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2017年12月12日 (火)

相曽賢一朗 vn & 濱倫子 pf デュオ・リサイタル ベートーベン ヴァイオリン・ソナタ第1番 ほか @浜離宮朝日ホール 11/24

【新しいデュオ結成】

ピアニストの濱倫子の活動については、このページでも繰り返し取り上げてきた。私が最後に聴いたのは2014年の個人リサイタルで、その後、まったく来日(帰郷)がなかったわけではないが、数年ぶりに足を運ぶことになった。3年前には身重だったのが楽になり、学生時代以来のトリオからは脱けて、少しずつ環境が変わっている。ミリオンコンサート協会に国内のマネジメントが変わっても、あまり見るべきものはなかったが、今回、同事務所のヴァイオリン奏者、相曽賢一朗とデュオを組むことになり、ようやく新しい一歩を踏み出すことができた。両者は数年前から時間を見つけて邂逅を重ねてきたそうだが、2人を結びつけるのに役割を果たしたのはオーディオ出身の評論家で、プロデューサーの中野雄氏であるらしい。濱はドイツのカールスルーエを拠点に活動し、相曽は米国で、それぞれ演奏家、教育者として評価を受ける一方、母国ではあまりにも無関心に曝されているというべきだろう。

この日の会場も、客層はやや特殊だった。シルバーカーや、車椅子の方も少なくなく、おふたりのご両親などが苦労されて、集めてきたお客様だと思われるのだ。折角の素晴らしい演奏であっても、これでは広がりがない。さりとて、私の筆だけでは、なにかを変えることも難しいだろう。しかし、その素晴らしさについて、少しでも形にしておきたいと願うものだ。

2人のコンビネーションはもちろん、まだまだスタートしたばかりである。濱のことを個人的に知るわけではないが、人間的に味はありそうでも、どうみても器用という感じはしない。名教師ザハール・ブロン門下の俊英であるミハイル・オヴルツキや、チェロのグレゴリー・アルミャンなどとのアンサンブル経験を通して、弦とあわせるテクニックや音色の作り方は非常に高いレヴェルに到達しており、この段階でも、そう厳しい齟齬までは感じなかった。しかしながら、演目がブラームスともなると、相曽にとっても「挑戦」という領域であり、互いの良さを完全にパフォーマンスに落とし込むまでには苦労が多いと感じたのである。

合わないところではなく、噛み合ったところの話をしよう!キャラクターは大分、異なるのだが、その個性がクロスするところこそが面白く、かつ、印象的だった。相曽の演奏は初めて聴くのだが、そのせいか、今回は彼の凄さにより大きなインパクトを感じた。欧州の名だたる古楽アンサンブルで演奏した経験もあり、相曽はまず音色が清楚であり、ボウイングも繊細で味があるし、古典的な教養はきわめて深いにちがいない。ダイナミズムを変えて3度繰り返すフレーズを、まったく同じアクションで、動きを小さくして表現したような場面で、ハイライトをつくれるという特別なクオリティをもった演奏家である。濱はゆたかな音量と、スラヴ風の深い音色が魅力であり、表現は繊細で、知的だが、自ずから溢れでる詩情にも満ちみちている。この2人の長所がもっともよく重なり合うのは、ヴァリエーションの自由な閃きと、対位法の整然たる響きの構築においてである。

【変奏曲と対位法】

ベートーベンはあらゆるジャンルの「第1番」において、既に古典的な基本スタイルから早くも逸脱する傑作を多く書いている。交響曲第1番をはじめとして、弦楽四重奏曲、ピアノ・トリオ、チェロ・ソナタなど、どれも例外ではない。その特徴はベートーベン以前の古典的教養を生かしながらも、そこには収まりきらない、あらゆる発想を盛り込んでいく楽想のゆたかさにある。ヴァイオリン・ソナタ第1番は、第1楽章は顔見世的な均整のとれた美しさがある(もっともグリュミオーなどの録音では、既に最初の楽章から刺激が多い)が、第2楽章からはベートーベンらしい本領が発揮される。この楽章は変奏曲形式となっているが、まず主題が長く、2つの部分から成っている(ように聴こえる)。テーマはまずピアノが奏で、それをヴァイオリンがなぞるようにして、A、A’がそれぞれ出現する。変奏はこれらの部分を自由に選んで展開し、複雑に織り込まれていくのである。

前半はあとにつづくブラームスのソナタ第2番にしても、世間の印象からすれば、地味めな印象の作品が選ばれているが、このあたりに相曽のキャラクターがよく表れている。音楽家として、非常に謙虚な特徴をもっており、相手の音楽をよく聴いて、細かいリアクションができるアーティストだ。派手で、圧倒的に美しいだけの演奏ならば、わざわざ彼のパフォーマンスを選ぶことはない。ゆっくりと構造を積み上げ、どんなボウイングを選んで、いかに区切った演奏をしたかという、音楽の本当のクオリティを確かめるためにこそ、彼の演奏は聴かれなければならないだろう。第1楽章において、その美観は既に確かめられたのだ。

