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2018年9月12日 (水)

二期会 プッチーニ 三部作 『外套』『修道女アンジェリカ』『ジャンニ・スキッキ』 ダミアーノ・ミキエレット(演出) 上江隼人/北原瑠美 組 9/8

【幸福に生きるのは難しい】

ジャコモ・プッチーニは生前から尊敬され、裕福になった珍しい作曲家のうちに入るが、その私的生活は必ずしも幸福とは言い難かったようである。大恋愛をして、相手の夫の死を待って結婚したほどの奥方はなぜか猜疑心が強く、無欲の使用人を追い詰めて死に至らしめるほどであって、この事件はプッチーニに大きなトラウマを与えた。甘い音楽と壮麗な音楽で売ったプッチーニであるが、どこか寂しく、孤独な愛を多く描き、移ろいやすく、ときに残酷な人情を描くことでは右に出る者がない。『つばめ』でオペレッタ風の軽い作品を請け負ったはずのプッチーニだが、彼のスタイルは、この作品をもの悲しい別れの作品へと変えてしまった。ヴェルディの歌劇『トラヴィアータ』のプッチーニ的解釈ともいえる『つばめ』では、主要役の娼婦がヴィオレッタのように愛へと殉じることもなく、若い相手を捨ててしまうだけである。熱い夢もいつかは冷めるのか、あるいは、相手の将来の幸福について忖度したせいなのか。

プッチーニはあらゆる極限的状況において、幸福のかたちを様々に追い求めた作曲家であるというのが、この公演の演出家、ダミアーノ・ミキエレットの最終結論だったように思えてならない。単なるヴェリズモ劇の焼き直しのように思える三部作(Il trittico)の第1作『外套』であるが、寝取られ亭主の名前は彼の父親と同じミケーレであり、その父親は齢の差のある奥様をもらったので、実は、プッチーニにとっては、かなり内的な動機の濃い作品なのである。密かに通じる不倫相手と約束を交わし、その後、夫になじられた妻は「幸福に生きるのは、なんて難しいのかしら」と独り言ちている。三部作は正に、この問いに発した精神の旅ということができる。

大胆な読み替えも辞さないミキエレットだが、この作品は港湾労働者がやや現代的な服装をしている以外、写実的な表現に徹しており、いわばヴァリエーション(変奏曲)の主題部分として、大きな変更は加えなかった。もっとも、ベルトラン・ド・ビリーが率いる管弦楽団は開始数秒にして、この作品の清新な姿を浮き彫りにする。幕開きとともに、神秘的に進行する和声が劇場に柔らかく広がり、異様な緊張感をもたらすのである。『外套』は素材としてはヴェリズモ的なオペラであるが、音楽の響きは他に似たものがなく、独特で、心理的に精細なところに立ち入る描写を施している。ヤナーチェクにもちかい心理劇だろう。それが港湾に漂う雑多な響き、例えば汽笛のようなものを巻き込みながら、ゆっくりと発展していく。最終的にはどす黒い、ステロ―タイプどおりの攻撃的な音楽となるのだが、その行程はきわめて複雑な道を辿る。

夫婦役の上江隼人と北原瑠美は十分に声が出る人のように思われたが、それを大事に使い、作品の大半を占める会話部分では歌いすぎないように控えているようだ。そして、管弦楽はバロックの通奏低音のように、それを邪魔しないベースまで抑えて、両者の主張が一致している。このスタイルを決めたのが演出家なのか、指揮者なのかはわからないが、このプロダクションを語るに重要な特徴として指摘することができるだろう。良い声をドバドバと発揮するのは、この作品のスタイルには見合わない。いわば短編小説である作品に敬意を表して、彼らは台詞に感情を込めて朗読している感じであった。

