2018年12月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
無料ブログはココログ

« イザイ音楽祭ジャパン 東京公演 新発見『無伴奏ソナタ』ほか  出演者;フィッリップ・グラファン ほか 日本イザイ協会 10/20 | トップページ

2018年12月 3日 (月)

ラザレフ プロコフィエフ 『ロメオとジュリエット』 組曲 ほか 日フィル 横浜定期 11/24

【残り3曲を自由に想像させるラザレフ版】

2011年のあの日、聴き逃してしまったラザレフのロメジュリを、7年ぶりに回収できた。プロコフィエフによる2つの組曲版から抜粋して、任意に並べ替えたヴァージョンは、もともと震災前から準備されていたもので、必ずしも、運命的な過去の出来事にまつわる特別ヴァージョンというわけではないが、奇しくも、それに相応しい内容をもっていることは後述したい。3月11日に強行した公演と、2012年のアンコールにつづき、今回が3回目となり、最初の公演が録音にも残されている。その構成はバレエのドラマトゥルギーからは自由に、一見、音楽的な興趣だけを優先したようにもみえるのだが、7/10曲目に若い2人の悲劇が起こることで、残り3曲の解釈は聴き手のイマジネーションによって変容する、謎として生まれ変わり、劇的な解釈も可能である。多分、見える形は万華鏡を振るように十人十色であって、一定の答えを定めてはいない。その人がもっている音楽の知識やイメージ、あるいは、価値観のなかで、貴賤なく、いくつかにわかれるグラデーションにラザレフは寛容な姿勢を示す。

人々は、音楽になにを求めるのか。音楽の迫力や、優雅さ、非日常的なカタルシスや音楽から受ける特別な情感、形式や構造の美、パズルのように洗練されたフォルムの興趣、あるいは、よりよく生きるために音楽を通じて得られる何らかのヒント。作品を理解する水準も、人それぞれの体験や、音楽とのつきあい方によって千差万別だ。誰かが優れていて、他の誰かが俗っぽいのだというようなことはできない。あらゆる人たちが、ひとつの音楽のもとに集う。そして、それぞれの視点に驚き、ときには反発し、尊敬しあいながら、音楽をめぐるひとつのコミュニティができあがっていくのだ。自分の立場だけが至上と思うことほど、不遜で、傲岸なことはない。

【地獄と天国】

個人的な感想をいえば、この曲順はエグいと思った。全体的にみると、死で始まり、死でおわる。だが、そうであっても、ラザレフなら、何か仕掛けがあるはずだと信じていた。たしかに。バレエの筋でいうと、7曲目の音楽で若い2人が折り重なって死んでしまう。その後、あたかも死を悼むような音楽が8曲目に来るが、第9曲目で、なんと「マスク」が来て、それまでのことは、何もなかったかのような日常が回帰するのだ。この場面はバレエでは、ロメオが友人に誘われ、仇敵の邸宅で開かれる舞踏会に忍び込み、ジュリエットと出会うきっかけとなる場面の予兆であった。ラザレフ版組曲は、このようなリズムを繰り返していく。取り返しのつかないような深い悲劇的な場面が来ても、そのあとに、必ず日常の揺り戻しが来るのだ。このシーケンスは実に、3度も繰り返された。だが、恐らくは、例の7曲目のあとにくる3度目のシーケンスはすべて夢のようなものであったろう。バレエにおいても、「アンティーユの娘たちの踊り」は偽りの結婚式の朝に起こる儀礼を描いたもの、つまり、幻のようなひとときを描くものになっている。

また、このページでは繰り返し触れてきているように、スラヴ世界では葬送にあたって、ポルカやフリアントのような明るい舞曲を踊って死者に捧げる伝統があったという。8曲目と9曲目はなんとなく物悲しい雰囲気を示しながらも、人々が肩を寄せ合いながら、見舞いに来るような雰囲気も漂い、コケティッシュで、軽い雰囲気もまぜながら、不安定なバランスを保っている。そこで、知らないうちに、葬送の儀式が進んでいることを次第に感じさせる要素もあったわけである。そして、終曲は「ティボルトの死」となり、本来は両家の若者たちが争うなか、最終的にロメオとティボルトが争って片方が斃れてしまう悲劇を描くのだが、ラザレフ版では、そうした小さな騒乱に止まらない雄大な葬送行進曲として、これらが演奏されたことを明らかとする意味がある。その威容は、正に地獄絵図そのものであるが、ラザレフと日フィルの奏者たちは、この地獄を嬉々として演出しているわけでもなければ、いささか興奮ぎみに弾くでもなく、当然のように、淡々と物語るから、いっそう身に沁みるのである。

