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2019年2月24日 (日)

マティアス・バーメルト(指揮) ブラームス 交響曲第2番 ほか 札響 615th 定期 (2日目) 1/26

【セレナータ・ノットゥルナ】

札幌交響楽団は尾高忠明、マックス・ポンマーにつづき、首席指揮者にマティアス・バーメルトを迎えて、今季から新しい挑戦に入っている。バロック期から現代に至る幅広いレパートリーをカヴァーし、それらをいずれも高い水準で構築する知的なマエストロだ。モーツァルトに代表される古典派作品への見識は、ロンドン・モーツァルト・プレーヤーズを率いた実績もあり、定評がある。また、音楽祭や、オーケストラのビルディングにも定評があり、その高い手腕は知る人ぞ知るところであるものの、日本での知名度が低いことでは、前任者のポンマーに勝るとも劣らないことだろう。今回、この組み合わせを初めて聴くことになったが、また、素晴らしい指揮者を連れてきたことは間違いなかった。

演奏は、モーツァルトのセレナーデ第6番「セレナータ・ノットゥルナ」で始まる。セレナータはイタリア趣味の伝統的な形式で、恋人を口説く男と楽士の一団が登場し、相手を呼び出して甘い恋歌を奏でる、そして、退場していくというオチがついた作品のことを指す。正しく、歌劇『ドン・ジョヴァンニ』のなかの有名なアリア「窓辺にいでよ」の世界だ。本作は2つに分けられた弦楽器群と、ティンパニのみによって構成され、管楽器を欠いている。弦楽器の第1群は弦楽四重奏だが、バロック期にはよくあったように、チェロではなくコントラバスが用いられ、第2群はティンパニと弦楽器で構成する。このように、前半の2曲は弦楽器と管楽器の独奏群をそれぞれ主軸とした、古楽的なコンチェルト・グロッソの形態で一致していた。フランク・マルタンのほうは1890年生まれの作曲家だが、新古典主義的な趣も窺われ、バッハをよく尊敬したということである。

モーツァルトの独奏者はコンサートマスターの田島を中心に、第2ヴァイオリン客演首席の藤原晶世、ヴィオラは廣狩、コントラバスは吉田の各首席というメンバーで、オーケストラ側のリーダーに大平まゆみが入っている。ティンパニはバロック型を採用し、バーメルト(もしくは打楽器奏者)のこだわりも窺えるが、ティンパニ入川の演奏は全体的にやや響きが拡散する傾向にあり、より拍の精確さをはっきり打ち出す叩き方のほうが構造的な美観がよく表れ、雰囲気に合っていたのではないかと思う。独奏群では第2ヴァイオリンの藤原が特にアグレッシブで、動きが多いが、軽妙な中にも、どっしりした田島や廣狩のほうが私の好みだ。吉田は控えめで、目立ちにくいバランスを選んでおり、あとのブラームスとはちがって、時代的なものに配慮した振る舞いと思われる。バーメルトは独奏群の響きにあわせたベースを徹底しており、ボリュームを抑える代わりに、歌い方の面白さにこだわっていたようだ。

終盤はかわるがわるソロが出て、コントラバスやティンパニも追従する。一通りの流れをおえると、軽いパウゼが空き、「次は誰?」「ボクじゃないです」「ワタシでもないです」「あ、これでおわり?」というコントを混ぜ、ユーモラスに締めていたが、一連のカデンツァは作曲のスキルも持つバーメルトが、この日のために書き下ろしたものということである。

