オペラシアター こんにゃく座 オペラ『遠野物語』 (吉川和夫、萩京子、寺嶋陸也:作曲) 2/16
【オペラ『遠野物語』の人間関係について】
オペラシアター「こんにゃく座」は今季の新制作として、柳田國男の『遠野物語』に基づくオペラを3人の作曲家の共作によって完成させた。吉川和夫、萩京子、寺嶋陸也という3人で、それぞれにインディペンデントな活躍が目立つクリエイターたちである。台本は長田育恵が担当。俳優座の眞鍋卓嗣が演出した。私自身はこんにゃく座の公演には初めて接するが、その水準の高さには驚いた。音楽、演劇(文学)、美術、照明などの諸分野における一級のスタッフが、この小さな舞台を支えているようだ。そして、国文学と民俗学、現実とまぼろし、いまとむかしの汽水域をめぐる『遠野物語』に、新たな光を当てる一作となった。
作品の中心にいるのは、遠野の語りべとして知られる佐々木喜善という人物だ。彼は医師になる名目で郷里を捨て、上京し、実は文士を志した若者だった。脚色は濃いが、実在する佐々木と、民俗学者として有名な柳田の関係、さらに、佐々木を柳田に引き合わせた流行作家の水野葉舟との関係が中心にくるオペラであるとは意外だった。柳田は文学者、民俗学の先駆けであると同時に、のちに枢密顧問官にまでなり、戦後は憲法の起草にも関係した官界の重鎮だ。日本人のルーツを明らかにするという使命には熱心だが、彼の功績に協力した佐々木や水野には十分、報いようとしなかったという設定。作家として認められたい一心で、佐々木は祖母に聞いた(史実では祖父)郷里の伝承を柳田に伝え、それをネタに執筆した柳田が功績を独り占めするという流れになっている。
実のところ、水野は早くから怪談ばなしに関心を示し、佐々木とも懇意だったらしいが、この劇のなかでは明確な描写がなく、佐々木とは一種の競争的な関係(ライバル)として描かれている。田舎から出てきた佐々木の出自や、文才のなさを見下す一方、汲めども尽きない話のゆたかさには嫉妬する部分もあり、次第に柳田と関係を深めていく佐々木に対して、水野は粗暴な態度をとっている。これが観たままの設定だが、もしかして、最初から水野と佐々木の関係ができており、ふたり企図して、気位のたかい柳田に無名の佐々木を近づかせたとするなら、また別の見方もできるのだ。その場合、のちに柳田と水野が遠野の佐々木家を訪ねる場面でも、やはり実際の歴史どおり、柳田よりも先に水野が遠野を訪れたことがあり、表向きは、さも初めて来たように柳田を誘いながら、彼が遠野に夢中になるような仕掛けを周到に準備していたという解釈も成り立つだろう。既に馴染みだったのだから、予め連絡をしておく必要もなかったのだ。こうした推論がすべて正しいなら、水野こそが『遠野物語』の、真の仕掛人だったとみることも不思議ではなかろう。
このオペラの筋では、佐々木と水野はともに柳田の弟子のようなものでありながら、佐々木は資料の収集家としてしか相手にされず、経済的には次第に破滅し、水野は性的スキャンダルの影響で、結局、ともに師から捨てられている。これら弱者の傍に住む民話の主人公たちが、佐々木の話などを通じて、現実にクロスオーヴァーしていく演出が巧みであった。
【弱者の立場から】
河童や座敷童といった象徴的な存在も登場するが、作品の3つのステージでそれぞれ登場する女性たちが、作品のモティーフのなかで、より重要な役割を重ねていることは見逃すことができない。
最初に登場するのは神隠しにあった村の長者の娘で、ある日、山中で知り合いとばったり再会するのだが、もはや山人と所帯持ちになっているので、帰ることができないという話。子どもを何人ももうけたのに、自分と似ていないということで、すべて夫に食われてしまったと告げ、相手を必死に逃がそうとする姿が胸を打つ。中間に出てくるのは同じく神隠しにあった少女のはなしだが、風雪の激しい折になると、ひょっこり家のそとに帰ってくる。変わり果てた姿で戻った娘とは話も通じるのだが、結局は顔を見にくるだけでいなくなってしまう。これも切ない。最後は喜善の母と関係する話とされ、津波で亡くなった女が訪ねてきては、婿入り前、懇意だった相手と、死んでようやく一緒になれたと告白するもの寂しい話。離れていても、子どものことは片時も忘れないという。いずれも、何らかの理由で家族の前から消失した女たちが、それまでいた暮らしに未練を残しつつ、姿や境遇は変わっても昔のまま、ただ新しい生活に埋もれ、帰ることは決してできないという点で共通している。これらの話を中心に、オペラのなかで語られる民話は、どれも人々のいのちと密接に関わっているだけに、重苦しいのだが、全体的には喜劇の風を採っており、笑える場面も多かったのだ。
