2018年11月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
無料ブログはココログ

« My favorite artists vol.1 草 冬香 pf. | トップページ | 東京現音計画#10 コンポーザーズセレクション5:山根明季子 7/11 »

2018年9月 6日 (木)

イングマール・ベルイマン 映画『処女の泉』 @横浜シネマリン

【思考の組み替え】

恵比寿での上映が8/24日におわったベルイマンの映画を追いかけて、横浜シネマリンにて『処女の泉』を拝見しました。これまで『叫びとささやき』『ペルソナ/仮面』と観てきたわけですが、これらのなかでは圧倒的にわかりやすい作品といえます。正に寓話的な内容で、グリムの脚色以前の残酷な赤ずきんのはなしと似ています。ビルギッタ・ペテルソン(ペッテション)演じる思春期の美少女が惨殺され、ワーグナーの歌劇『ワルキューレ』のように自宅へと舞い込んできた仇を母親が見抜き、父親がこれを討つのですが、この間、神様は何にもしてくれず、最後、遺体の下から泉を湧かす奇跡だけを起こすというオチがつきます。単純な話ゆえ、プロットも早くから予想でき、大きな意外性もありません。

ところが、非常に巧妙にできていて、あとからじわじわと思考の組み替えが起こります。「神様」は一家が帰依するキリスト教の神と、家人のインゲリが呪詛を呼びかける北欧神話のオーディンとが二重に登場します。残酷な呪詛を悪魔的に実現する北欧の神と、敬虔な家の娘さえも守ってくれないキリスト教神は、本質的にちがいがありません。惨殺される直前、娘は長閑にみえたランチの前にも神様に祈りの言葉を捧げ、自分を襲うことになる追剥ぎたちと仲良く分け合うのですが、その聖なる言葉も、善良な行いも、悪者たちを遠ざけることはなかったのです。異教の神の呪いが作用しているなら、それも仕方ないことだったのかもしれません。しかし、キリスト教は一神教であり、異教の神の存在など認めてはいません。だとすると、神の力とは一体、何だったのでしょうか。確かに、少女の遺体の下から泉が湧く奇跡は感動的であり、映画としてもひときわ美しい場面だったといえます。この映画はモノクロで描かれていますが、それゆえに、泉の美しさはいっそう際立っており、生きているいのちの象徴としての水が印象的に描かれます。ただ、一縷の希望をもってか、母親が娘の顔に水をたらすものの、それ以上に期待されるような奇跡は起こりません。つまり、娘のいのちが甦るというような。

もちろんのこと、すべてを解説的にいうことはできませんが、宗教的に意味ありげないくつかの象徴が、この映画を印象づけるものになっているのは明らかです。囲炉裏から空へ抜ける天井の穴を仰いで、インゲリが呪詛のことばを唱える場面。娘にもたせる弁当に、彼女が蛙を仕込むところ。例の天井穴から、オーディンらしき男が降臨して、3人の追剥ぎのうち、脆弱な子どもの末弟に呼びかける謎めいたシーン。3度にわたる食事の前の祈り(すべて意味がちがう)。祖母がやはり子どもの追剥ぎに向かって、祈りぐらい捧げなさいと諭すシーン。復讐を決意した父親が丘の一本木を倒して、その枝で邪気を追い払うように入浴するスピリテュアルな場面。遺体をみつけた父親が、レンガとモルタルの教会を建てると誓うシーンなど。しかし、それらの場面は、すべて無意味だったともいえるのです。

強姦の上、惨殺された娘について、現在なら「セカンド・レイプ」といわれるかもしれませんが、確かに、殺されて当然という描かれ方もしています。彼女は美人で、魅力的ではありますが、深い共感を呼ぶほどの清廉さはなく、前夜に遊び疲れてミサに遅れる、母親の忠告を無視して必要以上に着飾るなど、寓話的な「教訓」に結びつく過ちも犯しています。不遇なインゲリを供に連れ出したり、貧しい追剥ぎたちに対する共感的な態度など、優しげなところも見せるものの、見る人によっては大分、嫌われる性格といえるかもしれません。

