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2018年5月29日 (火)

第4回東京国際ヴィオラコンクール 第2次審査 初日 5/29

【一挙に8名に絞る】

第4回東京国際ヴィオラコンクールは、5月26日から石橋メモリアルホールでの第1次審査が始まり、13の国と地域から集った32名のコンテスタントのうち、一挙に8名に絞り込まれて、29日からの第2次審査に突入した。この時点で参加者の国籍は5(4)に減り、地元日本に加えて、台湾、中国、韓国、セルヴィアの出場者が残っている。私はこのラウンドを、すべて聴けるように手配をした。個人的なことだが、今年はガラ・コンサートを捨てて、第2次審査の2日間と、ヒンデミット『白鳥を焼く男』による本選2日目にフォーカスして聴くことになっている。第1次審査を経て、選り抜かれた1/3ほどのコンテスタントによる演奏を聴ける予定だったが、若干、誤算が生じた。

本来、第2次審査は16:00までの予定で組まれており、前回は多めの13名が次のラウンドに進んだことを考えると、狭き門となっている。その理由は参加者のレヴェルが水準に満たず、審査員のバツ判定が多くついて、8名しか適格者がいなかったか、反対に、選ばれた8名が非常に優れており、他のコンテスタントを引き離していたという可能性の両方が考えられる。今回、事前に動画などをチェックしたところ、コンテスタントの実力は高そうであったことからして、私は後者の理由にちがいないと推測している。例えば、Giovanni Menna はバイエルン放送響の団員と思われるので、既にそれほどのキャリアを歩む奏者であっても、8名のなかに残れなかったことを考えてみよう。もっとも、オーケストラのメンバーとしての能力と、ソロで活躍するヴィオリストとしての能力はまた異なるものなのであろうが。

第2次予選の初日は、4名のコンテスタントが演奏した。ギュウギュウに詰め込んだ、過去3回のコンペティションと比べて余裕のある運営であり、リハーサルなどの面で、コンテスタントにも僅かばかり、良い影響があることは想像がつく。なお、このラウンドは武満徹の”A String Around Autumn”と、バッハのフーガ(無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番 BWV1001 より)、今回のコンペティションのために委嘱された野平一郎の作品を全員が演奏し、シューマンの5つの作品のうち1つを個々が選ぶという選択性の低いものになっている。しかしながら、曲順に制限はなく、シューマンのどの作品を選び、どのように各作品を並べるかというところには、アーティストごとのセンスがよく出ていた。

【近衛剛大の完璧にデザインされた演奏】

本日、演奏したなかで、私がもっとも印象的に感じたのは近衛剛大だ。アムステルダムで生まれ、ずっと向こうで育ってきた人のようで、日本に太いコネクションがないものの、「近衛」という姓からもわかるように、その家系はかの名門につながっている。曾祖父は、近衛秀麿氏という。父親が日本のオーケストラでファゴット奏者として活躍のあと、オランダに渡った近衛一氏とすれば、辻褄があうだろう。

しかし、名前で音楽ができるわけではない。私が感銘を受けたのも、その素晴らしい音楽の構築についでである。彼のパフォーマンスはこのラウンドで、およそ完璧というに相応しい内容だった。プログラム編成は、まずシューマンの『おとぎの絵本』、つづいて、無伴奏でバッハ、野平とつなぎ、武満で締める内容であった。ロマン派の作品で始めているものの、後から振り返ってみれば、これから自分が何を、どのようにやるのか、このシューマンですべて明らかにしていた。

冒頭から気づくのは、ノン・ヴィブラート・ベースの清潔な演奏スタイルである。必要なところでは適度に弦を振るわせ、そこには必ず、意味のあるメッセージが込められる。ところで、4つの課題曲のなかで、甘くも、苦くも解釈できるシューマンをどのように位置づけるかということは、ひとつのキーになるものだろう。幸い、この日のコンテスタントはもっともレヴェルの低い過ちを犯すことはなかったが、近衛はそのなかでも、課題曲として想定されていた以上の意味を作品に与えた。彼はシューマンの作品に内包された、メンデルスゾーンや、それ以前の古典派にちかいメッセージを語る能力を読み取ったようである。情感や和声といったものよりも、シューマンがまず、構造の作曲家であることを知り、緻密なアーティキュレーションと響きのコントロールだけで、どれほど充実した言葉が語れるかを聴き手に伝えたかったにちがいない。構造のなかで、必然的に振るえる響きには、いつも、胸に迫るなにかを感じ、それ以外の部分では、据わりのよい品のある表現が気を惹きつづけた。4つの楽章は互いに異なる表情を伝え、作品世界を深彫りにしていく役に立つ。勢いや内面的な懊悩に任せず、これほどに味わいぶかい、茶の湯の世界のようなシューマンはなかなか耳にできない。

