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2018年2月16日 (金)

東京現音計画 #9 コンポーザーズセレクション4 近藤譲 1/31

【テニーの意外な顔】

東京現音計画の第9回のコンサートは、作曲家の近藤譲によるセレクションの回だった。このグループは、電子音響テクニシャンの有馬純寿、サクソフォン奏者の大石将紀、パーカッショニストの神田佳子、ピアニストの黒田亜樹、そして、チューバやセルパンといった低音の金管楽器を扱う橋本晋哉というメンバーをコアに構成されている。この日は1曲だけ、ヴァイオリンが入る曲があるため、亀井庸州がゲスト出演した。

近藤譲のセレクションによるプログラムだが、ジェームズ・テニーから始まるコンサートはいささか意外なものではなかろうか。私が注目したのは、正にそこだ。この作曲家について、私は何も知らないに等しいが、2016年9月”Sound Live Tokyo”に参加したドイツのアンサンブル’zeitkratzer’(ツァイトクラッツァー)の公演でテニーの単調な作品だけで過ごした一定の時間が、私の頭(もしくは身体)のどこかに残っていたようだ。ただ苦行としか思えなかったような体験が後々、自分にとって貴重だったとわかることは決して稀ではない。むしろ、私たちが知り得ていること、あるいは、心地よいと思える体験は、あまりにも狭く、僅かなことをはっきりと認識すべきであり、そこから外れたものを簡単に自分と無関係だったと排除すべきではないようだ。あの日、テニーが私に語ったもののすべては理解できなくとも、私は彼に、もういちど「会いたい」と願っていた。

近藤譲が特に選定したものだけに、さすがテニーによる作品のなかでも、秀逸な作品が演奏会のオープニングを飾る。まず、彼の作品を聴くことは瞑想的であり、音楽を受け容れる枠を広げる役割を果たしてくれるだろう。舞台上には、ひとりのサクソフォン奏者しかいない。しかし、同族楽器が彼を取り囲み、決して一人きりのようではなかった。まずはもっとも低音の楽器が手に取られ、「入力」が始まる。重い響きが空間に広がり、生音だけではないことが次第にわかってくる。自然に、ゆっくりと浸透していくような響きをつくるところでは、電子音響テクニシャンの腕が問われることだろう。演奏者の大石は一定の時間、マイクロフォンの配置された前方に向かって響きを発し、それから、ゆったりと脇に体をひねって、入力を続けていく。

低音の楽器から、徐々に小さな楽器・・・つまり、高い音を発する楽器に移り変わっていくと、はじめは読経のように聴こえていた響きが、次第に安定感を失い、もとのクオリティを引きずりながらも、多様に展開していく構造になっている。ツァイトクラッツァーが中心的に扱ったような動きのない作品ではなく、テニーの作品としては意外なほど、ゆたかなイベントを含んだ作品ということができるかもしれない。そして、それを象徴するのが終盤の展開である。これまで入力してきた響きが一挙に解放され、いま、吹いているのがひとつの楽器でも、多重的なアンサンブルとして響くに至るのだ。そのエネルギッシュな響きの重なりこそが、この作品の謎解きである。

なお、題名の”Saxony”は、ドイツのザクセン地方、もしくは、その地方の特産である羊毛を用いた衣料品のことを指している。まるで格子状に区切ったように、数多くの市郡に分割されるザクセンの地理に見立てて、saxonyは格子柄やストライプの柄物が多いこと、そして、楽器の’sax’が文字列に含まれていることは、ちょっとした洒落であろうが、そこから音楽的特徴が生成しているのも、調べてみると楽しいことだ。

【デウス・エクス・マキナのフォームで】

この日の演奏会には、近藤譲による新作も舞台にかけられたが、当夜、彼が中心的に見せたかったのはカルロス・サンチェス・グティエレスの作品だろう。メキシコ出身の作曲家という地域性もあり、日本国内ではさほど注目されるポジションにないが、1964年生まれということで、モートン・フェルドマンと、ほぼ同じぐらいの世代である。そのフェルドマンは既にこの世にないものの、サンチェス・グティエレスはもちろん、存命であり、作品は2009年のもので、まだ新しい。”Kikai no Mori”と日本語を用いた題名がついており、「機械(機会)から現れた...第2番」という作品は、古代ギリシア演劇以来の伝統芸「デウス・エクス・マキナ」のシステムを利用した精巧なる作品だ。デウス・エクス・マキナは筋書と関係なく、突如、超自然的な力を導入して解決を図る(不自然な)作劇手法を指している。この様式にもいくつかのパターンがあるが、本作はあるところで「デウス」が出現すると、そこから時間が巻き戻されて、シンメトリカルな構造が展開し、そこからのずれをも楽しむものになっていた。

