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2017年11月13日 (月)

日生劇場 ドヴォルザーク 歌劇『ルサルカ』 演出:宮城聰 田崎組(一般公演/初日) 11/9

【芸術の使徒】

日生劇場のオペラ公演は、教育面や、契約者へのサービスという側面ももつ都合上、ユニヴァーサルな演出が求められる。それにもかかわらず、モーツァルトのほか、ヤナーチェク、アリベルト・ライマン、そして、今回の『ルサルカ』など、なかなか日本の舞台にかからない作品を手ごろな箱のなかで見せてくれる貴重なシリーズでもある。より開かれた対象に、本物の舞台を観てもらうという正攻法である。券売所で並んでいると、案内の女性が「オペラ」を「ミュージカル」と呼んでしまう微笑ましい劇場は、生音の音響としてはややデッドな弱点があり、グランド・オペラの上演にはオーケストラのためのスペースが足りないという問題があるが、ライマンのオペラを上演した際、オーケストラを一部、舞台にあげてしまう工夫が当たった。それぞれの公演の演出チームは変わっているものの、実践の蓄積のなかで得た知見は、年を経ても劇場のなかで確実に踏襲されているようだ。今回はさらに、合唱や管弦楽のバンダをときどき、客席を取り巻くように配置した山田和樹らしい趣向で、一歩前進というところである。劇場としては狭い空間を、効果的に拡張するアイディアであった。

今回の演目、ドヴォルザークの歌劇『ルサルカ』はメルヒェンティックな悲恋の物語だが、チェコ民族の歴史を重ねながらみると、まことに奥深い風刺性のみられる作品である。ドヴォルザークは田舎の肉屋の息子であり、家業の修業をしながら、教会で音楽の基礎を授かった作曲家として知られる。チェコ民族としての愛郷心は強いものの、ブラームスやハンスリックなど、自分を押し上げてくれるドイツ・オーストリア側の友人たちもあり、彼らの発展させてきた音楽にも憧れと愛着を感じていた。彼はもちろん、ドイツ民族ではないし、素朴にチェコ人であることのアイデンティティは音楽的なものの核心さえ成しているのだが、市民社会の目覚めに熱狂したベートーベンのように、闘争的なアイロニーにはどうしても染まらない音楽家だった。その意味で、彼は急進的な愛国精神をもった芸術家たちの目からみれば、やや異質な(弱々しい)存在と映ったかもわからない。ヴォドニクがルサルカを呪うように、ドヴォルザークも同胞たちからの呪詛を受けながら、彼の愛するものに近寄っていった事情が窺えるのである。

本作『ルサルカ』において、ドヴォルザークは人間の身体を得るために、魔法で声を失った水の精のヒロインを生み出すのだが、それはドイツ民族の支配下にあって、チェコ語の使用を禁じられた民族の悲哀と無関係ではなさそうだ。言葉を禁じられて、愛せよ、従えなどというのは無理だという風刺の念がこめられている。本来、ルサルカの言葉で語られるべき要素が欠けているのである。この主人公は一方で、魔法使いイェジババや、父であるヴォドニークの促しを聞き入れず、王子の血を自らの不幸に対する購いにするという暴力を拒むのである。彼女はただ、抱擁に賭けるのみだった。ただ、それが幻想的な試みにすぎないということも知っており、最後は神さまに頼り、「人間」のために祈るしかなかったともいえる。抗えない力の対立の前で、芸術など無力かもしれない。これは、現代にも通じる深いテーマのひとつだ。しかし、ドヴォルザークは徹底して、芸術の使徒であることを畏れなかった。

