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2018年4月19日 (木)

金子陽子 fp (アントン・ヴァルター・モデル) ハイドン ソナタ第62番 / バッハ パルティータ第6番 ほか 鵠沼サロンコンサート 372nd 4/17

【概要】

フランス在住の鍵盤楽器奏者である金子陽子さんのリサイタルを、鵠沼サロンコンサート(室内楽愛好会)の場で聴いた。同会は1990年に発足。江ノ島にちかい鵠沼をベースとして、小規模なレストランなどの会場で質の高い公演を主催し、この日までに370回以上の実績を誇る息の長い活動を続けてきた。現在のサロン・スペースを提供するのはフレンチ・レストラン「レスプリ・フランセ」で、普段は結婚式場、フランス語サークルなどの文化サロンとしても機能しているところのようだ。定員は60名。いちどは足を運んでみたかったサロン・コンサートだったが、ガブリエル・ピアノ四重奏団の演奏を聴いて以来、録音は手もとにコンプリートしている鍵盤奏者、金子陽子の肝煎りによる企画とあれば、悪かろうはずがなかった。

なお、金子の所属するピアノ・クァルテットは2回にわたり来日を重ねたが、最近の金子は古楽の大看板の伴奏を務める役割で来日することが多く、それにあわせてソロも演奏するというリズムになっている。今回は、歴史的に絶滅して博物館にもなかった弦楽器アルペッジョーネの復元を祝して、時代的弦楽器のスペシャリストであるクリストフ・コワンがこれを演奏するコンサートの伴奏を担当するのだという。

【主役は楽器】

鵠沼における金子のコンサートの主役も、ある意味では、楽器そのものであった。2002年製のレプリカではあるが、サロンに持ち込まれたアントン・ヴァルター・モデルの「フォルテピアノ」である。ヴァルターはモーツァルトと親交があったウィーン式のピアノ製作者で、若いころにはハイドンのいたエステルハージー宮に出入りして、楽器の修復に携わり、シューベルトもごく若い時代には、ヴァルターの楽器を使っていたようだ。J.S.バッハは一世代前のジルバーマンの楽器を高く評価して、彼の雇い主のひとりであったザクセン選帝侯の宮廷では、相当な数のジルバーマン・ピアノが導入されたことが知られている。このコンサートではピアノと同時代のバッハ、ハイドン、シューベルトの作品によって構成され、バッハとハイドンはその生涯のいくつかの時期にわたって、作品を演奏する試みとなった。金子の話によれば、ハイドンは晩年、英国にわたる機会があり、そこではブロードウッドのような新鋭楽器にも触れたはずであるから、その時期の作品は、新しい楽器の影響もみられるかもしれないということである。それは彼にとって、未来をみる体験であったろう。このコンサートは楽器を軸としてみた場合、いわば過去、現在、未来が包含されたパフォーマンスだったといえそうである。

鵠沼サロンの演奏会は、冒頭に主催者が短いプレゼンテーションを行い、演奏者も節々にトークを挟みながら、互いに考えながら進行する形になっていた。クラシックを演奏する音楽ホールは天井が高いほうが理想的だが、ここは天井が低くても、空間全体がほどよい広さのせいだろうか、そこそこよく響き、声楽は厳しいと思うが、鍵盤楽器や弦楽器ならば、十分に贅沢さを感じられる空間だといえるだろう。冒頭は、バッハの『幻想曲とフーガ』(BWV940)で格調高く始まった。金子はこの楽器で、バッハを演奏するのは意外に思われるかもしれないという話をした。オルガン、もしくは、チェンバロによるレンガづくりのような構築的な演奏が合理的であり、それらにダイナミクスを加える楽器の選択はトリッキーだというのである。しかし、金子はバッハの作品から受ける豊富なインスピレイションからすれば、このような楽器で演奏することで浮かび上がるものにも新鮮な味わいがあると主張した。

【バッハの内側からみた作品】

さらに金子は最近、目を通しているジョン・エリオット・ガーディナーの著作について触れ、バッハの時代にはペストが流行ったり、ジャガイモの栽培が伝わるまでは深刻な食糧不足があり、ひとの命を保つのも大変であって、バッハの子どもたちも半ばはうまく育たず、宗教のもつ意味が現代では想像できないほどの大きさをもっていたと報告した。その結晶のような作品として、『パルティータ第6番』が演奏されたのかもしれない。金子は触れなかったが、この作品はライプツィヒに赴任したバッハが足場を固めたあと、作品番号1のクラヴィア練習曲集として、初めて出版したものの最後に収められているものだ。

