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2018年9月 6日 (木)

東京現音計画#10 コンポーザーズセレクション5:山根明季子 7/11

【すべてはパチンコ・パーラーから始まった】

サックスとテューバの仲間、鍵盤楽器、打楽器の奏者と電子音響エンジニアによる室内楽ユニット「東京現音計画」が、コンポーザーズ・セレクションの第5回として、山根明季子を迎えて演奏会を行った。山根はクラシック音楽の枠にはまらないファッショナブルで、ポップ(押し出し)のつよい作品を早い時期から発表しており、1980年代の生まれながら、既に日本の作曲家のなかで、旗手となり得る活躍ぶりをみせている。ベテランでは湯浅譲二、細川俊夫、西村朗、野平一郎、棚田文紀らのベテランが国際的に一定の評価を受ける一方、若手では藤倉大を筆頭に、酒井健治などが台頭する昨今ではあるが、それらの裏の旗手となっているのが山根や、その夫である川島素晴、三輪眞弘、小池稚子といった独特の音楽言語と批評眼を備えたユニークな作曲家たちである。

この日の演奏会では、入場前、なにやらホールの内側から賑やかな響きが聴こえてくるギミックが、聴き手を迎えていた。舞台上には5台のパチンコ/スロット台が設えられ、それは世間にも普通に流通する「北斗の拳」や「海物語」のような機種のようであるが、これを出演の演奏者やスタッフがガンガン打っているというだけのパフォーマンスであった。山根明季子の世界初演『状態 No.1』は機種がプレイに応じて発する音声や、パーラーでかかる音声(BGM?)などを再現して、ホール内に流すという異様なものである。開演の19時を過ぎて、さらに10分程度もつづいたインスタレーションは、人々にどんな印象を与えたのであろうか。

奇しくも、パチンコ・ホールに流れる響きだけに注目すると、我々が山根に期待するようなカラフルさや、ポップな特徴に見合っており、いわゆる「パチ台」に関わる音響デザイナーが異様に素晴らしい仕事をしていることも感じられた。同時に、あらゆる偶然なミックスのなかから空間で聴きとれる音声はどうしても、断片的なものとなり、むしろ、そのほうが連続的なものよりも聴き甲斐があるということで、この日の演奏会のテーマに相応しいようである。

【知性的な探究と、不快さとの間】

私としては開演から5分ぐらいまでの間、非常に楽しんでいた。自分自身は普段、こうしたパーラーに入ることもないし、なんとなく、イメージとしては知っていた空間の音響ではあるが、ある種の新鮮さを感じていた。それは確かに鮮やかで、軽妙な響きであり、人々に快楽を与える種類のものである。ギャンブルという意味を外してみれば、まったく受け入れられない音楽というわけでもなく、「現代音楽」の素材としても、なるほど通用しそうなものであった。ところが、残りの5分は正直なところ、苦痛や不快感に覆われ始めていた(私は開演の20分ほど前に席に着いたので、合計すると25分ほどが経ったあとである)。いつ、どのようにおわるのか、予告もないなかで、永遠につづくかもしれないループ状のパフォーマンスに、あまりにも不寛容であったのかもしれない。恐らくは、そこも作曲家の狙いなのである。

あるところで、パチンコ台の電源がおもむろに落ちて、このパフォーマンスは強制終了された。これが作品であるというアピールもなく、球を打っていた人はどこへともなく去り、拍手を受けることもなく、ピアニストの黒田亜樹は、次の作品を静かに奏で始めたのだ。『スロット・マシーンズ』という題名こそついているが、パチンコ・ホールとは基本的に関係のない音楽であった。あたかも打鍵と連動するように、別の音声が発し、それは途切れ途切れだが、ラジオの音声のようにも聴こえた。明晰さを避け、チューニングのよくあっていないラジオのようなMP3プレーヤーから響きを垂れ流し、聴かせることが、この作品の中心的な内容である。ピアノとMP3の音声は対応的にも見えるが、ときには、ただ邪魔しあっているだけのようにも聴こえる。バルトークは自宅で作曲するとき、ちょっとした雑音にも敏感に反応したようだが、そのときの感覚をすこしだけ、共有できるかもしれない。知性的な探究と、断続的な不快の間に、私たちは置かれている。

