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2018年10月29日 (月)

ラインダート・ファン・ヴァウデンベルク 歌劇『出島~シーボルトの愛』(ハイライト版) 演奏会形式 アンサンブル・ノマド 64th定期演奏会 10/25

【一体、誰がつくった?】

アンサンブル・ノマドの上演した歌劇『出島~シーボルトの愛』の世界初演は、あらゆる意味で型破りな成功だったといえる。今回は全曲WPという予定だったが、作品が長すぎたせいか、最終的には日本公演のハイライト上演への変更を決断。また、演奏会形式と謳っていたが、実際には演出と衣裳付きのセミ・ステージ形式で行われ、これに肉付けする形で作品は欧州に旅立っていくことになる。いつかまた、例えば新国立劇場のような、パヴリックな興行主などが作品を日本に呼び戻してくれる日を夢みるばかりだ。諦めなければ、夢は必ず叶うだろう。

作曲家はオランダ人のラインダート・ファン・ヴァウデンベルクとなっているが、作品の完成には多くの人々が協力したと思われる。特に日本語部分の驚くべきみごとさは、この作品の大きな特徴になっており、いささか古風なところもあって、詩的な味わいもふかいリブレットを、まさかオランダ人だけでモノにできたとは思えないのだ。マイク・クリグズマンによる原案に基づき、川村俊介がリブレットをつくっているが、この方が日本語、オランダ語、英語などに通じていて、アドヴァイスを送った可能性が高いと思われるが、どういう人物なのか、記載がなく、検索してもよくわからない。そうでなければ、歌手や演奏家たち、指揮を務めたノマドの音楽監督=佐藤紀雄や、演出に携わった(ピアニストの)稲垣聡の協力も見込まれるが、このプロジェクトに関わったすべての人たちの知恵と経験、技術が、ひとつの作品に注ぎ込まれているとみたほうが自然なように思われた。

日本語で美しく、格調高い、あるいは、自然なディクションを立ててオペラや歌曲を制作するということの難しさは過去、多くの偉大な作曲家たちによっても語られてきたし、現代の作曲家たちをも依然、悩ませている問題である。しかし、その難しさが、この作品では嘘のように解消されているのは驚きだった。作品のなかでは、日本人は日本語を、オランダ人(あるいはオランダ側に所属のドイツ人シーボルト)はオランダ語を喋り、日本語の場合は英語の字幕、オランダ語の場合は日本語の字幕を出していたが、神々はすべての創造主だけに日本語と英語のバイリンガルを喋り(オランダ語は歌ってなかったと思う)、字幕は英語だった。この作品の主人公であるシーボルトの家人=勘太と、妻となる元芸妓のお滝(其扇=ソノギ)が歌う日本語の素晴らしさには、繰り返しになるが、深い感銘を受けた。このことを実現した功績が一体、誰にあるのか、プログラム等に記載がないのは残念である。

【普遍的、現代的なモティーフ】

プロットはプッチーニの歌劇『蝶々夫人』とよく似ており、勘太が密かにこころを寄せていたお滝さんがシーボルトの妻として娶られ、恋愛や境遇に対する嫉妬のあまり、秘密を密告するというあたりはヴェリズモ的だし、松村禎三(原作は遠藤周作)が書いた『沈黙』のなかに出てくる若い神父や、密告者のキチジローとの類似性も窺われる。多分、これらの作品もイメージしながら、クラシック的な重ね合わせのなかで、新しい世界観が生まれたのではなかろうか。プッチーニの作品では日本人妻を放置するピンカートンが明らかな人でなしで、領事のシャープレスは一応の常識人として描かれるが、この作品では自分にも責任はあるものの、シーボルトがお滝とイネを芯から愛していることは明らかで、商館長のデ・スチュ-レルは事態が発覚するや否や、シーボルトのことを捨て駒にする悪役となっている。国のために働いていた人が苦境に陥るや、易々と見捨て、本人は自分がもうすこし慎重にやっていればと後悔する構図は最近、話題になっている紛争地ジャーナリスト安田某の事件を思わせるところがあり、普遍的で、現代的なモティーフでもあった。

