2018年12月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
無料ブログはココログ

« 二期会 プッチーニ 三部作 『外套』『修道女アンジェリカ』『ジャンニ・スキッキ』 ダミアーノ・ミキエレット(演出) 上江隼人/北原瑠美 組 9/8 | トップページ | 野村誠&中川賢一 生誕50年記念 2台ピアノ・コンサート オリヴィエ・メシアンに注ぐ20のまなざし ほか 9/4 »

2018年9月20日 (木)

高橋悠治(pf)&波多野睦美(Ms) シェーンベルク 架空庭園の書 @ムジカーザ 9/19

【私の旅が始まった】

高橋悠治(pf)と波多野睦美(Ms)によるシェーンベルク『架空庭園の書』の演奏は、代々木ムジカーザを舞台にたった50席という贅沢さだったが、どこか、イメージどおりにはならなかった。客観的に楽曲分析するほどの楽識はなく、私の拙いイメージなど全く問題にはならないだろうが、そこはかとなく思う点を書き残してみたい。最初に言っておくが、イメージどおりではなかったが、まったく胸に響かなかった演奏というのともちがう。おわったあと、私の心臓はこころなし強いリズムを打っていた。それなのに、右の脳も、左の脳も、まだ鍵をかけたままだ。

この作品の録音からは多く、巧妙な構造が読み取られる。テクスト、ピアノ、歌が絶えずバランスを変えながら、きれぎれの物語をつないでいくのだ。ロマン派終末期から自らを崩壊させつつ、新しい言葉の関係を築こうとしたシュテファン・ゲオルゲの詩はドイツ語特有の韻を踏むという以外、ほとんど伝統的な要素をもたないようにみえ、翻訳するにも文脈のつながらない難解さを示している。むしろ、過剰なほどの韻の構造が言葉の形式や関係を侵食し、人々がそこから、もはや意味を考えることなく、単語レヴェルの印象につくようにと導いているように思うのだが、もちろん、私はそのことを語るのに十分なドイツ語の知識に恵まれているわけでもない。言葉全体の感覚とは関係なく、作品は絶えず官能的なものと控えめに結びついており、象徴物としては様々な植物の名詞がところどころに織り込まれている。

見慣れないものながら、シンプルな音楽の構造にもかかわらず、音域は広く、これが非常に厄介だ。高橋と波多野は時代的な特徴においては、あまりにも知的で、音のシステムや和声も新鮮であるが、そのなかでロマン派的な情熱をもった表現を組み立てて、この場で披露したように思われる。だが、私のイメージとしては、ダイナミズムは言葉の抑揚を機能させる目的で、それのみの理由によって、いわば浮揚するのには気球のなかで火を焚いたり、消したりしなければならないのと同じ役割でつかわれなければならないのである。その感覚でいくと、波多野の歌はすこし余裕が足りないし、音域の幅広さに適切な解を見つけられていない表現としか思えなかったのだ。

この作品は男声歌手がうたうこともあれば、女声歌手がうたうこともあるが、この意味では、男声歌手のほうがどっしりした安定を感じることができるはずだ。ただし、その場合はやや言葉が潰れぎみに聴こえ、単語レヴェルまで収束するような言葉のキレには欠けるのである。波多野の歌に注文をつけるならば、私の妄想はともかくとしても、言葉をより深く捉え、単語そのものもより判然とうたう努力が必要だったのではないか。もっとも、伴奏の名手だったアリベルト・ライマンと共演する名花、ブリギッテ・ファスベンダーは『グレの歌』のような活気のある調子で歌っており、天才グレン・グールドと共演するスウェーデンのシャスティン・マイヤーこそが私のイメージとちかく、プロ中のプロによる演奏であっても、その振り幅は広いのがわかる。それらのうちのどういったものが真に理想的なものか、正しく知るためには、私にとって、まだたくさんの旅が必要なように思われる。

この日の時点では、波多野の歌には作品に満ちているポエジーを描くに必要な余白は不足し、言葉もよくは聴こえず、大袈裟な表現に聴こえる部分が多かった。もっとも、この組み合わせにおいては、波多野が高橋の信じている表現につきあった印象のほうが強く、それにもかかわらず、テクスト、ピアノ、歌という3つのパラメータは互いに連動することなく、架空庭園はいくつかの印象的なポエジーだけを残しつつ、閉ざされたままだった。特に印象的なもののうち、2つはピアノの独奏パートにあった。第1曲の冒頭、左手だけで庭園の最初の数段を上っていくときの重々しい表現と、終曲ですべて言葉が唱えきられた後、深い夜に沈んでいくかのような長いソロである。また、1曲目から9曲目で理想郷での恋愛が語られ、第10曲だけで僅かな成就があり、そこから瞬く間に疑念に移って14曲までいき、最後(第15曲)は船に乗って理想郷を去っていくという解釈は秀逸だと思う。

