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2017年9月 4日 (月)

柴口勲監督 映画『隣人のゆくえ~あの夏の歌声』 @K's cinema (新宿)

【ワンダーランド】

オープニングで遠くから聴こえてくる清純な歌が流れるなかで、校舎の窓外にアンジュレーションのある下関の風景が映り込むと、私の気持ちを察したかのように、そこで立ち止まった少女は窓を開け放ってくれた。不思議と波長の合う映画だった。再び閉じられた窓の錠は、女子生徒が多い学園のせいか、どれも中途半端な斜めに止められているのに現実味が感じられ、ユーモアを感じる。元来、ああいう錠なのかもしれないが。

反対に冒頭場面で描かれるプロットは、やや安易な印象を残した。シニカルなフランス映画のような視点で撮られた、ドライな父との別れ。ただ、思春期の少女を揺さぶる決定的な事件が、両親の離婚というだけでは、片親で育った自分には実感が湧かないのだ。暫くしてわかるのだが、少女はクスリを服用している(病人)というのもよくない設定に思えた。もっとも、過去に自殺などの体験があったとすれば別だろう。その日、彼女が夏休みの宿題をとりに学校に戻ったというのが、本当のことなのかどうかもわからない。あるいは、再び自殺の衝動が彼女を取り巻いていたのかもしれない。しかし、彼女はそこで、死神以外の何者かに出会ったようだ。立入禁止の工事用バリケードを越え、薄暗いトンネルを抜けていった旧校舎に、ワンダーランドが広がっているのは想像できた。画面は薄く汚され、若干はセピアに染まることで、意図は明らかだ。特に境界のガラス扉は砂埃に汚れて、向こうが見えにくい。参考作品は、『学校の怪談』(監督:平山秀幸)、『君の名は。』(監督:新海誠)、『この世界の片隅に』(監督:片渕須直)、『桐島、部活やめるってよ』(監督:吉田大八)、洋画ならば、『ゴースト~ニューヨークの幻』(監督;ジェリー・ザッカー)。しかし、これらの作品と比べて、柴口勲監督の『隣人のゆくえ』は映画の原点へと遡行していく強い力をもっている。

発端は、太平洋戦争末期の下関の姿を映した写真家の作品であったようだ。戦争末期における下関の爆撃に対する被害は、リンクの総務省のページにまとめられており、貴重な証言も載せられているのでご一読を賜りたい。下関はいうまでもなく、関門海峡に面する海上交通の要地であるため、米軍からの激しい攻撃を受けたらしい。1945年には戦況の悪化に伴い、原爆や焼夷弾によって、日本中のあらゆる都市が焼き尽くされていくのだが、下関は6月と7月に2回の空襲を受けて、324名が犠牲になったということである。焦土となった下関の姿を郷土の写真家、上垣内茂夫氏がファインダーに収めており、その作品を映画の先達から受け取った柴口監督が、運命的につくることになったのが当の映画ということになる。偶然にも、その曾孫が映画の撮影を担当することになったそうで、カンナと小梅のモティーフにつながっているのは想像に難くない。空襲で校舎の一部を残して焼け出されながらも、今日までつづく地元のミッション系スクール=梅光学院が、この映画の一方の主役であることは疑いない。1872年に基礎がつくられ、途方もないほどに長くつづく学園の歴史のなかには、哀しい戦争の時期も含まれていたのだ。

あまりにも過酷な背景を隠していたものの、旧校舎に待ち受けていたのは夢と希望に満ち溢れた若々しい女子生徒たちだった。「歌劇部」と貼り紙され、「ミュージカル部」と呼んでいる。顧問は出産を控えて休んでいるようだが、部長を中心に整然とオーガナイズされ、歌とバレエの練習が繰り広げられている。それとなく、彼女たちに関心をもった主人公のカンナは、部員の一人に手を引かれ、(異世界を訪れる)ただひとりの観客として招かれた。やがて、彼女たちはいま、存在せず、70年前の空襲で亡くなった女生徒たちだったとわかるのだが、彼女たちとの交流を通じて、カンナは弱く、不安定な自分が、一人ではないと知るに至るのであった。

