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2019年1月18日 (金)

ヴェルディ レクイエム ロレンツォ・ヴィオッティ(指揮) 東響 サントリー定期 667th 1/12

【密やかなクライマックス】

ロレンツォ・ヴィオッティにとっては、渾身の舞台だった。クシシュトフ・ウルバンスキの代役として、東響に初めて登場してから共演を重ね、昨年は新国立劇場での指揮や、東京フィルとの共演も話題を呼んだ。まだ20代という若さでありながら、複数のオーケストラでポストに就き、一昨年、ザルツブルク音楽祭でも授賞したという。細部にわたる厳しい音楽づくりで、自らのイメージを徹底的に作り上げていくことで、日本でもよく知られるようになったが、それに先駆け、24歳で初登場の彼を評して、「僕はとても、普通の言葉でこの演奏会を評する気にはなれない」としたときの感動が、いよいよ深いリターンへと結びついてきている。惜しくも、昨夏の『トスカ』とはあう日程がなかったが、その高評から名を上げたロレンツォが、着実にひとつの階段を上ったといえる。ヴェルディの『レクイエム』の演奏は、前から3列目で聴く私の心臓を激しく衝いた。

素晴らしい演奏は、3秒でそれとわかる。若いピアニストだったりすると、その期待が後半、それまでのパフォーマンスが嘘だったように、みごとに破られたりすることもあるが、熟練のオーケストラともなれば、まず、そのようなことにはならない。この日の演奏は音が鳴り始める前から、特別だった。オケの奏者が構えたあと、客席側が完全な静寂にはならないのを感じると、指揮者はひとつ呼吸を置いた。私の目の前の奏者たちも一旦、楽器をおろした。只ならぬ雰囲気が漂っている。ヴィオッティはようやく指揮棒を構え、奏者たちがきりっと息を整えるのを感じた。そして、いよいよ鳴り響いた微かな響きが、この日のクライマックスとなったのだ。遠くで鳴る死の響き、そして、ゆっくりと生じ、囁くように伝わる弦のささやきと、それに完璧に寄り添った合唱の密やかな声音。クレッシェンドは控えめに、密やかな時間をつづけ、まだカンタービレの要素は少ない。オペラティックな宗教曲といわれるが、多少の起伏はあったにしても、少なくとも序の’Requiem æternam’だけは完全に宗教曲のまま、おわったというべきだ。

【リソースと構成】

ヴェルディの『レクイエム』には、ロッシーニとマンゾーニという2人のスターが関係している。1868年、イタリア・オペラの帝王であったロッシーニが亡くなると、古来のパスティッチョの伝統を復活させようとするかのように、ヴェルディは複数の作曲家で、この偉大な先達のための追悼曲を書くことを企画したが、形にならなかった。5年後、北イタリアの国民的な作家であったアレッサンドロ・マンゾーニが亡くなったのを契機に、ようやくヴェルディが仕上げたのが今日に残る『レクイエム』である。その構成は三部に分かれ、レクイエムとキリエによる序奏と、作品の半ばを占める「怒りの日」、そして、最後の部分に当たる「リベラ・メ」はロッシーニのために用意され、日の目を見なかった作品から転用された。4人の独唱者と合唱を伴う大規模な作品で、音楽と文学、そして、宗教を融合した同時期イタリアの国民的な作品といってもよい。

マンゾーニを悼むのを契機とした作品だが、彼が統合した言葉によって書かれることはなく、伝統的な宗教曲の形式に則り、ラテン語テクストが用いられている。のちのブラームスによる『ドイツ・レクイエム』がマテリアルにおいては、いかに型破りな作品であったのかがわかる。その点で、ヴェルディは未だ保守的だが、その構成には十分な独創性が感じられる。伝統的な①「レクイエムとキリエ」②「セクエンツァ」③「オッフェルトリウム」④「サンクトゥス」⑤「アニュス・デイ」⑥「ルクス・エテルナ」⑦「リベラ・メ」という流れをとるが、私の印象では②-⑥は複合的に継続した印象を与え、ヴェルディは頭部と胴体と結尾という三位一体で、祈りの筋をまとめているようでもある。結果として、③-⑥の部分は「アニュス・デイ」のような個性的な部分を含みながらも、やや冗長である。②のエコーともいえる4つの部分は、いわば形式的な美しさを誇るのみで、さほど決定的な価値をもたない。