だが、同時に、そこには天国も描かれている。時間をかけて、この音楽がそのような双極性をもつようにと演じてきたのだ。あたかも病気のような不安定さだけが、戦間期=1936年に、シェイクスピアの古典的舞台を下地にバレエ音楽の生まれた時代、ロシア的にいえば、スターリンによる粛清の嵐が吹き荒れる冬の時代を描き得たのである。英国発祥の『ロメオとジュリエット』という素材自体、ソヴィエトの指導者たちにとっては、決して快いものではなかったであろう。この作品は、表向きは政治とは関係なさそうな原因で当初、予定していた上演には漕ぎ着けられず、初演が数年も遅れたという背景があった。組曲版はそのような難しい状況のなかで編みなおされたもので、自分の成し遂げた成果が、まずは音楽的に紛れもなく優れているという事実を訴えるためのものだったことがわかる。

【具体的な音の風景】

とはいえ、ラザレフは、このように独特なドラマトゥルギーだけを一方的に主張したかったわけではなく、あくまで音楽的な特徴を、誇張なく表現していたにすぎないのかもしれない。例えば、正に運命のひと突きとなる最後の一打のような鋭いフォルムもまた、彼らは時間をかけて印象づけてきた。見得を切るような単音、もしくは、数音の短いモティーフの鮮やかさは、組曲のなかで何度も味わうことができたものだが、プロコフィエフはこうした要素を上手に組み合わせて、それまで誰も手にすることができなかったイメージの鮮烈さを獲得し、『ロメオとジュリエット』や『シンデレラ』のように、一見、寓話的な物語に独特の緊張感を与えているようだ。

ラザレフ版とはいうものの、序盤の5曲は作曲者編の第2組曲とまったく同じ順番である。アルペッジオを丁寧に重ねつつ、大胆にも崩壊へと切り崩す「モンタギュー家とキャピュレット家」の凄絶な開始から、「少女ジュリエット」では横笛やチェロが奇跡的な音色を清楚に奏でる。特に笛の音はカモメの鳴き声を思わせ、海のないヴェローナがナポリやピサのような港町に変容したかのようだ。「ロレンス神父」は大らかな禿面の紳士を想像させ、穏やかだが、あんまり頼り甲斐はなく、しかし、若者たちには慕われそうな風貌を思い起こさせる。「ダンス」を経て、「別れの朝のロメオとジュリエット」がそれまでの表現を総括りにするようで、悲劇的な場面が再び目前に広がり、祈りのロングトーンと、チリチリいう火花のような弦の装飾も鮮やかに、いったん幕を閉じる。

「情景」が新しい幕の始まりだが、やがて、2回目の深々としたシーケンスが現れ、ロメオとジュリエットの最期が描かれる。その後の流れについては、既に述べたとおりである。終幕で緊張が高まっていくごとに、積み重なってきたシーケンスがひとつひとつ思い起こされ、私は徐々に平常心を保つのも難しくなった。なるべく声は発さないように努めたが、これは文字どおりの意味で、嗚咽にちかいものになった。若い2人のいのちに関する想いと、震災に対する思い出のフラッシュバック、そして、奏者たちのパフォーマンスを含めた音楽的な深い感動が連動して、受けと止めきれないほどのショックを与えたからだ。

この演奏会で、ラザレフと日フィルはなんと、アンコールをつくっており、プロコフィエフによる「古典」交響曲のスケルツォを披露した。これはガヴォットという古い舞踊の形式に基づいており、あの深い、深い悲しみのあとに、再び軽い舞踊の音楽で日常を構築するものであって、心憎い選曲だろう。

【小林美樹とオーケストラの幸福な結婚】

前半の協奏曲を書いたチャイコフスキーも、ラザレフにとっては前衛的な新しさをもった作曲家だが、それならば、プロコフィエフはもっと露骨に新しくみえるはずである。2人に共通しているのは、それでもやはり、根なし草の新しさではなく、古典的な形式に対する敬意から出発している特徴だ。独特な響きの切り方や、和声的な目新しさばかりでなく、フーガや旋法ともとれる古典的な素材の活用や、そこからのずれを利用した、非常に効率的な感情や立場の交錯の描写ついて、見るもみごとな仕事がなされている。

チャイコフスキーについては、より細部にみごとな工夫があり、それをみるには当日のソリスト、小林美樹が素晴らしかったというほかない。当然のことかもしれないが、私はどんな演奏会でもよく調べてから選ぶ。小林についてもいくつかの動画を確認したが、目立って魅力的には思えず、いわゆる「ヴィジュアル系」のような売り出し方もあって、この日の半分を占める協奏曲には不向きかもしれないと感じていた。それでも足を運んでみたのは、小林がSNSなどでも「練習」という言葉をよく使っており、このシーズンのためにロシアを訪れ、作曲家の故地をまわるなどした姿勢にも一縷の共感を覚えたせいだ。実際には、その範囲を大きく超えて、私にとって、「ストライク」なヴァイオリニストに出会ったのである。