【目の前にないものを形にしたフランク・マルタン】

2曲目は、フランク・マルタンの『7つの管楽器とティンパニ、打楽器のための協奏曲』だが、独奏者はすべて団員で、高橋(fl)、関(ob)、三瓶(cl)、坂口(fg)、杉崎(hr)、福田(tp)、山下(tr)に、ティンパニと打楽器が加わる。楽団の顔ともいえるこれらの奏者がこぞってお手並みを披露する楽曲は、その重々しい時代背景や、それを反映したアイロニカルな響きにもかかわらず、一種のサーヴィス・プログラムとなっている。マルタンは早熟の天才のひとりで、専門教育を受ける前の幼少期から、既に鍵盤を叩いて、それなりの演奏ができたという人物である。作曲に加え、母国スイスでは教育面や、演奏・実践と普及活動にも多大な貢献があり、同じスイス人のバーメルトにとっては身近に感じられる存在なのか、シャンドスからいくつかの録音もリリースした得意のプログラムとなっているのだ。

1949年に初演された本作は、ストラヴィンスキーの『兵士の物語』や、いくつかのバレエ作品と符合する内容ゆたかな作品といえる。WWⅡの間、スイスは中立国だったとはいえ、時代柄、芸術に多大なリソースを投入するほどの社会的な余裕はなかったことであろう。ストラヴィンスキーはマルチ芸術家のジャン・コクトオと組み、僅かな楽器の奏者と語り手、役者だけで出来る舞台作品を『兵士の物語』として発表し、当初は欧州中をまわるつもりでいたようだ。一方、マルタンの作品は舞台芸術とはいえないものの、随所にそれを連想させる響きをもっている。目の前にはないものを、彼はみごとに形にしており、ストラヴィンスキーの発想と根は同じである。

しかも、終結部分などにおいて、『火の鳥』や『春の祭典』と似たところがあるということには気づいていた。だが、思ったよりも、多くの部分で響きそのものが踊り、動的な関係を築いていることがわかったのは、実演で聴いたことの効果である。この作品が聴きたいがために札幌に来たのであるが、予想よりも、はるかに凄い響きがした。開始からほんの数音を経て、最初の独奏楽器が現れるのだが、そこまでの短い響きを聴くだけでも、この音楽がいかに精密に、考え抜かれたものであるかはよくわかった。それだけで、聴き手に多くのものを語る。ダンサーがひとり、セットのなかに出てきたのと同じだけの効果を与えた。ホールで聴くマルタンの響きは骨太で、充実している。打楽器とともに、主役を務める7本の管楽器がその中心にあるが、彼らは指揮者を取り囲むように前へ出ており、見かけ上も壮観である。だが、よくよく考えてみれば、オーケストラのなかで通常の編成に含まれる楽器を前に出したにすぎないともいえるだろう。この並び方ひとつによって、音楽はまったくちがう様相を呈する。新古典主義的な手法(コンチェルト・グロッソ)ともみられるが、アヴァンギャルドとの懸け橋ともなり得る、ゆたかな可能性を創出したのだ。

一方で興行的な魅力について考えてみると、この演目は日ごろ、弦楽器の後ろから華やかな響きを届けている奏者たちをより間近にみられる嬉しい趣向ともなっている。この日は木管族でリーダーとなるフルートの高橋が、アンサンブルの柱となる響きを図太く押し立てたのを中心に、そのなかで、その他の奏者も一流の響きで応じた。特に、私は2人の女性奏者、オーボエの関と、ホルンの杉崎に注目する。関はシャープだが、とても柔らかくアンサンブル向きの響きをしていた。杉崎は首席が海外で研鑽中のため、副首席待遇で試用中(その後、プロヴェーション期間をおえて正式入団)ながら、ソリストに入った。堂々としており、響きに安定感があって、金管自慢の札響にいよいよ厚みを加えてくれることだろう。

2つのプログラムは、キタラならではのプログラムともいえる。最上階にいて、どういった聴こえ方をするかは想像できないが、近年はよく選ぶようになった1階席に座る限りにおいて、札響の誇る弦管のトップ奏者の素晴らしさを再認識させるには十分なクオリティを示していた。また、こうした近現代プログラムに対する演奏家と、地元の聴き手の趣向についてはよくわからないが、少なくとも、この1曲を聴く限りにおいては、札響のふくよかで、ゴージャスなサウンドは、やや仄暗い時代を照らす音楽にもよく合っているように思えた。マルタンの演目を聴いていると、武満が贔屓にしたという札響の古い伝統が、人々の入れ替わりにも関わらず、色濃く受け継がれている事実に気づくのだ。それを生かして、尾高はブリテンのプログラムなどを積極的に柱としていったのだろう。

