2017年12月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            
無料ブログはココログ

« パーヴォ・ヤルヴィ バルトーク 弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽 ほか N響 Cプロ 9/28 | トップページ | エリシュカ フェアウェル・ツアー vol.2 リムスキー・コルサコフ 交響組曲『シェヘラザード』 ほか 札響 604th定期 10/27、28 »

2017年10月24日 (火)

エリシュカ フェアウェル・ツアー vol.1 ドヴォルザーク テ・デウム/交響曲第6番 ほか 大フィル 512nd 定期(初日) 10/19

【思いのほか、元気】

指揮者ラドミル・エリシュカと札響の組み合わせは多く聴いてきたが、大フィルとの組み合わせは初めてだった。そして、これが最後になるはずだ。医師から長旅を禁じられたというエリシュカの最後の日本ツアーが、大阪で幕を開ける。エリシュカとともに名声を高めたのは、なんといっても札響なのであるが、大フィルも1枚のディスクを発売し、それに次ぐ成果を挙げた。特筆すべきは、彼らがヤナーチェクの『グラゴール・ミサ』、ドヴォルザークの『スターバト・マーテル』、それに、この日は同じくドヴォルザークの『テ・デウム』を演奏して、大規模な合唱付きの宗教作品を取り上げ、札響でいくらか欠けているレパートリーの一環を穴埋めしたことだ。なお、札響では同じ『スターバト・マーテル』と、ベートーベンの『第九』が取り上げられた。北・西2つのオーケストラが車の両輪となって、エリシュカの日本での活動をサポートしたとみるのも間違いではあるまい。

今回の来日が最後ということは広く伝えられ、大阪にも府内外から多くのオーディエンスを集めたようで、特別なムードで演奏が行われた。私は初日のみを聴いたが、2日目はさらなる熱気を帯びたことが、SNS等で報告されている。もっともプログラムされた時点で、これが最後となることがわかっていたわけではなく、内容自体はすこぶる祝祭的で、愉悦的な趣をもつ作品が並べられている。札響は予定を変更して、出会いのプログラムにあったリムスキー・コルサコフの交響組曲『シェヘラザード』をメインとしたため、やや湿っぽい終わり方になりそうなのとは対照的である。

まず、エリシュカが思ったよりも元気だったことを喜びたい。少なくともステージの上の彼は、これまでの来日とまったく変わらない、エネルギッシュな姿を披露した。しかし、2日目のサイン会などはキャンセルし、体調面で慎重な姿勢をとっていることは窺える。

【楽譜だけでは表現しきれないもの】

1曲目は、ドヴォルザークの『伝説』から4曲を選んでの演奏である。この作品はサロン音楽の主役のひとつである四手連弾の形で完成され、のちに管弦楽用に編曲された。作品はブラームス派の首魁、ハンスリックらによって高く評価されたという。今回は最初の4曲だけが抜粋されたが、全部で10曲あるとはいえ、一話完結的な作品の綴りになっており、全曲ではやや冗長となるため、もとから組曲的な性格があると見られるだろう。また、第1番から第4番までの組み合わせは、ニ短調で始まり、近親調のハ長調でおわる4楽章の交響曲形式に見立てられる。古典的な味わいもある「第1楽章」から、緩徐楽章、スケルツォ、そして、序奏から構造的に作品世界が開いて、豪奢におわる終楽章という整然とした形式をもち、興味ぶかい並びになっているのも微笑ましいことだ。無論、すべての楽章が舞曲の味わいをもつ作品は、ドヴォルザークの作品としては未熟とはいえ、実に愉快な交響曲第1番「ズロニツェの鐘」を彷彿とさせるだろう。

「第1楽章」から、素晴らしい出来でびっくりした。大フィルの特徴でもある厚みのある響きが、作品的な魅力を大きく高めている。このレアな作品が日本で演奏されることは滅多にないが、下野竜也の指揮で、紀尾井シンフォニエッタ東京が演奏したときには、リハーサル付きで聴いたことがある。彼もよく勉強しており、緻密で、繊細な呼吸をもつ作品であることがよくわかったが、そのときは10曲すべての演奏ということもあり、本番では、リハーサルで効果的につくられたバランスが再現できなかったきらいがある。