独奏者には、私は3つのタイプがあると思う。自らの技巧を誇示するヴィルトゥオーゾ型、どんな相手にもうまく合わせるショーマン・タイプ、そして、もうひとつは作品のフォルムを守り、作曲家の書いたものに忠実なガーディアン・タイプだ。私は3つめのタイプに重きを置いており、正しい方向でなければ、高名な指揮者にも譲らないようなタイプをもっとも尊敬する。小林には明らかにガーディアンとしての資質があるが、一方で、共演する音楽家に対するリスペクトが深く、互いにアイディアを出し合う形で作品を練り上げていく室内楽的な手法も得意としている。このようなタイプはコンペティションなどでは高く評価されにくい面もあるが、小林は比較的、見る目のあるジュリーに出会ってきたようだ。ただ、近年では実力に相応しい評価がなされているとは言いがたい。

それほど声量を使わずに、鋭いフォルムでパフォーマンスをつなぎ、ときどき息を呑むシャープな造形をして、聴く者をふるわせる音楽をもっている。徳永二男とパヴェル・ヴェルニコフに師事したという経歴はともかく、私の愛するフランコ・ベルギー楽派の奏者たちのような、例えば、私にとって思い入れも深い、レオニダス・カヴァコスを思わせるような、自分を犠牲にすることも厭わない演奏で、耳をそばだてる私をしばしば打ちのめした。期待薄だったため、大規模な管弦楽の演奏を聴くならば、特に問題のない3階席を選んだが、より繊細な倍音の重なりや、ハーモニクスの細かい味わいが確認できたであろうことを思うと、すこし失敗した。とはいえ、いたずらに強奏せずとも、遠い客席にも確実に響く芯のある響きも特徴的に聴こえ、これを確認できたことでは満足だ。

小林のスタイルもあり、全体的にややテンポは抑え気味だ。もしも、これで豪胆な速いテンポをとってしまったら、さすがに独奏者のよさは聴こえにくかったはずだし、オーケストラのほうに施された独特の細工も伝わらない。だが、終楽章に関しては、思いきって颯爽とした流れも構築した。がさつにがなり立てることなく、空間を支配するアイディアに満ちた演奏だ。

初日の公演では、第1楽章で拍手が出たという話を聞いていたが、そうなりがちな派手ごのみのスタイルというわけでは決してなく、むしろ、穏やかな詩情もゆたかに、自然な減衰を伴っておわるのが意外だった。この作品では見目麗しき女性の奏者でも、田舎くさく、下品にうなるような演奏をする場合も多いのだが、青いマーメイド型のドレスに品よく身を収めた彼女のパフォーマンスは、拍外への持ち込みの少ない清楚な美音をベースとして、よく考えて、知的に構築されていて、この上もなく優雅に響いたのだ。なお、この作品は歌劇『エフゲーニ・オネーギン』や交響曲第4番などと同じ時期に書かれ、社交界の美女を男たちが追い回すようなモティーフでは、オペラと共通点が多い。オネーギンからみれば、とっぽい田舎娘だったのが、のちに誰もが憧れる貴婦人となるタチアーナであるが、プーシキンの作品はその前半に焦点が来ているように、コンチェルトも第1楽章が頭でっかちになっており、その後、後半2楽章で変容する。変容は、ロマン派の作品において欠かせない形而上的なテーマでもあった。

この作品の誕生のきっかけとなったのは、ラロの作品ということだが、同じように著名なメンデルスゾーンのホ短調の協奏曲からの影響も相当に濃厚だ。チャイコフスキーはいつも、このように古典的な重ね合わせのなかで、モダンなフォルムを探っていくスタイルとなっている。古典的な味わいも豊富に、多彩な表現が活発な第1楽章から、第2楽章で大きな変容がみられ、アタッカでつづく第3楽章では、社交界に再デビューしたタチアーナのように優雅な演奏が展開する。

ラザレフはこの貴重な素材を踏み潰さぬよう、慎重にオーケストラの響きをコントロールしているが、そのせいで、自分たちのやりたい表現を抑えているという感覚はない。むしろ、彼のつくる細かな表情は、小林の丁寧なコミットを生かして、いっそう鮮やかに引き立つのであった。とりわけ、緩序楽章における管楽器との多彩な結びつきは、第1楽章の最後で、音楽的な高揚とは反対に、意気消沈した独奏部を労り、甦らせる静けさから導かれている。