トークを前提に彼女の演奏を聴いていると、その中核に来るのはサラバンドの演奏のように思われる。そこでは他の曲にみられるような舞曲の様式に沿った自然な表現からは逸脱したような、内面的な深い陰のような部分にすべてが従っているかのようにみえるのである。この音楽に表現されている、決して見てはならない地獄のような世界がバッハの身近な環境、もしくは、その周りに散見されたことを想像させる。バッハは敢えて、そこから目を逸らさずに、この最初の出版された曲集に含めて、いわば、そのフィナーレともいうべき位置にもってきたのだ。作品は実質、このサラバンドまでの4楽章形式で終結し、最後のジーグはフランス様式のオペラならば、終演後の余興であるバレに相当する、エピローグの役割を果たしていた。テンポ・ディ・ガヴォットは、その前奏的な役割にすぎず、ごく短いが、会衆のこころを祈りへと誘う響きにも聴こえた。精巧なジーグの対位法は、のちのベートーベンに影響を与えたであろうが、金子も冗談まじりに言ったように、ここは半終止で締められており、音が途切れても、無限のループを描いているのが特徴である。死のあとに、無限の世界があるということを知らせるかのようでもあり、また、この作品番号1が、あくまで通過点であることを示していたのかもしれない。

ここに集められた作品はのちにファンタジー、もしくは、ヴァリエーションとして、時代の花形に君臨し、発展する形式の萌芽を示すものが多い。ハイドンの『アリエッタと12の変奏』(Hob.XⅦ-3)は、そのなかで最も素朴なものであろう。ハイドンの変奏曲は古典派やロマン派盛期の派手なものと比べると、技巧的な味わいは少なく、ひとつの音符を単純に分割していくシステマティックなものが主体になっているようにみえた。

【時空と地理を越えて】

ハイドンが長く仕えたのは、アイゼンシュタットのハンガリー系軍事貴族のエステルハージー侯であった。金子は過去に当地を旅行したとき、列車の分岐に気づかず、目的のアイゼンシュタットに辿り着かないで、ハンガリー方面に向かっていく列車で乗り過ごしてしまった失敗談を披露したが、それは単なる笑い話ではなかった。前半のプログラムが形式や信仰と関係深いものだったとすれば、後半のプログラムはウィーン=ハンガリー二重帝国的な狭さは感じるものの、それでも「世界」という広いところに視点を移すものであった。

例えば、2楽章のコンパクトなソナタ第54番(Hob.XⅥ-40)のプレスト楽章は、多分、ハンガリーの様式から来ているという金子の話である。第1楽章は非常にのんびりした田園的な主部と、情感のエッジが効いたメランコリックな部分との対比が、既にロマン派の到来を予告している。従来の形式では、几帳面に埋められてきた音楽の空間に、少しずつ静寂の余白が混ぜられていることにも気づくだろう。一転して、プレスト楽章は隙間がなく、オペラ的である。中間にシューベルトの「楽興の時第2番」が演奏され、それが明らかに歌曲の呼吸をもっているのと対照的であった。シューベルトの作品はさらに余白が多く、スペースの用法はより洗練されていて、音楽の厚みもちがっている。シューベルトは生涯、ウィーン文化圏を出なかったとはいえ、家系のルーツはモラヴィアの田圃にあり、スラヴ系の図太い旋律の特徴を聴いたとき、ハイドンの動的なハンガリーの旋律と比べて、我々、日本人にすんなりと入ってくるところがあるのは頷けた。

ハイドンの、より深い時代に書かれたソナタ62番(Hob.XⅥ-52)ともなれば、それまでのものと比べて、未来的なものともなっている。ここまでのプログラムではハイドンとバッハが柱となり、モーツァルト、ベートーベンを欠きながら、未来のシューベルトにつながってくる構図を示していたが、よく言われるようにベートーベンから来るものよりも、シューベルトがハイドンの影響をより直截に受けていたらしいことが印象づけられたのも、いっそう興味深いことであろう。それはつまり、ハイドンの音楽が一般的なイメージよりもずっと力強く、変化に満ち、独特だということを意味している。確かに、ベートーベンの壮大な作品と比べれば、小ぶりなインスピレイションしか与えないものの、この作品における多彩な表情はあたかも、タイムマシーンに乗って時空を行き来し、「どこでもドア」を開けて、世界を旅したような響きとして伝わってくるのだ。特に、ダンパーのアクションやハンマーの動きがむき出しで見える、この楽器の味わいは、ハイドンがつくりあげた豊かで、厚みのある表現を自ずから物語っているようだ。