【作品論と演出プランのズレ】

音楽的には、まったくもってスラヴ的な情趣が深い。第2幕で流れる、いたって「人間」的な舞踊の音楽なども、強烈なスラヴの旋律とリズムで構成されている。演出の宮城聰は、そこで助演のダンスを使い、ラジオ体操のような動きを取り入れて、滑稽な宮廷の生活模様を笑いまじりに、キッチュに描こうとしたのだが、そこに流れる土くさくも、壮麗な音楽との差は、この演出家を嘲笑するに十分なレヴェルだったと思われる。この作品には明らかに笑いの要素もあり、悲劇で、可哀想な物語だけの一辺倒ではない。だが、宮城が笑いをとろうとした部分では、まったく笑えなかったのも確かだ。

想像では、ドヴォルザークはこうした部分で、フランス・バロックのグランド・オペラの伝統をチェコ式で染め上げたかったのにちがいない。この作品は北欧の人魚姫や、中西欧に広く流布したウンディーネ(オンディーヌ)の話にも通じているが、それに加えて、醜いカエルの女王が活躍するラモーの歌劇『プラテー』のような作品を下地にしているような気もする。もっとも、作品はドヴォルザークらしく、豊富に先達の仕事をモデルにとっている。ラモーのほかでは、例えばワーグナーからの影響も色濃く、ルサルカはライトモティーフのようなハープと木管の響きから登場する。ところが、ドヴォルザークには意外と皮肉やなところもあり、最後の幕では、同じモティーフからルサルカではなく、森の精が出現するトリックを演じさせていた。モーツァルトの『魔笛』に出てくる3人の童子による場面をもじって、序幕でコミカルに演じられた森の精とヴォドニークの絡みが変容していき、最後の哀しいドラマを起動させる仕組みなど、なかなかに味わい深かったのではなかろうか。

終幕のおわりの部分で、ついに王子はルサルカの領域に踏み込んで、人とは口のきけないはずの彼女とも対話して、その胸のなかで命をおえることになる。彼はどうやって、いわばメルヒェンのなかに入って、ルサルカと交わったのであろうか?

例えば、私が演出家ならば、大きな3つの本を用意する。1つは聖書。それと、水の精の悲恋との不思議な幽霊たちのおはなし。さらにはローマ神話のユピテルのように移り気な男が罰を受ける、よくある物語。これらを王子が気ままに眺めることで、物語が紡がれていく。王子が紡ぐ物語なら、最後に自分がそのなかに入ってしまったとしても、なにも不思議はないからだ。そうすると、王子はこの世界に生きながら、甚だ窮屈な、深い矛盾を感じていたことになる。私のつまらない妄想はともかくとして、王子と、ルサルカには共通点があったのだ。それは限られた世界のなかで生きていて、限られた役割だけを演じながら、そうではない外の世界に憧れていたということだ。しかし、彼らが出会うにはまったく準備不足であり、それが悲劇につながっていくのである。ルサルカが口をきかない皮肉は、ワーグナー『ローエングリン』における禁問にちかい効果を生む。両者は相手のことをよく理解できないまま、関係は破綻し、別れの時間を迎えてしまう。もともと台詞にひねりがあるが、第2幕最後のシーンなども、宮城の演出ではひどく分かり辛かった。

ドヴォルザークは日常の彼がそうであるように、徹底して下からの目線でルサルカの悲劇を描き上げたようである。ヴォドニークのように、自分たちの在り方のほうが、よっぽど素晴らしいという考えも持たなかった。ハンガリーはいいのに、チェコはなぜ・・・というような歴史的な煩悶のようなものが、外国公女に対する強烈な嫉妬として滲んでいるようなことがあったとしても、スメタナが歌劇『リブシェ』の最後で、『わが祖国』とまったく同じ形でフス派のコラールを流したりして、後世、現実になったチェコ建国を壮麗に予言させたようなのとは、まったくちがう形でオペラを組み上げているのである。それならば、第2幕の舞踏場で、ルサルカはあのように中途半端な場所にではなく、階段の下にいなければおかしいということになろう。こうした意味でも、宮城演出の第2幕は、なにか別のものに気をとられていたとしか言いようがないほどに集中を乱している。

