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2018年6月21日 (木)

東京国際ヴィオラコンクール 本選①&② 6/1ー2

【力づよい中国の未来】

第2次審査から見守ってき東京国際ヴィオラコンクールも、4人のコンテスタントによる本選に突入した。この日のソワレに開かれたガラ・コンサートでは、コンペティションの副審委員長で、ヴィオラスペース全体のディレクターでもあるアントワン・タメスティ氏が、子どものころ、聴いた音楽は演奏家にとって、非常に重要な影響をもたらすと述べている。例えば、中国のコンテスタントはこれまで、非常にローカルな感覚を示すことが強かった。世界中に華僑が飛び出す開放的な一面も見られるのとは対照的に、国内的には依然として閉鎖系の文化も根強い同国では、音楽の強烈な中国訛りは日本や韓国のそれとは一線を画すものであった。中国を代表するアーティストである傅聰(フー・ツォン)と許忠(シュー・ツォン)、朱暁玫(シュー・シャオメイ)、上海クヮルテットなどのアーティストはどこかにこうした個性をうっすらと残しつつも、ノーブルな西洋音楽の特質を身につけたアジア人の先駆けである。

今井信子女史は近年、北京中央音楽院でも客員教授を務め、同国のクラシック音楽文化を世界的に通用するものにモディファイする役割を助けてきたが、その成果のひとつとして、このコンペティションの第2回大会で、第1位を獲得するカン・ウェンティン(ウェィティン)が活躍。現在はスペインを拠点に、今井の活動の一部を継承しつつあるようだ。今回も2人のコンテスタントが本選に残り、正に国家としてのライジング・スターである中国の高いポテンシャルを証明している。徹底した基本技能の習得に大きな成果を挙げている韓国と、歴史的にもアジアの音楽文化のリーダーであった日本が、その牙城に挑んでいるが、近い将来、中国が圧倒的に前を進むことになる未来はいよいよ現実味を帯びてきたのだろう。

【ガース・ノックスがそこにいるかのよう】

さて、本選の室内楽ラウンドはブラームスのソナタと、現代にちかい時代の課題曲から選択した曲ひとつで構成される。ブラームスは2番を選ぶコンテスタントが3名を占め、残り1名は1番。そのほか、トーマス・リーヴルによるヴァイオリン・ソナタからの編曲も入っていて、これを選ぶコンテスタントも一定数はいたのだが、生憎、本選に残る人がいなかった。

トップとして、韓国のキム・セジュンが素晴らしいパフォーマンスを見せた。キムは、第2次審査のときよりも、大幅に質の良いパフォーマンスを披露した。ブラームスの表現はある意味ではノベライズされており、語りに満ちたドラマの音楽である。ヴィオラの音色を千変万化させ、愛しあう男女を思わせる2人を中心にして、多彩な表現で対話しあうものとなっていた。ときに予期せぬものとはなったが、その圧倒的な音色のヴァリエーションは単に技巧的に優れているばかりでなく、より単純に、この楽器が好きで堪らず、暇さえあれば音を出して、こんな響きもある、こんな響きもつくれる、といって楽しんでいるひとりのヴィオラ愛好家の姿を露わとしたのである。

エネルギッシュに力んで弾かれることも多いブラームスだが、キムはほとんどフォルテを使わず、抑えた表現で通している。その基本姿勢には賛成だが、局面においては、より突き抜けた表現も必要だったと思われ、全体的に声量が足りない印象もある。慎重で、精緻な演奏というよりは、置きにいった印象を免れないからである。また、確かに音色の多さは素晴らしいとしても、不自然に響きが裏返って聴こえるような局面では、わるく聴こえることもあった。高音でエネルギッシュにやるような部分では、こうした部分が目立ち、クオリティをチープなものとして引き下げる結果となっている。

この印象を一変させたのは、ガース・ノックスの”Fuga libre”の演奏であった。作品は記念すべき第1回コンペティションに際して委嘱された課題曲であり、このコンペティションに思い入れのあるすべての人に影響力をもっているだろう。ノックスはかつてのアルディッティQのメンバーで現在は独創的な活動で演奏、作曲、教育の分野で広く活躍し、かつてはヴィオラスペースにもよく参加していた。初演時は非常に難しい作品として印象づけられたが、若いヴィオリストの能力も飛躍的に高まっている今日、このような素晴らしいパフォーマンスに接することもできるようになったのは隔世の感がある。単純な比較は意味がないが、彼の演奏は当時、上位に入賞したセルゲイ・マーロフやディミトリ・ムラトと比べても、まったく遜色のない輝きであり、まるでガース本人が目の前にいるような錯覚を覚えるほど、活き活きとしていた。