札響は同じく尾高のベートーヴェン・ツィクルスや、エリシュカ、ポンマーなどのピリオド的なスタイルによる薫陶を受けたせいか、古典的なプログラムの様式をよく体得したオーケストラの部類に入っている。優れたオーケストラ・ビルダーの敷いた路線を走って、組織として、あらゆる可能性を獲得してきた彼らの道筋そのものが財産というべきである。もっとも、客席の盛り上がりということに関しては、演奏のクオリティに相応しい賞賛が得られたとは言いがたいのであるが、それもまだ、端緒についたばかりだ。オーケストラと、聴き手の対話が始まろうとしている。来季のプログラムは、もっと多彩な呼びかけが仕込まれているように見えるのだ。札響の発信力は、増している。

【宗教曲のようなブラームス】

メイン・プログラムは、ブラームスの交響曲第2番の演奏である。この演目は、エリシュカとの演奏が、Altusレーベルで録音されてから間もない。当時は金曜の公演のあと、楽員どうしが自主的にミーティングし、2日目の更なる成功につなげたという特別なエピソードが生まれたことでも話題になった。いちど学び取ったスタイルを頑固に守り抜き、後の世代につないでいくことも、オーケストラにとっては大事なことだと思う。とはいえ、ブラームスの2番のような作品は、指揮者がその手腕を明らかにするときには外せない演目でもあろう。今回の演奏は、エリシュカのつくった音楽とはまた別の趣があり、まるでひとつの宗教曲のような佇まいであった。エリシュカも、楽章のおわりに吹かれる木管のロングトーンに想いを託すなど、信仰の誠を示してきたが、バーメルトはより徹底して、作品全体を神聖なものに変えたのだ。オーケストラの下手側半分、つまり、弦楽器の低音を中心とする組織の出す響きがオルガンの発するようなものにしか聴こえず、耳を疑う場面さえあった。

その独特な音楽づくりに、最初の楽章から完全に適応できる聴き手も少ないだろう。第4楽章から逆算して、リズミカルに進む演奏が多いと思われるが、バーメルトはまず、素材をひとつひとつ確認しながら、慎重にページを繰っていくだけだ。私がイメージしたのは、水彩画である。ひとつひとつのカラーが一本一本の糸のように、繊細に織り合わされて、優しげに広がっていくのである。また、事前にSNSで流れてきたテレビ放送の内容と同じように、強弱にも繊細な要求がみられる。その放送のなかで、バーメルトは音を間違うことと同じぐらい、強弱を間違うことも大きなことだと述べていたらしいのである。

それに加えて、構造の慎重な積み重ねも特徴のひとつである。ブラームスの交響曲第2番はコンパクトなシンメトリー構造をしており、ある部分では、最初の楽章から、最後のページを予見することができる。しかし、バーメルトは予定調和的な一致を避け、朝と夕では全くちがう風景に感じられるように、最初の楽章を落ち着いた筆致でスケッチしていくのだ。のちに用いる素材もはじめは無関係と思わせておき、ゆっくりと絆を育てていく手法のほうが、この作品のもつ味わいには相応しいのかもしれない。そのような部分も含めて、自分の想うイメージとはちがうと感じる部分は、多い。不思議な感覚で進むなか、ようやく盛り立ててきた響きが急に減衰し、再現部に差し掛かる部分できこえる金管の低い嘆きは、エリシュカのときの演奏を髣髴とさせる。ぴりぴりと緊張し、祈りのろうそくを静かに吹き消す。このように味わい深く仕上がっている部分を、バーメルトは感じ取っていて、それを生かした音楽づくりになっているのがわかった。第1楽章は先人の功績に捧げるかのようにして、控えめに、振り返るようなところもある演奏であった。