2人はかつて深く愛しあい、一児をもうけた。だが、何らかの理由で子どもは亡くなり、その関係は破綻した。幸福を象徴する外套が、やがて、悲劇の象徴として君臨するのだ。幸福のかたちは、残酷にもずれてしまった。夫はいつまでも過去に止まり、状況の変化を無視して、その温かい思い出のなかだけで生きている。それは一見、感動的なはなしだ。だが、妻はその傷を忘れて、新しい関係のなかに生きていたいのである。これは多分、男女間に、よくある感覚の差でもあろう。過去から出てこない夫にもはや妻が愛情を感じることはなく、同じようなプライドをもつ若い男性とこころを通じ合わせるのも仕方ない。『外套』は貧困な、底辺にある生活者を焦点に据えたはなしであるが、端くれとはいえ、パリジャンとパリジェンヌによる芸術家的な華やかさを胸にもつ2人のプライドも、同時に見え隠れするのである。この点でも、幸福のかたちはちがっていた。ミケーレは船乗りとして、街から街へと渡り歩く生業に誇りをもっているのであるから。

【アンジェリカにおける複雑な幸福のかたち】

二作目の『修道女アンジェリカ』はある意味で浮世離れした、修道院に押し込まれた高貴な女性の辿る末路を描く。やや美化されているが、この作品にも先の毒婦に追い詰められた女中の姿が反映されているという。アンジェリカは高貴な家の生まれだが、恐らく結婚に値しない男性との関係で妊娠、出産し、家族によって修道院にぶち込まれた。恐らく、アンジェリカのもった行きずりの関係と、前作の姦通のモティーフが通じているのであろう。今回の演出では、アンジェリカたちは修道女のような姿をしていなくて、女囚のように見える風体にしていた。ちなみに、ミキエレットは前作の『外套』と、『修道女アンジェリカ』をほとんど間もなく連続して上演し、姦通したキャストと同じ歌手が髪を切って囚人服を着せられ、アンジェリカに変わるアイディアを見せている。しかし、この演出は修道女たちが本質的に、何らかの罪を負って、そこにいることを象徴的に示す意味があるだけであり、修道女→女囚の変化は、さほど驚くには値しない。もっとも、そうした女囚を扱う修道院の上位のシスターたちの行動は悪質な看守のように乱暴で、制裁として暴力を振るうこともあって、従来のこの劇のイメージとはかけ離れたものになっている。この上演のコンセプトとしては、本来、救いであるはずの宗教的なものが暴力や抑圧を生み出し、何らかの助けが必要な人々を逆に追い詰め、幸福を吸い取ってしまうというような視点で出来ているのは明らかだ。

ここで問題となる「幸福」はアンジェリカ自身よりも、その子どもに向けられているようだった。特にミキエレットはこの劇の構造を読み解くのに必須の要素として、叔母が2年前に死んだと宣告する息子の生存を匂わせる奇知を見せている。叔母が修道院に入ってくる場面で、ひとりの少年を連れていた。彼はすぐさまアンジェリカに走り寄ろうとするが、修道女たちにより慌てて遮られる。一連のドラマがおわったあとで、白い布が被せられた母親のところに、再び少年が近寄ってきて嘆く様子が描かれているのだ。叔母はアンジェリカに詰られたことで腹を立て、彼女に対して嘘を言ったのであろうか。恐らく、そのようなト書きはない。だが、そうであれば、一挙に話が通じやすくなるようにも思われる。高潔な叔母もこのことによって、罪を犯したことになる。それがアンジェリカを死へ導くのだとすると、罪はさらに深いだろう。子どもにとっても、彼女は罪を犯したことになる。それは倫理的なモラルに疑問を呈する作品のなかで、唯一、潔白なように振る舞うが、キーマンとしては存在が薄すぎる叔母の姿を「ゆたかに」彩る結果となるのだ。

とはいえ、叔母もまた、子どもの幸福について考えてはいたのだろう。母親に会わせるべきか、もう死んだということで通すべきなのか。どちらが彼にとってはマシなことなのか、深く悩んだにちがいない。修道院で、完全にこころが死んだ母親と会わせることが、この子の幸福につながるのだろうか。むしろ、母子と永遠に引き離すことこそが、お互いのこころの平安にとっては有益なのではないか。死んだといえば、母親も諦めて、子のために祈り、修道院での生活を続けるだろう。これはマリアが、主イエスを想う姿と似ているのかもしれない。だが、叔母は最終的に会わせる決断をしたようだ。