もちろん、それによって、犯人たちの行為が正当化されることもありませんが。ただし、下女のインゲリは凶行について、自分が呪詛したせいで3人がオーディンに操られてとった行為であり、彼ら自身に罪はなく、自分のほうを殺してほしいと当主に訴えています。3人のうち、ひとりは狡猾で、口がうまい嘘つきですが、別の一人は獰猛だが口がきけず、末弟は子どもの姿をしていて、それぞれにハンデがあります。末弟は他の2人と比べて罪も小さく、あるいは、助かってもいいような印象を与えます。しかし、実際には、当主によって壁に打ちつけられ、あっという間に死んでしまって、それが父親の罪の意識を増幅するのです。妻はなぜか、この子の亡骸を強く抱きしめる仕種をとります。果たして、犯行がオーディンの仕業によるものなのか、単なる追剥ぎ連中による日常的な行為だったのかはわかりません。凶行の直前、娘は3人の飼っている山羊が知り合いのものだったことに気づいており、余罪はありそうなのですが。

インゲリは腹が大きく、恐らくは当主と関係をもったものと思われますが、単に見知らぬ誰かと行きずりの関係をもったのかもじれないし、その事実は明らかではありません。恐らく、当主以外の全員はインゲリが詰まらない情事の果てに妊娠したと思っているようです。彼女は口が悪く、働きぶりもよくはないので、一家から共感を受けてはいませんが、その彼女がなぜ、使用人として残ることができるのでしょうか。さて、彼女は件の犯行を目撃していますが、あとで当主に告白したように、娘を恨んでいたために助けなかったのか、実際、怖くて何もできなかったのかはわかりません。何もできなかったのだとしたら、自分を殺してほしいという言葉はいっそう重いものとして響きます。当主は怒りのあまり、キリスト教の教えを破って復讐を果たしますが、インゲリには何もしていません。彼女に何らかの、特別な感情を抱いているのは間違いないと思われますが、あるいは、インゲリが実際には怖くて何もできなかったのに、見殺しにしたと言って死にたがっている、かわいそうに・・・と解釈したのかもしれません。いずれにしても、その赦しゆえに、インゲリは死ぬよりも苦しい精神の苦痛を味わうことになります。どういう行為をとることが、より残忍なことなのかは意見が分かれそうなところです。

【私の観方】

このように、『処女の泉』は非常に多様な見方ができる映画に仕上がっており、その単純素朴な、伝統的ともいえる筋書きにもかかわらず、観客の自由な解釈を導き出すのです。私がこの映画をどのように観たのかというと、正に、いま述べたような無限の枝分かれにあたまがフル回転する時間を過ごしました。まず、2人の女性の官能的な姿が印象に刻まれます。ひとりは野獣的で、なかなか想像できないような粗暴さをもっています。もうひとりは当たり前ではあるものの、奔放で楽天的な美女ですが、それを惹き立てる服飾品の素晴らしさが一方の主役でもあります。豪華な刺繍の入った絹の服や金象嵌のベルト、それに色鮮やかなマントなどはモノクロであるだけに、いっそう瀟洒な想像力を掻き立てるのです。

強姦・殺人シーンはショッキングではありますが、この場面がしばしば切り取られて公開されたというような当時の状況と比べれば、今日、特段の驚きを与えるものではありません。私はむしろ、一気にことが進まずに、兄弟がどこか遠慮がちに、しかし、強い意志で凶行をするところが気になりました。性欲を満たしたうえで、身ぐるみを剥がして奪うという意志は強いのに、どこかに迷いのようなものも潜んでいるようにも思えます。あるいは、それがオーディンに動かされる不条理な力と、自身がもつ良心との葛藤であったという解釈も可能ではあります。特に末弟は目前におこなわれた、彼自身にはまだ身近でない出来事を飲み込めずにいるようにもみえるでしょう。彼は女体よりはむしろ、久々のまともな飲食料に関心があったようですが、それがどうにも喉を通らないのです。そのために、彼は徐々に衰弱しているようにも見えました。

