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2019年8月

2019年8月30日 (金)

ヤナーチェク 歌劇『イェヌーファ』 演奏会形式 イェヌーファの会(主催)

【2017年からのアップグレード】

2017年に第7回「ヤナーチェク・ナイト」で披露された『イェヌーファ』の形式は、予想以上に多くの実りを与えた。イェヌーファとコステルニチカの養母子に、ラツァを加えた3人だけのキャストを用意した抜粋で、司会メンサー華子がストーリー・テリングを担い、伴奏はピアノに、一部、シュテヴァが歌うはずのモティーフを演奏するなどの目的でヴァイオリン1本を加えたものにすぎなかったが、どうして、その成果は素晴らしいものだった。関係者はそれに満足せず、2年後にキャストをすべて揃えた全幕上演を実現した。ピアノとヴァイオリンに加え、今回は歌劇のなかで、同様に重要なモティーフを担うシロフォンを追加。新国立劇場(2016年2月にイェヌーファを上演)スタッフの城谷正博が指揮に加わり、演出家の粟国淳が全体のステージングをサポートする立派な公演へとアップグレードされた。東京文化会館の小ホールは、ほぼ満席にちかく埋まった。

前奏曲の冒頭から不安のモティーフとして鳴るシロフォンの響きが加わり、ヴァイオリンのモティーフも頻繁に奏でられる第1幕の音楽的構成は密度が高く、室内楽的に完成している。2年前の公演から、上記の三役は変更せずに上演できたことも大きい。加えてブリヤ家の女主人は当役ではお馴染みの与田朝子で、イェヌーファ、ラツァとともに、序盤の展開をソツなく埋める。題名役の小林厚子は前回の公演で特に印象的な存在であったが、今回はさらに深みを増した歌唱で、役に馴染んだといっても過言ではないようだ。その見せ場はなんといっても第2幕にあるが、その模様については後述する。

ラツァ役の琉子健太郎は高音が詰まり気味になり、居丈高に振り下ろすような声になってしまうときがあり、技術的にはいくつかの課題があったものの、内面的な表現には優れている。彼が魅せたのは第1幕のおわり、ラツァがイェヌーファの頬を傷つけてしまう場面で、直後に動揺して、彼女の名前を連呼するとき、一瞬だが、深い愛情を示すところだ。彼の行動はいわば元カレによるストーカー行為に値し、自分自身が難しい状況に陥った後であるとはいえ、イェヌーファがみずから彼の行動を赦し、共に歩み出すまでの過程は現代人にとって疑問が多い。粉屋の親方などは、ラツァがわざと刃傷に及んだと思っている。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。ヤナーチェクはオペラのなかで、多義的に解釈できる要素を多く入れるのが特徴だ。ラツァにも弁護の余地はある。

【ラツァによる刃傷の意味】

仮にコステルニチカを神であるとすると、そして、また、イェヌーファがイエスであるなら、ラツァとシュテヴァはそれぞれユダとペテロに値する。面白いのは、ヤナーチェクがユダに同情的である点だ。神(コステルニチカ)は自らと、イエスを拒んだペテロをふかく憎み、実際、ともに沈む。これと比べると、ユダはイエスを傷つけたにもかかわらず、最後にはすべてを正しい方向へと導くのだ。まるで、ユダがもっともイエスをよく理解した使徒であり、イエスが特に彼を選んで裏切りを指示したという、グノーシスの一派『ユダによる福音書』を遺したグループの考えにちかい解釈ではなかろうか。ラツァが暴力によってイェヌーファを裏切った、その瞬間にこそ、最高の愛があるのだ。その後の物語は、これを読み解き、確認していく過程にすぎないともえいえる。

この愛について、私はこれまで、何回か接した『イェヌーファ』の公演では気づくことができなかった。むしろ、そこにあるのは生煮えの素材であり、その後、熟成していく想いの、尖った欠片のようなものにすぎないと感じていたのだ。人間は成長するという単純至極な見方によって、このような解釈は容易に根づきやすい。だが、現代的にみれば、女性の側からみてラツァによる刃傷は許しがたく、後戻りのできないものにみえるだろう。それならば、やや出発点が複雑なものにはなるものの、ラツァの行為がもともとイェヌーファの訴求によるものだとすれば、矛盾はずっと小さくなる上に、第3幕の台詞などにもよく整合する。