それぞれの場面が示す民俗学的な意味合いや分類について、即座に把握し、理解することは難しく、そのための知識も十分ではないが、その裏に貼りついた何らかのメッセージを感じることぐらいは、誰にでもできるはずだ。柳田はその道の天才であり、佐々木から初めて話を聞いたときに、これは童話やつくりごとの類ではないと看破する場面もあった。遠野に伝わるあらゆる物語を、柳田はすべて実話という風に解釈していたようだが、実際、そのような話は女性や子ども、あるいは、ムラ社会のはみだし者、社会の発展から取り残された集落そのもののような弱い者たちの立場から、自然に生まれてきたものだったのではなかろうか。
【まざる形式】
作品序盤からストレート・プレイの部分が多く、これはオペラというよりは、ミュージカルやジングシュピールにちかいものではないかという印象が先に来た。別に、すべてが音化されている必要はない・・・そんな言い訳をしながら、作品世界を素直に楽しんでいたが、徐々に、このオペラの基本的な構造がみえてくる。明確な境目のない、ジャンルの混ざりあった形こそが、いかにも『遠野物語』に相応しいものであったのだ。こんにゃく座の公演はきっと、いつも、このような形が通常運転なのではないかとも思う。その証拠に歌役者たちは、かかる上演形式にふかく馴染んでおり、歌も演技も、同じように鋭く研磨されて、揺るぎない。ここからが歌で、ここからが演技であるという境は、無論ない。民謡らしきものも、オペラのような歌唱も、はたまた、レチタティーボにちかい言葉の朗唱も、あるいは、単なる台詞さえも、同じ鍋のなかで煮込まれている感じだったのである。
【3つの階層】
劇中に描かれる民話の世界には、いくつかの層を通って、現実から現実へと抜けていく筋があった。まず、①妖怪や魑魅魍魎、山人、神がかりなどの住む世界があり、②それと接触し、言い伝える者、③さらに、それを書き残し、後世に伝える者・・・という階層に分かれている。それぞれの世界に、独特の喜びと悲しみがある。佐々木は②に属し、柳田は③に属す。②と③は協力し合うようだが、その関係は微妙である。③の態度によっては、搾取にもつながる。実際の柳田はそこまで情のない人とは思われないが、この作品では出会いのころから、自分の原稿をみてもらいたい佐々木の意図を無視して、自分の関心の向く話ばかりをさせるなど、既に搾取の色合いも見て取れるのだ。だが、前半においては、水野がいわば悪役に収まっているおかげで、柳田はむしろ、寛容な聞き手であるようにも見えるのである。この流れで感動的なのは、『遠野物語』の原文をそのまま引用して歌われる乗合馬車のなかでの場面であった。ここでは乗り合わせた地元の客どうしのやりとりとも対比しながら、彼らの遠い先祖がつくりあげたといっても過言ではない『遠野物語』完成の経緯が、格調高い志を伴って、柳田自身によって語られる。彼の示した歴史的な業績が輝かしく響くとともに、音楽的にもクライマックスを構成している。
ところが、後半に入ると、柳田と水野の役割が反転してしまうのだ。それまで厭らしいエリート風を吹かせていた水野は、美味い飯のおかげで佐々木の祖母と意気投合するなど、徐々に佐々木のほうに寄ってくるのである。もしも、既に述べたように佐々木と水野が初めから結託していたのであれば、これは尚更、自然な流れであろう。彼らは互いに自分の本性を、この相手に向かってだけは赤裸々に告白しあっており、舞台の上でも、最後まで一緒にいる。柳田にもそうした場面が全くないわけではないが、水野はしばしば民話のなかでも役を演じ、佐々木のはなしのなかに生き、時折、本当の自分よりも魅力的に振る舞っているのである。
