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2019年3月 5日 (火)

アンサンブル・ノマド バッハを越えて 「超える」vol.3 2/23

【総決算】

アンサンブル・ノマド、今回の定期公演は「バッハを越えて」というテーマで、様々な典礼作品、祈りの音楽が組み合わされたコラージュ的な演奏会がつくられたが、それは中心となるバッハの『ミサ曲ロ短調 BWV232』からの断章を含む25のパーツから組み上げられた、至極、複雑なものであった。キリスト教カトリックだけではなく、東方正教、ユダヤ教、イスラーム等にまつわる伝統的な音楽(もしくは音楽のようなもの)が集められた一方で、作・編曲はここ数年中というものも少なくなく、伝統的なものと、新しいものが自由に行き交う活気のある音楽の風景が描かれた。また、ジャンル的にも日常の祈りの呼びかけに用いられる経典の読誦から、ミサ曲のような典礼にまつわる音楽作品、ターン・テーブルや電子音を用いたノイズ・ミュージックによる即興的な演奏、ラッパーによる自由なパフォーマンス等を含めて、越境的なものとなり、レビューを組み立てるのも簡単ではなさそうだ。

ディレクターである佐藤紀雄だけが繋ぎ合わせられる、様々な知恵と発想、それに「縁」がこの機会にひとつところへと集められ、「バッハを越える」という不可能にも思える課題のために用いられたのだ。正に、この公演はノマドが旅してきた歴史そのものかもしれない。近年は藤倉大の監修する「ボンクリ・フェス」でもホスト的な役割を果たし、あらゆる公演を通じて、つないできたものが、ここに溶け込んでいるのだ。あいにく入りきらなかったものも、節々に思い出させた。例えば、佐藤が「うたほぎ」という企画で共演を重ねる吉川真澄さんの特殊な歌唱や、奄美の朝崎郁恵さんの伝統をブラッシュアップする精力的なパフォーマンスなどである。また、これまでノマドとの共演はないが、ルネサンス・バロック期の声楽の専門であるフォンス・フローリスに属するアンサンブルとの共演も面白いかもしれない。ゲーム的な要素や即興、繰り返し、編曲ものの味わいなども含めて、ノマドは境界を越えた音楽の紹介と、再創造にエネルギーを傾けてきたグループだが、私もまた、それらの体験をひとつひとつ振り返りながら聴いていた。

【厳粛さとユーモア】

すべてはJ.S.バッハ『ミサ曲ロ短調』より、荘厳な「キリエ・エレイソン」の断片から語り起こされる。冒頭1分にも満たない本当に短い部分だけで、ユーモアたっぷりに奏でられた。この公演の全体にわたって、見逃せない働きをする声楽「アンサンブル小瑠璃」のメンバーは、いずれもバッハ・コレギウム・ジャパンでも活躍するなど、正統派の歌い手たちによる集団である。もっとも、スピン・オフして、「本体」とはまた異なった歌唱スタイルを探求する声楽家たちともいえそうで、こんどのように角度を変えたパフォーマンスにも活き活きと対応してくれた。演奏家側では、とりたてて面白がらせる意図もなかったろうが、短い楽句を包む分厚いハーモニーに、声楽家は厳粛な中にもアイロニカルなメッセージを忍ばせ、オルガンの代わりに、ピアノやマリンバが加わって、若干、トロピカルな音色も加えられるあたり、意図的にユニークな音響を工夫する要素も僅かながら感じられたのである。

【だぶだぶの服】

異質なストリームに面白みを感じながらも、まだまだ懐疑的なところもある客席に対して、最初のパンチを喰らわしたのが、ラッパーのダースレイダー(DARTHREIDER)であった。一昔前は、ラップというとアメリカの黒人ミュジシャンによる専売特許と考えられた。日本語でそれをまねする表現もなくはなかったが、あまり格好の良いものとはみなされず、ORANGE RANGEの『花』がヒットするなど、数少ない例外があるだけだった。社会的な認知度も低く、かえって、反社会的、低俗なパフォーマーによる、ごみくず同然の音楽という偏見にもさらされてきたものだ。近年は若年層を中心に、ひろくヒップホップの音楽的価値や、クオリティが認知されるようになってきた。夜の駅などで、日本語のラップを練習する若者たちの姿を見ることも珍しくはないだろう。ダースレイダーは日本語ラップを早くから盛り上げてきたパイオニアのひとりで、一般的なラッパーのイメージから外れた高学歴という点でも注目を集めた。もっとも、今日、彼が若手のラッパーから「叔父貴」と慕われてリスペクトされるのは、彼のつくる圧倒的なパフォーマンスのクオリティと、優しく、冗談のわかる人柄によるものと思われる。