もっとも、この日はプレトークでピアノ版で披露された序曲『嫉妬』が作品冒頭に置かれていたことから導かれる解釈を重くみており、序曲が最終的に破棄されたとはいえ、音楽的モティーフからみても、異父弟に対する嫉妬がラツァの刃傷にとっての起因であったことも疑いがない。このオペラがヴェリズモ的な単純さを示す印象もまた、否定できないのだ。作品に描かれる心理的に複雑な過程にもかかわらず、ラツァだけではなく、コステルニチカも衝動的な行動をとる。第2幕でシュテヴァへの希望がほぼ完全に絶たれたのち、次に期待を賭けるラツァがシュテヴァの子を育てねばならないのかと嘆いた瞬間に、彼女はまだこの世に在る嬰児が既に亡き者であると断言してしまうのだ。この場面には息を呑む。この決定の裏にはシュテヴァへの深い憤りや、自らの立場を守りたい社会的な防衛本能が働いているにちがいない。しかし、よく見てみれば、ヤナーチェクはそのような衝動だけでは、人は動かないと断じているのである。第3幕でみられる、コステルニチカの自己分析は正しくない。やはり、これは打算的なものよりは、愛情に導かれていると思うほかない。人々は他者への特別な愛情のためなら、罪をも犯すだろう。

【イェヌーファは夢の中にいたか】

全幕上演に変わり、イェヌーファ&ラツァの関係だけに止まらず、もっとも存在感を増すのはコステルニチカであった。ベテラン歌手の森山京子は2回目の上演で、いっそう強烈な役づくりを披露したが、それでも音楽や技術のフォルムが一向に崩れないのはさすがというほかない。赤子をおくるみに包むような仕種をみせたあと、舞台のやや前方に進み、まるで歌舞伎役者のような大見得を切ったあとで、裏に消えていくときの迫力は一種のトラウマになりそうなほどだ。こんな強烈な「打算」などあるわけがない。G.プライソヴァーが事実に基づいて仕立てた戯曲『あのひと(女)の養女』を、ヤナーチェクはほとんど変えずに使ったそうだが、それにもかかわらず、音楽や構成の妙により、強烈な異化が生じている。

第2幕はコステルニチカの決断と、つづくイェヌーファの夢遊病的な「狂乱の場」が対応的に書かれている。彼女は聖母マリアに祈り、美しい晩祷が旋法的な響きで歌われる。ここでイェヌーファは、コステルニチカと同じ(そして、マリアとも重なる)母としての格を獲得するのである。今回の舞台は照明をうまく使い、第1幕を夕べの薄暗さ(むしろ明るみ)のなかに、第2幕はより深い暗闇、そして、第3幕でやや光量を上げて描き上げる工夫をみせた。粟国淳がそれ以外でアイディアをみせたのは、コステルニチカとシュテヴァの会談が決裂し、シュテヴァが逃げ去っていく場面で、裏から姿を現したイェヌーファが母と声を合わせて、シュテヴァの名を呼ぶところである。このドキリとする場面は、またも解釈を複雑にする。既述のように、コステルニチカは嬰児を亡き者にしようと連れ去ったあとで、イェヌーファの独白が始まる。これが、まだ夢のなかである可能性が露骨に生じたのだ。実際、第3幕でコステルニチカはイェヌーファが数日、目を覚まさなかったと言っている。それは普通、咄嗟にでた嘘だと思われるのだが、事実と受け取った場合には、当時のイェヌーファは夢のなかで歌っていたことになるのだ。

その後、イェヌーファは夢心地から醒めて、帰宅したコステルニチカ、使いから戻ったラツァと話す場面があるのだが、やや強引ではあるものの、これもまた夢として解釈してみるとしよう。すると、イェヌーファは第1幕の最後から、ほぼ直接的に第3幕の結婚式に飛んだことになる。その間に起こった、様々な逸話については省略されているのである。ここで重要になるのは、第1幕で示されたラツァの深い愛情だ。それが明確ならば、結婚式の場面も決して矛盾とはいえない。この詩的な跳躍は、私の気に入るものだ。粟国やキャストたちが、それをハッキリと意識したかどうかはわからない。だが、私にはもうひとつの道がみえたのだ。