【照らしあうもの】

古めかしい雰囲気を残しつつ、ステンド・グラスの嵌められた芸術的な雰囲気をもつ新校舎と、映画の終盤では破壊と荒廃に曝された廃墟として示される旧校舎の雰囲気が照らしあい、不思議なハーモニーとなって響き合う。私はこの6月に3・11の大津波にあって、震災遺構として整備された仙台の旧荒浜小を訪れているため、割れたガラスが散乱し、構造が剥き出しになった校舎の姿にはゾクッとした。戦争、震災と大津波、そして、思春期の子どもたちが抱える問題が、奇妙な糸によって結びつけられていくときの巧妙さには鳥肌が立つ。伝統的なミュージカルにつきもののような悪役の雰囲気で、実は主人公の曾祖母である小梅が「世界中を敵に回してもいい」とうたう『傘』は、直接的には仲間のなかで孤立する小梅、また別の意味で社会のなかに取り残されつつあるカンナのことを歌っていると解釈できるのだが、同時に、戦争へと突き進んだ我が国へのメタファと受け取っても意味が通じる。

いつも前向きで、周囲への心づかいを欠かさない「歌劇部」の部長はまた、彼女の個性にも似合わず、変えたいと思っても、もうどうしようもないことがあるという意味のことを言っていた。大ヒットとなった新海監督のアニメーション映画『君の名は。』で、いちばん批判が多かったのはそういう歴史の書き換えだ。当然ながら、後世から歴史は修正できず、運命をリセットすることもできない。もっとも新海氏の映画のプロットに対する批判は当たらず、アニメやSFのお決まりのパターンからは微妙に外れている。なぜなら、そうした作品で、過去の改変は禁忌とされることがほとんどだからである。過去は決して変えてはならず、主人公は大抵、時代の書き換えに反対し、阻止しようとする「正義」の側に回るものなのだ。ハリウッド映画の人気作『バック・トゥ・ザ・フューチャー』が手頃な例だろう。新海氏はそれに逆らって、普通ならあり得ない「夢」を演出した。3・11以前に戻り、人々を救うこともできるのではないかという我々の幻想に答えを出したのだ。その結果、矛盾が噴出したとしても、彼には痛くも痒くもない。もともと、この映画は詩的なもので、プロットのつながりにそれほどの意味はなかったはずだ。詩は飛躍するものであり、その連続性よりは、断絶のほうに美しさが生まれる。

我らが「歌劇部」の面々はそれと比べると、幾分、筋が通っていた。まず、彼女たちは自分たちを襲った過去の事実を静かに受け容れている。それなのに、もはや来ることのない9月の本番であっても、それに向けて、彼女たちは一生懸命になれるのだ。死んでいるからこそ、彼女たちは自らに与えられた限られた自由のなかで、懸命に生きようとする。一方で、彼女たちは新しい時代を見つめてもいるようだ。曾孫の世代と同じ夏服を着て、新しい感覚で喋っている。髪型も、スタイルも現代的だ。言葉も広島弁を用いてはいるが、テレビドラマのように過剰ではなく、ナチュラルだ。そして、多くの若者たちと同じように、彼女たちも将来の夢をみている(『七十才になったら』)。あるいは、すべてがカンナによる妄想ということもあり得るだろう。それが、彼女の名前が示す花言葉だった。みすゞによって、カンナは自分の知らない名前の意味を知るのだ。自分が自分をいちばん知っているというのは、誤解なのかもしれない。たとえ作り事だとしても、それを生み出したことで、カンナは一歩、前へと歩を進める。結局、同じことなのだから、ここの議論に意味はない。ただ、『七十才になったら』で歌われる無数の夢を背負い込む分だけ、彼女の人生には重みが加わる。先輩たちが厳しげに叱咤するのも当然だ。

「いきて!私たちのぶんも!!」

【音楽とその構造】

物語はコーダに入り、カンナはすべての真実を知る。それは「歌劇部」の面々が隠していた真実であり、目を反らしていた自分の真実でもある。「暴かないで」。カンナと「歌劇部」の女子たちの出会いであり、別れでもある一連のシーンは思い出すだけでも涙が溢れる。ほぼ初めて聴かれるカンナのソロによる歌声は、彼女がしっかりと自立した人間になる一歩を明確に示しているだろう。それまでに示された素材がつなぎ合わされ、コーダがつき、音楽的にはシンフォニーのような形で演じられるステージの場面は、寂しさや不安な気持ちと、前向きな想いを交換した。焦土となった下関の写真はようやくここで生かされ、それを背負いながらも、未来への希望として歌われる。最後は新海監督の『君の名は。』と同じテーマの構造だが、より巧妙だといえるだろう。作中で頻りに「70年」と言っていることから、制作時には同作品は公開されていなかったはずであり、偶然、同じようなきっかけから、同じようなテーマが生まれたにすぎないことも想像がつく。