このダースレイダーが、アンサンブル・ノマドの公演に「和田礼」の本名で出演したのは、10年ほど前のことだったろうか。ジェフスキの”Coming Together”でみせた圧倒的なパフォーマンスは、実は投稿動画サイトでもみることができる。あまり強調すべきことでもないが、彼は数年前、余命5年と医師から宣告されたという。一方、前回と比べれば、彼自身のステイタスもはるかに高く上がっているなかで、貴重な時間を、ノマドのようなグループのために使うのは我々にとって、稀少な機会だといえそうである。最初の”Dub Dub”(と本人が書いている、プログラムでは”DABU DABU”と記載)はだぶだぶの服には何でも入れられるという言葉の遊びがモティーフになっており、一定のビートに従い、機関銃のような即興芸で様々な言葉をだぶだぶの服にぶっこんでいく形の、単純だが、拡張性の高いパフォーマンスとなっていた。

ラッパーの自由な感性は様々な「からだ」や、家族の世界をそのなかに組み入れるだけでなく、対立する国々や地域ナショナリズム、地球上のあらゆる問題から始まって、それらを離れ、ついには宇宙へと飛び出し、NHKのニュースがトップで取り上げる大ニュースである「りゅうぐう」の話題も入り込んでくる。我々の生活からすれば無意味に思えるものの、間違いなく偉大で、奇跡的な成果という点で、これに注目したダースレイダーの視点は、この日のプログラム全体を照らし出すものだ。彼の音楽や、日々の言動を追っていくと、ひとつのイシューに対して、異なる見方を徹底して排除しない特徴が見てとれる。「りゅうぐう」についていえば、その成果の大きさと、放送局などがそれを過大に取り上げる意図をちゃんと見抜いているにちがいなかった。彼の歌い方で、それがわかる。

それはそれとして、言葉の感覚というラップ・ミュージックの本分について言うならば、「りゅうぐう」というポップな文字列を出すだけでなく、「りゅうぐうに降り立った、その土も入れられる」というような表現にしている点が面白みを増しているように思う。序奏的な部分の音楽的表現は、のちに現れるイスラームの音楽や、ノイズの表現などと無関係ではない。2本のマイクを使い、こなれた仕方で一筋縄ではいかぬ音響世界を瞬時に生み出していく彼の音楽の素晴らしさには、思わず涙ぐんでしまう。今井慎太郎と大友良英がつくる波はマリブのサーフポイントのように自然で大きく、ときに神秘的で、これに乗り、フルート、サックス、トランペット、エレキ・ベースで張り詰めた音響を盛り上げていくクラシックの音楽家たちの凄まじい動きも見逃せなかった。ベースの奏者(佐藤洋嗣)はラップとの共演では上着を脱いで、ノマドのロゴ入りTシャツで演奏するという小粋なパフォーマンスをみせる。

だぶだぶの服に好きな言葉を入れていくだけでなく、ダースレイダーは客席に向かって、こっちに入ってこいと呼びかけることも忘れない。もしもこれが、現代音楽のコラージュ的な内容の一部ではなく、一体感のあるヒップホップのライヴ空間であったとすれば、その言葉に鋭くみんなが反応して、いっそう盛り上がったことは言うまでもない。3曲目にして、我々はこの公演がどのようなものであるのか。その一端を理解した。どうやら、この公演そのものがだぶだぶの服なのだ。そして、我々はそこに入れられるものをただ見ているだけではなく、ある程度、自分から入っていく要素も必要らしかった。

【越境的なパフォーマンスから前半のおわり】

このあとはしばらく・・・といっても、6番目のペルトを除き、短い引用句がシームレスにつづけられ、再び8-9曲目に越境的な印象ぶかいパフォーマンスが配置される。今井慎太郎の『可聴風景』は渡辺裕紀子『空中ブランコの閑』と連続して語り起こされ、コンパクトな2連のターンテーブルに何らかの仕掛けを施した大友良英のパフォーマンスが奇術のように、謎めいて響くのにも興奮を覚える。