【隠された行動原理~発話旋律】

第1幕と第3幕で共通するものとしては、スラヴ的な祝祭の音楽がある。第1幕ではシュテヴァが帰郷した兵隊の若者たちをおおぜい引き連れて、楽士を招き、ドンチャン騒ぎをする。第3幕では、乙女たちがイェヌーファの晴れ舞台をせめて華やかにするために騒ぐのだ。前の公演で活躍したメンサー華子を中心に、こころから楽しげなアンサンブルは見ているほうが羨ましくなるほどである。目的はちがうものの、これらが一直線に貫かれることも、夢を飛び越して現実が繋がる構造を感じさせる。なお、この作品におけるヤナーチェクの音楽は大きく3つの要素にわけられる。「発話旋律」と呼ばれる、苦心して生み出されたデクラメーションによる心理描写を、詩的に構成する音楽が、もっともみごとであるのは明らかだ。しかし、いまのような祝祭的な活き活きとした音楽や、堅固な伝統に基づく宗教的な音楽の構造美も見逃せない。

第一の要素についてもっとも印象的なのは最後の幕で、式に割り込んできた子ども(演じたのは複数の端役をこなしたメンサー華子)が嬰児発見を慌てたような早口で報告する場面だ。この1分にも満たない局面が、2時間にわたる歌劇の種明かしになっていることはなかなか気づかれないし、私も当夜、初めてそれを意識した。だが、この場面を境に祝祭的なムードは消え、罪の告白と贖罪が行われる。ほとんど神としてのコステルニチカは転落し、社会的な富貴であるシュテヴァも同時にすべてを奪われる。これはいわば、それまで神秘主義的、カヴァラ的に展開した物語と音楽の秘密が曝露されたときの罪科のようにも聴こえるのだ。この歌劇には見かけ上の激情や、ヴェリズモ的な振る舞いのほかに、とりわけ言葉と密接に関連した隠された行動原理が潜んでいるのかもしれない。それはもちろん、グノーシス主義やユダヤ教の教えの一部にも似た具体的な対象から直接、導かれるものではなく、いわば書いた者にしかわからない秘密というべきであり、表向きとは異なる飛躍が面白い。そして、この場合、子ども(牧童ヤノ)による罪の告発は二重三重に譬喩的なのだ。

この日の公演は、そうした秘密に限りなく近づいたように思えてならない。正直、ここまで揃えればオーケストラでの上演が恋しくなるが、それ以上に見どころのある舞台であった。音楽スタッフはピアノに北村晶子(藤原藍子もプローヴェをサポート、プレトークで『嫉妬』連弾演奏にも参加)、ヴァイオリンにピルゼン(プルゼニ)で長く音楽活動に携わって帰国した山﨑千晶、シロフォンは竹内美乃莉。北村は複雑なスコアを緻密に再現、山﨑も相当の訓練を積んで、この日に臨んだことがわかる。言語指導は、このグループの活動に指導的な役割を果たす西松甫味子だった。

【プログラム】 2019年8月22日

ヤナーチェク 歌劇『イェヌーファ』(演奏会形式、室内楽伴奏)
 
 於:東京文化会館小ホール

2019年8月 3日 (土)

新海誠監督 映画『天気の子』~徹底した異化と、見えないものをみようとする努力

【二部作】

映画『君の名は。』の爆発的ヒットで、新海誠監督はマニアックだが、独特のこだわりのある個性派のクリエイターという位置づけから、大資本がリソースを集中し、過剰と思えるまでのコマーシャリングをかけても十分なリターンを計算できる存在へと進化を遂げた。一作前の『言の葉の庭』が1時間にも満たないコンパクトな作品で、1000円で観られるという戦略からリピーターが急増し、尻上がりのプチ・ヒットを飛ばしたことと比較すると、圧倒的な飛躍である。ここで培われた習慣が、長編映画のヒットにも少なからず貢献したことは明らかである。作品の魅力にとり憑かれた者たちは自宅のDVDを再生するように、映画館に向かい、金銭や時間というリソースを惜しげもなく消費して、作品を味わい尽くしたいと願うようになった。通えば通うほど、愛情は募っていくものだ。作画の圧倒的な美しさと、素晴らしい音楽とのタイアップは、スクリーンで繰り返しみる欲求を生ぜしめるに十分だった。DVDや、テレビ放送を待つというわけにはいかないのだ。

