮殿として現れるところは、壮麗な背景幕によって示されている。踊る黄金塔(パゴダ)は頭部の帽子がくねくねと曲がるようにできていて、愛らしく、それを被った子どもたちがキッチュに踊る。背景では、その動きに反応して小さく踊るキャストの仕種も見逃せない。児童も多く通うバレエ教室として特徴的な振付が、学芸会のように稚拙に映るのではなく、実はもっとも魅力的な要素となっていた。それが錦織の本当の才能だというなら、その方向を突き詰めていくほうが、より成功にちかづく近道だったはずだ。もっと自由に。もっと踊れ。それが、私からみた自由な感想である。

もちろん、このプロダクションには多少、不満も多くなったものの、大好きな舞台をこれほど楽しく見せてくれたのに、失礼だという想いもなくはないのだ。カンパニーは今後、このプロダクションと、『プラテー』『優雅なインドの人々』の各演目の上演を重ねていく計画であり、今回のように学術的な成果も加えて、舞台は少しずつ深さを増していき、豊かになっていくのも想像できることだろう。私は錦織のカンパニーの取り組みをつよく支持しており、情熱を現実に変え、さらに、長く続けていく行動力とプロジェクト管理能力、それに、強烈な発信力にまず感動しているのだ。敬意は決して忘れない。だが、もっとも素晴らしい作品は、もっとも難しい演目でもあるということにすぎないのである。

【プログラム】 2017年9月1日

 ラモー 歌劇『レ・パラダン』

 演出・振付:錦織 佳子

 指揮:ステファン・フュジェ

 於:練馬文化センター(こぶしホール)

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