別の観点でみれば、これはひとつの室内楽である。ピアノを弾く人は、誰か、遠く離れた人と電話か、スカイプのようなものを使って、アンサンブルしているのかもしれない。しかし、あまり電波が良くないために頻繁に途切れ、雑音のようにも聴こえ、傍からみる我々には到底、意味がわからない。ユザーンというタブラ(太鼓)の奏者が、ユーストリームを使って、インドから生中継を試みたときのことを思い出す。

この作品、ヨハネス・クライドラーの”Slot Machines”も拍手を受けることなく終わり、ヤコブTV『ボディ・オブ・ユア・ドリームス』に移る。作品は、激しい運動もせずに夢のような肉体を実現するという健康器具のテレビ宣伝をサンプル化し、対旋律となるサックスの響きと相対化させたものである。サックス四重奏は今回、多重録音で構成され、現実には大石将紀ひとりが舞台上にいる。どこか別の空間とアンサンブルしているような、この工夫が、プログラミングの妙から別の意味をもっているのはいうまでもない。演奏が終わったところで、はじめて拍手が起こり、一応、1つのシーケンスが終了したかのようにみえた。

このシーケンスとまるごと組み合うような素材として、山根の旧作『ポッピキューポッパキー』が演奏された。超絶的な技巧を要するマルチ・パーカッションを組んだ打楽器奏者のための独奏作品だが、その楽器はすべて、1コイン・ショップで売られているようなプラスティック製品の容器だの、ゴミ箱だの、そんなものの組み合わせで構成されており、アヒルの嘴をかたどった声のするおしゃぶりや、跳ね歩くと音の出るゴム靴などが使われ、奏者を含むすべてが玩具、もしくは、正にゴミ屑のような作品として出来上がっている。鍵盤ハーモニカを首からストラップでぶら下げ、最近のツィッターでの話題に乗っかったような内容だ。ホースを振り回して音を出すのは、昨年、話題になったホリガーの『スカルダネッリ・ツィクルス』の記憶を思い起こさせ、近年の体験がパロディとして私を取り巻く雰囲気がした。

衣裳も含め、一見、幼稚な発想を残す未成熟な作品ともみられようが、アクション自体はクセナキスとか、世の中に評価される打楽器の一級作品とさして遠いわけでもない。その道具立てや、動きのキッチュさを安易に批判することはできないのである。ある意味では、楽曲の中身や演奏のクオリティよりも、道具立てが演奏者のパフォーマンスや、聴き手の印象を決定するアイロニーや、一見、楽器と思えないものを柔軟に、統一のとれた面白い楽器として扱うアイディアのユニークさには感心する。同じようなパフォーマンスであっても、初めから良い音を出すことが難しい楽器を中心に叩くことで、生じるユーモアというのは意外に大きかった。

前半の作品はパチンコ/スロット台による空間的パフォーマンスを別にすれば、1つの楽器に疑似的なアンサンブルを付加し、立体化する取り組みであったと言えなくもない。少なくとも1人の電子音響アーティストと、ひとりの奏者の1:1の対応を楽しむ作品が並べられたことは明らかだ。後半の作品はいよいよ、これらの奏者がグループを組み、多様化された作品が現れる。クライドラーの『チャート・ミュージック』は株価や経済指標などのチャートで音高の動きをつくり、そのまま音化したものである。当夜は画面に表示されるデータは共通でも、東京現音計画の編成にあわせる事情もあって、山根編曲によるものが演奏され、オリジナルとは異なっているが、さらに「調子に乗って」、自分好みに響きのクオリティをかわいらしく変容していたフシも窺える。この編曲の姿勢自体に、消費的な側面があるのかもしれない。