大いなる死を受け止める①の静謐な祈りを枕として、最後の審判をモティーフとする②の畏れや煩悶に対し、そこからの解放を願う⑦が応える形で、シンプルにまとまっているのだ。胴体のなかでも、ヴェルディがとりわけ気を遣ったのは、’Liber scriptus’の部分だろう。「書物が差し出されるだろう/そこにはすべてが書かれていて/裁きがおこなわれる」。人々の行いすべてを記録する至高の「文書」こそがロッシーニのスコアや、マンゾーニの著作と重ねてイメージされているのは言うまでもない。そして、綴りが似ている’libera me’がこれに対応する形で結尾に配置されている。私を自由にしてください・・・書物によってというわけだろう。洒落の利いた構成だ。

【シンプルな魅力】

音楽は全体的に凝りに凝った表現で、しばしば技巧的と感じられるものの、シンプルさというキーワードは、ヴェルディの『レクイエム』において決定的である。例えば、独唱において、アジリタのようなものはあまり使われていない。『リゴレット』や『トラヴィアータ』、『イル・トロヴァトーレ』のような作品の書き手とは思えないほど、歌い手はシンプルに歌唱を積み上げていく必要がある。この点で、ヴェルディの作品はロッシーニやケルビーニ、ペルゴレージらの書いてきた宗教曲とは異なっている。それにもかかわらず、この作品の歌唱はオペラ的で、ドラマティックな印象を受ける。いちばん素晴らしい声を図太く、多彩に引き出していくことでは、オペラ以上のクオリティである。

その分、ヴェルディは親切なオブリガートを付し、歌手たちにヒントを与えながら、作品世界を立体的に描き上げるのだ。独唱者と管弦楽の関係は謎めいておらず、わかりやすく助け合っているので、オペラのアリアのように、その効果は本来、きわめて見つけやすいものであろう。

もっともよく知られた’Dies irae’幕開けの音楽はエネルギッシュに聴こえるものの、管弦楽は実のところ、わりと平易にできている。弦の動きが特に激しく感じられるが、ベートーヴェンの『第九』のように、無理なフィンガーリングなどがなく、語弊があるかもしれないが、基本的には穏やかな音楽だけで出来ている。このパートでは恐らく合唱がもっとも難しく、ファルセットに裏返ったり、難所がある。『マクベス』の魔女たちの合唱のように、神秘的で毒々しい雰囲気を醸し出す場面も。ロレンツォと合唱指揮の安藤常光は、このあたりを相当、小まめにつくっていて、柔らかく、全体のシンプルさを損なわない歌唱を実現している。管弦楽は目立たない順に難しく、特に木管楽器は柔軟にインパクトを出して、寄り添う音楽を奏でなければならない。

【歌唱について】

一体に、この日の主役は合唱であって、ときに先頭をきる独唱陣を押し除けたくなるほどに見事であった。パワフルな歌唱も悪くはないが、特に、ささやかな響きの美しさについて、今後、彼ら以上に素晴らしいものを耳にすることはないかもしれない。それほどのものだ。東響コーラスはアマチュアの歌い手で構成され、毎回、選抜されるメンバーも異なるが、今回は164名もの勇士たちを舞台上にあげ、ときに指揮台のうえで熱唱するロレンツォのイメージをほぼ完璧に形にできるほどに鍛え上げてきた。昨夏の『ゲロンティアスの夢』のときもそうであったが、彼らの歌い方は客席をたちまち味方につける。知らない歌でも、一緒に歌おうという気にさせる。ある意味では平易で、飾り気がないのだが、そのようにシンプルな歌唱でぐいぐいと聴き手を内側に引きずり込んでいく表現の巧さが際立つ。

