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2018年8月 7日 (火)

マルク・ミンコフスキ(指揮) チャイコフスキー バレエ音楽『くるみ割り人形』 都響 フェスタサマーミューザ川崎 8/5

【クリスマス、ハツカネズミ、そして、復活】

チャイコフスキーの「三大バレエ」などというが、そもそもバレエ作品は3つしかない。そのなかで『くるみ割り人形』は最後に書かれたもので、亡くなる1年前(1892年)の作品である。全2作と比べて、すぐには当たらず、生前には、定番的なプロダクションもできなかった。その背景(クリスマスの時期の物語)から、日本でも年末の恒例行事として上演が定着しているが、反面、固定的なバレエ・ファン以外には、今更という演目ではなかろうか。

イエス・キリストの降誕祭が舞台になっているように、もともとは宗教的な祈りと無関係ではなかったはずだが、『くるみ割り人形』と信仰を結びつける考え方は一般的ではない。クリスマスのお祝いムード、楽しさや、降る雪の華やかさ、家族や友情の温かみといったものが、そのイメージの前面に押し出されている。しかし、物語を紐解くと、バレエの前段において、生まれたばかりの王子は祝いの人たちがネズミを踏み潰した因果で、人形に変えられてしまったのであり、本編では少女の手を借り、ハツカネズミの王が率いる兵隊を蹴散らすことで元の姿に戻るのである。王子は誰かの罪を被り、「復活」している。作品がクリスマスの素材として、相応しいことがわかるだろう。チャイコフスキーはそんな二重の背景を睨みつつ、機械仕掛けのくるみ割り人形という興味ぶかい、異質な素材と、人形から王子へ、演出によっては、少女から大人へという変容のテーマを首尾よく手に入れている。

人形のライバルとなるハツカネズミは、疫病を媒介する害獣となり得る存在だ。しかも、ハツカネズミの王は屈強の兵隊を率いて、襲い掛かってくる。ハツカネズミの怨念によって、人形が壊されてしまえば、もはや物語は動くこともない。疫病と戦争という二重の災厄を運んでくる存在は、ときには可愛らしくもみえるネズミというよりは、悪魔的な存在が憑依しているようにも感じられるのではなかろうか。チャイコフスキーの音楽は、特に第1幕の戦いの場面や、その他、第2幕のいくつかの場面でも、そのことを物語っている。しかしながら、それは陳腐な救済(デウス・エクス・マキナ)によって、童話的に平和な解決を迎えるため、『白鳥の湖』ほどシリアスな展開にはならない。

だが、このあと、訪れる「平和」には胸を絞めつけられるものがあった。この作品では、ほとんど1つの場面でしか使わないような無駄な編成もみられるが、第1幕のフィナーレで、ヴォカリーズのみで出演する児童合唱団は、その最たるものであろう。だが、ここで子どもたちが歌うことには大きな意味がある。まず、この場面は先にも述べたように、復活をテーマとする作品の重要なモティーフを締め括っている。加えて、私は客席にいて、当時の人たちがどのようにして、この場面を受け取ったかについて考えを巡らし、結果として、信仰もなしにではあるが、思わず天に祈るような気持ちになっていったのである。何らかの原因で愛息を喪ったような親たちも、この合唱を聴けば、一瞬、我が子の復活に立ち会えること。これが第二の意義であろう。

欧州で中世から近代へと至る間には、様々な災厄があった。政治的動乱や戦争、疫病や飢饉、宗教の対立などである。チャイコフスキーはトルコとの戦争についての深刻な真実について知り得たあとは、『白鳥の湖』を描くなどして、より深く社会と向き合う作品を書くようになった。孫がいなくなってしまったあとの、祖父の涙から始まったチャイコフスキーのバレエの歴史は、いつも誰かの涙や苦しみ、あるいは、孤独と向き合っている。この作品も、例外ではない。

キリスト教徒にとって、待降節から降誕祭に至る期間はバカ騒ぎが楽しいだけの世界ではないはずだ。イエス・キリストが過ごした苦難を想い、何らかの功徳を積み、家族や仲間たちとの絆を確かめる時期でもある。そして、もともとは、亡くなっていった大切な人たちのことについて想いをなし、供物を捧げるようなときでもあったろう。『くるみ割り人形』には、そういう当たり前の、欧米の人たちのこころが見事に生かされているわけだ。季節はちがうが、日本のこの時期にも相応しいのかもしれない。すなわち、8月6日と9日は原爆忌。15日は終戦の日。そして、先祖を迎える夏の盆を控える。だが、『くるみ割り人形』は明らかに、『白鳥の湖』とは異なった性質をもっている。第2幕で描かれる一種のユートピアには、たとえ邪気が迫っても、決して寄せつけない強いバリアがあるからだ。誰も寄せつけない神聖な場所だから、安心感がある。未来の復活を印象づけるとともに、現在、彼ら(死者)がいる場所が安全であることも必要なのである。