もちろん、母親は自ら腹を痛めた子との再会を切望しているわけだ。そのことだけが、生きる希望だったから。彼女は毒にもなれば、薬にもなるような植物を育てていた。ときには人を助けることにもなった植物の栽培だが、その実、いつでも死ねるように準備していたことは明らかだろう。港湾労働者と同じく、増幅された子どもたちがアンジェリカを取り巻き、上着とズボンを脱ぎ棄てて消えていく。一見、ナンセンスな表現が意味あるものに結びついていく構図は、推理小説とよく似ているような気がする。修道女たちがじゃぶじゃぶと洗濯をしていた上手のシンクに、アンジェリカは彼らの衣装を放り込んでいく。このときの姿は、鬼気迫るものがあるが、同時に、とても死ぬようには見えなくて、肉体的には完全に元気であり、そのことが自死の場面との深いギャップを形づくるのだ。そのあとで一瞬、正気に戻ったように、茫然と建物の柱に背中をあわせる場面も、私にはグッと来た。この姿と、最後に登場する少年との響きあいが深く胸を震わせるのであった。

【プッチーニと信仰心】

最後の『ジャンニ・スキッキ』はプッチーニ作品で唯一の喜劇となり、富豪の親戚たちによる不埒な目論見を打ち破って、権利もない男が膨大な財産を横取りするという痛快なはなしである。しかし、大金を稼ぎながらも、孤独に最期を迎え、強欲な親戚たちに囲まれる富豪ブォーゾの姿と、機転を利かして人々をやりこめる狡猾な老人の姿に、作曲者が自分自身の生き様を(いくらかは自虐的に)写し取っている風も感じられる。このオペラは直接、筋書きとは関係ないスキッキの娘ラウレッタによる、甘いアリアが突出して有名である。父親に”O mio babbino caro...”と呼びかけるアリアは砕けた言葉ながら、もちろん、父=神さまに祈る言葉とのダブル・ミーニングとなっていようか。正に、この劇のなかでは神のような存在として君臨するスキッキに対する、いくらか甘えたような、優しい賞賛の言葉であると解釈できるが、同時に、彼らは神さまをいささか軽率に扱っているようにも思えるのである。

プッチーニは敬虔とはいえないまでも、信仰心ゆたかな人物である一方、それと相克する人間のこころを誰よりも厳しく見つめた作曲家である。彼の描くキャラクターたちは、しばしば、宗教的にみれば、大罪と思われるようなこともする。また、スカルピアの有名な「テ・デウム」のように、宗教的なフォームを乗っ取って、悪魔の儀式に使うときさえあった。これは、ベルリオーズの『幻想交響曲』のフィナーレとよく似た構造だ。『アンジェリカ』でも結婚抜きの妊娠と出産に始まり、嘘や自殺といった大罪が描かれている。ミケーレは殺人を犯し、その妻は情熱に任せて姦通していた。人情的にみれば正当な行為が、倫理的、社会的には深く禁じられているのだ。彼が描こうとしたのは、その合間に挟まれた人たちの悲劇だともいえる。そういう意味では、プッチーニもまた、転形期を描いているのである。

幸福が多様である一方で、信仰心もまた様々である。不幸にもまた、多様な形がある。プッチーニは一時の愛の深さが、必ずしも永遠ではないし、万能でもないと知っている。愛しあってはいても、孤独で貧しい恋人は衰弱して死に、行きずりの愛で抱いた極東の娘がいつまでも自分を待ち続けているとは考えない高慢な船乗りのことを描く。名女優は卑劣な警務署長の奸計を止められず、異国の権力者との恋に溺れた小国の貴公子は真に自分のことを想う女性を易々と死なせてしまう。ワーグナー的な自己犠牲とはいえない、プッチーニの解釈はどこか仏教的な諦念に満ちている。