当時のヴァイオリン・ソナタは、弦楽器の演奏がついたピアノ・ソナタという構造が主体であったが、ベートーベンの作品においては例外が多い。ソナタ第1番においても、ピアノが主題をリードした場合でも、ヴァイオリンは必ずしも従者としては振る舞わず、いわばピアノが布いた法律に則りながらも、巧みにそれをかわすようなアクションを起こし、これは譬えていうならば、ビーダーマイヤー的な振る舞いともいえる。相曽は楽器や、それを支持するからだ全体は安定させ、作品のもつエネルギーよりは、美しい構成を自然に際立たせることができる奏者だった。既述のように、相手の響きをよく聴いて、うまく吸収しながら重なりをつくっていく点では、濱と同じような音楽性を誇っているのだ。ベートーベンを聴いて、私はこの組み合わせに大きな可能性を感じた。演奏が始まって数秒で、互いにうまく相手の影に入りあうのが確認でき、濱のピアノが美しくロールして、それを継いでヴァイオリンとピアノが動→静への構造をつなぐシーンは、この日のハイライトのひとつになっていた。

もうひとつ素晴らしいのは、対位法の響きの美しさだ。この点でも、相曽と濱は、見事なほどに欧州的な標準を捉まえている。この2人の演奏で、目下、もっとも深く期待できるのはバッハの演奏だろう。

【子守唄】

ブラームスも悪くはないのだが、ベートーベンほどの熟した可能性を感じない。相曽のほうは毎シーズン、最低でも2割8分ぐらいは刻んで、どっしり6番ぐらいを打っている(野球に譬えたおはなし)イメージの音楽家なので、ブラームスともなると、彼の芸風からすると、やや厚ぼったい感じも認められたのは止むを得ない。それでも特段の無理は感じられなかったのだが、対する濱のほうは彼女の演奏にしては、これまで聴いたこともないほど力んで叩く部分があり、肩に力の入った印象を多く残ってしまったのである。相曽もそこからのリフレクションで、ややバランスを乱した場面があったのかもしれない。全体的にみれば、3つのソナタのなかでは、やや内省的ともいえる作品が、構造的な明瞭さを増した演奏で、美しいヴァイオリンの響きが自然に広がる好印象を逃さないものではあったのだが。

それだけに、局所での細かい合わせこみに必要な時間までは、足りなかったという印象にならざるを得ない。このことは、より積極的なアタックが必要なヴィオラ・ソナタにおいて、いっそう顕著に窺えることになった。ベートーベンにおいては、互いにもっているものが奇跡的に噛み合っていたが、それがブラームスともなると、簡単には嵌まらなかったようである。例えば、ピアノの蓋をすこし閉めるとか、そうした工夫でも、いくらかはよくなるのかもしれない。しかし、これはヴィオラ・ソナタと2つの演奏を交えて、形成された印象なのだ。ソナタ第2番の演奏は、まだ、彼らのめざすスタイルによく見合っていたのではなかろうか。

特によいのは、緩徐楽章である。濱の出産のイメージがあるせいかもしれないが、今回の演奏会を統一するイメージは変奏曲(替え歌)と子守唄となった。相曽のジェントルな歌い方は、まるで寝た子を気遣うような優しさをもつ。濱の表現は幅広いものの、ここでは繊細な表情づけにも長けているところを見せ、2人の音楽表現がもつ特性はここでも重なってきたとえいるだろう。主題を大事に扱っていくヴァリエーションの形式と、繊細で、祈りに満ちた緩徐楽章の子守唄のごとき、静けさ。ここまでは、文句なく素晴らしかった。あとは、情熱の部分をどのように載せていくかということが、デュオにとって、今後の課題ということになるのだろうか。

いまも述べたように、この演奏会を貫くテーマは変奏曲と子守唄である。ベートーベンとブラームスは古今の作曲家のなかでも変奏の名人であり、技巧的な曲芸としてではなく、ソナタや弦楽四重奏曲といった構造的な作品において、独創的なスタイルで変奏を行い、形式のなかで見事に位置づけることを得た。ブラームスの op.120-2 のソナタは、元来がクラリネットのために作曲されたもので、そこからの編曲である。ブラームスによるクラリネット作品はトリオも2つの楽器で共用され、それぞれの楽器の奏者から深い感謝の目でみられている。さて、その終楽章のヴァリエーションは、ブラームスがこの形式に基づいて書いた最後の作品である。ベートーベンによって、最初から革新的に始められた形式が、ブラームスにおいて堂々と、幕を閉じたことを感じられる構成になっていたのではなかろうか。