よく準備され、丹念に磨かれた作品を弾くとき、キム・セジュンという奏者は恐ろしいほどの実力を発揮する。その分、即興的なフレキシビリティは少ないようにも見えるが、これはこれでひとつの才能である。演奏構成の自由度は低いが、4人のなかでも、ブラームス以外の曲目を後ろにもってきて、ブラームス以上のクオリティを示したのは彼だけであるといえるだろう。先にも示した音色のジュークボックスを開き、ノックスのつくるバロック、クラシック、ワールドミュージックを綜合した多彩な表現に対応、勢いよく駆け抜けるシーンも、静かに、ゆったりと漂流する場面も、みごとに印象づけた。もっとも、最後のラッシュはいささか誇張的であったかもしれない。

【近衛のパフォーマンスは下方修正】

2番目に、近衛剛大が登場した。前のラウンドの演奏を聴き、大いに期待していたのだが、この前の演奏ほど驚きを与えるものとはならなかった。最初の現代曲は、野平一郎による『戸外にて』からの演奏である。全員が弾く第2次審査に続けて、本選でも野平の作品を選んだのは戦略的だ。審査員の作品を目の前で堂々と演奏するのはポイントが高そうだが、半面、その解釈が妥当でない場合にはかえって逆効果となり、リスキーな選択であるかもしれない。例えば、第2次審査のセルヴィア人コンテスタントの挑戦をみてみよう。それと比べると、近衛は譜面を的確に、響きにできるという自信があるのだろうか。実際、そのことを前のラウンドで存分にアピールしてみせた実績もあった。

規定により、3つの楽章から2つを抽出した演奏は、マルシェにおいて、”TransforumationⅢ”と通じる推進力と、イマジネイションを披露し、ノクチュルヌにおいては、ほとんどコマに接する部分を弾くなどの技巧的な味わいと、構造の対話という点で、及第点の演奏をしたといえる。しかし、後者においては巧みな演奏であるものの、若干、煮込みが足りない印象も抜けきれず、全体的にはやや首をひねる結果となった。

ブラームスの演奏がポイントだったが、これはやはり、一目置くべきものではあったろう。もっとも、この作品が近衛のもっている良さを発揮しやすいものであったどうか、その点については疑問も残るのである。「雨の歌」のほうが、彼がこれまでに示してきたような演奏の素晴らしいクオリティを発揮する細かい構造があるからだ。ヴィオラ・ソナタ第2番は、それと比べると、ずっと単純で、見せ場が少ないのである。厚みのある響きを、悠々と発揮していくだけで良さが出る、比較的、単純な作品なのだ。内面的には、若いコンテスタントに訴えやすい色恋の絡む要素があることも確かだろう。ブラームスは例にもよって、この作品でシューマン夫妻をつよく意識しているからだ。近衛もキムと同傾向の対話的な音楽として、作品世界を描き上げようとしたところも窺えるが、順番の関係で、これは二番煎じに聴こえてしまった。注目の上げ弓は、第1楽章の後半にようやく登場。相変わらず、繊細な響きの構築は胸をくすぐるものであった。

第2次審査では、印象に残るパフォーマンスがひときわ輝かしくみえたのだが、本選の室内楽ラウンドでは思い通りのパフォーマンスとはいかなかった。

【ファンはリゲティで好パフォーマンス】

ファン・ルーシャは、リゲティのソナタで、かなり深みのある演奏を披露した。その雰囲気は、このラウンドで彼女が身につける銀灰色の煌めく衣裳ともよく響き合うものである。目線で響きの行方を確かめながら、どこへ行くともなく、空間に漂う響きをゆたかに表現する。ひたすらと楽器のもつ美しい、ふくよかな響きが雨を待つ雲のように止まりつづける音楽は、彼女の大事にしたいものを端的に物語るものだろう。最後のハーモニクスまでつづく深い緊張感も得がたい。つづく第6楽章の演奏は一転して動的なのであるが、それまでの素晴らしいパフォーマンスと比べると、焦点が定まらなかった。最後は楽曲のとおり、未解決のまま終わり、最初の楽章にループしそうな音楽である。