その印象はルサルカが話すことができないという設定のために、半ば以上、この場面の核となる王子と外国公女のパフォーマンスの悪さにも祟られていた。彼らは決して悪い歌手ではないものの、リハーサル時と観客の入った劇場舞台のちがい、あるいは、自分のいる階段の位置や、高さ、身体の向きや姿勢でも聴こえ方は変わり、歌い方を変えなければならないという基本的な経験に不足しているため、歌の厚みが安定しなかったようである。これは、日曜日の公演ではずっとよくなる可能性もあるが。いずれにしても、この場面でルサルカがどういった気持ちでいたのかは、今度の演出ではあまりよくわからない。歌わなければ、演出のしようもないということだろうか。

【階層からみる表現】

この作品で、ドヴォルザークが愛着を感じるのはルサルカや王子の苦しみと、彼らの争わない姿勢。ヴォドニークやイェジババに象徴される、隠された存在の活き活きとした面白さ。人間庶民の偽らない感覚や、欲望、あるいは、恐怖。そして、宮廷の滑稽な人間模様。この段階で、グラデーションになっているのが分かるだろう。2番目の階層である非日常では、イェジババを中心とする魔法の面白さが、足もとの享楽と、呪詛に耽るヴォドニークら、水の精の世界よりも、同情的に描かれている。

イェジババは善良ではなく、悪魔的に多くのものを奪うものの、どこか憎めない存在でもある。魔女の音楽は、ヴェルディの『マクベス』や、ベルリオーズの『ファウストの劫罰』でも描かれているような西欧の伝統に則っており、そこにいくらかスラヴ的な化粧が施されているところに魅力が詰まっている。また、第3幕で同じイェジババが活躍する場面ではかつて自分が弾いていたヴィオラ・パートのモティーフがくっきりと描かれて、そこからヴァイオリンに響きが移っていくことで、作品世界が広がっていく仕掛けがみられた。指揮する山田のさじ加減により、この効果はいっそうアイディア豊富なように語られることとなった。

転じて、宮城演出で特に面白いのは、中間の2つの階層をうまく描いていることにあった。イェジババの最初の場面では白狐のような助演のキャラクターを登場させ、ミラーを使ったキッチュな工夫で、可愛らしく、コミカルに、魔術の進行を助けている。もっとも、これが一場面だけで統一性なくおわったのは残念だ。唯一、全幕を通して統一されていたのは、空間にキャラクターを伏せておき、いきなり登場したり、消えたりするトリックだ。冒頭の場面では階段舞台に敷いた薄い布の下から(予想どおりに)森の精たちが現れ、その他の場面では階段の中程にエレベーターを設えて、ヴォドニクやルサルカ、イェジババなどの魑魅魍魎が、スモークとともに出現する仕掛けになっていた。一方、第2幕の舞踏会のシーンでは、舞台上部から人間の客たちが突然、姿を見せて、その後の場面では鉄棒の先にマスクだけを掲げ、覗き見する雰囲気が場面の倒錯的で、厭らしさのある雰囲気を盛り上げている。

その前兆としては、第2幕冒頭での森番と料理人の少年が体験とうわさ話をやりとりするコントがあり、それが客席最前列で行われるというプランは特に効果的だった。2人は意外に重要な役割を演じており、のちの場面で、森の「やまんば」こと、イェジババを訪ねて、「現実」と「隠された存在」をつなぐ存在となっている。このような点をみても、ドヴォルザークの物語の構成には意外と無駄がないのであった。偶然と思われるが、今回の演出で、はじめ客席の直前で歌った2人が舞台上のイェジババのところに現れることで、現実が幻想と結びつく構図が視覚的に明らかとなったのは功名である。老け役の森番デニス・ビシュニャと、少年役の小泉詠子が持ち味を出したことも、その効果を高める結果となった。