そもそも、管弦楽編曲版でも作品はさほど大きな編成を想定していないが、エリシュカは敢えて人数を刈り込まずに、まったく別のイメージを描き上げた。楽譜だけでは表現しきれない大胆な呼吸、思いきった歌いまわしが特徴的である。編成が大きい分、一本調子にならず、やや揺らぎが出るのが、この作品に無限の幅を与える。ときに鼻息の荒いところが雑さを感じさせることもなく、作品の表現によく見合っていた。やや静かな演目でも、しっかりした構造が浮き上がり、堂々と聴こえる点ではいかにもエリシュカらしい演奏のように思われる。ときどき対位法的な要素を絡ませ、ハイドンやベートーベン、チャイコフスキーのような要素を加えて、最後はブラームス的な祈りの響きで締めるあたりは、正にドヴォルザークの真骨頂といえるだろう。

「第3楽章」のアレグロ・ジュストは、特に素晴らしい出来だったと思う。精確な拍を刻むエリシュカのキビキビとした音楽のつくりが、スケルツォ的なリズムや身振りの面白さを通常以上に際立たせるのである。「第4楽章」は、ややスメタナ的である。最初のアレグレットとも共通するように、序奏に代表される繊細な響きと、豪華な響きの入れ替えが本当に見事に決まっている。

【はじめに言葉があった】

2曲目の『テ・デウム』が、この日の実質的なメインだったことは言うまでもない。札響で、ちょうど同じ交響曲第6番を指揮したときは、1曲目にヤナーチェクの『タラス・ブーリバ』があった。当時、まだ2回目の共演で、ヤナーチェクにはまだ十分に馴染まないオーケストラは大苦戦したようだが、そんなときでも、交響曲第6番は保険のようなプログラムとなっていた。エリシュカは、この作品を札響の交響曲ツィクルスの初回、あるいは、全国放送されるN響定期に臨むときの曲として演奏するなど、大切な機会にもってきている。単純にこの作品を得意としているというほかに、出版された最初の交響曲であることや、作品のもつ魅力をつよく信じるがゆえの盤石のプログラムなのだ。しかし、ヤナーチェクからみて直系の弟子に当たるエリシュカは、ヤナーチェクにも譲れぬ想いがあった。この日の場合は、『テ・デウム』がそれに当たるはずである。

ドヴォルザークの声楽付きの作品では、『スターバト・マーテル』と『レクイエム』がよく知られている。『テ・デウム』はそれと比べると、規模も小さく、あまり注目されることは少ない演目だ。この作品はしかし、作曲家にとって特別な機会に書かれたものである。手厚い報酬によって、ドヴォルザークを音楽院院長に招いたジャネット・サーバー夫人が用意したコロンブスによるアメリカ「発見」400年祭への出演に寄せて、『テ・デウム』は謝礼のように書かれた。この日の大フィルの演目はすべて、この時期の作品に当たっている。はじめはあまり気乗りせず、ドヴォルザーク家の家族会議でも意見は分かれたようだが、渡米によって得られたものは豊かで、そこから生まれた貴重な作品も少なくない。交響曲第9番「新世界」、弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」、チェロ協奏曲などは、その代表的なものである。

エリシュカはチェコでも、もちろん、尊敬されているが、キャリアの最後に訪れた日本で特別な、深い信頼を得たことに感慨を抱いているようだ。それは例えば、ウィーンで売れなくなったモーツァルトが、プラハで再評価されて、後期のいくつかの傑作を生み出したこととよく似ており、そのモティーフをエリシュカは度々、演奏会に織り込んできた。ドヴォルザークの交響曲第6番は、スラヴ人の民族意識が目覚めつつあるなかで、自らは友人も多い独墺系の民族の音楽と調和をとるように書かれている。そして、米国では五音音階に出会ったドヴォルザークは、当地で深く尊敬されて、後世に残る個性的な作品のいくつかを仕上げていく契機がつくられた。その端緒となった年が、この演奏会にアーカイヴされている。パフォーマンスに人生を重ねる必要はないが、エリシュカはスコアを精確に、活き活きと表現しつつ、その音楽に自然とメッセージを載せられる優れた指揮者だった。