代々木上原にあるモスク(東京ジャーミイ)でイマーム(聖職者)を務めるトルコ人、アラス・ムハンメッド・ラーシッドによるアザーン「礼拝への呼びかけ」は、周囲の「作品」とはまた別の意味をもった音楽的な象徴(トーテムポール)として聴かれる。その精確な意味は私の知るところではないが、単純に、その発声の巧みなことに驚き、特に名人芸のようなファルセットと地声の切り替えの自然さや、それらの完璧な型がつなぐ奥深い構造には、普通ではない、掘り下げられた感慨を抱くことになった。そのみごとなコントロールを聴くと、普通ならば上手に聴こえる歌い手の表現も、しばらくストンと落ちてこないのを感じたほどだ。一旦、『ミサ曲ロ短調』に戻り、前半を締めるニカイア信条とクレドの最終曲は、古楽アンサンブルのクオリティをまねながら、序盤のユーモアを重ねたものになっていた。

【空間の拡張】

後半は木ノ脇道元の編曲によるバッハの BWV1006-1、つまりは、『ヴァイオリン・パルティータ第3番』のプレリュードによる自由なパラフレーズで始まり、指揮者が交代して、大友の即興的な指示に演者が応えるインプロヴィゼーションが、予想どおりに象徴的なシンボルを打ち立てた。ここでもダースレイダーが登場し、器楽の演奏家たちと、こんどは幾分システマティックな対話を繰り広げる。続くヤコブTVの曲のアレンジも電子音とサクソフォンの共演に仕立てられ、ドラマティックに響く。もっとも、男たちの定型的だが、多彩さに満ちた、意味はよくわからない声の響きがつくる「ドラマ」はブルースの空間に漂うなか、何らかの生活の声を描くとみえて、響きは甘く、活き活きとしているだけではなく、ときに痛みや苦痛を思わせるものもあり、多義的に聴こえる。

ラヴェル『2つのヘブライの歌』は比較的、よく歌われるが、この流れのなかではまったく別の曲のようにも聴こえる。高橋ちはるの歌唱は発声がふかく、特別に落ち着いた雰囲気をつくる。ユダヤのカディッシュから東方正教会の聖歌に遡り、こちらはややポップに生まれ変わったブルガリアの演奏家、アタナス・ウルクズノフの編曲を、藤崎美苗がすっきりと歌い上げる。再び藤倉の作品によるやや毛色の異なる簡潔なメッセージを経て、この日のシーケンスで間奏的ながらも、しなやかに構造をつなぐ間宮芳生のエチュードに挟まれながら、ダースレイダーによる2曲目のリリック『神殿』が披露された。

前半の”Dub Dub”がイスラームのアザーンと対応し、寛容性や呼び込みの作品であるとするなら、『神殿』は出会いから脱出、別離というテーマにつながる作品で、ヒップホップらしい即興的な揺らぎの余地は残しながらも、よりカッチリしたリリックの組み立てられた佳品である。ダースレイダーもこの曲ではタブレット端末を確認しながら、慎重に言葉の構造を整えていった。彼はこの曲においても、世界を広げる工夫を忘れない。①神殿に魅入られ、留まるものと、②もう朽ちている、危険だと訴える側の両方の世界を同時的に存在させているからだ。「誰か教えてやれ、まだ間にあうかもしれないから!」とラッパーは「警告」を繰り返す。「まだ間に合うから」という断定ではなく、「~かもしれないから!」と曖昧にすることで、いくぶん対象から距離をとる一方、それによって、言葉に対する不思議な一体感が生まれる。また、ジェフスキのときにも感じたことだが、後半に入ると、言葉を日本語から英語に切り替える変奏がおこなわれ、それだけで、新たなイメージに彩られた異空間が生まれたのだ。ただ外側に出ていくというだけではなく、世界を広げ、拡張するというメッセージもありそうだ。

