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2017年10月13日 (金)

アンサンブル・ノマド ヴァスクス 『遠き光』 ほか 設立20周年記念 「饗宴」vol.1 9/23

【饗宴シリーズ】

現代音楽は、ひとつには優れた演奏家によって支えられているともいえる。ドイツ、オーストリア、フランス、アメリカなどには、必ず現代音楽を魅力的に演奏できる力強い発信者がいるものだ。アンサンブル・モデルンクラングフォーラム・ウィーンアンサンブル・アンテルコンタンポランICEなどのアンサンブルや、アルディッティQクロノスQのような人たちだ。また、かつてのロストロポーヴィチのように、優れた演奏家が個人で見所のある作品を広めていく例もある。この日の演目のひとつ、ペトリス・ヴァスクスの『遠き光』も、世界的なヴァイオリニストであるギドン・クレーメルの力添えなしには大きな成功を掴めなかったかもしれない。

日本にも現代音楽のアンサンブルはいくつかあるが、アンサンブル・ノマド東京シンフォニエッタが実現してきた功績は抜きん出ているといえるだろう。今回、リポートするのはそのノマドが自ら20周年を祝う企画「饗宴」の第1回である。この初回を皮切りに12月まで各月1回ずつ、ノマドに参加する音楽家たちと、彼らに招かれたゲストたちが独奏を務め、様々な形の協奏的な作品に挑戦していく。モーツァルトの「ジュノム」のように標準的なレパートリーもあれば、この日、演奏されたクセナキス『エオンタ』のようにトリッキーなのもある。実に楽しみなシリーズである。

【弱い光を焚き火のように守って】

初回は、ヴァイオリンの野口千代光の独奏により、ヴァスクスの『遠き光』で幕を開けた。ノマドはクレーメルの役割を自らに置き換えてみて、先達の果たしてきたことへの深い敬意も込めて、このような作品から始めたのにちがいないと思う。当日のプログラムを見ると、この演目がもっとも規模が大きく、味わいぶかい作品で、メインに向いていそうだったのだが、敢えて、この作品を冒頭に置いたのにも意味があるのだろう。まず単純に、耳ざわりの良い作品から演奏したほうが、聴き手の集中は高まりやすい。その他の作品はどれも個性的だが、一見してわかりやすい魅力というものはないと思われる。ところで、この作品の演奏ではノマドを発足当初から中心的に率いてきた佐藤紀雄(ギター、指揮)は姿を現さず、指揮を中川賢一に委ねている。そして、弦楽アンサンブルには若い演奏家たちを多く呼んだ。このことから、アンサンブルの活動をそろそろ若い世代に引き渡していこうとする佐藤のメッセージも伝わってくるであろう。

ヴァスクスの作品は独奏を含めた弦楽器を主体としたアンサンブルによる作品で、中でもロングトーンが鍵を握っている。序奏の独奏ヴァイオリンはごく弱音でつくられるものの、野口のパフォーマンスは思ったよりも明晰に響いた。独奏による3つのカデンツァと、そこからのリアクションで音楽が構成され、何らかのドラマトゥルギーを感じさせる作品だ。まずは静かに穴を穿ち、そこから漏れてきた弱い光を、焚き火のように守って、丁寧に紡がれていく音楽が慎重に広げられた。消えそうになっても、なかなか消えはしない音楽の生命力の粘りづよさが随所に際立っている。野口の精確な楽器のコントロールは、その可能性の素晴らしさを端的に物語るもので、ヴァイオリンがもつ可能性の逞しさを実感させた。手練れが揃うバックとの対話、特に低音弦との深いメッセージのやりとりには息を呑むものがあった。いくつかのグループに、異なった意見がある。だが、最終的には独奏を中心とする視点によって統一していく。

ときには宗教的なバロック音楽のように響き、映画音楽のような具体的な詩情が醸され、クライマックスでは、アイロニーに満ちた激しいワルツが揺動する。だが、主音を包む周辺の煙のような響きまで交えた雄弁なロングトーンから、純粋な旋律が精製され、魔術的なグリッサンドを通じて溶解するまでの自然な循環が、すべてを支配している。独奏のパフォーマンスは思っても見ないほどに見事で、このパフォーマンスに賭ける野口の徹底した磨き上げは、現代ではつとに珍しいほどである。とにかく、この曲のもつ深い印象が、演奏会全体を決定づけるものになったのは確かだろう。

【ときどきの日常のなかに自然にあるもの】

2曲目のシリーズは、モートン・フェルドマンの『ヴィオラ・イン・マイライフ』で、花田和加子(リンクはヴァイオリン)の独奏による。今回は確たる根拠なく、直感的なものということだが、Ⅲ・Ⅰ・Ⅱの順番で演奏がおこなわれた。これらの曲は編成もまちまちであるように、もともとまとめて演奏されることを企図しているとは思えない。しかし、ほぼ無伴奏にちかい形態から始まり、音型や響きのコレクションであるⅠを通して、最後にⅢと類似点のある素材もみせながら、Ⅱの独特の歌の生成をみる試みは楽しかった。最終的に生成される音楽の規模にちがいはあるものの、ジェラール・グリゼイの『音響空間』を思わせるようなクオリティがある。僅かに生成するⅡの旋律的素材が、あとあとまで印象を引きずる独特のチャーミングさをもっていた。