私が以前に観劇したものでは東京室内歌劇場によるヒンデミットの歌劇『往きと復り』が似たような構造を採っている。この作品では中間に「賢人」というのが現れ、筋書は巻き戻す、音楽は最初から繰り返すという手法をとっていた。サンチェス・グティエレスの作品は、それほど単純ではない。あるところから、巻き戻しで対称的な構図が描かれたのは間違いないが、前半の入力過程と比べると、後半は省略的であり、アイロニカルに変容し、役割の交代も見られる。例えば、第1曲ではピアノの内部奏法が使われ、第2曲との曲間で外した譜面台が戻されるアクションがあるが、復路では楽章が連結され、譜面台をかわすようにして弾ける部分だけが再現されるのであった。

パフォーマンスは1台のピアノと、パーカッションの2名だけで繰り広げられる。序盤はむしろ、これらの奏者たちの深い同調性によってつくられる、響きの開放的な美しさによって魅せられる作品であった。ピアノはほぼ打楽器として用いられ、内部奏法は、その響きに変化をつける香辛料の役割と思われる。1つ目のパートが終わると、譜面台が固定されて、それ以降の内部奏法はない。現代音楽の演奏会において、内部奏法そのものはシンプルなアイディアと映る。アイヴズがピアノ・ソナタの一部で、鍵盤上に木片を置いてみたように。しかし、この内部奏法はある種、時計の文字のような役割を果たす。いちど聴いただけなので、すべては語れないが、文字盤に刻まれた12の数字のような象徴がいくつか重ねられていて、復路において、形が歪められたとしても、私たちはそのおかげで自分の居場所を知ることができるようになっていた。

「デウス」の部分はいちど聴いたところでは、どこか一点のクライマックスというよりは、複合的な面で構成されており、山頂というよりは、カルデラ的である。しかし、このあたりから巻き戻され始めたという感覚は、明らかに、聴き手のなかに宿る。ピアノの黒田亜樹と、パーカッションの神田佳子の阿吽の呼吸たるや、終始、見事であった。特に叩くインパクトやタイミングを刻むことが、時を知るための鍵となっている神田のパフォーマンスには、相手方より一層の精緻さが求められる。黒田のほうのパフォーマンスには、そこからのリアクションに大きなウェイトが置かれており、言うまでもないが、室内楽的である。2人のパフォーマンスはあらゆる点で完璧であり、すべての象徴を見事に印象づけて、聴き手を迷子にするようなことはない。

非常にユーモアのある、精緻な作品ではあるが、近藤によるプロデュースにしては、発想の独特さは控えめである。この演奏会のテーマは発想の奇知というよりは、むしろ凡庸な発想の持続による効果、そして、その変容による素晴らしい効果と、簡素化による驚きである。

【凡庸さからの変容】

近藤自身の作品も、我々が彼に期待するものからみれば、ずっと凡庸なところから始まる。しかし、おわってみれば、流石の風格を誇っている。当夜がプレミエとなった『序詩』は、その題名からも読み取れるように、それほど深く踏み込んでいく作品ではないが、後半は次第に詩的な音楽的内容が満ちていく。サクソフォンに、シロフォンとピアノが色を添え、上手奥から目立たないほどのチューバが響きを加える。いわば、通奏低音のような三位一体のセットと、サクソフォンのコミュニケーションを楽しむ小ぶりな作品である。作品そのもののクオリティに対して、演奏者がアイディアを膨らましていく面も見受けられ、ある意味では、ヒップホップにちかい即興的なパフォーマンスともいえる。終盤は、その効果が遺憾なく発揮された。

