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2018年10月19日 (金)

バッハ 音楽の捧げもの ほか 寺神戸亮/前田りり子/上村かおり/曽根麻矢子 @所沢MUSE 10/12

【父と子】

1747年の5月、ヨハン・セバスチャン・バッハは、息子のカール・フィリップ・エマニュエルが仕えていたプロイセンのフリードリヒⅡ(大王)に招かれ、王都ベルリン郊外のポツダム宮を訪れた。バッハは60代、大王は30代半ばである。大王は自ら用意した主題をバッハに与え、3声のフーガを所望すると、みごとにバッハは即興で応えたという。翌日、大王は4声、5声も跳び越えて、6声のフーガを所望したが、さしものバッハといえども、この難題には即座に応えることができず、拠点のライプツィヒに戻ってから緻密に作曲をしなおして、先の3声のフーガにも手を入れ、新しい6声のフーガに加えて、様々な種類のカノンと、4楽章のトリオ・ソナタ1曲を添えて、恭しく献呈した。これが今日に残る『音楽の捧げもの』の誕生であった。

バッハが晩年に完成したなかでも、規模が大きく、著名な作品ではあるが、謎の多い作品とされてきた。まず、楽器の指定がなされていないものが多く、曲順も定かではない。カノンのなかには、どこで声部が増えるのか、謎かけが施されているものもあり、その答えがどこかに書いてあるわけでもない。すべてを演奏すると1時間ちかくもかかり、その全貌を正しく把握するのは困難だ。大王に献呈したのはわかっているが、当時、まだ戦乱に明け暮れていた壮年期のフリードリヒが、バッハから贈られた厄介なスコアをどのように扱ったのか、作品の解説には大抵、その肝心なところが書かれていないのである。大王はJ.J.クヴァンツの弟子で、横笛をよくした文人君子であるが、その彼でさえも、バッハの偉業をどの程度、理解できたかは疑問である。

例えば、細君アンナ・マグダレーナ・バッハのための『音楽帖』は夫人や子どもたちのための教育用という目的を越えて、バッハの壮大な音楽世界を構成しているが、『音楽の捧げもの』も同様に、大王を通じて、天と交信するようなスケールの感じられる作品だ。フリードリヒⅡは父子相克し、一時、外国に亡命しようとするほどの騒ぎを起こして監禁された過去をもつが、バッハは多分、そのような大王の歩んだ険しい人生をよく理解していたにちがいない。きっと「大王のテーマ」を聴いて、それが即座に胸へと響いたのだろう。いま、自分がそこにいるのもエマニュエル・バッハとの父子の絆も関連していることだ。そして、父と子といえば、宗教的な大テーマでもあろう。この作品の隠れたテーマが、「父と子」であることを私は想像してみる。

【独特な演奏会のデザイン】

寺神戸亮のヴァイオリン、前田りり子のトラヴェルソ、上村かおりのガンバ、そして、ハープシコードの曽根麻矢子によるクァルテットによる、この日の公演はまったく意外なことに、この作品のパーツをひとつひとつ解剖してのレクチャー・コンサートのカタチをとっていた。メインとなる寺神戸の優しい語りくちが、バッハの深い心遣いを明らかにするには相応しかったであろう。このコンサートは単に、古楽の腕利きたちがさっと集まって、仮初めのパフォーマンスを披露する公演とはまったく異なっていた。彼らは、3つの点で準備に時間をかけたはずだ。ひとつめは、演奏の仕方やピッチ、テンポに対する深い探究だ。そのなかには、バッハが遺した謎かけへのアンサーを幾通りも試して、一般に定まっていない曲順や入りのポイントを決定するという過程も含まれていた。次に、演奏の水準を高め、バッハが意図した華麗で、神秘的な響きを実現するための技術的な、質の高い磨き上げがあった。そして、最後には、出来上がった演奏をどのように披露するかという、大抵の場合、問題にもならないような問題を自らに課したのである。

彼らの構想はさらに膨らみ、大作『音楽の捧げもの』が当時の欧州における文化交流の歴史のなかで、どのように位置づけられるべきものであるかという視点も加えていた。先日、東大駒場キャンパスで聴いたチェコのオルガニスト、パヴェル・コホウトの演奏会では、バッハ家を中心とした北ドイツの音楽文化と、イタリアの関係が非常に興味ぶかく描かれていたが、今度はフランスとプロイセンの間柄である。ヨハン・セバスチャンの父ヨハン・アンブロジウスや、長兄のヨハン・クリストフなどは、パッヘルベルやJ.G.ヴァルターの影響を受け、彼らがつないだイタリアの楽派とも関係が深かった。もっとも末子のヨハン・セバスチャンとは世代差があり、彼が例えば、パッヘルベルと出会ったとしても、かなり幼い時期であったと思われる。