では、柳田の人柄がすべて悪堕ちするかというと、そういうわけでもない。馬車での場面に加えて、彼が日本人のルーツを探ろうと決意し、佐々木にも、その礎となれと勧める場面は、この人物がもつ独特のナショナリズムの深さ、そして、その志の大きさを象徴している。もっとも、自ら一端の文士として立ちたい志も捨てがたい佐々木としては即座に、礎の「いし」の音を拾って、「捨て石」になれというのかと反発する。先に述べた②と③の対立が、きわめて尖鋭に出た一場面である。佐々木のような立場にいた人物のなかで、柳田と同じようなクラスまで這い上がっていくのは、多分、南方熊楠のような巨人ぐらいのものであろう。その後、佐々木は地元でくすぶっているところを村長に担がれて私財を擲つ破目となり、借金を背負って、郷里を後にするに至る。中間に出た逸話を辿りながら、座敷童が去っていく表現で、佐々木の苦労が物語られていた。
そもそも作品は、座敷童たち「闇のもの」が住む田舎の境遇から遁れようとして、佐々木が郷里を捨てる場面から始まる。しかし、都会に出ても、佐々木は彼らの呪縛から外れられない、自分の内面と真っ向からはむきあえずに苦しんでいた。郷里の言葉を捨て去らず、きつい訛りをなおそうともしないのは矛盾した態度である。柳田たちとの関係が破綻に向かい、座敷童と抱き合う場面では、ようやく郷里への愛情と和解がなったかに思われたが、人間のレヴェルではまたちがう重荷もあって、最終的な和解は彼らが去っていく終盤の場面まで持ち越された。昨秋、日本各地に伝わる来訪神の伝統がユネスコの世界無形文化遺産に指定されるという話題もあったが、盂蘭盆(うらぼん)の時期、終幕に現れた来訪神のごとき、闇のものたちによる別れの舞は会場中を賑やかに練り歩き、作品の末尾ちかくを活き活きと彩った。
この作品の多くの部分は死と関係し、暗鬱だが、それでも随所に明るく、ユーモラスに展開されている。類似の音楽として、私が思い浮かべたのはエルベンの詩集に基づくマルティヌーのカンタータ『花束』や、ドヴォジャークの交響詩群、そして、歌曲集(もしくは弦楽四重奏曲)『糸杉』などである。このように魅力的な作品が、オペラとして連続していくのだから、娯楽的にも、この作品は十分、魅力的なのだ。歴史的な潮流からみれば、こんどの『遠野物語』は70-80年から100年ぐらいも遅れて生まれてきたことになろうが、それゆえ時代遅れであるということは適切でなく、こうして出会えたことに感謝したい傑作というべきである。
【エクリチュール】
作品は主要な3人の歌役者をはじめ、フルート、チェロと打楽器、ピアノによる小さなアンサンブル、数多くのコーラスと、場面ごとに登場する多彩なキャラクターによって成立する。音楽はきわめてシンプルで、ときに劇伴のごとく、たおやかにつくられているが、心理的な深い描写もあり、油断がならない。それだけでライトモティーフ的なものを形成する、打楽器のゆたかなメッセージ性も現代ならではのものだ。少ない楽器からシームレスに多彩な音楽が刻まれ、複雑な物語のミルフィーユ構造を支えていた。歌は東北弁が主体になっているものの、複雑な重唱を避け、訛りを用いていても、歌詞はきわめて聴きやすく、文脈から意味を汲み取るのにも苦労しない。そのため、柳田や水野が訛りがきついと佐々木やその母を詰る場面でも、私たちにとってはきわめて聴きやすく、台詞との矛盾を生じるほどだ。
東北弁以外に、いわゆる「標準語」や、『遠野物語』原文の文語調が混じっており、その多彩さにも驚かされる。原文を読むと、柳田は芭蕉の『おくのほそ道』をまねた文体で序文を示し、その末尾には俳句さえ認めているが、聞き書きの部分は箇条書きで、ニーチェのアフォリズムを模範にしているように思われる。そのため、序文を音楽にした場合、既述のように格調高い音楽(の歌詞)となることは請け合いである。ただし、そこには柳田の一種の諦念のようなものも感じられる。佐々木と同じように、柳田も文士としては、佐々木(筆名は鏡石)が心酔する泉鏡花や夏目漱石のようなスターにはなりきれない存在であった。それゆえ、「古典」を模倣し、下手に飾らない文章でよしとするのであった。また、芭蕉の生き方や、ニーチェの哲学のなかに含まれる諦念や、ニヒリズムのようなものと無縁ともいえないのである。