自らの作品を枕にしての、最後の『灌木』も、シンプル、シャープ、知的洗練というような、近藤のイメージからすると、やや野暮ったい性質の作品である。シロフォンに代わり、マリンバがセットされ、低音楽器は姿を消すものの、やや音楽の規模は厚めに見えた。私がこの作品から感じ取った風景は、ベルト・コンベアに乗ってつくられていく工業製品、もしくは、電子レンジか、オーブンに入れられて調理される料理である。ある種のオートマティックさと、そこから、僅かに期待を外れたところに生じる美味しさが、程よくブレンドされている。この日のように巧みな演奏家が完璧にコントロールしたとしても、そこにいつも、しかとは見えないほどの差が生じるような罠が仕掛けられたパズルのような作品である。オーブンで焼いたグラタン、石窯で焼いたピザには、2度と同じものがないのと同じだ。ここで高尚に、登り窯に陶磁器などという話が出ないのが、この作品に相応しい生の味わいであろう。

2つの作品を聴いてみて、当夜の主役は自分ではないという、近藤のメッセージは明らかだった。サンチェス・グティエレスが中心的ではあるが、それだけでもない。作曲家のもつ様々な顔に気づいてほしかったし、その顔を照らし出すのが、なんといってもパフォーマーであることを強く印象づけたのだ。そのなかでも、特にサンチェス・グティエレスは、顔そのものが知られていない。近藤にとっては、そのことがなんとも惜しかったようだ。

さて、前半のテニーからサンチェス・グティエレスは、瞑想的なもので集中力を高め、動的なものに親和性を感じさせる構成とみえたが、実際には2つとも動的な作品で構成された。対して、後半はフェルドマンの静的な作品を選び、近藤は静とも動ともとれるようなグレーな領域を案出した。

【作曲家のプレイヴェット・タイム】

モートン・フェルドマンの作品も、作曲時期にもよるが、もっと突き放した作品を書く彼のイメージからすれば、ずっと聴き手の受け取りやすい静かさを湛えている。言ってみれば、行き場のない孤独ではなく、居心地のよい安らぎの音楽である。もっとも、その印象を醸し出すのは、フロントのチューバとヴァイオリンの響き、とりわけ、亀井の出すピリッとした響きに秘密がありそうである。橋本のチューバは音量的には目立たないが、それにもかかわらず、次第にその聴こえにくいところが身体に沁みてくるという仕掛けであった。補足的だが、橋本のもつ楽器の艶消しされた独特の雰囲気が、これに色を添えている。最初のテニーの曲でも、演奏者を複数の楽器が囲むビジュアルが補足的な演出になっていて、一種の種明かしにもなっているのだが、これもまたひとつのモティーフだったのであろう。

この作品がむしろ、テニーに期待される役割だったはずだ。しかし、フェルドマンにも、このような作品があったのである。私たちは unknown なものほど、分類から判断しようとする傾向が強い。レッテルを貼り、分類するところから、オートマティックな判断を身につけていこうとするのだ。だが、作曲家には、そうしたものとは関係ない瞬間がある。近藤が捉えたのは、そのように独特な時間である。これは、作り手にしか知り得ないプライヴェット・タイムといえる。

なお、この日は皆既月食に、スーパームーンが重なるという稀有な夜だった。不思議とロマンティックな夜空の風景と同じ夜、作曲家にもいろいろな表情があることを改めて知った演奏会である。

【プログラム】 2018年1月31日

1、ジェームズ・テニー サクソニー
 (sax:大石 将紀 エレクトロニクス:有馬 純寿)
2、カルロス・サンチェス・グティエレス Kikai No Mori(機械から現れた...第2番)
 (perc:神田 佳子 pf:黒田 亜樹)
3、モートン・フェルドマン 持続Ⅲ
 (vn:亀井 庸洲〈guest〉 tba:橋本 晋哉 pf:黒田 亜樹)
4、近藤譲 序詩 *世界初演,委嘱
 (sax:大石 将紀 perc:神田 佳子 pf:黒田 亜樹 tba:橋本 晋哉)
5、近藤譲 灌木
 (sax:大石 将紀 mba:神田 佳子 pf:黒田 亜樹)

 於:台東ミレニアムホール

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