ブラームスの演奏に関しては、さすがに同じ2番だけで、連続して3人目であり、正直、公平に演奏を判断することができたかどうか、自信がない。そもそも、難しいブラームスの演目において、4人の伴奏者はかなりクオリティが異なっていることも問題だ。1人のコンテスタントに、1人の伴奏者がつく形になったことによるメリットは計り知れないが、半面、あまりにも演奏解釈にちがいのある4人のピアニストとの演奏で、パフォーマンスを判断するのも難しいのではなかろうか。恐らく、ブラームスの演奏に適した安定した表現力をもっていたのは、キリアンと草の2人であり、木田や有吉は若干、気負ったところが強く、響きが攻撃的になることもあり、若いコンテスタントの助けになったとは思えないのである。このことも影響してか、ファンの演奏は、私には曲目に押し潰されたような印象を抱くのである。音色は不如意に薄くなることが多く、全体的な安定は低いレヴェルに止まった。

【シェン・ジユの完璧なパフォーマンス】

最後に出てきたシェン・ジユが、このラウンドではもっとも素晴らしいパフォーマンスを見せた。まず、B.A.ツィンマーマンのソナタでは冒頭に旋回運動へと聴き手を巻き込み、そこからは快刀乱麻の響きと楽器のコントロールをみせて、多彩なイメージをゆたかに切り取っていった。僅かに弾き捨てるように聴こえた部分はあったが、その演奏は大体において、見事に嵌っている。個々では何の脈絡もなさそうな素材のコラージュにすぎないが、キュービスムのように、全体では神秘的なまとまりがあり、詩的な物語まで感じさせる。さすがに、歌劇『兵士たち』の作曲家というべきである。

ブラームスのソナタでは唯一、第1番を選択した。彼女はこの前のラウンドでも、シューマンのソナタを選択していた数少ないコンテスタントで、選曲に面白みがある。他のコンテスタントが第2番を選択したのは、第2楽章以降の表現について、第2番のほうがヴィオラ・パートが直接、充実しており、対する第1番はピアノ・パートが主体となる場面も少なくなく、ガツンとした見せ場に欠けるせいであろう。かつて、このコンペティションでも第1楽章のみが課題曲になったことがあるのを思い出した。その楽章は、やや重めの第1番にも関わらず、第2番と共通する明るさのある響きで、やや軽妙にとっているのが特徴である。構造を繊細に辿り、適切な響きの量を測りながら、豪華に響かせていくことでは変わらない。草が非常によく丁寧なサポートを見せており、自分がメインとなる場面でも清楚に振舞っているのがコンテスタントの選んだ演奏姿勢とよくマッチしており、パフォーマンスを惹き立てることにつながった。これはシェンにとっては、幸運なことだったろう。彼女は空間に漂う響きを読む力が巧みであり、それに応じた柔らかい演奏のコントロールが耳を惹く。石橋メモリアルホールは以前から、声楽(合唱)にも人気のある響きやすいホールであるが、改修後はさらに響きがよい。そんな空間的な特徴を、やや削った響きで上手に支配している。

見せ場の多い第1楽章よりも、後続の楽章の表現は詩的で、ツィンマーマンの作品と共通した部分も見せていた。第2次審査では近衛が細かなアーティキュレーションの構築、ボウイングの多彩なメッセージで、それぞれの作品を効果的に表現し、また、ファン・ルーシャは拍の保持を精確におこない、特徴的な演奏を披露したが、この日のシェンは、これらの特徴を併せもつ完璧な演奏を披露した。他と異なるレパートリーを選ぶだけでも優位性があるが、その演目をこれ以上ないほどの素晴らしいパフォーマンスで印象づけることに成功したのである。

初日のオーディエンス賞は近衛に入れるつもりでいたのだが、今回のパフォーマンスを公平に評価して、最後のシェン・ジユに投票した。

【協奏曲ラウンド】

翌日の協奏曲ラウンドは角田鋼亮が指揮する新日本フィル(NJP)をバックに、ヒンデミットの『白鳥を焼く男』を弾くということで、珍しい演目になった。管弦楽編成にはヴァイオリンとヴィオラを欠き、管楽器が中心となるが、NJPはそこをほぼ首席/副首席クラスで固め、選考に大きく貢献したばかりか、コンペティションに止まらない演奏成果を深く印象づける結果となった。耳にする機会も貴重な演目を、こうした形で楽しめたこと自体、私には幸福なことだった。