そして、バーメルトの知る神髄はこの日、第2楽章以降ではっきりと確認できた。既に述べたように、まるでバロック期の宗教曲のようであり、ブラームスの4つの交響曲の始原となった『ドイツ・レクイエム』ともっとも親和性が高く、古典的な振る舞いが目立つのだ。厳かで、深く、優しいメッセージに何度も慄くような演奏だった。ブラームスは1869年、この個性的な宗教曲を仕上げている。友人のドヴォジャークは、ブラームスが教会にもいかず、信仰が薄いといって驚いているが、『ドイツ・レクイエム』ひとつをみるだけでも、普通の人とはちがう形であれ、ブラームスが信仰の世界に対して真剣に向き合っていたらしいことは明らかだ。しかも、歌詞をドイツ語にし、伝統的な典礼の形式とは関係なく、ひとつの楽章に別の聖典からの言葉を組み合わせて歌わせるなどして、それまで全く類例のないものではないにしろ、『ドイツ・レクイエム』は斬新さの際立つものとなった。内面的なものと、楽曲の構造的なものをつなぐ、楽曲のDNA設計図が、交響曲のなかにもしっかりと共有されているのである。

今回のプログラムは、クラシック音楽における新しさ、つまりは、古いものに立脚する新しさについて、ふかく問うものだった。例えば、最初のモーツァルトの作品は「セレタータ」や「コンチェルト・グロッソ」といった伝統的な形式に基づいているものの、どこか清新な響きをもっている。フランク・マルタンも同じくコンチェルト・グロッソの形式を採用しているが、実際には通常のオーケストラに含まれる管楽器のパートを前に出しただけであり、そこから、まったく新鮮なイメージを与える魔法をかけたのだ。ブラームスは古典的な特徴が指摘されることも多く、保守的な作風というイメージがあるのに反して、例えばシェーンベルクは1933年、ブラームスの生誕100年を記念して、『進歩主義者ブラームス』という名の講演をおこない、その驚くべき才能に注目した。当時の人々に対して驚きを与えるに相応しい、非凡な表現を組み立てた作曲家。それこそが、ブラームスの正体だったのである。

さて、われらが札響とバーメルトの演奏はスケルツォに入っても、驚くべきことに、メッセージの穏やかさと純真さをほぼそのまま維持し、エネルギッシュな終楽章に至っても変わることがなく、終結に至る。最後は型どおり、堅牢に、堂々と響きを積み上げていくのだが、最後だけは括りを外した風船のように中身が抜けて、まるでブリュッヘンのオーケストラのようにバロック的な響きでおわったのには、腰を抜かした。こうして、モーツァルトからブラームスの時代まで、様々に変遷を経てきたはずの演奏スタイルが一本に貫かれたといっても過言ではあるまい。

【補助線】

補助線として、調性という要素が絡んでくる。フランク・マルタンについては無調とはいわないまでも、明確な調性を伴わない音楽であるが、モーツァルトとブラームスの曲目は、ニ長調(D-major)ということで共通している。さらに、東京公演で組み合わされたベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番は、その下属調のト長調で書かれているのだ。音楽家たちはしばしば、このようなトリックを仕掛けることを好む。なお、モーツァルトの作品では、「ハフナー」交響曲をはじめとして、多くの交響作品や、鍵盤ソナタなどがニ長調で書かれており、基幹的な調性であることが明らかと思われる。ブラームスの場合は目立って数が多いわけではないものの、交響曲第2番やヴァイオリン協奏曲といった代表作を生み出す基盤となっており、それなりの重みが感じられるのだ。

このような点からみても、真ん中にフランク・マルタンが置かれたプログラムは、かなり深いコントラストを刻むのである。時代的には、既にシェーンベルクの無調も広がりをみせ、アウシュヴィッツに散ったエルヴィン・シュルホフや、ギデオン・クラインのような若い作曲家であっても、それを無視できない時代になっていた。重苦しい犠牲を払いつつ、マルタンは1949年という難しい時代のなか、自分が作曲家として生き続ける意味を問わねばならなかった。そういった面での厳しさはあるが、作品そのものは瀟洒なバロック趣味にもなっている。このように矛盾したバランスさえも、音楽のなかでは堂々と謳歌できるのだ。