この末弟に対する複雑な見方は、私を悩ませます。当主が復讐の凶刃を振るったとき、末弟は、その妻を一瞬たよって、抱きつこうとします。当主も僅かに逡巡するものの、凶暴な復讐心が邪魔して、彼を激しく投げつけてしまいます。もはや娘の生存に希望をもてない妻は、彼の亡骸を代替物のように抱きしめるのです。もっとも姿が子どもなだけで、女を頼りにすり寄っていくあたりは十分に狡猾さを備えているようにも見えます。実際、彼は娘が強姦される際、逃げ道を塞ぐ役割も果たしています。メフィストフェーレスはファウストに近づくためにムクイヌに化けたのですが、それと同じだとすれば、もっとも邪悪なのは末弟だったかもしれないのです。

一家が娘を探索に行く場面、そして、ついに彼女が発見される場面は救いようがないほど緊迫していました。先導するインゲリの表情、妻を支えながら、必死に自分を繋ぎ止めている当主の表情も、すべてに絶望と緊張が満ちています。なにか奇跡的なことが起こって、娘がそこにいないことを期待するのですが、彼女はそのままの姿で横たわっています。ただ、ハッキリとは見えにくい状況だったものの、末弟が僅かにかけた土がなくなっているようにもみえました。父親が川のほとりで、この映画の象徴となる言葉を吐き、以前の何気ない会話をモティーフに教会を建てると誓うときの手の動きが、私には印象的です。題名となる泉が噴き出すシーンでは、同時に涙があふれ出ます。むしろ、私はこの泉のはなつ生命感によって、ようやく娘の死を実感したということができるのかもしれません。この泉は、映画を観た観客のこころの動きをみごとに活写しているかのようでもあります。

【映画館を出たあとに】

さて、涙をぬぐって映画館を出たあとに、この映画は本当の姿を現すといっても過言はないのです。その枝分かれの複雑さについては、既に書いた通りですが、それだけではありません。監督は常に、最初に見たものを裏切るようなイメージで作品を構築しています。例えば、最初の場面では美しいグンネル・リンドブロムが甲斐甲斐しく働いている場面で始まります。衣服は粗末で、田舎の貧しい家庭を思わせます。しかし、その美しい女優はやがて、けばけばしいロック歌手のような声でオーディンに祈り、最初の裏切りを果たします。雇い主の女たちとの会話ではさらに、彼女が当家の奥ではなく、使用人であることがわかり、言葉も話し方も粗雑で、毒舌家、悪魔、あるいは、コメディエンヌのように振る舞います。しかも、徐々にこの一家が裕福であることもわかってくるでしょう。家は広く、母屋と別棟があり、場面が経るごとに空間が拡張されていく印象です。豪華な衣裳をもち、しかも、衣服の印象は、それが中世以前をモデルとした寓話的な世界から出てきたものだとすれば、決して貧しいものではないことがわかるのです。

人の印象というものは、本当に当てにはならないものです。この映画のなかには、多くの罠が潜んでいます。特に、視覚的な倒錯は非常に多いといえるでしょう。もしも、私たちが見た目だけで善悪や物事の印象を決めてしまうとしたら、この映画は相当に貧しく、下らないものだと思えるはずです。また、人々の行動や考えを表面的な、倫理的基準だけでみるとしたら、これも詰まらない。巧妙な宗教的寓意の配置も、私たちをなにも動かさなかったことになってしまうのです。実際には、そんなはずはない。私たちはひとつひとつの場面が示す意味を、多面体として受け取ろうと努力するはずです。『処女の泉』は、そのような芸術的アプローチを鍛える、格好のレッスンになっているのです。

« My favorite artists vol.1 草 冬香 pf. | トップページ | 東京現音計画#10 コンポーザーズセレクション5:山根明季子 7/11 »

その他記事」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/543421/67103973

この記事へのトラックバック一覧です: イングマール・ベルイマン 映画『処女の泉』 @横浜シネマリン:

« My favorite artists vol.1 草 冬香 pf. | トップページ | 東京現音計画#10 コンポーザーズセレクション5:山根明季子 7/11 »

ツイッター

  • ツイッター

最近のコメント