【再現部とコーダ】

山根の代名詞ともいえる水玉(ドット)コレクションの第19作の世界初演は、やや肩透かし気味の単純な作品であった。ほぼ一定の2分音符ほどの長さで構成される素材を1ドットとみなし、電子音響と、サックス、チューバの響きが追いかけっこをする。電子音響が常に先行する序盤のシーケンスは、まるで、何か高音が聴こえたらボタンを押す聴力検査のようだった。単純で面白くない椅子取りゲームがつづくが、そのうちに、聴き手が勝手にルールを作り始める。例えば、私は1・2・3、1・2・3とカウントし、3拍子として聴いてみることにした。すると、面白いことに頭打ちはほとんどない。そして、パターンも意外に限定されていない。ところが、まったく無相関というわけでもなく、私が気まぐれに決めたルールにも、音楽が勝手にコミットしてくる感覚があり、面白かった。途中でいちどだけ入る、固定電話の呼び出し音にはどんな意味があったのだろうか。謎は深まるばかりだ。

このドットコレクションと、次の『アミューズメント』は一塊で理解されるべき作品であろう。ミラーボールを使い、ドットが壁面やスクリーンに映写されるなかで、外見的には親しみやすい明朗さがあるのだが、実際には辛口に展開する響きのほうが素晴らしかった。この秀作を味わうための「単調さ」だったとすれば、19番の意義がハッキリする。正に空間そののものの演出である作品は、一昔前、デパートなどにあったアミューズメント施設の、ちょっとセピアに、古びた風景を思い出させる。チューバ越しに喋るロボット的な「コンニチワ」「バイバイ」の台詞が、その象徴となる。中間で使われるファッショナブルな軽い響きは、最初の『状態 No.1』の再現部のようであり、演奏会全体を通じてシンフォニー的な構造が生まれているのを感じた。

コーダは、クライドラーの『スタイル1k』。ダンス音楽のごく一部のような同一の背景音素材を、しつこく同じタイミングでカットしていくループ的な作品だが、そのカットやダイナミズムが微妙にずれ、無限のヴァリエーションを生み出していく仕掛けだ。これもある意味では、不快を誘う作品で、その限界点で巧みに変化が加えられている。終盤のシーケンスではどこの国の言葉かわからない歌謡曲の断片のようなものが流れ、その声の良さが不快さを打ち消すと同時に、徐々にアンサンブルはエネルギーを失って、薄くなっていく。最終盤では舞台上の奏者のアクションは止み、背景音の重低音が一定のリズムを打ちながら、徐々に終息していく。子宮のなかの音楽とも、音楽の鼓動が止む瞬間とも受け取られる素材で、みごとな終結部を成している。

後刻、投稿動画サイトの映像を見ていて驚いたのだが、山根の作品におけるミラーボールの演出は、クライドラーからの引用である。しかし、この映像と比して、ミラーボールの動きが反対であるほか、山根のほうはより根源的に作品の構造と深く結びついて、その速度にも緻密な意味を与えられていた。実際に、ミラーボールの回転速度にちがいがあったかは、私にはわからない。しかし、音楽がドットの回転をみつめる視覚面に与える影響は否定できない。生演奏と動画のちがいというのはあるが、雰囲気はより上等にみえ、空間にもシックにマッチしている。宇宙的ともいえる。ドット・コレクションから、期待どおりの動的水玉ミラーボール演出、そして、そのオリジナルの発想と関係する作品が並び、シームレスに作品がつながっている印象を形成していったのだ。

重低音が優しい音量で一定のリズムを刻む最後の曲のおわり方で、私は最近、ある情報番組(ボーっと生きてんじゃねえよ!)で耳にした子宮内の音を思い出し、不思議な気持ちになっていた。胎児が子宮内で聴く響きは、母親の心拍音と同じという点でも面白い。こういう言い方が適当かはわからないが、女性の作曲家らしい独特の感じを聴きとれる作品だったと思うのだ。