新海にとっての強みは『言の葉の庭』以前に、『雲のむこう、約束の場所』と『秒速5センチメートル』というクオリティの高い作品を残していたことで、『君の名は。』のヒットにあわせて、これらの作品もスクリーンで上映されることになるが、毀誉褒貶もある新作に比べると、これらの作品にケチをつける言説はあまり目立たなかった。ユーモアのすぎた性的描写や、思春期の少年の内面的な問題が大袈裟な事件(彗星落下と町の消滅)に結びつくストーリー構造、そして、青くさい恋愛の描写に批判も根強いが、最新作『天気の子』はそれらの言説と関係なく、公開11日にして、既に40億円を超える興行収入を稼ぎ出すドル箱として機能しており、勢いに翳りはない。

『言の葉の庭』をプレリュードとして、『君の名は。』と『天気の子』は二部作のように書かれている。どこか主人公たちも、似通っているのは偶然ではない。しかし、Trionfi という伝統でいえば、ちかい将来、さらにもうひとつ兄弟作が加わることも予想される。

【筋書きよりも視点の映画】

本作の弱点は、ストーリーの弱さにある。家出して上京した少年と、親を喪って貧困生活を送る少女が出会い、短い間でも、100%晴れにできる少女の特殊な能力を商売にしているうちに、予想どおり、矛盾が生じ、罰を受けるように少女は天の側にとられてしまう。少年は警察の勾留から抜け出したり、困難を切り抜けて、少女と再会し、再び悪化する天候と引き換えに、彼女との関係を取り戻すという物語だ。ファンタジーとしては、意外な要素がほとんどない。ああなって、こうなるだろうというのが予想できる。その点では、わかりやすい映画だ。しかし、この筋書きのなかに入りきらない、胸を絞めつける要素が多くあることを見逃してはならない。もっとも大事なメッセージは、不可視(インビジブル)なものへの想像力ではなかろうか。

例えば、私たちが見上げる空に、水があるという発想だ。これは実に身近な体験であり、空に水蒸気の粒が集まった雲ができ、それが発達すると雨が降ってくるということは、ほぼ誰でも知っている科学的事実であろう。それにもかかわらず、空に水があると言われると、パッと呑み込むことができない。こうした現象を、異化と呼ぶこともできる。これは、次に重要なキーワードだ。

気候変動が進むと、極地の氷が解け、海抜の低い島嶼国などは海に沈んでしまう危機を迎える。これもよく知られており、気候変動については、国際的な枠組みの中でも議論されている。だが、実際に東京やニューヨーク、ロンドンなどに住む人たちは、しばしば、このような問題を忘れている。我々が森林を切り倒し、化石燃料を用い、生活や産業に必要な、あるいは、それらを快適、便利にするエネルギーを多く用いることで、変動の幅は大きくなる。天気の子がもつ特殊能力のメタファーは、実は非常に身近なことに基づいているのだ。

それに対する罰があることも、私たちは十分に知っているはずではなかろうか。例えば、日本では毎年、異常な量の降雨が発生し、河川の氾濫や土砂崩れを引き起こすようになった。『君の名は。』の筋書きが明らかに東日本大震災と大津波に関係していたように、『天気の子』もこれらの時事問題とつながりがあるのは想像に難くない。日本だけではなく、欧州でも今夏、しばしば熱波が襲い、南仏など、広い地域で40度ちかい高温を記録しているそうだ。ところが、「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」というように、こうした感覚を私たちはすぐに忘れてしまうものでもある。季節が急になくなるわけではなく、夏は暑かろうし、冬には寒くもなる。異常が顕著に起きたときだけ、これは由々しき問題だと感じるにすぎないのである。