【熟考に欠ける直訳の演出】

山田=宮城のコンセプトは、とにかく客席を巻き込んだ形での上演を試みることにあったと思われ、その点では一定の成功をみせたものの、十分ではないだろう。最初の幕の著名なアリア『月に寄せる歌』では、何の脈絡もなく月が浮かび、いかにも直訳的なのはアイディアに欠けるというほかなかった。しかも、その月は、ほかの場面で一切登場しない。例えば、水底に住むルサルカにとって、月とはどのような存在かという問いかけすらないのである。高田三郎の合唱組曲『水のいのち』のなかでは、「くらげは海の月」と歌われる(作詞は高野喜久雄)。これに類するような、独特のアイディアがなくてはつまらない。実際に月が浮かぶなら、ルサルカはどのような場所にいなければならないか。基本的なことに、発想が及んでいないように思われる。演劇の世界だけではなく、最近、創作的な歌舞伎でも高く評価され、海外でもその才能を買われているという宮城の素晴らしさは、少なくとも、この公演に限っていえば、あまり目立っていないというべきだろう。

他の例でいうと、魔法によって人間の身体を得たルサルカが、わざわざ青の服を着ているのも解しがたい。折角、水のくびきから逃れたのだから、そこから自由な色の召し物を身につけたいと思うのが人情ではなかろうか。情熱の赤は、外国公女のために譲るとしても、例えば、同じ青でもスカイブルーを選ぶなどのアイディアが求められる。

オペラ演出というのは制約が多く、バランスが難しい芸術であるといえるのかもしれない。この公演の性質からみても、具象的な、わかりやすい、できれば、笑いもとれそうな演出プランでなくてはならないという条件もあったにちがいない。隠された存在を自然的なものと融合し、森や水に生きる「幽霊」のように捉え、直感的に視覚化したアイディアは必ずしも悪くない。しかし、多くの点で、熟考が欠けていると思えるのは、演出家よりも、私のほうがこの作品に対して思い入れが深いせいと思うほかはない。

【キャスト・チームは健闘】

しかしながら、オペラの演出家にとっての本分が、このような細部にはなく、歌い手を活き活きと生かし、楽しませることにあったとすれば、宮城はなかなかにいい仕事をしたというべきだ。この公演の素晴らしかったことのひとつには、歌手たちがこの作品に打ち込んでいる姿、そして、それを深く愛していることが客席に伝わるような舞台だったことが挙げられる。パフォーマンス面で多少の凹凸はあれども、この点にかけては、どのキャストにも穴はなく、チームワークも良好だ。

この日のキャストに関していえば、そのなかでも特に光ったのは題名役を務める田崎尚美のリーダーシップである。個人的には『パルジファル』のクンドリー役での印象があまりにも深いが、この日の舞台でもイェジババを食うほどに背筋の伸びたルサルカであった。有名なアリアは、独特な歌唱になっていた。ルバートはあまり使わず、正面から堂々と膨らませるスタイルである。前半は表面的に張りつめるような歌唱であり、後半にグッと感情をのせて、シャープなフォルムをつくる。特に、終盤でうたがほどけて言葉のようになってしまう部分が素晴らしく、ドヴォルザークの歌はヤナーチェクの「発話旋律」のようなものとは異なるものの、言葉の抑揚から自然に紡がれていることが分かる優れたパフォーマンスだった。この点では、先日の大フィルの『スターバト・マーテル』の印象から来るものもあった。

隣の田崎には食われたものの、イェジババの清水華澄も好パフォーマンスを見せた。彼女に対して、正統派的などっしりとした歌唱スタイルを望む向きには不評もあるのだが、私は、今公演で田崎と清水が2本の柱になっていたことは疑いないと思う。彼女の歌は新国立劇場の研修所にいるころから聴いているが、そのときからみて、歌唱法を変えてきているのではなかろうか。見栄えもスマートになり、歌唱はより遠くに届くように精錬された。歌の迫力は一時的に削がれたものの、これから経験を積んでいくことで、必要な厚みを増していくにちがいない。