ヨハン・セバスチャンはラモーとほぼ同年代で、リュリの次の世代に当たる。生涯を通じて、ドイツの領邦君主に仕えたバッハが、フランスの様式にどれほど精通していたかについて、私は詳らかでないが、4人が弾いたトリオ・ソナタからは明らかに、フランスのオペラのような雰囲気が匂っている。しかし、楽章を経るごとに、それを呑み込んで、最終的にはドイツ文化の力強さを誇るような形とした。フリードリヒⅡは熱心なフランス贔屓で、若い頃にはヴォルテールとも親交があったが、そのヴォルテールとラモーはオペラなどで協働した関係である。当然、フリードリヒがフランス・オペラに無関心だったわけがないし、バッハも、そのような趣向を見込んで作曲したにちがいないと思われる。私はそれを読み解く力が十分にないが、『音楽の捧げもの』にはときに、カンタータやオペラを模した豊かな音楽的言語によって、さらに深い装飾を施されているのを感じるのだ。

もっとも、われらのクァルテットが並置したのは、フランスで一族をなしたクープラン家の首魁、「大バッハ」に対して「大クープラン」とも称される、フランソワ・クープランが書いた『王宮のコンセール第3番』であった。この作品もまた、クープランが「太陽王」ルイXⅣという強力なアイコンのために書いた作品であるということで共通する。もちろん、この作品自体がまずみごとでもあるのだが、クープランになくて、バッハにあるものも確かに感じられた。あなたは、その謎解きにどう答えるだろうか。霊感・・・といって仰々しく感じられるなら、「優しさ」と言い換えてもよい。そうだ、これが寺神戸の声と重なってくるのである。正にバッハはこのような方法によって、イタリアなり、フランスの音楽書法を巧みに取り入れながらも、北ドイツにあって、それらを悉く超越する総まとめ的な作曲家となったのだ。

【バッハの優しさ】

バッハの優しさは3声のリチェルカーレの主題提示において、既に、いたく深々と感じとることができた。この主題を出したのは大王のほうであるが、もはや、大王の主題とは言えず、神さまの主題に変容している。われらのクァルテットは、この作品をA=401Hzという低いヴェルサイユ・ピッチで演奏することにした。チェンバロもフランス式のものを準備し、こだわりにこだわった。その低い声で、最近のバロックの主流である快刀乱麻なテンポを採らずに、ゆったりと、厳しく音符を保持する精確な演奏で、早速、聴き手を驚愕させたのである。

私は即座に、そこからフリードリヒ大王が抱く絶対権力者に独特の孤独や、深い威厳のようなものを感じ取ったが、すこし間をおいて考えなおしてみると、それだけでもなさそうなのである。確かに、そのような解釈は権勢を極めながら、晩年の親しい話し相手はハウンド(犬)だけだったという寂しい晩年、つまり、この時点においては未来を感じさせるという点で面白いと思う。バッハはあまりにも知的であるがゆえに、誰にも親和できない大王の未来を的確に見抜いていたのかもしれない。だが、既に述べたように、バッハが大王の若いころを知っていたとすれば、まったく別の意味になるのではなかろうか。

われらの『捧げもの』と比べれば、まるで次元のちがうちっぽけな小品にはなるが、ムソルグスキーに『子どものころの思い出』(1857年)というピアノ作品がある。私は、大王のテーマから、この陰鬱でいたいけな作品を想像してみた。大王のテーマを構成する不安定な階段的音階と、ぎりぎりで橋渡される際どい関係性、そこに付された申し訳程度の小さな装飾は、ムソルグスキーの作品で、幼いころの些細な罪、それに対して与えられた罰、さらに、そこから生じたトラウマのような情感を回想するかのようにして表出される、洗い流せない罪の意識、それが最終的には、やや技巧的に変奏されて表れる小品の性質と、よく似ているのである。

正に、バッハも「螺旋のカノン」によって、このような内面的な叫びに応えていた。寺神戸が解説したように、この作品では螺旋状の関係性を辿っていくうちに、演奏しているものが知らないうちに、最初よりもちょっとずつ高い響きへと誘導されいくようになっていて、それが王家の発展を祈るメッセージにもつながっているのだ。しかし、バッハの更なる本意は、不安定な階段的主題に秘められた罪の意識が、目にみえない至高の存在によって浄化され、漸次、高められていくという、そこに向かっていたのではなかろうか。

もっとも、バッハはこの作品をパズルのような愉しみにも使えるようにしていて、休憩中、私の前の席で数独を楽しんでいるご婦人がいたのだが、それと同じような娯楽を意図していたと見えるフシもあった。任意に声部が入る場所を決めたり、楽譜を引っ繰り返してみたり、バッハは様々な仕掛けで、大王が退屈しない曲集を編み上げたのかもしれない。小さなシャレを挟みながらも、バッハはより内的な主題を恭しく扱い、広がりをもった世界を緻密に組み込んでいる。控えめだが、大王の内面世界にも立ち入り、音楽で書かれた手紙を贈って寄越したようだ。