だが、作品の片方の軸は元漁師で、難破してシーボルトに助けられ、その家人となった勘太の視点である。最初の幕では彼が成仏しきれずに、かつてシーボルトがつくった植物園を漂っているところを神々にみつかり、事情を話し出すところから筋が始まる。そして、シーボルトとお滝の悲しいロマンスが描かれた後は、再び神々との対話に戻り、もっとも隠したい部分も、すべてを話すことでようやく赦されて、200年ぶりに魂が浄化されるという仕掛けなのだ。神々は告白を促して、彼のせいで犠牲になった人たちのことを話し、勘太の良心へと厳しく訴えるのだが、このあたりはモリカケ疑惑に関連して亡くなった方々(工事業者や官僚)や、嘘をつき、改竄を重ねた高官たちのことを思わせて、まったく昔のような気がしないのだ。月並みな結論だが、人間は歴史を経ても、それほど変わらないものである。

筋書きだけをみると、能楽とか歌舞伎のような日本の伝統芸能からも遠くはなく、和洋に存在した古典的なプラットフォームを踏襲しながらも、それらを発展させた舞台をいかにつくっていくかが問われていたようである。言語をミックスしたように、楽器も和洋のものを組み合わせ、それらの楽器が本来、もっている味わいと、そうではない異質な味わいとを融合して、巧みに組み立てているのも印象に残った。主なスポンサーはオランダの劇場であろうが、この作品を成り立たしめる多くの要素に感謝してか、世界初演の栄誉は東京に譲られた。だが、既に述べたように完全版の上演はオランダが初演となり、日本にはそれを再輸入するまでの、機会を待つ幸運が与えられたともいえる。

【第1幕の音楽的特徴】

リサイタルホールには、3階建ての祭壇のような舞台が用意されていた。上階部分が高く持ち上げられているせいで、1階部分がまるで「ピット」のようにみえる。2階がいわばメイン・ステージであり、シーボルト、お滝、商館長が演じ歌う。勘太だけが入ることができる冥界のような、3階部分は美しく花で飾られていた(フラワー・アレインジメント:都築利晴)。照明の具合で、勘太の背後の壁面は本来の黄色がかった木目柄が、黄金に輝く。カウンター・テノールがうたう勘太の名前は、ラテン系の言語の canta に通じ、歌と結びつく掛詞になっている。序盤はトン・・・トン・・・トン・・・と等間隔で刻まれる打音が粘りづよくつづき、よく印象に残ったが、演出上の偶然か、これがオペラの最後で罪の祭壇から階段を下っていく勘太の足音と対応的になっているのはきわめて興味深いことだ。

歴史のなかのシーボルト(ジーボルト)の正体はいまだ不明だが、母国のプロイセン、もしくは、仕えていたオランダのために情報を収集する目的で来日し、医術や技術などを伝える知識人を装って送り込まれた、一種のスパイ(穏便には外交官ともいう)であるという見方が一般的だ。反面、鳴滝塾を開き、日本に多くの弟子をつくって、その発展に寄与した事実もまた否定できない。いわゆる「シーボルト事件」によって日本を追われ、条約締結後は、また日本に戻ることができたという。彼は百科事典的な収集家でもあり、植物学者の一面もあったことを利用して、オペラでは植物が重要なモティーフに選ばれている。

第1幕では2つの言語が飛び交い、魅力的な祭囃子のような音楽もあるが、総じて、どこか幽玄な世界をつくっている。既述のように、勘太は日本語で歌い、英語の字幕が出る。それと対話する神々も基本は日本語だが、左右のグループで別々の言語をうたい、字幕で映っている英語と重なる場面もあったように聴こえた。この構図は第3幕でも同じだったが、終幕では重ね合わせの要素は少なくなり、言語的にはユニゾンが主体となった。第1幕では日本語と英語の最後の音が重なるなど、軽く韻を踏んでおり、どの言語を聞いているのか、あたまのなかで整理しにくいのが、かえって楽しく思われる。さらにいえば、字幕に映る英語は予め、私のあたまのなかでも、すこし早めに翻訳されるのだが、それと実際に歌われる歌詞はときどきずれていて、その詩的な表現や、自分の想うイメージとの一致やギャップを楽しめる要素もあった。頭脳がフル回転して、恐らく意図されたものの何倍もの効果が生じ、実質、「3声~4声のフーガ」となって、自分のなかに鳴り響いていたのである。