変奏曲形式は古典派からロマン派を通じて、幻想曲(ファンタジー)とともに人気のある分野であった。今日でも、変奏曲形式に基づく作品は存在するが、そもそも旋律や主題の構成が曖昧になった時代においては、変奏曲といっても、かつての意味とは全く異なったものとなっている。それは例えば、交響曲でも、ソナタでも、あらゆる形式に同じことがいえるのかもしれないが。濱と相曽は自分たちの冒険する領域がそこまでであるということを、一応、決めてみたのかもしれない。そういえば、濱が拠点を置くドイツのカールスルーエは、著名な作曲家であるヴォルフガング・リーム氏が住んでいることでも知られ、彼は当地で教鞭もとっている。濱は日本での公演でリームの作品を取り上げたこともあるが、相曽とのデュオにおいては、その分野には立ち入らないと決めたようだ。つまり、それは形式観の厳密さや、緻密な構成で勝負する相曽の持ち味を生かすための、積極的な選択であるとみられる。

もう一方の柱である「子守唄」というのも、こうした選択とまるで無関係ではないのだろう。既に述べたような相曽のもつ表現性の静かな特徴と、濱が室内楽の分野において、本質的に掴んでいる母親のような包み込む美学が、噛み合うかもしれないと感じ合えた結果なのだとすれば!

相曽が最後にヴィオラを手にして、演奏することに決めたのも意味があることなのだと思われる。ところで、彼のヴィオラはまた独特で、ブラームスのヴィオラ・ソナタのようにエネルギッシュな作品でも、まったく同じように落ち着いた歌いくちを貫き通し、勢いやダイナミズムに頼らない表現をする。アンコールではシューベルトの『アヴェ・マリア』が演奏され、ひとつの答え合わせのようになっていたのだが、それは同時に信仰的なものと結びついており、欧州のロマン派における子守唄の意味も、自ずから浮かび上がってきたようである。

よくよく調べてみると、これにはさらに付加的な意味があるのかもしれない。「アヴェ・マリア」という祈祷文が歌詞に載せられて歌われるのだが、この歌曲は本来、歌曲集『湖上の美人』に含まれる「エレンの歌第3番」から来ている。18-19世紀を生きた英国の詩人ウォルター・スコットによる叙事詩『湖上の美人』は、反国王派の有力者の娘である美しい女性に魅了され、国王がその父親や恋人のために最後は恩赦を出し、度量を見せる仁君のための帝王学を描いた作品とみられる。これをもとにしたロッシーニのオペラ・セリアが欧米ではよく上演されるのだが、シューベルトも同じ素材から歌曲を編んでいたのであった。聖母マリアにすがり、主人公エレンが愛する者たちの無事を祈る歌である。その事情から、声を潜めてうたう子守唄のような優しい響きに、繰り返しの1番と2番の装飾が大きく変わることで、変奏というテーマも織り込まれている。相曽のつくるヴィオラの深い響き。濱の繊細な歌いくち。そして、繰り返す意味のある音楽の味わいが、我々もよく知る旋律の上で巧妙にも語られたのだ。

【ここのソロも含めて楽しみな組み合わせ】

今回は、それぞれによるソロ演奏も準備した。相曽はイザイのソナタ第3番「バラード」を演奏したが、これが絶品だった。イザイも属したフランコ=ベルギー楽派は、いわば温故知新の音楽である。古典的な素材をベースとして、新しい技法やスタイルを巧妙に塗り込めていくことで、斬新な響きを上品に醸し出すことを身上としている。ゆったりと切れ目なく、繊細に構築されている音楽は、伝統継承の系統に関係なく、相曽に相応しい表現法であるといえるだろうが、特に古典寄りの鄙びた響きが印象的である。いま調べてみると、相曽は師のエリック・グリュンベルクからマックス・ロスタル、そして、カール・フレッシュまで直系で遡れるわけだから、この印象はいっそう補強されるだろう。次回は、フランクのソナタと予告する意味もあったのかもしれない。

一方の濱は、リストによるシューベルトの歌曲からの編曲を演奏した。相曽もイザイによる抽象的な表現ながら、「バラード」というロマン派的な素材を用いているし、このあたりのプログラム構成は徹底している。コンペティションのときのように、深く緊張した表現が感じられたが、音が鳴り始めるや、いつも彼女の大胆さが聴かれ、こちらも深く胸を打つ表現に仕上がっていた。結局、この延長線上にアンコールの曲目もくるわけであり、相曽がフロントに出る構成ではあるのだが、背後のマリアさまがこの演奏会を深く印象づけていたこともまた、間違いのない事実のようである。

2人のコンビネーションはまだ始まったばかり。音楽的な面でも、プロモーションの面でも、まだまだ埋めていくべき部分は見え隠れするが、ゆたかな実りをつける可能性はたっぷりありそうだ。少なくとも来季の公演は予告されており、それが良いきっかけになってほしいものである。

【プログラム】 2017年11月24日

1、ベートーベン ヴァイオリン・ソナタ第1番 op.12-1
2、ブラームス ヴァイオリン・ソナタ第2番 op.100
3、イザイ 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番「バラード」 op.27-3
4、シューベルト(リスト編)
 a 水車職人と小川~歌曲集『美しい水車小屋の娘』
 b 愛の便り~歌曲集『白鳥の歌』
5、ブラームス ヴィオラ・ソナタ op.120-2

 於:浜離宮朝日ホール

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