音楽作品は、監督がすべての詞を書いたものの、作曲と振付は参加した中高生によって担当されている。中心となったのは主役に抜擢された正司だが、12歳の岡村、数少ない男子で、助監督を務めた竹内の作品もある。振付は部長役の福田と、歌唱付パ・ド・トロワ「エルフ」の3人など。あまり複雑ではないピアノのラインが支えるソロの旋律に、要所でアンサンブルや合唱が厚みと薄味な和声(わを!ん)を加える方式で一致している。メロディラインはサスペンドな部分が素朴ながら、謎めいた雰囲気を出すのに役立っているように思われた。

個人的なことをいえば、私はオペラをよく見て、ミュージカルはあまりみない。そして、神田慶一氏の主催する「青いサカナ団」はこれらのジャンルをシームレスにつなげて、独特のファンタジーを生み出している稀有の表現主体である。「歌劇」と書くと、オペラとミュージカルの間に差はなくなり、この映画も「サカナ団」と同じような境目のない表現をめざしていることがわかる。それを見事にパッケージングするのが、映画という媒体だ。もっとも、「歌劇部」の少女たちは戦時の禁忌を破り、「敵性言語」を敢えて用いて「ミュージカル部」と自称している。オペラは洗練された歌手の高度な演唱とオーケストラとによるパヴリックな対話であるが、ミュージカルはより動的な要素が多く、稽古の風景からも、フェッテやポワントワークなど、バレエの動作が重要であることが窺われる。それ以上に重要なことは、音楽的な要素が作品そのものよりも、歌い演じるアーティストの個性により強く依拠していることがある。

監督のSNSなどへの書き込みをみると、ミュージカルなので、まず音楽をつくってから、オーディションを行い、結局、正司が主役に選ばれたということがわかる。一方で、音楽制作の具な過程はわからないものの、ひとつひとつのナンバーは歌い手に対するイメージがまずあって、そこに歌詞や状況を加味し、1対1で生まれてきたように聴こえる感じも強い。たとえ原形があったとしても、それは柔軟に作り替えられたはずで、そこにある種のライヴ感が生まれているのだ。例えば、非常に技量の高い部長の歌うパートでは、作り手からもかなり難しい注文が出されて、それに彼女が見事に応えたような雰囲気が窺われる。そうしたハンドメイド(あるいは、テーラーメイド)の感覚は、劇中の音楽作品がひとつひとつ大切につくられているような印象を与えることになり、まるで目の前に、彼女たちが生きているような錯覚までも与えるのである。もちろん、彼女たちはそこにいるのだ。それだけが、カンナにとっての真実であり、映画をみる人たちにとっての真実でもあった。『ポスト』や『傘』において、中心的にソロを歌う人たちの個性は強烈に胸のなかへと刻まれる。

そうした感覚が持続するために、映画の間じゅう、私はずっと泣いていたような気がするのだ。一方で、会話によってつなぐシーンは、歌よりはかなり難しいようである。特に大人たち(保護者や教師たちだという)の場面は、劇中にうまく入りきれていないものを感じてしまう。だが、それが緩衝材になっていなかったら、この映画はもっと受け容れられないほどに、厳しい印象を残したのかもしれない。

【映画の原点へ】

映画は、様々な専門的な技術によって支えられている。役者たちの演技、踊り、歌だけではなく、脚本、照明、メイク、撮影、編集、録音、音楽制作、道具類、キャストやスタッフの動きのコントロールから、広報、商業的管理に至るまで。監督がそれらの総指揮を執ったのであろうし、撮影などにコーチらしき大人のクレジットが加わってはいるものの、大部分は若い人たちによる作品といえる。しかし、監督等の厳しい指導により、それらは紛れもなくプロの領域に踏み込んでいるといっても過言ではない。例えば、音楽作品のひとつとして、2011年の震災と津波に寄せてつくられた合唱曲『夜明けから日暮れまで』が使われているが、歌詞=和合亮一、作曲=信長貴富というプロ中のプロによる作品と比べても、それぞれの作品の筋がよいことは明らかである。撮影にしても、本当に熟達したカメラマンが撮れば、また別の凄さもあるのだろうが、さしあたって、映画の雰囲気を台無しにするような稚拙さはみられず、新鮮な視点も感じられるのだ。しかし、私はカメラの撮影について、あまり深くわかるほうでないことは申し添えておく。