『テ・デウム』はオーケストラと合唱、ソプラノとバリトンの独奏者で演奏される曲だが、エリシュカはまず、歌唱を第一に考えている。より正確にいえば、言葉というべきだろう。歌詞はおきまりのラテン語典礼文で、そこには伝統の積み重なった厳粛な型があり、作曲家もそれに従ってはいるようだ。だが、ブラームスが『ドイツ・レクイエム』をドイツ語訳の聖典に基づいて制作したように、ドヴォルザークはラテン語の範囲ではあれ、まるでそれが日常会話で用いられる言語であるかのように、自然に発されるリズムとアーティキュレーションを整えたのが、この日の演奏会からは明らかなのである。miserere だの、sancutus とかいった言葉は、宗教曲によく出てくる祈りの言葉だが、この作品ほど素直に響く例を私は知らない。

一方で、ドヴォルザークは小さな対位法的構造をコツコツとつくり、多くのドットがあつまって模様になるように、緻密なレンダリングを施していくのだ。このセットが、非常に効果的に響いているが、正にこのような表現はエリシュカの得意とするところなのであった。ティンパニの序打(やや平板だった)から、宗教的な雰囲気と民族的な響きが程よくブレンドされた濃厚なサウンドが展開するが、エリシュカは声楽が始まると、露骨にオーケストラを制し、合唱に焦点を絞るようにしているところで、最初の驚きがあった。このため、大部分でオーケストラは声楽のためのオブリガートのように聴こえるが、実のところ、その役割が相応しいように思われた。大フィルのコーラスを聴くのは初めてだが、各声部のバランスが美しく、なかなかに質が高い。

最初の独唱は木下美穂子で、二期会などで主役級をうたう才能ゆたかなソプラノだが、2番目のパート’Tu Rex gloriae,Christe’から現れるバリトンの青山貴の気の入った歌唱と比べると、若干、表面的な歌唱に聴こえてしまった。青山と、女声→男声パートが対話する第2部での呼び交わしが、一挙に聴き手を作品の内側へと導いたのは間違いない。青山はバスにちかい低音部の発声には課題があるが、この作品はバリトンのスイートな音域が中心的に使われており、ドヴォルザークが独唱者の超人的なパフォーマンスよりは、ごく人間的な響きを求めていたことがわかるだろう。その点でいうと、木下の歌唱にも、多少の理解が生まれる。つまり、ソプラノの場合は、その力強く、甲高い発声を抑えた自然なあり方が求められるからである。青山の歌を聴いたあとは、幾分、ギアを上げて、木下も追随している。第4部の冒頭にある独唱では、及第のパフォーマンスをみせた。

合唱は、第3部でも印象的なパフォーマンスを見せた。そこでは動的なモティーフの蠢動のなかで、分離された各声部が対話的なアクションをみせる。オーケストラの背景を十二分に呼吸し、祈りの気高さと、神的なものにすがるような弱さの両方を表現すべきだが、それが見事に実現されていた。合唱指揮は福島章恭で、確かな指導力を示している。歌詞と旋律、音型は幾層にも重ね合わされていくうちに、作曲者の仕掛けた魔法によって、すぐに憶えてしまえるほどであり、途中からはまるで、以前から知っていた曲のように歌えてしまうような気もした。ドヴォルザークの作品はどれもそうだが、とても人なつこい性格をもっている。