まず言っておきたいのは、この日の演奏は四者四様で聴きどころがちがった。そのうち、仔細に演奏内容を検討した場合、近衛剛大と、シェン・ジユの演奏が特にクオリティが高かった。今後、各オーケストラの定期演奏会などにおいて、この曲目が組まれたとしても、そう簡単に印象が塗り替えられることはないはずのパフォーマンスである。

近衛の演奏は、これまでの各ラウンドでみせてきた彼のパフォーマンスの総決算となっていた。端的にいえば、その演奏の美点は古楽的であり、どんな作品においても、よく考えられたアーティキュレーションで臨み、その構築を通して、必ず言語機能的なメッセージを読み込む演奏が耳を惹くのだ。本選2のヒンデミットではついに、それが正にひとつひとつの音のレヴェルにまで浸透して、(聴き手が)いちどでは読み込めないほどの膨大な情報量に達した。反面、問題点があるとすれば、拍ごとに響きの重みが変わってくることで、やや神経質で安定しない響きのように聴こえる場合もあることと、丹念に構造を追うあまり、若干、リズムから遅れがちになるときがあったことぐらいである。そうはいっても、演奏技巧的にも、このコンテスタントは非常にレヴェルが高く、音色も素晴らしかったのだ。そのベースを崩しても、彼は意欲的な表現に徹しているというわけである。

対照的に、いつでも安定した響きで、ブレないのはシェン・ジユのパフォーマンスであった。彼女の演奏は本選の両ラウンドを通して、もっとも完成度が高くなった。前日のクオリティを受け継ぎ、お手本のような演奏であった。この日、初めてプロフィールを確認すると、彼女は既にティーンの前半において、ライオネル・ターティスの名前を冠する、ヴィオラの著名なコンペティションで優勝している。実は、そのころの映像も動画で見ていたのだが、最近のもののほうがずっとよく、このプロフィールをみて、私はむしろ、驚いてしまったのだ。彼女は正に、その経歴に相応しい成熟を手にしようとしているようである。

その演奏をも対象化してしまうほどの近衛のパフォーマンスは、驚くべきものとえいるだろう。一拍ごとに意味がちがうかのような彼の演奏に接したあとでは、シェンの演奏はむしろ、物足りないものへと変じるのである。だが、2番目に弾いたシェンの演奏を聴いた時点では、私は十分に満足した。彼女はこの作品で、重要となる要素をほぼ完璧にこなしていたのだから。

最初のキム・セジュンから4本の演奏が重なり、この演目からコンペティション全体が構築されていった事情がよくわかった。作品は新古典主義的なバロック風の序奏で始まる。それを受けたオーケストラの導入は、ホルンがふくよかに響く下で、アイロニカルに進行する。これらが合成され、まったく別の雰囲気で、独奏ヴィオラが音楽世界を拡張していく。大地と宇宙のつくる空間にヴィオラが種を蒔くと、徐々に木管の花が咲き、創世記のような雰囲気がするのである。一方で、常に音楽に貼りついている不穏な空気は、やはり、1935年初演という独特な季節をイメージさせる。しかし、表向きはそうした政治的なものとは反対に、独奏部と管弦楽部で活き活きとした響きが交叉し、ダイナミックに変容されていくだけだ。ヴィオラの音色はいよいよ豊かに、エネルギッシュに、柔らかく、面白い輝きを放つのである。第1楽章の終盤では、序奏のバロック風が再帰し、構造的な循環もみせながら、近代フランス音楽風の明朗な和音(ハーモニクス)で締める。