この三部作でも、最初の『外套』で、そのような矛盾がハッキリと描かれている。レオンカヴァッロの『道化師』では、パリアッチと拾われた妻が真に愛しあったことはいちどもないが、ミケーレと若い妻にはおアツい時期もあったようだ。どれだけつよく燃え上がった恋も、それが永遠に続くとは限らない。第3作におけるラウレッタとリヌッチオとの関係に、どれだけの真実があるのだろうか。それはやがて、ミケーレと若妻の悲劇へとつながっているのではないか。スキッキは首尾よく、財産をすぐには2人に渡さず、自分の所有としている。それが、2人への配慮に満ちた投資なのである。もしも、すぐに彼らが財産を手にすれば、決して良いことにはならないはずだ。この純真で、理想的な関係がつづくことをスキッキは、つまり、プッチーニは深く願うのだが、それには慎重な心遣いと計画が必要である。

【竜安寺の庭石】

この日の『外套』は、中央と右側に奥までつづく通路を通し、その間に大型のコンテナや木箱が配置される装置でおこなわれた。通路の間でおこなわれる小芝居は基本、本質的なものではなく、客席の位置によっては見えない場所もありそうだ。この視野が、正に作品の本質を描ききっているといえるだろう。それは竜安寺の庭石のように、すべてを見渡せる場所がなく、常に見方が変わることの謂いを表現しているのだ。しかし、それにもかかわらず、大体において、似通った結論へと観客を導いていくのがミキエレットの演出の深さである。しばしば、こうした発想は結論を決めない曖昧な態度をよしとしがちである。

作品のスタイルもあって、歌手がひとりひとり注目されるというよりは、集団でのアンサンブルに魅力のある作品ではあるが、演出的にも歌手たちがすこし割を食った面もあるのかもしれない。助演を多く入れた分、通常なら、船乗りは船長を含めて4人しか登場しないのに、序盤の場面では船長夫婦以外の個性が拡散した印象は否めないのだ。ミミの歌をうたう流しも上のほうで離れて歌うので、これも脇役の脇役、背景音的な存在まで追いやられる。それらの意図は、船長夫婦の関係、特にミケーレの心象風景に焦点を絞るところにあると思われるが、一長一短がある。これら脇役の脇役たちのなかで、終盤、高いところで歌っていた「2人の恋人たち」だけがあとで型から外され、第3作の若いカップルへとペーストされた発想は面白かった。

【経験不足の歌手たちを押し潰す演出の強さ】

このような演出を楽しんではいたものの、歌手たちがさらに己の役柄へと加えられた個性を際立たせるためには、まだまだ経験が十分ではないというべきであろう。日本では年間を通して稼働する常設の劇場がほとんどなく、その中心である新国立劇場は外国人の起用をベースにしているため、こればかりは致し方がない。しかし、稽古が行き届いており、若いキャストが増えると、以前よりも全体的なレヴェルは高まっていくようだ。このような大役は初めてとなるが、北原瑠美は、そのなかでも際立った演唱をみせた。舞台映えのするスタイルのよさにも目を奪われるが、先に述べたような会話と歌の部分が緻密に構築されたなかでの流れがとても美しく表現されていた。歌唱が膨らむ部分での、ゆたかな声量も見逃すべきではない。

ミケーレ&スキッキの上江隼人なども健闘しているものの、例えば、以前に歌った直野資のスキッキがフィレンツェ全体を支配していたかのような堂々たる演唱だったのと比べると、まだ狡賢いだけにしか聴こえず、その分、演出にもっていかれてしまった。装置の大胆な活用がこのプロダクションの鍵であっただけに、どのキャストも、それに負けない個性あふれる歌唱がなくては始まらないのだ。スキッキの声音の使い方などは面白かったが、この演目では、さして目新しいものではない。ミキエレットは短編小説の味わいをさらに凝縮し、組み合わせの妙を強調することで大きな成果を得た。一方では、上江以下の多くのキャストから、イニシアティヴを奪うことになってしまった。近年の二期会の公演で、もっとも面白い演出だったという感想も見られるが、その点で私は疑問に思う。私だけの狭い体験の範囲ではあるが、ベストは明らかに、コンヴィチュニー演出の『サロメ』である。クライマックスでキャストが各々、シェルターの壁に描かれた扉に向かい合って、自らの再発見のために大暴れする場面は忘れられない。