音楽的には日本の俗謡やお座敷、祭礼などで用いられる音楽が長調主体で構築され、それによるフーガのような部分もあり、大変に魅力的だった。江戸時代以前において、西洋におけるのと同じような意味での歌は、日本に存在しなかったと言われている。だから、歌以前のものこそが、この歌劇を支配しているのである。また、次のように言えるかもしれない。この作品では西洋との交流のなかで、日本に歌が生まれる寸前に起きた、皮肉な、人間どうしの関係が描かれているのだ。

無調ではなく、かといって、明確な調性があるわけでもないが、オペラとしてつくるときに、まあ、それらの落としどころとして考えられる、平均的なラインが選ばれていることは認識できた。未聴感、これまでにない新しさといったものも試されるのだろうが、オペラにおいては・・・特に日本語オペラにおいては、言語的なデクラメーションの出来そのものが作品のクオリティにもっとも強く結びつき得る要素となる。その点で、情感的に繊細な表現の波などを巧みに表現しながらも、自然な流れで美しい言葉が紡ぎだされる本作の成果は、残念ながら、私のような素人からは十分に論じられるものでないが、多くの専門的研究の対象となるべきものであることは明白である。ただ、明らかに素晴らしいということだけが感じ取れた。

【勘太の嫉妬について】

第1幕と第3幕は、勘太と神々との対話だけで構成され、一種、教条的な浄化の物語になっている。だが、いかなる宗教的な要素も明確ではなく、仏教や神道、儒教、キリスト教など、いかなる特定の宗教とも結びつかずに、いわば人間的に思考されたものであることが特徴だ。プロットの流れや、勘太のこころの揺れ動きのありようは予想しやすいが、第3幕では予想以上にねじれた魂の旅が描き込まれていた。嫉妬は伝統的な舞台作品だけでなく、低俗なサスペンス・ドラマなどでも頻繁に描かれるものだが、この勘太の事情はさらに複雑であるようにみえた。彼はいわば、アウトサイダーとして世界の端っこで生きていた。才能ゆたかなシーボルトが望むものを何でも手に入れ、お滝やイネ、弟子たちにみせていたものを、彼は外から眺めるだけだったと主張している。正に、これは貧富の差が広がり、歴史的なものとはまた異なる新しい階層化が進む現代的なモティーフというべきだ。

シーボルトは安田某にみえなくもないし、彼を見捨てる商館長は総理大臣某(米国大統領の某でもよい)にみえ、勘太の立場は世界の繁栄から取り残された貧しい人たちや、テロリストの陥る境遇とよく似ている。お滝も父母のために女郎となる悲しいエピソードをうたうが、ファンタジックな外国人シーボルトの手によって引き上げられ、勘太からは二重に手の届かぬ存在となる。このことが、面白い視点を提供する。だが、そのことが露骨に描かれているというわけでもない。

【お滝の登場と、シーボルトの愛】

中心となる第2幕だが、シーボルトと商館長が結託を示す場面。女郎「其扇」こと、シーボルト夫人になったお滝が艶やかに歌いながら登場し、既にシーボルトの妻として愛しあっている場面。連続して、密命を帯びて江戸へ出立することを打ち明けられる場面と、その後、身重なのに夫が危険を冒す不安に怯えるお滝のモノローグ。シーボルトが商館長から切り捨てられる場面。難破船から禁制の地図が見つかった̚廉で追放になったシーボルトが母子と別れる場面と、最後、ひとりになったシーボルトのモノローグ・・・とハイライト版ではコンパクトに整理され、若干、物足りない感じもなくはないが、反面、すべての場面をみたら冗長と感じた恐れもある。どの場面も効果的だが、とりわけ紅一点のお滝さんの登場シーンには工夫が凝らされていた。