【毒と束縛】

ミンコフスキが非常に腐心していたのは、正に、従来の華やかで、ハートフルな響きのイメージに、全体の明度を損なわない程度の、効果的な「毒」を忍ばせることであった。全体的に鮮度の高い響きには聴こえたものの、唯一、見るからに個性的なフォルムとなった「花のワルツ」は、その象徴となっている。ミンコフスキがどのように楽譜を読んで、演奏家たちに教え、このようなフォルムをつくることに納得させたのか、最高の謎である。ただ速いだけではなく、魅力的なパッセージはコンパクトに収縮し、従来、優美なものと解釈されたリズムは異様なほどに尖っている。この響きに違和感を抱かないほうがおかしく、少なくとも、従来の振り付けによって踊ることは考えられない。ところが、このワルツは序奏を伴う明→暗→明のトリオ形式に、豪華なコーダをつけたものと考えられるが、かかる構造のなかで短調に転じるときと、終結部において、このフォルムは思いの外、効果を発揮するのだ。

メロディアスな「花のワルツ」は作品のなかでも、とくに有名なピースだが、物語のシーケンスのなかでみれば、いわば間奏曲的な役割である。多分、ハープを中心とした序奏によって、この世界の支配者(ホスト)であるドラジェが登場する。それを華やかに迎えるワルツではあるが、バレエの中心となるべきは、そのあとのパ・ド・ドゥであり、風格あるディヴェルティスマンが組まれている。作品全体からみても、グラン・パ・ド・ドゥに当たる。ミンコフスキの「花のワルツ」は、この主客を明らかにするものでもあった。バレエの舞台におけるグラン・パ・ド・ドゥは、正に音楽的にも創造の頂点をなし、『くるみ割り人形』では特に、神への感謝と重なっている。この場面が、第1幕の児童合唱と対応的になっているのは明らかであろう。明朗な第2幕のなかでも、時折、忍び込んでいた悪の華も爛漫と開き、楽園を脅かしている。ミンコフスキは、この場面も念入りに仕上げている。だが、不穏な響きから生まれるのはいつも、『白鳥の湖』よりも明らかに安心できる響きであった。

もうひとつ、「金平糖の精(ドラジェ)の踊り」の音楽からは、愛らしさや、優美さばかりではなく、いささか窮屈な、抑圧された響きまでをも感じさせるのである。私のイメージでは、ドラジェはレース模様のついた白い紙か、布のようなものに包まれて、愛らしい箱などに入れられた状態でやりとりされる。ときには、お菓子の表面に美しい装飾が施されることもあるようだ。ドラジェは艶やかで、キュートでありながら、どこか閉じ込められた響きのなかで踊る。チャイコフスキーはこの作品に限らず、単純に音階を昇降するだけで魅力的な響きをつくることが多く、この部分でも似たような操作をしているが、それが半音階であるために生じる斬新さがある。ドラジェはいわば、冥界の支配者であり、未来の創造主のようでもあるのだ。このドラジェの解放をも匂わせるコーダの見事な響きから、最終ワルツとアポテオシス、終結への流れは、今回の演奏のハイライトとなったが、それは同時に、チャイコフスキーが3つのバレエ音楽の最後になって、到達した新しさでもあった。

第2幕は復活した王子による、こころ温まるもてなしであると同時に、スラヴ的な明るい葬礼の場面をイメージさせる。伝統的なスラヴ人の葬礼では、ポルカやフリアントのような明るい踊りが死者に手向けられたそうである。そのように考えると、第1幕の復活も含めて、バレエ音楽『くるみ割り人形』は全体において、宗教音楽の雰囲気も感じさせる。ミンコフスキが感づいたのは、そうしたチャイコフスキーの個性である。あるいは、それがミンコフスキ自身の個性と重なり合っている可能性もなくはない。純潔なものや、人のこころの傷を癒す信仰のありがたみを感じる一方で、彼は神の教えに逆らうものを本能的に有しており、その面との葛藤をつよく描いた音楽家だった可能性がある。つまり、彼は同性愛者であった。現代でもローマ・カトリックは同性愛について保守的な見解を採っており、当時の社会では、よりくびきが強かったのは言うまでもないだろう。チャイコフスキーというひとりの作曲家のなかで、互いに激しく削りあった矛盾は、冥界ともみえる「楽園」のなかで待つ、ドラジェのなかに活き活きと保存されているようだ。