プッチーニの作品のなかでは、やや低めに扱われる三部作だが、オペラ史のなかでも珍しい短編の傑作として、これらの作品の味わいを再評価させ、ジュゼッペ・アダーミやジョヴァッキーノ・フォルツァーノといった台本作家たちの才能にまで関心を行き渡らせる演出であったことは素直に評価したい。アダーミは『つばめ』で起用され、ディディエ・ゴルドによる大衆劇『外套』の台本もあっという間に仕上げてしまった。晩年のプッチーニとの関係は深く、最後の『トゥーランドット』までつづく。フォルツァーノはオリジナルにこだわり、『外套』の仕事は断ったものの、アンジェリカとスキッキのオリジナル台本をプッチーニに提供した。『外套』を骨組みから解体し、アンジェリカで見事に照らし返したうえで、プッチーニがあまり得意としない喜劇の空間に落とし込んだフォルツァーノの鋭い視点を活写したのは、ミキエレットの功績である。

彼は一見、関係ない3つの作品を目にみえるものと、そうではないものに分けながら、上手に結びつけることに成功した。移ろっていく幸福の形と、親子というモティーフを中心に、赤い靴や、上着を脱ぐ、布を被せる、場の散乱、黙役の起用、隠されたプライドの対立、宗教的モティーフの濫用などが、演出上の共通点として生かされている。外套とアンジェリカには直接、子どもの姿は登場しない(はずだ)が、関係や生き様を読み解く上でとても重要という点で、バタフライのテーマにも接続している。後出しのようだが、女性のなかに宿った新しい命というモティーフは、プッチーニがよく好んだものである。私のところからは、到底みえなかったが、最後のスキッキで、ラウレッタが彼にむかって何か写真のようなものを提示する場面。それは、胎児のエコー写真であったらしい。響きあうエコーと、エコーを通じて浮き彫りにされた親子のモティーフの連環を、やや粗削りだが、ミキエレットはわかりやすく表現している。

この写真がいかなるものか、観客全員がわかるわけではない。『アンジェリカ』でも、彼女が部屋に貼り、床に広げて心のよすがとしているものが何なのか、多分、全員にはわからない。聖画のようなものだろう。そして、『外套』でも、先に述べたように、コンテナと木箱の間でおこなわれる性行為などの小芝居は一部の観客からみることはできない。それが伝わらなくても、全体的な解釈が歪むわけではなく、尋ねられれば意味のある、微細なところにまで至る演出がこころに沁みる。スキッキで豪華に彩られたブォーゾ家から親戚たちが追い払われ、首尾よくコンテナに収容、危険であることを表す黄色いステッカーが貼られていて、『外套』のコンテナと木箱のシーンに戻ってしまうところ。上手の壁紙まできれいに落とされて、最初の舞台装置へと戻っていく演出はダイナミックで、感動する。それから、死んでしまった子どもの赤い靴も、重要なモティーフだろう。第1作で死人を覆った上着(外套)が、第2作では死んだ息子の衣服として散らされ、第3作では裏切ったスキッキを殴る親戚たちの武器に早変わりした。このあたりは、よく目立つほうだろう。

しかし、こんな場面にも注目したい。スキッキにおいて、死んだブォーゾをベッドから担ぎ出して、引きずっていく場面は、ゴルゴダに向かうキリストの姿を明らかに模していた。そして、彼を放り投げると、十字架の形で倒れるのだ。信仰に関わるモティーフを多く加えながらも、その使い方には首を傾げるプッチーニのユニークさ。ト書き外であろうが、これほど端的に示す場面もない。神にすべてを捧げたはずのアンジェリカが、肝心のことには口の重い叔母にキレて、そこら中のものを蹴飛ばす演出も楽しかった。このように語りだせばキリがないのも、素敵な演出だった証拠である。

【プログラム】 2018年9月8日

〇プッチーニ 歌劇『外套』『修道女アンジェリカ』『ジャンニ・スキッキ』

 演出:ダミアーノ・ミキエレット

 管弦楽:東京フィル(cond:ベルトラン・ド・ビリー)

 於:新国立劇場(オペラパレス)

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