演奏会はホールに入った途端、考えることが無意味な直感的な素材から始まった。どちらかというと、左脳がフル回転する現代音楽の有り様を拒否するように、いわば右脳の領域に始まり、演奏者がパフォーマンスをして、聴き手が拍手するというシステムまでをも取り払った序盤戦は、神田佳子(perc)の「演奏会」というには親密すぎるパフォーマンスで締められ、後半は次第に、それまでに培った知性とはかけ離れた体験がじわじわと浸透し、知らないうちにシンフォニー的な構造に嵌っていくイロニーを示していた。聴き手がようやく掴んだと思った左脳的な理解を打ち破り、子宮内の響きが届き、再び右脳と左脳の機能がボーダーレスに統括され、フィナーレを迎える。そこでようやく演奏会のすべてのデザインが俯瞰できるようになり、ついには境界を越えることに至った。娯楽と芸術、消費と生産、あるいは、母と子の間に壁のない、近未来の音楽の行き先が明確に示されたと思う。

テレビ販売の大げさな台詞’That's amazing!’(ヤコブTV)という感想が相応しい内容であろう。

【考察】

ただ快く、壮麗なものだけが音楽ではないということを、現代の音楽は如実に示してきた。一見、知性の勝利を物語るこの事実だが、反面、世界をもっとよく見てみるとしよう。これだけ多くの情報が行き交うなかで、人々は必ずしも正しい情報だけを選択することはできず、相変わらず、自分に都合よく世界を切り取っていくだけのことだ。反知性的なもの、不快なもの、意味とは切り離されたもの、幼稚なものが大きな勢力として、この世界で存在感を拡大しつつあるのも事実と思う。ギャンブルも、そのひとつであるが、これらを無視して、ただ知性的で、鋭敏なものだけが芸術であるとするならば、私の目には芸術のほうが非常に脆いものとして映らざるを得ない。そうではなく、醜悪を美に含め、悪徳を日常のうちに、幼児性を人間の本質に入れるという面白さが、この演奏会を通して感じられたのだ。普段は忌避され、大人社会のなかでは無言のうちに規制(パージ)していくはずのものを、山根や、その他の作曲家は見事に開放していく。まずは、偏見なく見てみよう。そのなかに、まったく美しい要素はないのであろうか?

これは、頭の体操だ!私たちの知性は硬くなっている!

そのようにアジテートするつもりはない。私は山根のような作曲家が、本当の意味で好きかと問われれば、それほどのものではない。ただ、近藤譲の次で、このような音楽が聴けるということに、この上もない愉しみを感じるだけである。山根やクライドラーからみて、2世代ほど前(1世代=10年として)の旗手に陳銀淑がおり、その活動はまた別のトレンドを追っている。それとはまったくちがう音楽の階層があることを、もっと多くの人に知ってもらいたいと思うのだ。そして、やはり、先日、耳にした陳銀淑の作品や、日本向けに彼女の選んだ演目の「姿勢」から判断すると、今度の音楽とパフォーマンスの構成のほうがまだ生きている感じがするのである。我々は生きている音楽を聴くべきで、それを見分けるための慧眼を育てなければならない。そのための訓練としても、素晴らしい機会であった。

【プログラム】 2018年7月11日

0、山根明季子 状態 No.1
1、ヨハネス・クライドラー スロット・マシーンズ
 (pf:黒田 亜樹 エレクトロニクス:有馬 純寿)
2、ヤコブTV ボディ・オブ・ユア・ドリームス
 (sax:大石 将紀 エレクトロニクス:有馬 純寿)
3、山根明季子 ポッピキューポッパキー
 (perc:神田 佳子)
4、J.クライドラー/山根明季子(編) チャート・ミュージック
 (全員)
5、山根明季子 水玉コレクション No.19
 (sax:大石 将紀 tba:橋本晋哉 エレクトロニクス:有馬純寿)
6、山根明季子 アミューズメント
 (全員)
7、J.クライドラー スタイル1k
 (全員)

 於:杉並公会堂(小ホール)

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