【単純素朴な素材で】

既に述べたように、この作品のなかに息づくモティーフには、チャイコフスキーらしく、単純な音階の昇降によるものが多い。例えば、第1幕終盤の松林でのホルンの長閑な主題は、楽器間を受け渡しながら徐々に発展し、雄大な楽想に生まれ変わっていく。だが、その原形は第1幕第1場の最後で、深夜になってクララとくるみ割り人形が出会う場面の単調なモティーフを引き継いでおり、松林の場面と、児童合唱もかなり平板な素材であるが、それはさらに、第2幕のパ・ド・ドゥの両端部分に変容して、もっとも単純な素材で、もっとも重要な部分を飾る神業を重ねているのだ。この日の演奏では、パ・ド・ドゥの前奏部分でのチェロの深く、優しい響きも印象的だった。

第2幕の幕開けとなる情景も、地味だが、とても印象的だ。ミンコフスキはここで、のんびりした田舎風の響きを、意図的に鈍くさく盛り上げ、寛いだ安心できる雰囲気を緻密に構成している。この安らかさが、あとにつづく場面の多彩な雰囲気を包み込んでいくのである。そういえば、作品のいちばん初めの部分も、いわば日常的な動きから始まり、大きな作品の始まりとしては、序曲を欠くロッシーニのオペラや、ヴェルディの『ファルスタッフ』の手法と似ているようでもあり、同時に、バロック・オペラの雰囲気をも醸し出す。

【バレエ音楽のもつ可能性】

バレエのファンからすると、ここで演奏された音楽はとても踊りやすいようには見えず、『くるみ割り人形』の自然な形からは遠い印象を受けるかもしれない。だからといって、それが音楽的に歪んでいると決めつけるのは早すぎるのだ。多くの場合、バレエ音楽は振付の意図や、人の動きの都合によって、容易に歪められる。カリスマ的なダンサーがいたとすれば、その人の好みによって、音楽はどうしても、多くを譲ることになるはずだ。ジョージ・バランシンのように、ダンサーが音楽に仕えることを主要メソッドとした場合であっても、実際には、多くの点で音楽的な妥協は生じるはずである。この日、私たちが耳にしたものがある意味、作曲家の夢みた音楽の形であったことも理解しておくべきことだろう。それが、バレエ音楽の価値や可能性を広げることにもなる。

【公開GPより】

最終GPは主にこれまで練習してきたものを、このホールに馴染ませる作業のようにみえた。練習場よりもやや重心を低めに調整し、しっかり出して、放射的に響かせる作戦が完璧に決まった。また、奏者があまりに細かく弾くと表情が壊れると感じ、省略的にやっていたような場合でも、ミンコフスキは一粒ごとに緻密な響きを要求した。これでは、どんな奏者も手抜きは許されないだろう。そのようにしてこだわり抜いた細部だけが、表情をもち、音楽の立体性を形づくる。合唱団にはもっと近くに寄れと要求し、何人かはチェレスタの奏者を囲むように並んだ(本番では僅かに近づいただけだった)上に、スヤスヤ眠っているような感じではなく、陽気に振る舞えと要求。何人かの少年はむしろ、喜んで、ミンコフスキの仕種をまね、からだを動かして歌うと、正に天使が舞うような歌声が広がった。しかし、本番では、さらになにがしかのものが加わったのだ。

ゲネを聴いていて、意外と出番が多く、おいしいところもあるのがバス・クラリネットである。バス・クラリネットとトロンボーンという、いささか変わった組み合わせの部分もあった。このような楽器法においても、チャイコフスキーは実験的な試みを入れている。フルートやクラリネット、トランペット、ホルンといったところが目立つ作品ではあるが、終演後、ミンコフスキがハープとチェレスタに次いで、管楽器で最初に賞賛したのは、バス・クラリネットの勝山であったことも付記しておきたい。

【最後に】

チャイコフスキーは常に清新な音楽を追い求めた音楽家だったが、同時に、人生の最後に辿り着いたひとつの理想は、できるだけ素朴なものだけで音楽を語ることだった。時代を追うごとに、細部が省略的になっていくセザンヌの創作を思い出す。『くるみ割り人形』より後に書かれた作品は少ないが、鍵盤作品である op.72 の『18の小品』でも、彼はバロック時代や、古典派に立ち返ったようなシンプルさで作品を書いている。歌劇『イオランタ』も、同時代の煌びやかな作品と比較すると、驚くほどシンプルな感じがする。感染症で亡くなったために、チャイコフスキーは亡くなるまで、制作意欲がまだ豊富であったフシがあり、ピアノ協奏曲や交響曲も、書きかけで残ってしまった。その後の舞台作品において、チャイコフスキーのセザンヌ化が進んだのか、私には興味ぶかいところである。

【プログラム】 2018年8月5日

1、チャイコフスキー バレエ音楽『くるみ割り人形』

 コンサートマスター:矢部 達哉

 於:ミューザ川崎(シンフォニーホール)

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