【リチェルカーレ(探究)】

大王は6声のフーガを即興させる無茶ぶりをして、バッハを困らせた。当代きっての作曲家であったはずの大バッハといえども、6声のフーガは他に例がないという。その稀有壮大な志に、バッハは戸惑いながらも感動したのであろう。それに対するカノン形式での、様々なる思考こそがリチェルカーレ(探究)として表されたものだ。寺神戸の話を聞きながら、あるいは、プログラムの簡潔な記載を読みながら、そして、もちろん、演奏を聴きながら、私は「リチェルカーレ」の高貴(好奇)な輝きと、多彩なユーモアに感銘を受けた。直感として私のもつセンサーが働いてはいたが、これほどの作品とは理解していなかったのも明らかだ。

もしも通しで聴いていれば、なんとなく気持ちよく過ぎていったかもしれない場面が、整然と区切られた演奏で明らかに深く、胸に響いてきたのだ。バッハのメッセージを身近に感じさせるためか、ときに寺神戸は、前田にバッハの献辞を読ませるなどして、これでもかと心憎い演出を怠らなかった。りり子さんが多少、噛んだ部分があったとしても問題はない。私たちの傍に、ベルカントの歌声のように、バッハの音楽が向こうから寄り添ってきた。

楽器の組み合わせなども細かく書いていきたいところだが、嗚呼、メモしておけばよかったと気づくのが遅すぎた。中には鍵盤を抜いて、弦楽器だけでやるようなところもあった。抜かれていたハープシコードが、控えめに入る瞬間の意地らしさ。トラヴェルソが絶妙な膨らみで響きを加え、全体の雰囲気を浮揚させる場面。特に素晴らしかったのは、ヴァイオリンの寺神戸がウチにまわって、美しく4本の楽器がバランスしたときの響きだ。正に、この透明で、ブリリアントな(光に満ちた)、多彩な音色が緻密に重なりあった響きこそ、バッハの意図した音の神秘であろう。それは近代フランス音楽の、瀟洒な音色のゆたかさや、現代を象徴する和声的に発展した複雑な響きをも凌いでいるようだ。しかも、英国バロックの響きのように静粛で、落ち着いた輝きもある。教会のステンドグラスから漏れてくる光を想像する。

寺神戸は解説のなかで、それぞれの部分で何度も繰り返した・・・大王のテーマは演奏してもよいし、演奏しなくても、ちゃんと音楽になっている。もっとも大体においては、大王のテーマは恭しく、われらのクァルテットによって演奏された。曽根が3声のリチェルカーレで示した厳格でゆったりした響きが、各所で音楽をきびきびと引き締めているのがわかっただろう。「探究」の模範解答である2曲は、全体のフォルムを象徴的に物語っている。3声のほうはテーマについて、これ以上はないほどの敬意で応えたもので、そこで重ねた思考の深さはあとにつづく演奏のクオリティをほぼ決定する。一方、6声のほうは構造的な関係を改め詳細に示しており、曽根がひとりでみごとに弾いたのだが、声部が増えると新しい魂が飛び込んできたように空間そのものが震えるように演奏し、同じ楽器を叩いてもまったく色彩のちがう響きが増えていく魔法などあって、鳥肌ものだった。最後(アンコール)に4人で声部を分け合った6声の再演奏では、どの響きがどこから来たのか、確認できるようになっており、あるポイントでは沈黙する声部もあり、敢えて区切りながら演奏してきた構成を生かして、聴き手がどれほど注意ぶかく音楽を聴いてきたかを確かめる、最後の試験のようになっていた。

書きたいことは多いが、このあたりで、とりあえずの終止としたい。初めのほうにも述べたが、この公演は恐るべき緻密さで仕上がっており、この日のために準備してきた貴重な時間の多さを思うだけでも、ありがたい気持ちに包まれるのであった。逆にいえば、リチェルカーレをテーマとした『音楽の捧げもの』は今日、それほどの覚悟でないと演奏できない作品ともいえるのではなかろうか。だが、次のようにいうこともできる。未完におわった『フーガの技法』とこの曲は、バッハ最晩年に生み出された自由に泳ぐことができる2つの宇宙である。そして、それらの自由を束ねるのが、ミサ曲ロ短調の役目なのだ。

【プログラム】 2018年10月12日

1、F.クープラン 王宮のコンセール第3番
2、J.S.バッハ 音楽の捧げもの

 vn:寺神戸亮 fl:前田りり子 gb:上村かおり cemb:曽根麻矢子

 於:所沢MUSE(キューブホール) 

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