近年の映画は湯水のように資金をかけて制作され、CGやVRをはじめとする技術が話題を呼び、作品の完成度を決めるようになもった。一時期はほとんど衰退産業とみられていた映画も、米国や中国などにおいて、いま、意外なほどの活況を呈している。また、『ラ・ラ・ランド』のような例外を除き、かつての『雨に唄えば』『シェルブールの雨傘』のような音楽映画は、作品のリアリティを損なうものと見做されるのか、あまり制作されなくなっている。この映画はさほどの資金をかけず、適切な場所と方法を選ぶことで、この分野で、はじめは思いも寄らなかったような高い効果を上げることに成功した。しかし、そこには、エレニ・カラインドルーや、ニーノ・ロータ、エーリッヒ・コルンゴールト、ボーノ(U2)といった、既に名のある作り手の存在は発見できない。優れたクリエイターは手の届かない大御所や売れっ子のスターだけではなく、我々の傍にもいたということだ。純粋で、素朴な音楽と振付は、十分に感動的な世界を構成することもできる。音楽映画の深い伝統に、この作品は遡行していった。

テオ・アンゲロプーロスの大作映画『ユリシーズの瞳』で、主人公の監督Aが命を賭けて混迷の東欧をめぐり、追いかけたのは、ほんの素朴な人類最初の映画だった。戦火のサラエヴォで苦労して復元された映画を覗くと、思わずニコリとちいさく微笑んでしまうような、そんな作品こそが映画の原点にはあった。初期にはあまり音楽にこだわらなかったアンゲロプーロスだが、後期の作品にはカラインドルーによる魅力的な音楽が欠かせないものになっている。大袈裟かもしれないが、カンナが旧校舎をめぐる場面は、アンゲロプーロスの描くギリシャや東欧の雰囲気とよく似ていた。永遠は一瞬のなかにある・・・という歌詞もみられた。監督晩年の作品のひとつ『永遠と一日』(とりわけ国境のシーン)を思い出す。あれは死を目前とした詩人がアルバニア難民の少年と出会ったことがきっかけで、その瀬戸際で再び生きようとする切ない物語だ。人類は、こんな素晴らしい映画の世界を、AIやテクノロジーの支配する世界へと売却し、巨万の利益を生む悪魔に変えようとしているのではなかろうか。寂しいことに、人類は悪魔が好きだ。娯楽への欲求には逆らえない。だが、本当の意味で、そこから私たちが得るものは僅かである。

もっとも、戦争や災害の犠牲者を悼む想いが底地にあるとしても、この作品は社会的な映画ではないだろう。映画を観たものが等しく感じるのは、音楽に対する純粋な共感、その歌い手である若者たちに対する深い愛情だ。彼らがつくったにしては凄い・・・とは受け取らない。むしろ、その凄さに驚嘆するはずだ。そして、最後には、カンナが背中を押されたのと同じ強さで、私たちは背中を押してもらえる。どんな境遇にあろうと、生きていこう!過去が現在に対して、こんな風に関わることがができるなら、こんな素敵なこともないのではなかろうか。

いまはまだ、この映画は小さな注目しか集めていない。願わくは『この世界の片隅に』のように、世の中に広く知られるようになってほしい気持ちもあるのだが、この映画は、そんな目的のためにつくられたというわけでもなかったはずだと思う。私はこの映画に出会えたことに、深い感謝を感じる。ただ、それだけである。『ユリシーズの瞳』の監督Aのように、いま、ニコリとちいさく微笑むばかりだ。だが、それまでの場面を思い出すだけでも、再び涙がこみ上げてくる。映画とは愛らしくも、厳しい芸術なのである。