彼の演奏は既にコンテスタントの域を脱し、まるで大学の教授のように、よく考えられているようだ。楽器の動きが多く、響きの精度に若干のムラがあることが指摘できるものの、音楽の構築に関してはすべて、圧倒的にレヴェルが高い。楽器の角度、弦の入れ方やアップ・ダウン、響きをむかわせる方向に至るまで、随所に、深く考え抜かれていない要素は見受けられなかった。特に、彼がフレーズのはじめをアップで入れるときは、非常に深い意味を感じる。他のコンテスタントがスティール弦を用いたフレキシビリティの下、総じて合理的なボウイングに徹しているなかでは、彼のパフォーマンスは古き、良き伝統に根差しているように思われた。この感覚は私の場合、フェリックス・アーヨの演奏を聴いたときに憶えたものである。僅かではあるが、それは方言のアクセントのように、音楽に決定的な、味わい深い訛りをつけるのだ。

3番目のコンテスタントのように、まったくの標準語で話し、バッハの演目では、バロック・ボウを使うという選択肢も悪くはない。可能なら、ガット弦を張った楽器まで用意したいところだろう。しかし、近衛は道具を変えることなく、時代的な訛りをつけることもできると知っていたのだ。既にシューマンにおいて、その可能性を匂わせていたが、決定的に、これが効果的だったのは武満の演奏であった。上げ弓が出る度に、私を絞めつけるような緊張が襲い、近衛は、この作品が紛れもない傑作であることを教えたのである。

A String Around Autumn

1989年、フランス革命200年を祝う意味で作曲された名品は、このコンペティションの扇の要である今井信子によって初演されている。ごくゆっくりで、晦渋なところの多い武満作品であるが、そのアニヴァーサリーな背景に基づき、特に独奏部は異例なほどに明るい(といっても、武満的にではあるが)。オリジナルはオーケストラとの協奏曲だったが、ピアノ伴奏版はのちに今井の要請によって、細川俊夫がアレンジを手掛けたものである。私は正直、この作品をよくは知らなかったが、近衛剛大と、今回から公式伴奏者に加わった素晴らしいピアニスト、木田陽子とのコンビによって、ほとんどすべてを知ることになった。そして、深く愛するようにもなった。この作品は、これまでに聴いた、どんな武満よりも素晴らしいと思われるのだ。17-8分もある中規模な作品だが、その詩的な持続力は揺るぎない。20世紀音楽の特徴である不安さをあまり感じず、ゆたかで、充実した夢のような音楽が聴ける。

細川の優れた編曲もあり、前半ではドビュッシー、後半ではメシアンの響きが、ゆらゆらとたゆたうのが聴きとれるが、そこに雅楽のような響きがミックスされて、程よいブレンドをつくる。ピアノのパートも多彩な解釈の可能性が見えるもので、木田と草では、まったく表現が異なっていた。前者は立体的に、空間性を重くみているのに対し、草は独特の座標をとって面的にリズム構築する手法がまた別の目を惹くという具合である。コンペティションとして、この差が適切なのかは微妙であり、翌日、キリアンと有吉が登場すると、また、まったく別のクオリティが生まれるのかもしれない。しかしながら、それにもかかわらず、ヴィオラ・パートのクオリティは明らかに、近衛が群を抜いているとわかった。他の誰からも、これほど明確なメッセージは読み取れないのだ。2人の演奏が、あとで調べてみた作品の特徴と見事に合致していたのを知ったとき、心底、驚いてしまった。