最終の「リベラ・メ」は、そうした合唱の歌声が先頭に立つソプラノの口から凝縮して発せれるように歌われ、ヴェルディの独創的な部分のひとつである。この公演に特別なわけではないが、独唱者をコーラスから離して配置する歌唱はこの効果を視覚的にも強調する意味で、効果的だ。「リベラ・メ」を歌うソプラノ独唱はこの作品の核であり、原点であるといえるだろう。その価値に照らして、森谷真理の歌唱は妥当であろうか。米国で在学中、MET『魔笛』のオーディションに合格して注目を集めたが、この日、初めて耳にした私の印象は「自然な歌い方ではない」というものだった。完全につくりこまれた歌声。誠実な歌唱ではあるが、他とは溶けにくい。すべて否定的にいうつもりもないが、コーラスとユニゾンになるところ、特に、再び密やかな声になる部分では、フロントの独唱者をミュートしたいと思うほどに、後ろのクオリティが尋常ではなかった。初日、サントリーホールでの歌唱では、最後、目立つ部分で独唱者の声が途切れてしまう不運もあり、その点でも惜しい部分があった。きっと、翌日はもうすこしよくなったはずだ。

合唱と比べれば、4人の独唱者は最高とまでは言いきれない。例えば、ムーティがシカゴ響の公演に連れてくる歌手たちなら、どのように歌うのだろうか。ただ、宗教曲のスペシャリストよりは、オペラ歌手に焦点を絞ってのキャスティングには一定の理解を示したい。宗教曲か、オペラかという論争は、この作品につきものの議論だが、ヴィオッティはバランスよく、それぞれの良さを場面に従って選び抜き、紋切り型の疑問にケリをつけた。序盤の演奏で、完璧に宗教曲としての清楚さを打ち出しながら、’Dies irae’以降では一転して、ドラマティックで、具象的な表現に傾斜した采配に、歌手の個性がよく合っていたと思う。重要なことは、これらの表現が分裂せずに、シームレスな「織物」として縫い合わされていることだ。このことによって、ヴェルディが彼のもつ個性に従って、宗教曲を練り上げるときのリアルなイメージが浮かび上がる。「レクイエム」の部分に聴かれる甘美なほどの静寂と、「怒りの日」における神々しい金管のファンファーレ、『マクベス』の魔女たちの合唱のようにデモーニッシュな響きなど、そして、「リベラ・メ」の繊細な響きの重ね合わせが自然なひとつの層として成り立っているのだ。

独唱者のなかでは、清水華澄が、音楽そのもののミルフィーユ構造を地でいくような多彩な表現を披露した。r の巻き舌がやや極端なのはご愛嬌だが、全体的に質のよい歌唱であることは間違いない。隣のソプラノと穏やかに、声をあわせる部分では一歩近づき、身体を寄せて、まるで姉妹のように。また、物理的に近づくことはできずとも、指揮台を挟んだ向こう側の男声にこころを寄り添わせて歌う場面もあって、そのような彼女のスタイルは余人にとって、なかなか真似のできないものだろう。やや古風な巻き舌の、豪快な歌唱だけではなく、場面に沿った幾通りもの表現があるのが面白かった。最初の顔合わせで、森谷とのデュオが難しいと感じるや、また別の歌い方で次のチャンスはものにしてくるような柔軟さもあった。アンサンブルのリーダーとして、このような歌手がいるのは頼もしいことだろう。

【普遍的な手法】

いま述べてきた部分以外にも、印象的な部分は多い。’Tuba mirum’では、バンダが2Fステージ両脇の客席の扉裏に配置され、閉戸の状態から、半開き、そして、全開放という三段階で、響きの距離が調節された。私の席からは下手側の様子がよく見え、その細かな演出も感動的に思えた。