【月に見守られて】

最後には、旧校舎の女生徒たちの秘密は暴かれていく。だが、すべてではない。例えば、みすゞは常に練習場にいて、柔軟運動などには加わっているのだが、激しい運動は避け、マネージャのような役割に徹している。ある場面で、小梅は彼女が重い役を占めながら、思うようには活動できないことを詰っている。彼女がなぜ、そうなのかは最後まで語られていない。小梅は部のなかでやや孤立的だが、彼女がどうして、そうなってしまったのかも語られていない(軍幹部と関係をもたされたせい?)。カンナとの関係のなかでのみ語られる女生徒たちの細部は、結局、伏せられたままだ。逆にいえば、彼女たちとの関係のなかでのみ語られるカンナにも、わからないところが残る。最初のほうに書いたように、彼女は学校に何をしに戻ったのであろうか。彼女は本当のところ、どれほど傷ついていたのか。旧校舎以外での彼女の交友関係は、どのようなものだったのか(孤独に見える)。このような秘められた部分が残るのは、映画の楽しみである。反対に、中庭の場面での「ハイ、ニコ、ポン」の説明などはないほうがよかった。帰宅した娘に厳しくいったあと、母親が内心を独りごちる台詞なども。

異質なものが照らしあう関係というのが、この映画の最大のモティーフになっている。旧校舎と新校舎。カンナ(曾孫)と小梅(曾祖母)、大人と子ども。現在と昔。死と生。悪意と善意。戦争と平和。特に、カンナと小梅の関係は、最初、ソリの合わないオンナどうしのよくある関係として描かれるが、はじめのうちは歓迎していた旧校舎の生徒たちも次第に小梅に同調し、カンナとの別れを素敵に演出しようとする。それが、終盤の舞台の場面だ。欲をいえば、それと対をなすような、現在のカンナを取り巻く現代の学園の姿が活き活きと描かれても面白かった。例えば、映画においては、実際には現在も存在する「歌劇部」がもうないことになっている。映画のプレスをみると、梅光学院はとても活き活きした要素を取り入れている学校で、それだけに、このような映画ができたともいえるだろう。そのような部分を、バッサリと捨象するのは勿体ない。

しかし、想像してみよう。この映画がきたことで、梅光学院の一夏(実際は、もっと長いだろう)がどれほど燦然と輝いたことだろう。新海誠監督のアニメーション映画『秒速5センチメートル』の真ん中のエピソード「コスモナウト」で、サーフィンをやっていた少女のことが思い出される。彼女の気持ちは悲恋という形でおわるのだが、主人公の少年との関係を通して、彼女は自分がもともと持っていた情熱を蘇生して、宙ぶらりんだった若々しい人生を再び花開かせるのだ。思春期を描くことで、人間の大切な部分に迫っていく形はありふれていると言えなくもない。とはいえ、この映画は2つの思春期が照らし合わされている。一方はもはや進展せず、凍りついているが、今日からみると、きわめて新鮮で、張りつめたものをもっている。そして、それに見守られるようなもうひとつの曖昧な(現代)世界をつくった。

流行のキーワードを使えば、カンナは月のように静かに見守られている。カンナは、私たちのことでもある。あの日、黒い雨が降ったという。しかし、それは広島を襲った放射能の雨ではない。油だ。罪もない人々を焼き尽くすために、米国は木造家屋の多い日本向けに特殊兵器をつくった。彼女たちは、その犠牲者だった。悔しさや、怒りもある。歌に、それは託された。歴史修正の波はいまや、首相官邸を頂点にハッキリと進み、過去のプライドが再び、大胆にも呼び覚まされる時代になっている。この作品に、そのような声高な叫びは聞かれないが、静かな旧校舎の世界から優しく私たちを見守る真実があることを教える。そして、戦争と大震災・大津波という現代の出来事が照らしあい、感動的なモティーフと、胸を衝く響き、そして、じっくりみるに値する深い美しさをもった映像がつくられた。それが数少ないコーチ役の大人と、多数の中高生だけによってつくられた事実は驚愕に値する。

もはや、言葉は尽きた。最後は、やはり歌でということになる。数々の魅力的な歌のなかでも、みすゞがキュンとする清らかな歌声で「鳥の羽/ペンで書いた/手紙」と歌い出す「ポスト」は幸い、制作側によって、投稿動画サイトに公開されている。緊張したソロの高音から、やや楽天的なコーラスに移り、部室に入ると、みすゞは歌を止め、甲斐甲斐しく棚の整理をするような描写がある。部長とのやりとりから、「お返事はまだ来ないけど/あなたにも事情があるでしょう」と結ぶ。再び緊張したみすゞの高い声で、さりげなく、優しげに気遣うメッセージが、今日も誰かを癒やしていることだろう。

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