この劇でもっとも大きな弱点としては2人の馴れ初めが描かれずに、最初からシーボルトとお滝さんが愛しあっている形で登場することがある。しかし、自分の元来の境遇を端的に歌いながら、やはり、花と歌の要素でまとめて、シーボルトへの想いを自然に感じさせるお滝さんの描写が傑出している。また、プッチーニ同様、お腹の子へのイメージが彼女の抱える情感と、夫に対する無償の愛情や信頼感というものと結びついているのも大きいだろう。天羽昭恵の演唱は、この点で圧倒的に素晴らしかった。全体的にみれば、演じ歌う場面の多さと、その重さから、藤木大地の勘太役に称賛が集まるはずで、それは当然の報いなのであるが、彼女の表情や、歌の美しいフォルム、言葉の迫力や、声そのものの厚みが、この上演の質を大きく押し上げているのは言うまでもなかった。

もうひとつ、私に突き刺さったのはシーボルトのモノローグだ。お滝に対してさえ、ほぼオランダ語でうたう彼だが、愛児イネに必ず戻ると誓う場面では、唯一、日本語をはなすのだ。イネがまだものごころつく年ごろでなかったとしても、彼女だけには日本の言葉で語りかけようとする父としての姿から、シーボルトの愛が真実のものであったことは疑いようもなくなる。先のお滝の場面とあわせ、インビジブルな第五の登場人物であるイネの存在をふかく感じることになり、『蝶々夫人』のラストの種明かしのように突飛な形にはならなかった。また、バタフライとの関連でいえば、シーボルトがちゃんとお滝と正対して、別れの挨拶をおこなっていることも重要だ。ピンカートンはすぐに帰ると蝶々さんに思わせておいて、状況がヤバいとわかると自分で責任を負わずに、正式な妻を日本に派遣する。他人の手によって、蝶々さんを本当のひとりにしてしまうところがもっとも酷いのだ。

もっともシーボルトにしても、勘太にしても、はたまたピンカートンにしても、男たちが過ちを犯していることでは変わらない。人間が過ちを犯すこと、それを赦す存在があることが、この作品のモティーフの一端を担っているが、それらを司る神々は既に述べたように、現に存在するような信仰とはまた別の存在から生まれたもののようにみえた。それは正に、人間そのものであり、良心とでもいうべきものだ。神をも超越した人間の凶暴さと、迷いながら、それを克服する人間そのものへの信頼というものが、同時に作品の中心的な主題を構成する。そうしたものだけが、海を越え、国境や民族を越え、時代を越えることができるのではなかろうか。

なお、本作において、シーボルトに関してはいくらか擁護的ではあるが、今日、よく知られるようになった功罪もニュートラルに描かれており、極端なフェミニストたちの鼻につくところがあるかもしれないことを除けば、バランスのよい描き方になっている。「出島」については唯一、国際的なコンタクトがとれる場所として位置づけられる一方で、「オランダを閉じ込めるための場所」という表現もあり、シーボルトが出島の内外を出入りできることが羨ましい特権として描かれたり、その権利を奪われることが彼の幸福の破綻につながっていることから、出島が、リサイタルホールに組まれた「3階」の祭壇と対応的になっていることは疑いなく、実際にあった出島の存在よりは薄暗い風景に演出されている。

【和洋音楽の融合】

音楽的には洋の東西でそれぞれ用いられる特徴ある楽器が、巧みに融合されていたことは既に述べたが、その曲調は総じて明るめにつくられている。シーボルトがお滝に向かって不穏な打ち明けばなしをするときも、音楽はすこぶる明るい表情を保っているのだ。このことから、私は明るい音楽がかかっているときは、悪巧みが進行していることが多いヴェルディの歌劇を思い出すのである。全体的に和風な音組織やリズム構築が中核となっているなかで、シーボルトが日本と離れている場面だけが舞台下手に配置された西洋の楽器だけのアンサンブルになっている。また、いちど鑑賞しただけでしかとは断言できないが、和洋の響きをただ組み合わせるだけではなく、そのパターンにも何らかの法則があったように思われる。

和楽器では、特に笙の響きが重視されている。幕切れも、その響きが細く引き延ばされて、寂しげだった。笙は重音が特徴的で、東洋的な典雅な響きを生み出すが、ファン・ヴァウデンベルクはそうした典型的な用法はなるべく避け、楽器のもつ素朴な響きに秘められた可能性にふかく傾倒しているようだ。筝や尺八、三味線という邦楽器が多く使われてはいるものの、それらがまた、私たちにとって見慣れない特徴をもった楽器として響くことも少なくなかったのは、そのためである。笙が、オルガンの響きのように聴こえる瞬間もあったのは、音楽上の掛詞としても面白い。