演奏会のなかに隠れたキーワードのなかには、「スイス」もあった。モーツァルトとスイスのかかわりはさほど深いものではないが、幼少期、父母に連れられて中西欧をまわった有名な「家族旅行」においては、スイスもコースに入っていた。ブラームスは、スイスのベルンにちかいトゥーンを気に入り、湖畔を散歩しながら、いくつかの傑作を遺している。スイスの人たちにとっても、身近な巨匠のひとりであろう。そして、フランク・マルタンはスイスの作曲家であるが、彼に影響を与えたストラヴィンスキーもまた、スイスと縁がある。彼を一時期、スイスへ招いたのは友人の指揮者エルネスト・アンセルメであった。やがて、ストラヴィンスキーとの関係は決裂したアンセルメだが、マルタンの優れた録音も残している。マティアス・バーメルトがこれら先達の走った道を追い、中核的なレパートリーとしていることは偶然ではなさそうである。そして、重要なことは、彼の新たなパートナーとなった札響が、これらの音楽を奏でるに相応しい特徴をもっているということだ。

なお、蛇足ではあるが、モーツァルト、マルタン、ブラームスは、いずれも幼少期から音楽に対する非凡な才能を示した点でも共通している。

正直なことをいえば、ブラームスの第3楽章の途中から、第4楽章のほぼ全てにおいて、私の目はひとりの奏者に釘づけになっていた。それは最初の演目でソリストの一角を担い、メインではバスの核となっていた吉田聖也である。ベートーヴェン「第九」での無茶ぶりのようなハイ・スペックの活躍のあと、バスの働きは一定の枠に入れられ、次第に簡素化する傾向にあったと思われる。ところが、ブラームスはバロック以来、作品の心臓部で踊りつづけ、尊敬するベートーヴェンで頂点を極めたバスの役割を復活させたのだ。吉田は若い世代では特に優れたバス奏者のひとりであり、そのパフォーマンスをみているだけで、楽曲の本質的な味わいに近づける。驚くべき身体の使い方、弓づかいの妙、そして、的確なフィンガーリングが交響曲第2番という宇宙船のエンジンを吹かす動力源となっていた。

【若い団員とのフェアウェル】

演奏そのものが素晴らしかったが、すべてがおわったあと、もうひとつの温かいドラマが待っていた。それは、楽団に10年以上にわたって在籍したヴァイオリン奏者、織田美貴子さんの退団セレモニーである。感極まり、涙ぐむ彼女を気遣って、バーメルトさんが自分の横に立たせると、こんどは笑顔になった。2007年の入団ということで、ほぼエリシュカの客演時期と重なっている。このような若い団員たちによって、地方のオーケストラは支えられている。やがて、札響から旅立っていく人もいるだろう。だが、彼らが楽団に捧げた貴重な時間こそが、多くの人に喜びを与えたことも忘れてはならない。こんどのようなプログラムは、そうしたことを感じ、感謝の気持ちを共有するステージともなり得るのである。

【プログラム】 2009年1月26日

1、モーツァルト セレナーデ第6番「セレナータ・ノットゥルナ」
 vn:田島 高宏、藤原 晶世(客演) va:廣狩 亮 cb:吉田 聖也

2、マルタン 7つの管楽器とティンパニ、打楽器のための協奏曲
 fl:高橋 聖純 ob:関 美矢子 cl:三瓶 佳紀 fg:坂口 聡
 hr:杉崎 瞳 tp:福田 善亮 tr:山下友輔 timp:入川 奨

3、ブラームス 交響曲第2番

 コンサートマスター:田島高宏、大平まゆみ(モーツァルト)

 於:札幌コンサートホールKitara

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