問題は指摘したものの、ウォームアップもなく、いきなりこの曲を歌いださねばならない歌手の側の難しい事情は十分に想像できる。終盤の数曲になって、いよいよ波多野は本領を発揮し始めたが、それではやや物足りず、終演を迎えた。

【作曲家の価値にちがいはない】

休憩を入れず、短めのコンサートだったが、前半は高橋がいつもの調子で、曲ごとにプレトークを挟みながら、演奏した。コンペティションの予選で若いアーティストがよく選ぶベルクのソナタは、80歳の老ピアニストにはやや窮屈なパフォーマンスだった。それと比べて、彼がよく弾くヨ-ゼフ・マティアス・ハウアーにこそ、いまの彼にとって最高のものが表れている。ハウアーは音列技法においてシェーンベルクのライバル的存在だったが、ナチスによる統制を含む1930年代後半からのひっそりした活動のせいか、後世における立場にはあまりにも開きが出てしまった。この日、高橋が弾いた曲集はゲオルゲからみると、半世紀あまり先行したヘルダーリンの詩によるピアノ作品である。

ハウアーは彼自身の音楽と同様に、ヘルダーリンの詩においても解体を進め、たった1行にごく短い音楽を乗せて60篇を編み、そこから16まで削っていったという。この日、高橋はそのうちの7つを選んで弾いた。言葉は消え、音楽へと溶けだした。ベルクのような作品をめまぐるしく演奏する人は少なくないが、ハウアーのように、漂いつつ、ゆったりした音楽を、高橋のようなカタチで上手に捉まえる音楽家はまだ少ないものだ。シェーンベルクと比べると、ハウアーの作品は理論的で硬く、時計の歯車にひとつひとつに仕掛けられた金属が擦り合うように無機質だ。しかし、高橋はそうした音楽にも、生きた人間の息吹を聴きとっている。優れた作曲家と、優れていない作曲家という分類はない。時代と共振れして、大きく膨らまされた気球と、まだ火の入れられないままに萎んだままの気球があるだけのはなしである。今日、学んだいちばんのことは、それだ。

ギリシャのマノス・ハジダキス、そして、水牛楽団の歌と、彼が温めてきたらしい独特のレパートリーが波多野とのアンコールを飾り、やや遺品整理めいてもきたところで、終演となる。ハジダキスは1925年生まれで、幼いころから青年期にかけて、ここで演奏されたのと同じ作曲家の生きた空間を共にしてきた。コルンゴルトのように、後世、映画音楽などで名声を得たが、前衛的とはいえなくとも、ギリシャでは貴重な個性あるクラシック作品も書いている。アンコールともなると、作品が描く音域もずっと狭くなったが、いつもの波多野らしいパフォーマンスになっていた。シェーンベルクは2人にとって大事な挑戦だったと思われるが、まだ熟しきっていないウィスキーのような味だった。いくつか、自分にも受け取ることのできたメッセージを拾って、これから旅をつづけようと思う。まだ、なにも、始まってさえいない。帰ってくるころに、程よく熟成が進んでいれば、それで結構なのだ。味わう自分のほうの問題でもあることを忘れずに。

【プログラム】 2018年9月19日

1、ベルク ピアノ・ソナタ第1番
2、ヨーゼフ・マティアス・ハウアー ヘルダーリンの詩句によるピアノ曲集(1,4,5,10,11,13,14)
3、シェーンベルク 架空庭園の書

 於:ムジカーザ

« 二期会 プッチーニ 三部作 『外套』『修道女アンジェリカ』『ジャンニ・スキッキ』 ダミアーノ・ミキエレット(演出) 上江隼人/北原瑠美 組 9/8 | トップページ | 野村誠&中川賢一 生誕50年記念 2台ピアノ・コンサート オリヴィエ・メシアンに注ぐ20のまなざし ほか 9/4 »

声楽」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/543421/67186598

この記事へのトラックバック一覧です: 高橋悠治(pf)&波多野睦美(Ms) シェーンベルク 架空庭園の書 @ムジカーザ 9/19:

« 二期会 プッチーニ 三部作 『外套』『修道女アンジェリカ』『ジャンニ・スキッキ』 ダミアーノ・ミキエレット(演出) 上江隼人/北原瑠美 組 9/8 | トップページ | 野村誠&中川賢一 生誕50年記念 2台ピアノ・コンサート オリヴィエ・メシアンに注ぐ20のまなざし ほか 9/4 »

ツイッター

  • ツイッター

最近のコメント