武満と野平の作品は、ヴィオラの特徴である響きの美しさや、小手先の技術的な巧さだけでは、どうにもならない要素を含んでいる。野平の作品は、無伴奏の課題曲であるバッハのフーガと、同じ素材から切り取った瞬間をもとにしている。そのため、中にはバッハの演奏で用いたリズムをそのまま保存して、演奏しようとするアイディアさえも飛び出した。それはそれとして、作品はバッハと武満をつなぐインターフェイスとして開発された背景をもっているように思われる。バッハの動的な部分や、フーガの重なりを、武満らしい静寂、もしくは、空間に広がっていく効果を受け継ぐ野平の感覚と対話させ、武満の1/3ほどのスケールにまとめたのだ。

これらのバランスを、遺憾なく表現したコンテスタントも近衛だけであったといえる。まず、冒頭は響きをまっすぐ上に、煙のように導いていく。最初の引用から、少しずつ音楽が振動しはじめる。動くべきか、留まるべきか、アーティストの深い思慮が求められ、それによって、印象は千変万化する。しかし、恐らくは、それほど動きすぎる演奏は、作品のもつ神秘からは遠ざかる。野平の音楽は、少しずつひねくれている。ひとつの糸を丁寧に手繰っていっても、その先は切れているということもある。演奏には多くのアイディアと、柔らかく、つなぐ力が必要だ。それがうまくいかず、ばらばらになってしまう演奏家もいた。

【その他のコンテスタント】

2番手に評価したいのは、中国のシェン・ジユ(Ziyu SHEN)である。こちらは非常に完成度の高い演奏家で、小柄だが、精緻で、肉厚な表現力に満ちている。ハーモニクスもきれいにつくれている。バッハでは唯一、バロック・ボウを手にしていたが、本体にはスティール弦が張ってあることもあって、それほど際立った効果はない。なによりも、レパートリー間で、音楽の表現に特徴を見出せないのである。小柄だが、全身でパフォーマンスする彼女がもっとも気を遣うのは響きの安定と、そのふくよかさであり、その点では、この日のコンテスタントのなかでは際立っている。近衛ほどではないものの、そのゆたかな響きで聴く武満の音楽も、それはそれで味わいがあった。

シューマンはヴァイオリン・ソナタを選択。この曲は自ら編曲が必要で、全体でも数人のコンテスタントしか選んでいない。シューマンの演目はある意味で、どれを選ぶかによって、適性検査のようになっている。幻想小曲集は動的で、技巧性が高く、これを選ぶ人は表面的な響きの芸術だけでも、人々を納得させる自信があるショウマンの資質がある。社交的で、華がある。『おとぎの絵本』は4つの楽章があり、内面的にゆたかな実質を含んでいる。知的で、想像力に富んだタイプだ。ソナタは編曲スキルも必須であり、創造的で、大きな構造を捉える視野の広さがなくてはならない。彼女は正に、その広い視野で売っていく演奏家だ。若干、研磨がゆるいところは見受けられるものの、なかなかスケールの大きな表現力をもっている。ただし、アーティキュレーションの強調、強拍などのポップはワン・パターンで、表現のヴァリエーションに欠ける。

キム・セジュン(Sejune KIM)も、見どころがあるアーティストだろう。彼の目立った特徴は力強く、深い響きそのものにある。意思の強い骨格の太さ。その音は誰にでも、簡単に出せるようなものではなく、これを大事に用いたいものだろう。年齢がわからないが、今後の課題は左右のリストの柔らかさにある。音楽的な硬さがとれて、自らの長所を流れに乗って表現することができれば、これに勝るモノはないだろう。しかし、韓国の2人のコンテスタントは、自分のイメージした枠に音楽を嵌め込んでいこうとする共通の傾向があった。こうした押しの強い、能力のある演奏家はオーケストラの2、3列目あたりで、フォア・シュピーラーのような働きをするのにもってこいだろう。能力の高さが目立つが、ハーモニクスなどは意外に潰れぎみで聴こえてきた。

ユン・ソフイ(Sohui YUN)は、コンペティションのレヴェルでは普通の水準であるが、近衛の直後になったのはかわいそうだった。特に武満では、数分も早く駆け抜けてしまう呼吸の浅さが目立ってしまう結果となった。ライオネル・ターティス型のやや厚みのある楽器をもち、こちらも響きの良さが耳を惹く存在だ。しかし、独特な緊張もあったのか、全体的に速めとなってしまった印象である。プログラム編成的にもリサイタルのような脈絡がなく、イメージをつなげることができなかった。まだ若そうに見えるし、今後の研鑽次第で化ける素材ではあるかもしれない。

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