『天気の子』は意識しなければ、決して見ることのできない存在を中心に描いている。主人公の2人の境遇が、まず、そうだ。家出少年と、親の庇護を失って子どもだけで成り立つ家庭である。島から客船に乗り、家出した少年はネカフェで寝泊まりし、当面の仕事を探すが、うまくいくはずもなく、毎夜、ハンバーガー・ショップで飲み物だけを口にする生活に陥った。やがて、あやしげな編集プロダクション風の会社を営む男が、ちょっとした役割を提供し、彼に食住だけを保障するのが幸運にみえるほどだ。一方の少女は母親と死別したあと、弟と一緒に暮らすことができる生活を喪うことを畏れ、年齢を詐称して、自活を試みている。少年の家出の理由や、姉弟の父親がどうしたのかということについては描かれていない。社会の外で暮らし始めた主人公たちは互いの存在をみつけ、庇いあうようになる。彼らの恋愛関係はプラトニックなものにみえ、ラブ・ホテルで同じベッドに寝たとしても、キスや、ベッドインのシーンはないのだが、その本質は性欲よりも、他から目にみえないところにいる者どうしの共生感覚で成り立っているように感じられるので、さほど不思議ではない。孤独な透明人間が自分と同じ境遇をもつ、もうひとりの透明人間を見つけたとすれば、それは自然に結びつくだろうという話である。

【異化、移り変わっていくもの】

新海監督のもつ際立った才能は、物事を異化する力である。いま、述べたようなこともロジックとしては、きわめて単純で、巷間によく知れ渡っていることだ。そもそも「天気」という言葉自体が、晴れるも雨も、天の気分次第という発想からできてきたと思われる。これに神話がつながると、天照の岩戸隠れの故事のような面白いものも出てくる。天候は農業や商業に大きな影響を及ぼし、古代においては、暦に詳しいものが巫女や神官などとして特別な尊敬を集めた。例えば卑弥呼も、そんな役割を負っていたにちがいない。陽菜は、卑弥呼の後裔であると考えてもよい。ネット上を探索すると、陽菜の母が人柱であった可能性、あるいは、帆高を保護する須賀圭介の妻が人柱であった可能性も鋭く考察されていて、驚いた。

いずれにしても、新海監督はしばしば呪術的な女性の力に大きな敬意を払っており、いささか歪んだ内面性を感じさせるものの、恐らくは、そうしたところからエロティックな欲望が生じる構造になっている。『君の名は。』では組紐や口噛み酒がそうであったように、この作品では、鳥居や、陽菜の祈る姿がきわめてエロティックな象徴になっているのかもしれない。そして、そうしたものは新海監督の場合、異世界へのゲートにつながっていて、その先にはきわめて美しい世界が広がっているものだ。

この鳥居はきわめて神聖な雰囲気を備えたものでありながら、モデルが存在する代々木のある廃ビルの上に立つ不安定さが特徴的である。いわゆる「聖地」ともなりつつある、このビルはちかく解体されることとなっているようで、これほどタイムリーに解体されるとは監督も思わなかったろうが、近い将来、この場所がなくなってしまうであろうことは予想できたであろう。このことが重要なのであり、彼の生み出した神々しい伝統も、やがて消えてしまう前提でつくられている。現実のビルは耐震性もなさそうな、古びたい汚いビルにしかみえないが、映画のなかでは、このビルもなかなか魅力的に粧われている。古さのなかに、レトロな味わいがあった。そこは都会にあるオアシスのようでもあり、そのイメージをもたらすのは光のマジックである。だが、光はやがて消え、どこか別のところを照らすようになる。このように、新海監督は永遠というものを信じない。作品は、ただ一時の間借りにすぎず、長い時間にわたって絶対的な価値があるわけではない。

【クラシック映画】

彼の映画は、クラシックな流儀でつくられている。伝統的なもの、先人の努力にふかい敬意を払い、そこに自分らしいものを継ぎ足していくことで成り立っているのだ。なかでも宮崎駿は彼の「師」であり、とりわけ、『天空の城ラピュタ』はこの作品の下地となる表現をいくつも提供している。例えば、主人公の少年を保護して利用する大人と出会い、協力関係になり、最初は功利的だった大人がいつの間にか、彼らにふかく肩入れしていく構造は、同作品の主人公パズーと、(空の)海賊一味の関係と比較し得る。ところが、ここにも異化の妙味がある。ラピュタの一味は総じてまとまって行動しているのに対して、本作で主人公に肩入れする大人、須賀圭介と夏美の叔父/姪は、前者が少年にいくぶん冷淡な態度をとるのに対して、夏美は逃亡につきあうなどして共感的に振る舞うようにし、ちがいを際立たせているのだ。小さいグループではあるが、それを細分化することで味わいが加わっていく。