その題名から聴かれるような、ヴィオラに対する特別な愛着は、フェルドマンの作品からハッキリとは窺えない。ふくよかで、人の声にちかいとされる中低音。低音から高音まで、多彩につくることのできる豊富な音色。楽器のばらつきもあって、人によって個性の出やすい響きのヴァリエーションなどが、ヴィオラのもつ特徴として挙げられる。しかし、フェルドマンの作品は、それらのどれにも所属しない。Ⅲはさておくとしても、やや編成の拡大されるⅠ、Ⅱにおいて、それらはいっそう慎重に隠されているようだ。「我が人生にヴィオラ」という題名だが、人生という長いスパンのなかに占める巨大な存在というよりは、不可欠だが、ときどきの日常のなかに自然にあるものという解釈のほうが適当であろう。

実は、このシリーズには’Ⅳ’があり、その作品のほうが「協奏曲」的な形態が明確であるため、「饗宴」シリーズの趣旨に相応しかったかもしれない。しかし、シンプルな導入から、その結尾に捨てるように書かれた音型と、最後にⅡを締める静かに置くような音型が、周知のようにシンメトリカルな造形美をなし、おわったあとに、再び胸中で反復できる巧みな仕掛けもあって、この選択は功を奏した。花田は奥ゆかしく、それほど目立つ役割ではないが、じんわりと作中へ溶け込むパフォーマンスだった。

【カッコウの托卵とシジュカラの抵抗】

3曲目は、この日のもうひとつのハイライトであるクセナキスの『エオンタ』である。ピアノ独奏は、中川賢一が担った。正直、この作品をつくるときに作曲家が何を考えていたかはよくわからない。しかし、非常に遠いものの組み合わせだったと思う。金管楽器のアンサンブルとピアノという組み合わせが、まずもって遠い。ピアノは弦楽器と打楽器の性質をもっているが、ブラス楽器の特徴はない。5人の金管アンサンブルも2本のトランペットと、3本のトロンボーンの組み合わせで、一見、似たもの同士であるが、例えば、古い時代にはトランペットは神聖なもの、トロンボーンは死を意味したわけで、まったく性格のちがう兄弟のようなものでもある。元来、単一の音しか出なかったトランペットも、現代ではバルブを操作することで音程を得るが、トロンボーンはスライダーを操作して音程を得る。作品中で、もうひとつ重要な要素はミュートである。

クセナキスは音像と、あるいは、それ以上に重要な視覚的特性も組み合わせて、このアイロニカルな作品を構成している。なにか特定の意味を与えることは、この作品に相応しいことではなさそうだが、私がイメージしたのはカッコウの托卵についてである。5人の金管奏者がピアノの筐体に向かって吹いているとき、それぞれが鳥のようにみえて、卵を産みつけているようにみえたせいだ。カッコウは例えばシジュウカラの巣を襲い、シジュウカラの卵を落としてしまうと、代わりに何食わぬ顔で、自分たちの卵を置いておくのだ。シジュウカラは自分の卵と思い、せっせとカッコウの卵を温めつづける。かくして、カッコウは自らの努力に負わず、子孫を残すことができるのだ。

1回目のシーケンスはどうやら成功し、ピアノは我が子と思ってカッコウを育て、結果として、大事な部分が抜かれたような響きになった。脇では、邪悪な鳥たちのサウンドが徐々に広げられていく。2回目はピアノがこれを死守して、今度は金管隊が敗北の歌をうたうことになった。ピンポン・ゲームのように、ピアノ奏者が金管隊の響きにリアクションしていく名人芸が見ものだ。金管群は個々に移動したり、向きを変えながら、響きの方向性、空間性をも意識した作品でもある。楽器に小さな譜面を立てて、ちょろちょろと動く金管アンサンブルのパフォーマンスは、作曲家がそれと意図したのかわからないが、いささかシュールに映るだろう。演奏をおえると、最後、思わず安堵の溜息をついた金管奏者の気持ちは大いにわかるような気がした。クセナキスは、ピアノ演奏の大家でもある。まったく響き合わない楽器の組み合わせでも、彼ならば、効果的な音の構造を組み立てることができた。中川は椅子が高く、このようなピアニストは技術的に高いものをもっていても、どうしても征服的になり、鍵盤を叩きすぎる人が多いのだが、彼ばかりは例外である。広い視野を確保しながら、叩きすぎず、自在に響きを得ている。これらの要素は、なかなか両立しないものだ。