【錨を下ろす】

このパフォーマンスによって、私たちは次第に、船が岸に近づいていることを知ることになった。重い錨を下ろすのは、再びアラス・ムハンメッド・ラーシッドが読誦するクルアーン(コーラン)の一節「部屋」の響きである。この断章が経典のなかで、どのような意味をもつのか、イスラームの信仰に対する知識があまりにも足りない中で、論じるには無理があるだろう。だが、非常にエモーショナルな章だ。声高に意味づけ、批判し、争うことを窘めて、教えに忠実なことを勧めるようだが、それを読誦するとき、淡々とした中にも、なにか燃え上がるような決然とした響きもある。この解釈は、まったく的外れかもしれない。しかし、私としては、ダースレイダーによる前半の”Dub Dub”+アザーン「礼拝への呼びかけ」と、「部屋」が前後で、シンメトリカルにきれいなアーチ構造をつくっているように思えた。

そして、最後にはノマドが得意とするエベルト・バスケスの『星』から、バッハ『ミサ曲ロ短調』終盤の独唱部をしめやかに語り、つづいて、一旦、袖に下がっていたコーラスが再び入場しながら歌うトリッキーなパフォーマンスで、平和を願う(偽)終曲の”Dona nobis pacem”によって結ばれる・・・かと思われたが、やっぱり、それだけではおわらずに、星谷丈生の『夜曲』が置かれて、いびつな三位一体のつくりが結尾に構成されたのである。星夜の寒さに船が繋ぎ止められ、神業としかいえないコラージュ作業を無事におえたイメージが形づくられたようだ。星谷の作品は多分、この日のための特別な編曲で、演奏家たちは最後に、ハイドンの「告別」シンフォニーのような形で、ひとりひとり舞台を後にしていく演出であった。この工夫自体は面白いが、音楽そのものがそのギミックにかき消された印象も拭えない。

だが、私にはこの結末がなんとなく、前もって見えていたような気もするのだ。その伏線としては、合唱団が『神殿』のあと、最後となる間宮のエチュードを歌ったあとに、一旦、脇に下がったことがあった。バッハのところで合唱団が戻るのはキリスト教における重要な教義「復活」へのオマージュとみられるが、それでも十分にユーモラスなものである。デウス・エクス・マキナの伝統芸に追従する。これをさらに、「告別」のギミックで塗り替える発想はなかなか出ない。しかし、私には「やっぱり」という印象もあった。もしも、このような感覚を抱くことそれ自体が意図されたものならば、空恐ろしいことだ。さて、このステージには大友も参加していたが、彼が去るときに唯一、残された静かな、しかし、絶え間ないノイズ音だけが最後まで空間に残留し、世にも不思議なパフォーマンスが暗示的に終わった。

【信仰とコラージュ】

一夜限りのフェスティヴァルのような公演だったが、実に多彩なインスピレイションを残した機会となった。私たちはこれらの音楽を通じて、信仰のある部分について知ることができる。もっとも、それがすべてということはあり得ず、その裏に深い秘密が連綿と刻まれているのだ。これは実に、音楽とよく似ている。我々が耳にできるものは、音楽が刻む秘密のうち、ごく僅かなものだ。本当の秘密は、楽曲を細かく解析して、調べたり、実際に演奏してみないとわからない面もあるだろう。一方で、演奏によって可視化されたものだけが、聴き手に影響を与えることができるということもいえなくはない。私たちは、このバランスのなかで悩むのだ。信仰についても、例えば牧師が信徒に対して、聖書のすべてを読み聞かせるわけにはいかない。牧師がいつ、どの部分を、どんなふうに伝えるかは、ひとりの聖職者による一種のコラージュ的技法であるともいえる。

ある部分を強調しすぎることで、信仰を誤らせる可能性もある。だが、反面、優れた異端だけが新たな世界を切り拓くということも言えるだろう。例えば、イエスが存在したとして、彼はユダヤ教のなかに生まれた異端であった可能性が高い。もちろん、そのような言い方は信仰的にみて、正しい知見ではないだろう。キリスト教的にみれば、神のご意思がかつてはアブラハムやモーセに現れたところ、こんどは、その子であるイエスに顕現したというだけのことにすぎず、イエスが旧教を改革したわけではない。基本的にはイスラームも同じ神をアラーと呼んでおり、聖地は共通していることも面白いのだが、そのことが信仰の歩み寄りではなく、かえって現実的な難しさを生んでいることは周知のとおりだ。その問題は幾度も厳しい争いを生むことにつながり、いまも解決していない。もしも、人々が当夜の音楽のように、互いが互いの立場を認めて、ともに生きることを選ぶなら、何の問題も生じないはずだ。音楽は土地や財産とはちがって、簡単に分け与えることができる。