既に悟りきっている柳田の目からみれば、自分と同じく、文士としての風格がない佐々木が将来、大きく成長して、鏡花や漱石にもなれるとは信じられないのも当然である。そこで彼は先回りして、佐々木に郷土史家として、後世のためになる話の収集を勧めるのである。それは必ずしも、彼自身の功績のために、佐々木を利用しようというわけではないが、後続の世代からみて、そのように分別じみた忠言はありがたくないものだし、一種の侮辱と受け取られても仕方ない。
ところで、このオペラのなかで文句なく魅力的なのは、いくつかの場面で登場する活き活きとした民謡的な舞曲である。だが、ただ賑やかな音楽だけでは終わらず、そこから神秘的なオチが語られ、どこか受け止めきれなくて、胸に詰まるものを感じる流れが、幾度か繰り返された。前半では働き者の男がどこからともなく農作業の手助けに現れて、仲間を喜ばして去っていくが、実は作業が始まる直前、既に亡くなっていたとわかる話だ。中盤では幼い子どもが飛ぶように働き、農作業を捗らせて去っていくが、あとで少年の足跡を見つけて辿ってみると家の神棚につながっていて、ご神体の下半身も泥で汚れていたという話につながる。ヴァリエーションを経ながら、微妙にニュアンスを変え、観るものを丁寧に、ある感慨へと誘っている。既に何度か述べてきたように、こころ洗われる田舎の真実は明るく語り起こされ、キュウと引き締まる物悲しいリリックさで結ばれるのだ。
【連歌でつなぐオペラ】
今回の音楽は3人の共作ということで、私は1幕ずつ、作曲家たちが仕事を分け合うのではないかと考えていたが、実際には、もっと複雑な分担があったように思われる。3人のなかで、既にその音楽に触れたことがあるのは寺嶋だけだが、彼の音楽だと思われるものを拾っていっても、それは随所に分散していて、効率的に手分けしたような感じは窺えないのである。いわば連歌のような形で、作曲家たちがパートナーたちのこころを読みあい、世界をつないでいくのである。
この作品に描かれるのは3つの階層だというふうに論じたが、それはそのまま、時代的なものに対応している。話を収集し、書き留める佐々木ら3人の生きる時代が現代だとすれば、話のもとになった世界は昔といえる。昔とはいっても、「現代」とそれほど遠い距離があるわけではない。柳田などは、そのように考えた。そして、彼らが伝えようとした話をいまに聞く、未来の存在がある。脚本的にいえば、この話はかなりの部分で未来を照らしている。例えば、神隠しのはなしところで、私が想像するのは北朝鮮による拉致の問題だ。梨の樹下から神隠しにあった娘の父親は周囲に助けを求めるが、捜索に当たった村人たちは「神隠しならば仕方がねえ」といって、捜索を諦めてしまう。父親はそんなことを言わずに、探してくれと頼むが、誰も相手にしない。その結果、娘は雪女になってしまう。これは小泉政権で交渉が進む以前、保革のいずれにおいても、拉致問題と正面から向き合うことがなかった昭和の歴史と通じている。神隠しの先では、また新たな生活がうまれ、容易に抜け出すことはできないのだ。
そのように特別な事情ばかりではない。自然や気候に対する謙虚な向きあい方や、労働の素朴な喜び、家族の絆、助けあって農作業に励むムラ社会の温かい側面も、きっちりと描き込まれている。河童のところで触れられる夫人の扱いや、佐々木の借金の件でみられるムラ社会の抑圧や狭量さといったものとあわせて、民話には古い田舎社会が抱えた現実、あるいは、そこから持ち越された現代の因習の正体が幅広く描き込まれていた。柳田の期待する崇高なものよりは、このような形で、『遠野物語』は日本人のルーツや本質を確かに、その紙のなかに伝えたのであった。
民話はむしろ、弱者の側の暮らしの中から生まれたと思われる。自分たちではどうすることもできない力を受けたとき、なにか別の存在が及ぼした力として解釈すれば、いくらかでも慰みを得られるからだ。死や別れの悲しみのほかに、子どもや女性の抑圧、家族関係の不和、望まれない妊娠、天候不順や不作、為政者からの苛斂誅求、自然災害などが、そうしたものの原因となるだろう。民話を大切にするということは、そうした暮らしを大切にするということである。佐々木が上京する列車のなかで、腹を減らした少女に弁当を分ける最初のエピソードが、最後の場面で、誰かが饅頭をかじっていくエピソードと通じている。水野は「鼠か?」といってとぼけるが、多くの観客は憶えているはずだ。さとに帰りたい一心で、草鞋を脱ぎ、車外に飛び出してしまった、空腹の少女のことを。