もしも小林のパフォーマンスに不満をもつ人があれば、それは煌びやかな響きを前面に押し出した、いかにもな強調の少なさに物足りなさを覚えるせいであろう。それにもかかわらず、彼女が普段なら、気づかれることも少ないような見せ場を豊富に演出し、一瞬も気の抜けないような、ハラハラさせるフォルムを編み上げているのもまた、確かである。それに加えて、ソロイスティックで装飾的なパッセージの間に、トゥッティに混ざるようなところでは無類のブリランテ(明るさ)を生み出し、聴く者をゾクッとさせる。ドラマティックな要素の多い演奏でありながら、細部においては、それを忘れさせるに十分な、独奏と管弦楽による噛み合った表現が数多くあらわれ、両者のエンゲージメントの深さが窺われるのだ。

【予兆の意味】

正に、こうした演奏姿勢は2つの曲目で、中心的なテーマともなっている。はじめはさほどでもなかった素材の持ち味がエンゲージを重ね、例えばプロコフィエフにおいては、終曲の「ティボルトの死」へと向かって、エネルギーが雪崩れをうつ勢いとなる。もっとも、このナンバーはバレエの筋からみて重要とはいえ、クライマックスとまでは言えない場面だ。慎重な言い方が必要であるが、ひとりの男が死ぬことよりも、そのことが意味する結果の大きさが、より重要となっていることは指摘されねばならない。つまり、ティボルトの死はロメオとジュリエットの別れや、それぞれの死というものを既に暗示しており、その役割においてこそ、決定的に重要なのだ。さらに、この作品においては、より深い時代的な悲劇の象徴としての意味もあって、それゆえに音楽はきわめてスケールが大きく、受け止めきれないほどのメッセージが溢れていくこととなる。

こうした流れはのちの『シンデレラ』でもみられるもので、有名なアシュトンの振り付けも手伝って、全体的にコミカルな舞台ではあるのだが、例えば時計が12時を指すときの場面(真夜中)では、単にシンデレラにかけられた魔法が解けるだけではなく、街ひとつが燃え上がってしまうような恐ろしい音楽が書かれている。「ティボルトの死」と「真夜中」は、バレエの筋における場面の質よりも圧倒的に音楽が重い。繰り返しになるが、これらの場面は筋書きの重大な岐路ではあっても、クライマックスそのものではなく、ただ、将来をつよく示唆するための部分として印象づけられる。

巧まずして、ラザレフ&日フィルとロメジュリの組み合わせは特別な意味をもつようになってしまった。(震災は)既に起こったことではあるが、ラザレフが注意ぶかくみるのは、運命を示唆していた予兆の部分なのである。たとえ、どれだけ勘が鋭くとも、物語の筋書きをあとから変更することはできない。アニメーション映画『君の名は。』の話ではないが、たとえ結末を変えることはできないとしても、予兆とどのように向き合うかによって、人々が生きる道もかわってくる。無論、予兆があれば、必ず悲劇を避けられるというものでもない。マクベスは魔女たちの予言に翻弄され、オイディプスの父王は神託で予言された事態を避けようとして先を越して行動したが、結局は予言のとおりに、息子に討たれてしまうのである。予兆とは、皮肉な運命そのものだ。音楽的にも、予兆は構造のなかで大きな役割を果たし、それを掴むことができるか否かによって、聴き手があとで受ける印象にも差が出てくる。ラザレフの音楽には予兆が豊富に含まれている分だけ、意外な結論に至る道も余分に残されているわけだ。この日のチャイコフスキーにおいては、まるで弦楽四重奏曲のように親密な関係でありながら、即興的なやりとりのなかでは、次々と予兆が破られていくのであった。

まだ書きたいことは多いが、既に相当の長文に及んだ。ラザレフがつくる予想のつかない演奏会に、小林美樹が美しく花を添えた夕べである。

【プログラム】 2018年11月24日

1、チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲
 (vn:小林 美樹)
2、プロコフィエフ バレエ音楽『ロメオとジュリエット』からの組曲(ラザレフ版)

 コンサートマスター:木野 雅之

 於:横浜みなとみらいホール

« イザイ音楽祭ジャパン 東京公演 新発見『無伴奏ソナタ』ほか  出演者;フィッリップ・グラファン ほか 日本イザイ協会 10/20 | トップページ

オーケストラ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/543421/67415786

この記事へのトラックバック一覧です: ラザレフ プロコフィエフ 『ロメオとジュリエット』 組曲 ほか 日フィル 横浜定期 11/24:

« イザイ音楽祭ジャパン 東京公演 新発見『無伴奏ソナタ』ほか  出演者;フィッリップ・グラファン ほか 日本イザイ協会 10/20 | トップページ

ツイッター

  • ツイッター

最近のコメント