【フォルテピアノにおける表現の優位性】

その意味で、金子の表現は誰よりもアグレッシヴで、多彩な可能性に満ちていた。この時代のフォルテピアノは、よりカラフルで、繊細な表現に向いているチェンバロと、より安定感に満ち、広範なダイナミクスを抉るモダン・ピアノとの中間に位置する楽器だ。過渡的な性質をもっているものの、うまくすれば、これらの楽器とはまたちがった、この楽器でしか出せないような味わいを見つけることも可能である。現代のピアノと比べれば、フォルテピアノは明らかに、演奏者のつくる個性的な響きを表現しやすく、弦楽器にも似たクオリティがある。また、チェンバロよりも響きの質のヴァリエーションや、色鮮やかさでは劣るものの、当時はまだ作曲家が夢みるだけで、実現はできず、楽曲には密かに託されていた豊富な表現の可能性を、積極的に切り拓くような思考を花開かせるのかもしれない。

特に面白かったのは、金子という素晴らしい翻訳者の力によって、バッハ、ハイドン、シューベルトの作品が示す微妙な個性が浮き彫りになった上、同じ作曲家の作品であっても、その時代や、作品のもつ背景に応じて、まったく異なるアプローチ(もしくは、それらの響き)が示されたことである。近年、ハイドンはピアノでも多く弾かれるようになったが、ともすれば単調になりがちで、時代的な鍵盤楽器が示すような多彩さに気づくことも少ないものである。このリサイタルは、そうしたハイドンの作品が、実にベートーベンにも比されるような深い革新性をもっていたことを示すに十分な内容だった。

金子にとって、いま、もっとも新鮮なプロジェクトがシューベルトなのかもしれない。本編で1曲、締めとなるアンコールで1曲、彼女が繰り広げた演奏は、有名な『ハンガリーのメロディ』(D817)だけをとってみても、まったく知らない作品でもあったかのような独特の呼吸に基づいている。その仕掛けに満ちたルバートや、休符の取り方、鋭いアーティキュレーションの形は、本編で追ってきたバッハの舞曲などから必然的に導かれた「結論」だったのかもしれない。一方、シューベルトの『楽興の時』は、従来の音楽が示してきた諸々の機能という観点からみても、まったく理解しがたいような独立した美しさを示しているのではなかろうか。特に響きの面においては、シューベルトの音楽は全くの異世界のように存在している。和声や、音楽の響く空間の問題が、この作曲家のもつ神秘を深めているのは間違いない。

【まとめ】

金子陽子は楽器の演奏法、古い舞曲のリズムやフォルム、各地域の音楽の特徴や個性、それぞれの作曲家がもつ意外な背景や表情などについて、多彩なメッセージに満ちたパフォーマンスを活き活きと展開した。特に、ハイドンについて、今回、私は多くの新しいイメージを得た。このような形で、ハイドンの鍵盤作品をじっくり味わう機会も、まだまだ少ない。もっとも、私がこの日のパフォーマンスで、もっとも気に入ったものといえば、バッハのパルティータであった。バッハについて、金子の表現が特徴的なのは、人間くさいということであろう。この時代の音楽作品は職人的で、ある程度のフォルムが決まっており、多作で、使いまわしもある。さりながら、それらの組み合わせとして、出来上がったひとつひとつの作品にそれなりの意味があることを信じて、金子は演奏するのだ。

例えば、バッハのカンタータを演奏する場合、当たり前に探究されているような要素を鍵盤作品でも同じようにアプローチすると考えるならば、彼女の取り組みの妥当性が窺われるであろう。金子陽子による新しい探究に、大きなインスピレイションを得た一夜であった。

【プログラム】 2018年4月17日

1、バッハ 幻想曲とフーガ BWV904
2、ハイドン アリエッタと12の変奏 Hob.XⅦ-3
3、バッハ パルティータ第6番 BWV830
4、ハイドン ソナタ第54番 Hob.XⅥ-40(op.37-1)
5、シューベルト 楽興の時第2番 D780-2
6、ハイドン ソナタ第62番 Hob.XⅥ-52(op.82)

 於:レスプリ・フランセ

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