それだけではない。目の前で聴いただけに、ひときわ効果的に響いたヴィオラのピッチカート。何の楽器を使っているのか、よくわからない不思議な音響も聴かれた。そして、対位法フーガの放つフォルムの美しさだ。やはり、宗教曲においては、どの時代のものであっても、古典的な表現の基本が身についているオーケストラが有利になる。それは東京では、新日本フィルと東響だけがもつアドヴァンテージだ。彼らだけが体系的に、時間をかけて、その極意を学んだ経験があり、やはり、他のオーケストラとは差がある。コーラスだけによるフーガも、そのクオリティではオーケストラに負けていなかった。そして、コアとなる’Dies irae’を締め括る「ラクリモサ」の最後で、「アーメン」に辿り着くとき、その飾らない美しさにホッとした。

ところで、ウルバンスキに代わった最初の演奏会で、私はヴィオッティについて論じたが、そのときに書いたことが、この公演でもよく響いている。例えば、チャイコフスキーの交響曲第4番について、「縦の突破力ではなく、楽器同士の関係を丁寧に拾いながら、ワイドにストーリーが展開していくオペラ的なロマンティックさが際立っている」と評しているが、曲目をかえても、この評言はバッチリと演奏の基幹を捉えている。ヴェルディのよく知られた作品であっても、このように細やかな関係を際立たせることだけでも、響きの鮮度は異なってくる。特に、歌手の声につけるオブリガートの輝きは、耳を惹いた。常にそれらの組織として、音楽が構成されているのがよくわかるのだ。ヴィオッティは、誰も一人ぼっちにしない。音楽は支え合ってこそ、美しく自律する。

私は、こうも言っている。「ロレンツォ・ヴィオッティの響きのコントロールは、一口にいってダイナミックである。ダイナミック・レンジも広く使うが、過去の巨匠たちのように、その伸縮には丁寧な段階を踏んでいて、自然な呼吸が感じられる」。これも、今回の演奏とよく符合するだろう。たとえオペラティックな表現になっていても、その部分がレクイエムの静謐な価値をすこしも損なうものでないことは、このような丁寧な筆致によって、初めて確かめられるのである。

当時の’Vltava’の演奏に関していえば、ロレンツォはターリヒやノイマンなどと同じく、「ゆったりしたテンポで麗しく始め、適度にアーティキュレーションを伸ばしながら、徐々に荘重なスタイルに育てていく」というスタイルに特徴があることを示している。これは正に、「レクイエム・エテルナム」から「キリエ」でのゆったりしたペースづくりと符合しているのではなかろうか。既に述べたように、その後の場面がいかに派手に飾られたとしても、この部分がもっとも印象的になるような形で、ロレンツォは音楽を彫り上げていく。ゆったりと。息をつめて。

こうしてみると、彼の音楽づくりにはどの曲目でもブレない、普遍的な手法があるようように思われる。

終演後は、この日の功労者である東響コーラスを讃えて、最後のひとりがはけていくまで、熱心な聴き手が舞台に拍手を送り続けていたのだが、最後にシャツ姿となったロレンツォが再登場して、指揮者のシングル・カーテンコールもが実現した。合唱の人数は多いが、彼らをオルガン席などに配置せず、すべて舞台上に置いたのは芸術的意図よりは、ひとつでも多くの客席を確保する興行上の苦肉の策であったように思われる。一方で、舞台をぐるりと取り巻く聴き手が熱心に拍手を送る雰囲気は、いかにも家族的な温かさを演出するものだった。すべてが、うまくはまったのだ。これが東響のよさであり、そのファミリーにロレンツォが加わったことは言うまでもない。特別な一日だった。

【プログラム】 2019年1月12日

〇ヴェルディ レクイエム
 S:森谷 真理 Ms:清水 華澄 T:福井 敬 Bs:鍾 皓
 chor:東響コーラス(cond:安藤 常光)

 コンサートマスター:水谷 晃

 於:サントリーホール

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