しかし、実際には、音楽的なコラージュもまた、大論争を生む火種であった。ノマドのこの日の公演が成功的にみられるとしても、それはある種、限られた信徒のなかでだけ通じるものであって、そのいびつさや、理解しにくい形や構造、響きの違和感なども、簡単に受け容れられるものではない。この日、新国立劇場で行われた歌劇『紫苑物語』の公演・・・オペラでは不必要に言い換えられていたが、原作のなかに「血のちがうもの」というキーワードがある。芸術は正に、現実の中から、「血のちがうもの」を生み出すことで人々に驚きを与え、発想を変えることを強いる。ダースレイダーや大友良英、イマームがうたう響きは露骨に、クラシックとは「血のちがうもの」である。これらの要素は、この日のパフォーマンスになくてはならないものだったが、間に挟まれた小さなコラージュのすべても、なくてはならないものだった。

書き手の非力により、これらの複雑な構造を実現させた演奏家たちの努力について、十分に書けないことは惜しいことだ。例えば、ラッパーとの自由なセッションでも、しばしば、クラシックの演奏家は即興に弱いと言われるところからすれば、まったく縁遠い柔軟さと、図太さをみせた。バッハでは古楽アンサンブル風の響きをベースにしながら、敢えて現代的なカラフルさも加えて、「血のちがうもの」を共生させる。序盤のコラージュのなかで、実に6分を占めるメイン曲のひとつに選ばれたペルト『何年も前のことだった』では、ヴァイオリン(野口千代光)とヴィオラ(甲斐史子)の二重奏の聴かせる深い和声が、アルト(カウンターテノール)の青木洋也よりも雄弁にうたい、渡辺裕紀子の簡潔な作品につなげている。それがこのシーケンスのクライマックスを構成する今井慎太郎のエレキ・ワークと、アザーンへと結びついていくのだから、そのパフォーマンスの重要さが窺われる。

しかし、彼らはあくまで黒子として、音楽を静かに奏でるだけだった。むしろ、そこにこそ、敬意を払いたいと思うのである。

【プログラム】 2019年2月23日

〈前半〉
1、バッハ アダージョ~『ミサ曲ロ短調 BWV232』(1.キリエ・エレイソン)
2、間宮芳生 合唱のためのエチュード Ⅳ
3、ダースレイダー Dub Dub
4、藤倉大 世界にあてた私の手紙~『世界にあてた私の手紙』
5、間宮芳生 合唱のためのエチュード Ⅷ
6、ペルト 何年も前のことだった
7、渡辺裕紀子 空中ブランコの閑
8、今井慎太郎 可聴風景
9、アザーン(礼拝への呼びかけ)
10、ディエゴ・ヤスカレヴィチ キリエ~『ミサ曲』
11、バッハ アダージョ~『ミサ曲ロ短調』(17b.エト・エクスペクト)
12、バッハ 『ミサ曲ロ短調』(9b.クム・サンクト・スピリトゥ)

〈後半〉
1、木ノ脇道元 ”BWV1006-1”のためのパラフレーズ
2、大友良英 インプロビゼーション・スウィッチ・オン・バッハ
3、ヤコブTV シラクーザ・ブルース
4、ラヴェル カディッシュ~『2つのヘブライの歌』
5、東方正教会聖歌(アタナス・ウルクズノフ編)
6、藤倉大 幼子の喜び~『世界にあてた私の手紙』
7、間宮芳生 合唱のためのエチュード Ⅴ
8、ダースレイダー 神殿(Old Temple)
9、間宮芳生 合唱のためのエチュード Ⅱ
10、聖クルアーンの部屋の章(アル・フジュラート)
11、エベルト・バスケス 星
12、『ミサ曲ロ短調』(22.アニュス・デイ)
13、星谷丈生 夜曲

 於:東京オペラシティ(リサイタルホール)

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