第2楽章はハープを伴う、非常に素朴な民謡風でメロディアスな主題が提示されるが、その後の展開をみると、必ずしも一筋の道ではない。ヴィオラは民謡を表現するには、もっともふさわしい声をもつのだが、同時に、それを自ずから生まれ変わらせるように神秘的な力をもっている。この特殊な能力に、ヒンデミットは注目した。第2楽章前半の響きを賞賛するように、再び対位法的なフガートを導入するのは、ベートーベン的な発想だ。しかし、ファゴットに始まり、ややおどけた調子で、躍動感のある響きは、この時代の天才たち、ストラヴィンスキーやミヨー、そして、ヒンデミットなどに特徴的なものである。この作品ではおとぎ話のような言葉を立体化する役割も果たしている。ここで、ヴィオラはまた異なった役割で語り始めるのだ。この一種の祈りの部分は、さらに後半の静的な部分に接続され、ハーモニクス等の技巧的な美しさが花を添えながら、次第に収束し、穏やかに歌い終える。ここで、ヴィオラは数個の異なった語り手として振舞うわけである。

終楽章はドイツの古い民謡が主題ということだが、当時、もっともよく流行っていた明るく、幻想的な響きである。ヴィオラは今度は魔女、もしくは、軽業師のように次々と技巧を繰り出し、多彩な印象をつくりながら、聴き手を煙に巻いていくことになる。もっとも振る舞いが激しく、自由な楽器のコントロールが求められる楽章は、バランスするのも容易ではない。頻繁に楽器を動かす近衛のパフォーマンスは、この部分で、やや不安定だったのかもしれない。しかし、私はそれ以上に楽しくなってしまったのだ。少なくとも、私にとって、誰が1位になるかというようなことは問題ではない。彼が音楽に乗せるメッセージのなんと多彩なことか!

一方、コンペティション的に深い感銘を受けたのは、キム・セジュンの演奏だ。彼こそが、このラウンドで大きくスコアを伸ばしたコンテスタントであった。1988年生まれと、もっとも年嵩で、そろそろ腰を落ち着けた活動を展開すべきタイミングに来ているが、少なとも、他のコンテスタントと同じ瑞々しい感覚をまだ失ってはいない。彼は揺るぎのない図太い表現の持ち主でありながら、体格に比べれば、ずっと繊細な表現で徹そうとしている。第1楽章の演奏は特に誠実で、彼らしい魅力に詰まっている。もっとも、協奏曲ラウンドのトップ・バッターで、オーケストラのほうがやり慣れていない面もあるのか、両者の響きあいという点では、特によかった2人のアーティストには一歩を譲る。協奏的な作品において、彼のつくる響きの多彩さは、音響的なバランスからさほど目立っては来なかったようである。

ファン・ルーシャは協奏曲ラウンドに関しては、あまり印象に残っていない。可もなく不可もなかった。

【まとめ】

結果的にみて、第1位に評価されたのは、ファン・ルーシャ(ルオシャ)で、私にはやや複雑な結果に見えたが、コンペティションの結果など、正確に予想できた験しはなく、このラウンドまで進んだことで、当然だが、全員に権利があった。選考にはやや時間がかかり、票が割れたことが推測される。少人数による審査のため、票がまとまれば、簡単に順位は決定できるはずであるが、反対の場合には、決定が難しくなるだろうからである。今回は過去の3回と比べて、第1位がその地位に匹敵するか、2位、3位が僅差だたっため、差をつけるべきか、同順位にすべきかということが議論されていたと思う。結局、キム・セジュンとシェン・ジユ(ジーユー)が並んで第2位とされた。

順位はともかくとして、近衛は法人作曲家の作品を優秀に演奏した者に与えられるサントリー音楽財団賞を獲得。翌日の記念コンサートでは、キム・セジュンがノックスの”Fuga libre”を、シェン・ジユがブラームスのヴィオラ・ソナタ第1番を演奏するなど、このブログでの記事にも「対応した」評価が窺えるのは素直に嬉しいところだ。今井信子審査委員長は、「(コンテスタントの)レヴェルが、前回よりももっと高く」と講評をつけたが、私もそれに賛成である。

結局、私はこのコンペティションに入り浸り、第2次審査の2日間、本選の2日間とソワレのガラ・コンサートを楽しむことになった。その主役は紛れもなく、32名のコンテスタントであった。結果が出た人、出なかった人は様々で、特に、日本のコンテスタントには厳しい選考になる傾向もあるが、それにもかかわらず、このコンペティションはヴィオリストのカタログとして、きわめて質が高いことは、過去の出場者、入賞者のその後をみても、明らかである。この場で勝手な評価を垂れ流している私ではあるが、彼ら全員のパフォーマンスに敬意を表し、改めて謝意を述べることを忘れたくない。

3年後、また訪れる熱狂をたのしみに。

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