これらを含め、多彩な楽器を用いるものの、例えば弦楽器は vn:2、va:1、vc:1、cb:1と数が絞られており、下手の西洋楽器と、上手の邦楽器がトゥッティになる場面も少ないため、全体的に室内楽的な小さい編成という印象を抱かせた。それにもかかわらず、ゆたかな響きが充満し、音楽はきわめてリッチに聴こえる点は特筆に値するだろう。佐藤紀雄の指揮はいつもシンプルで、ソツがないのだが、この日は特別な気配を発していた。この作品に対する、一方ならぬ共感も窺われる。

主要な歌手4人は、このプロジェクトを継続的に支えてきたメンバーではあるようだが、日蘭ともに揺るぎない布陣と言いたいものの、シーボルト役のバリトンはやや言葉が聴きづらかった。それでも、先に述べたようなグッとくる場面もつくったことで及第点に置いておきたい。「神々」に起用された Fontana di Musica は、大事な両端の場面を迫力ある歌唱でうたいきって、立派だ。主催の安達陽一はオランダへの留学経験もあるコーラスのスペシャリストで、同国との縁も深かった。当地の公演では地元のカペラ・アムステルダムが起用されるようだが、今回、作品のクオリティを出すにはコーラスも十分、上出来であった。

【桁違いに柔軟な表現を手に入れたオペラ】

言葉のスムーズな抑揚は、作品に多彩な情感と、その奔放な流れを生み出した。オペラにおいて、また、管弦楽や歌において、これほど豊かに人間を表現できるようになったということが、まずは凄いと思う。例えば、従来の表現でいえば、紋切り型にしかならなかったであろう勘太の嫉妬が、あれほど多彩に描かれることで、作品のモティーフは現代的に洗練されたともいえるのである。『出島』は一見、ありきたりなモティーフで構築されているものの、実は奥深い多層的な心理劇に仕上がっているようだ。それ自体、目を瞠るべきことだが、私は今回、ファン・ヴァウデンベルクという作曲家がただただ天才なのだという風には、どうしても思えなかったのである。欧州には、彼のような成功を導くエーテルのようなものが、当然のように、そこかしこに充満しているのではないか。これは歌劇場の少ない日本では、なかなか気づけない世界の現実であるのかもしれない。

そう思うと、いささか背中も寒くなる上演であった。昔の作品と比べると、オペラは実に多彩で、柔軟な表現を手に入れようとしている。以前はカクカクとしか動かないからくり人形だったものが、柔軟なアームで人間と同じような仕事ができるロボットになりつつある時代を、それは反映している。だが、私たち日本人の多くは古いオペラしか知らず、その時代遅れな表現そのものに魅力があると感じているのだ。それはあながち間違いでもないのだが、一歩、そうではない表現に接するや、雷に打たれたようにものの考え方が変わる。ちかく日本初演される藤倉大の『ソラリス』もそんな風になっているのだろうか。いまや、細川俊夫『松風』でさえ、ちょっと古いタイプの表現に思えてくる。もちろん、モーツァルトの『コジ・ファン・トゥッテ』などにも、現代の作品に負けていない要素はある。それは正しく、奇跡なのだ!

この作品が現代において、最上のものかどうかはわからない。だが、間違いなく衝撃的な舞台であったことだけは報告しておきたいのだ。

【プログラム】 2018年10月25日

1、R.ファン・ヴァウデンベルク 歌劇『出島』(ハイライト版、演奏会形式)

 勘太:藤木大地  お滝(其扇):天羽昭恵
 シーボルト:ヤン・ウィレム・バリエット
 デ・ステューレル商館長:ヤン・ウィレム・シャフスマ
 神々:Fontana di Musica
 助演(冥禱の使):大竹せつ子、ラコ-ナ(クラーラ・ダンス・カンパニー)
 管弦楽:アンサンブル・ノマド(cond:佐藤紀雄)

 演出:稲垣聡  台本:川村俊介

 於:東京オペラシティ(リサイタルホール)

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