私は事前にヴァーツラフ・スメターチェクヴァーツラフ・ノイマンの録音を聴いて、イメージを作り上げたが、その際にはヴェルディやロッシーニといったイタリアの宗教曲の伝統を引いている感じがした。しかし、エリシュカの演奏はもっと素朴で、かつ、鋭い。先述のように言葉に比重をかけ、聖典の本当の意味を教える鮮やかな音楽を作り上げた。ドヴォルザークのアメリカ時代の幕を開ける作品は、それに相応しい高貴な役割をもっていたのである。大フィルにとっても、この作品は非常によくあっている。ただ重いだけなく、垢抜けた柔らかい響きをもつ彼らの演奏、いま、申し述べたような合唱の素晴らしさ、そして、感性の優れた2人のソリストに対して、最適の音楽だったと思われる。

【関西を代表するオーケストラとしての矜持】

対照的に、交響曲第6番では作品の難しさのほうが際立った。特に後半2楽章は、かなり派手な動きの激しい音楽となっていくために、この曲の深いところを示すためには、作品の前半で印象を整える必要があるわけだ。良くいえば、大フィルの演奏は型に嵌まらない。ツーと滑るような弾き出しから、強く前傾して、スーパー・カーのように颯爽と、自由に走る。オーケストラ全体の印象は、東京の聴き慣れたオーケストラでいうと日フィルに似ていて、トップ奏者がイニシアティヴを握り、指揮者の指示に機敏に反応して動くことができる。面白いのは、トップ奏者にはかなりのフリー・ロールが認められていて、ちょくちょく遊びを入れてくるところだ。後ろは動じず、それが全体のなかで浮き上がってしまうことはない。この曲を聴く限り、テンポはやや走り気味だった。以前、すみだトリフォニー-ホールの企画で、大植英次のときに聴いたときと比べると、行き過ぎた鈍重さがなくなり、アンサンブルのフレキシビリティがあがって、積極的なところも出始めている結果だ。この3月まで楽団を率いた、井上道義の苦労の跡も窺えた。

札響と大フィルでは、まったくキャラクターが異なっている。エリシュカが確固たるイメージをもった指揮者だとしても、このちがいは決定的に音楽を変えるのだ。これがあるから、クラシック音楽は面白いともいえるし、一方では、札響での演奏に愛着を抱く場合などは、戸惑いを感じることにもなるだろう。私はこの2つを並べながら、音楽を聴いた。いずれにしても、エリシュカはそれぞれの良さを自然に引き出している。ネー(英語でいうとノー)、ネーを繰り返す厳しい指導だということだが、音楽家そのものを否定することはないのだ。例外があったとすれば、それはプレーヤーのほうが、エリシュカの知る本当のクオリティに対して、あまりにも敬意を払わなかった場合だけであろう。エリシュカは少なくとも、大フィルを、札響よりも「できる子」と見ている。テンポ感も、アーティキュレーションも、ギリギリまで攻めることを許している。関西を代表するオーケストラとして、彼らは矜持を示したのだ。

エリシュカの本来、求めているような素朴な雰囲気とはちがうとしても、大フィルの演奏が正しくないというわけにはいかない。とはいえ、札響の演奏で、この作品がどうすれば、本当に美しく響くのかを私たちは既に知っているといっても過言ではない。そこからみると、全体的に大フィルは走りすぎており、そのために潰れてしまうメッセージが少なくないのを惜しむだけである。例えば、対位法的な対話が構築される部分では、よりしっかりと、あるいは、のんびりと歌うことも必要なのだ。その呼吸が、一部で損なわれていたことは否定できない。この交響曲第6番を生かすためのポイントは、起伏に満ちた活き活きとした呼吸、弾力性のあるアンサンブル、ドヴォルザークが導入した古典的教養を生かすアイディアの充実、そして、民族的な響きへの衒いのない表現から生み出される。弦楽器、木管楽器、金管楽器のバランスにもメッセージがある。