これほどの傑作にもかかわらず、いくつか気に入らない場面はある。五七五で止めておくべきところ、七七を加えたような場面だ。それは例えば、佐々木の借金に関する場面のいくつかや、座敷童で家族がほぼ全滅したエピソードのなかで、後日譚として、ひとり残った孤児のところに親戚を名乗る人たちが訪ねてきては、家財道具を持ち出していってしまう描写などである。もっとも、先に連歌で世界をつなぐといったふうに、五七五/七七の構造で、作品は発展していく。ただ、そのなかに不出来なもの、あまりにも現実じみていて、詩情の伴わない句がいくつか、混ざったということにすぎないのではないか。
私が体験してきたなかで、この作品は指折りの傑作であり、少なくとも、最高級の力作である。民話と社会をシームレスにつなぐ作品としては、木下順二の戯曲に基づく團伊玖磨の『夕鶴』がよく知られ、上演も多いが、それよりは、遠藤周作の小説に基づく松村禎三の『沈黙』にちかいリアルさと、重厚さがあった。河童などのよく知られたキャラクターたちが舞台に遊ぶ、お伽噺のようなものにはせずに、それぞれに立場を伴った3人の人間による対話劇、心理劇のなかで、それらが息づくようにしたことも面白い発想だ。多くの面で、原作『遠野物語』の中身とは直接、関係ない描写もあるのだが、それにもかかわらず、そこに含まれる世界観や背景だけには止まらない、文章そのものの味わいや、その作品が示す本質的な要素をも巧みに拾い、生かされていることが感動的な作品だといえる。
【当て書のように】
主要三役は佐々木喜善役が北野雄一郎、柳田國男役が髙野うるお、水野葉舟役が島田大翼。北野はやや上ずった軽妙な声音を使い、好きなことには前のめりに突っ込むが、普段は意固地で、すこし抜けている複雑な人間性を、敢えての素人くさい演唱で、うまく演じていた。島田は演技の面で、いわば、もっとも演劇くさいオーヴァー・アクションがはじめ鼻についたが、その演じ方が水野のすべて仮面で覆われたような生き方に対応していることがわかってくるや、次第に気にもならなくなる。終盤ではそうしたものが抜けて、自然体の演技で水野がちょっとだけ、人間らしく変わったことを示している。髙野は演技面でも、歌唱面でも総じて質がよく、歌役者たちの模範となる存在だろう。柳田に相応しい。どの歌役者も当て書のようにフィットしていて、それぞれの良さを生かした舞台がつくられている点でも素晴らしかった。
【民話は消失したのか】
この作品に、教訓めいたものはない。結局、喜善はどのように生きるべきだったのか。その答えがないのである。少なくとも歌劇のなかにおいて、喜善は最後まで不格好に生きるだけだ。文士として立てず、話の収集者として腹を据えるでもなく、村長としては失敗し、家族もなく、天涯孤独で、郷里から仙台へと去っていくことになった。そんな喜善のもとからは、座敷童たちも退去していくほかなかったのだ。だが、喜善のあと、誰か要領のよい成功者のもとへ、彼らが移っていったとは思われない。喜善は、彼らとともに住む最後の住人だったにちがいないのである。もはや民話さえも、生まれる余地がなくなったのだろうか。社会と経済が発展し、弱者がいなくなったとでもいうのだろうか。そんなはずはない。ただ生きることの愚直さだけが、この作品を明るく照らすのだ。民話は依然として、私たちのなかにある。ただ、その声に耳を傾ける佐々木のような人物がいないだけである。
【プログラム】 2019年2月16日
オペラ『遠野物語』(台本:長田育恵)
作曲:吉川和夫、萩京子、寺嶋陸也
演出:眞鍋卓嗣
美術:伊藤雅子 衣裳:山下和美 照明:金英秀 ほか
於:俳優座劇場(六本木)
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