女声陣よりも、このホールの厳しい音響に苦しんだのは男声陣のほうだ。王子役の樋口達哉は、やや不調を抱えているのかもしれない。体当たりでぶつかっていく、彼らしい良さは最後の幕でようやく確認できたにすぎなかった。ヴォドニク役の清水那由太はベースで質のよい歌唱を続けているのに対して、ここぞという感情の極点で、腹から芯の強い声を出してほしいところでは、殻を破りきれないきらいがあった。

【管弦楽はハイ・パフォーマンス】

この公演を力強く支えたのは、山田和樹の指揮による読響のパフォーマンスだ。山田のキャリアは劇場よりも、コンサートホールに偏っているものの、モンテカルロ・フィルにはジャンルイジ・ジェルメッティという格好の手本がいたし、日本で合唱団を率いたりすることでも、声の扱い方を隙なく成長させてきたようだ。読響も、舞台芸術での出番は多くないものの、折々に楽団のプログラムに組み込まれたオペラ上演や、新国立劇場、二期会などでの活躍は概ね高評を得ており、特にカンブルランを中心とした最近の取り組みが、あらゆるタイプのオペラに対応できるフレキシビリティを肥沃に耕したことは疑いない。あまりシャープになりすぎず、土くさいチェコの響きを上手にカヴァーしていた点は天晴れである。楽団が力を入れている『アッシジの聖フランチェスコ』上演がちかく控えるなかでも、手抜きのないクオリティを示した。

劇場の特性もあり、時折、叩きつけるような響きに徹しすぎて、あまりにも優雅さに欠けた場面があったのは割り引くとしても、ドヴォルザークの交響曲や舞曲などの要素を融和しつつ、オペラの背景はほぼ余さず描ききったといって間違いではない。彼らの響きが与えるインスピレイションは多分、演出家にもアイディアを与えた。例えば、第1幕の最初の場面では、管弦楽の響きに聴かれる細かな振るえにあわせて、森の精たちが手にした布をブルブル振るわせることで、魔法が支配する不気味な空間をコミカルに印象づけるという動きがあった。音楽の動きに基づいた視覚化に気持ちの悪さはないが、それでも、私にはこのような動きもまた、あまりにも直訳的なものと思われてしまったのである。発想にひねりがなければ、既に音楽だけで表現できているものを二重映しにしたにすぎなくなってしまうからだ。このような音楽と演出的な動きの表現の重複は、いくつかの場面でみられ、どれも十分に効果的ではなかった。

第2幕ではついに、演奏面の素晴らしさが演出プランと正面からぶつかり合ってしまったことは、既に述べたとおりである。

【ルサルカにはもっと可能性がある】

宮城の演出はブーイングしたくなるほどの悪臭を放ってはいないが、驚くほど単純であった。理屈をこねまわす必要はないものの、もっと語ってほしかったというのが本音である。この作品は童話のように可愛らしい筋書きをもちながら、徹底して厳しい現実に寄り添ってもいて、普遍的なテーマをもっている。悲劇でありながら、喜劇としても扱えるほどの風刺性をもっている。宮城のプランは肩肘張らず、中高生や、女性にもウケる演出プランかもわからない。しかし、私はもっと面白くもできる素材であるし、観る者にもっとよく、切実な知的刺激を与えるポテンシャルをもつ作品としても、『ルサルカ』を評価している。先に述べたような理由はあっても、肝心なところで、ルサルカが歌えないという点では、オペラとしては間違った素材なのかもしれない。それにもかかわらず、その空白を埋める深い要素があるはずなのである。

ライティングを仄かに使った情熱と静けさという生息域の棲み分けなど、面白く生かせていたと思われる。一部を除き、衣裳にも個性があった。空間の特色を適切に読み取り、ミュージカルにもっともふさわしいような舞台を、その雰囲気のままに利用したプランもにも納得がいく。それだけに、演出チームによるお膳立てを、もっと直截に生かせる舞台であればよかったと感じ、惜しまれるのである。

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