一見、単純なようでいて、この作品はとても難しいのだ。札響が録音にも残されたようなクオリティで、ツィクルスを幕開けできたのは改めて驚きである。譬えていえば、大フィルは蒸気機関車が相応しいところに、流線型で高速の新幹線を走らせてしまったのだ。第1楽章はやや呆気なく、主張に欠け、アダージョ楽章は、やや繊細さと波に欠けている。だが、後半2楽章のドンチャン騒ぎは良くなるだろうと予想したが、想定以上の結果となった。特にスケルツォの素晴らしさで、前半2楽章での借りを一挙に取り戻したといえるだろう。尻上がりの展開で、終楽章はエリシュカのタクトともいっそう一体感が増し、図太く、手応えのある波が洋々と音楽を彩る。これは初日の演奏のため、翌日の2日目で、前半もさらに良い結果になったであろうことは想像がつく。

意外な難しさが浮き彫りになったとはいえ、この日の演奏のクオリティが低かったという結論にはならない。いくつかイメージにずれはあったものの、9割以上の部分で大フィルはエリシュカの求めるフォルムを、彼らなりのやり方で実現した。パワフルなアンサンブルにもかかわらず、全体の見通しよく、方向感に過ちはない。そして、あまり細かい失敗を気にする必要もなく、盤石に余裕をもって響かせる技術力もさすがと思えた。

アダージョの終盤、やや一本調子になったところでは、フルートの艶やかなソロが再び血をめぐらす働きをして、後半2楽章へのステップ・アップを可能にした。この日のMVPは、あのフルート奏者に捧げたいと思う。彼の吹く音を聴いてから、実際、印象は一変した。あるいは、その他の奏者たちも、なにかに気づいたのかもしれない。それは『テ・デウム』のときの2人のソリストの関係とよく似ていた。

【おわりに】

なお、会場は大阪中之島のフェスティバルホール。初日のオーディエンスはスノビズム控えめで、内側でグッと受け止めるタイプの人たちだった。大フィルも大阪府の補助金カットなどが報じられ、厳しい台所事情のなか、この定期はホール使用料が抑えられるであろう木・金開催になっていたが、それでも府内外から多くの聴き手が駆けつけた様子が窺える。『テ・デウム』ではあれほど豪勢な幕切れにもかかわらず、終演後はぴたりと静まって、数秒間の静寂が支配した。演奏外で、このリアクションにも感動だ!なお、2日目にはすべての演奏後、会場総立ちとなった模様である。

だが、エリシュカを追う旅は翌週につづく。まずは大阪フィルと、それを支える関西の聴き手にふかい感謝と敬意を捧げる。そして、もちろんのこと、エリシュカさんや、その招聘、活動に協力するすべての人にも、最初の感謝の言葉を捧げたいと思うのである。

あと、もうすこし!無事で、ゴールに辿り着いて!アレルヤ!

【プログラム】 2017年10月19日

1、ドヴォルザーク 伝説(op.59-1~4)
2、ドヴォルザーク テ・デウム
 S:木下 美穂子 Br:青山 貴
 chor:大阪フィルハーモニー合唱団(合唱指揮:福島 章恭)
3、ドヴォルザーク 交響曲第6番

 コンサートマスター:田野倉 雅秋

 於:フェスティバルホール

« パーヴォ・ヤルヴィ バルトーク 弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽 ほか N響 Cプロ 9/28 | トップページ | エリシュカ フェアウェル・ツアー vol.2 リムスキー・コルサコフ 交響組曲『シェヘラザード』 ほか 札響 604th定期 10/27、28 »

オーケストラ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/543421/65956387

この記事へのトラックバック一覧です: エリシュカ フェアウェル・ツアー vol.1 ドヴォルザーク テ・デウム/交響曲第6番 ほか 大フィル 512nd 定期(初日) 10/19:

« パーヴォ・ヤルヴィ バルトーク 弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽 ほか N響 Cプロ 9/28 | トップページ | エリシュカ フェアウェル・ツアー vol.2 リムスキー・コルサコフ 交響組曲『シェヘラザード』 ほか 札響 604th定期 10/27、28 »

ツイッター

  • ツイッター

最近のコメント