【暗闇に注す光のコントロール】

最後は、武満徹の『波~ウェイヴス』が演奏された。武満の作品は国際的にも評価が高く、わりに豊富な音源を誇っているものの、このウェイヴスのように不遇な作品もある。武満には『秋庭歌』のような雅楽的作品もあり、それもまた不遇だが、ここ数年、つづけて生のパフォーマンスがあった。ウェイヴスをやるのは、ノマドだけである。『秋庭歌』や、『ノヴェンバー・ステップス』と比べても、この作品はいちばん日本的な感じがする。誰か古い人が知っていた日本というのではなく、いま、僕らが生きている日本の姿を静かに映すのだ。今回は思いきって照明を落とし、薪能のような雰囲気にしたのも効いていた。最後、真っ暗になっていくなかで響く太鼓の音に、不思議な安堵感があったのも興味ぶかい。

全体の仄暗いイメージのなかで、中心となるクラリネットの響きだけが動的で、光をもっている。いわば、この作品は暗闇に注す光のコントロールによって成り立っているのだ。その奏者は、菊地秀夫。ノマドの佐藤代表も、この曲で彼に勝る者はいないとしている。序盤はまだ「波」として聞こえていたものが、行きつ戻りつするうちに、徐々に化けて、あるいは雷鳴のようなもの、果ては我々を地獄に引き込むような空恐ろしい風として、響きが変容していく幽玄な作品だった。最後、そこに溶けていくクラリネットの変幻自在な雰囲気が素晴らしい。境目がなく、シームレスに変遷していく時空に身を委ねる音楽は唯一無二といえる。作品はさほど長くなく、簡潔な表現だけで構成されているが、そこに途轍もない広がりをもたせる味わいに、武満の神業を思わせた。

【ノマドの意味】

最後の武満に象徴されるように、この日のプログラムは季節のように、ゆっくりと、静かに移り変わっていく作品だけで構成された。だが、どの作品もまったく異なるキャラクターやメッセージをもっている。前衛主義が急ピッチな変革を要求するなかで、マイペースを貫く音楽だ。そのなかには、フェルドマンやクセナキスの音楽もあり、一口に前衛主義といっても、決して一本道ではないことを教えてくれる。新しさも一本道ではなく、時代はただ更新されるために流れるのではない。ある意味で、古さが時代を革新していくエネルギーになることもあり得た。例えば、ストラヴィンスキーのように。時代の流れとは関係なく、プログラムが進むごとに斬新さが増していった、この日の印象だが、作品の新しさが直接、時代の新しさと関わっているわけではないことにも注目される。作品には、様々なグラデーションがある。もっとも、戦後10年くらいを過ぎてから20世紀の後半を通して、新しいものを生み出さなければともがいていた時代の空気はありありと伝わってくる。ブーレーズは既存の価値観を打破しないショーケースとなった「劇場を爆破せよ」とアジテートし、湯浅譲二は「未聴感」のない音楽を決して評価しなかった。

そうした厳しさへの反発もありながら、新しい世代はそれだけではない音楽を通じたコミュニケーションというのを考え始めている。ノマドは幅広く音楽の可能性を追い、教育(アカデミズム)や権威、あるいは、流行から漏れたものを丁寧に追ってきたグループだ。名声や地位とは関係なく、正にノマドな感覚で、作曲家なりのマイペースを応援してきた。多分、時代性を越えて、ゆたかに燃えたベートーベンの解き放つ自由の精神は、当時の音楽家たちを大きく自由にしたのと同じように、作曲家のもつ自由だけが、音楽家の自由を解き放つことができるのかもしれない。それならば、作曲家は新しさに対しても、自由になっていなければならないはずだ。新しくなければ音楽ではないというのは簡単だが、そのように簡単に生み出せる新しさなどない。確かに音楽の歴史を遡れば、数世紀にわたり、絶えず急ピッチで新しい動きを獲得し、常に生まれ変わってきたものなのだが、既に21世紀ともなれば、事情は異なってくるはずだ。このあたりで音楽の刷新の無秩序な消費性を改め、草を食む家畜とともに、畑をじっくり耕さなければ、音楽家はじんわりと疲弊していくばかりだろう。勇ましくアジって、芸術家の尻を叩く時代から、ゆっくりと、思索と鑑賞を深める時代が来たのだ。その熟成のなかから、また新しいものが生まれてくるかもしれない。

アンサンブル・ノマドの活動は、そういう風に理解されるべきだ。作曲家たちはいま、必死になって、発想を変えようと苦労している。奇しくも、その動きにはノマドがこの20年、追ってきたものと似ている部分があるようだ。

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コメント

先月はご来場いただき、誠にありがとうございました!
又、大変嬉しい内容の濃いコンサートレビュー感動いたしました。今後ともノマドの公演を楽しんでいただければ幸いです。
ひとつ、武満のクラリネット奏者は菊地知也さんではなく菊地秀夫さんでした。同じ姓で混乱してしまったと思います。細かくすみません!
また今月の10/20の2回目の饗宴もまた濃い内容ですので、是非お越しをお待ちしております。
ノマド広報担当

ご指摘に感謝します。速やかに訂正します。

ありがとうございます!
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ノマド広報担当

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