また、主人公が銃をぶっ放す場面は(ラピュタ的な)予想よりもかなり早く訪れ、その発砲が帆高と陽菜の関係をより追い詰めていく要素となっていった。下地とするものはあるのだが、その構成は大胆に換骨奪胎し、順番や意味付けを変えたり、細分化するなどして、異なった意味をもつものへと異化されていくプロセスに気づくべきだ。

クライマックスで天気の龍が落下する2人を鳥居のところに叩きつける場面は、庵野秀明の『エヴァンゲリヲン』を思い出させる表現だ。一見して、そこで2人が死んだようにみえるのはフェイクであり、2人は以後も離れて生き続けて、雨は止まず、東京の埋め立て地は海に沈むが、最後に恋人たちが田端の坂道で出会う半分だけのハッピー・エンドとなる。しかし、庵野ばりの暴力的な表現から、私は2人がやはり、あそこで死んでしまったからこそ、生まれる2つ目の結末であったという解釈も成り立たなくはないと思うのだ。陽菜は自分が晴れ女を演じ、それによって人々に喜ばれ、必要とされたことが生き甲斐となり、その役割を果たすために人柱となることを敢えて受け容れて、陽菜としての人生を投げ捨てる。ところが、少年はそれを潔しとせず、自分たちの関係が成就することが大切だと感じて、天から恋人を奪い返そうとした。組んでいた腕が離れ、一瞬でも互いがバラバラになってしまう表現は、ギリシア悲劇のオルフェウスとエウリディケの関係を思わせ、この場面はバロック的な聖画のごとき美しさと思う。そして、この物語にもオルフェウスが振り向いてしまったことでエウリディケが永遠に喪われるバッド・エンドと、神さまの救済で夫婦が再会する2つの結末が語られてきた。

日本神話でいうと、これはイザナギとイザナミの話に相当する。この2人の関係は最終的に、離縁という形になり、生と死は厳密に隔てられた。当然であろう。死者が、この世とあの世を行き来するのでは困ったことになるのだから。大きな事件のなかで結びついた関係は、容易に永続しない。これも、新海がずっと追ってきたテーマのひとつだ。奇跡を起こし、結びついたとしても、将来にわたって2人が幸福であり続けるとは限らない。むしろ、うまくいかない可能性のほうが強い。それだけの絆なのだから、もちろん、これは強くつづくであろうというハリウッド映画的な視点とは一線を画す発想になる。

【想像力と無関心】

神話もそうだが、歴史的なアニメーターの表現はこの作品にカタログのように敷き詰められており、当然、自分自身の作品も蔑ろにしていない。その中心にあるのが、不可視なものへの想像力だ。『言の葉の庭』では先生と生徒の恋愛を描くが、先生の側が理不尽な生徒との関係により不安定な精神状態に陥っており、味覚障害を抱えているという仕掛けがあった。女教師はこころの傷のために、いま、自分が向き合っている少年との関係にも、本気になりきれないのだ。夢に向かって一途に動いてきた少年が、それを理解するには時間がかかる。一方で、無関心というものの奇妙さについても、よく描かれている。この女教師のトラブルは校内で話題になっていたはずなのだが、靴づくりに夢中だった主人公には無縁のはなしで、それを知らなかったという設定なのである。『君の名は。』でも、主人公の少年は彗星によって消えた「糸守」の話題に関心がなく、よく知らなかった。もしくは、時間の流れのなかで忘れてしまうほど、薄くしか意識していなかった。あり得ないようで、特に、視野の狭い若い世代ではよくある話かもしれない。普通に可視のものでさえも、不可視な存在になる可能性がある。

だからこそ、3晩も同じところで、同じものを口にする少年に気づけた陽菜の感覚は凄いと思える。さらに、夜の店の黒服に対して、帆高が発砲した後、鋭い剣幕で彼を叱りつける場面も胸を衝いた。これらの印象から、のちに彼女が18歳ではなく、15歳であり、帆高よりも年下であるという事実が明かされると、驚くしかない。私はいま、敢えて1回だけの鑑賞に基づいて、これを書いているが、繰り返しみたときに、実は15歳の少女としてみた陽菜の印象を新しくするのは必定であろう。これも、ひとつの異化と呼んで構わない。その事実がわかったとき、ファストフード店の仕事をクビになった理由がわかるだけではない。語り尽くされていないことは、まだいくらでもありそうだ。不可視の要素が残っている。すべてを観たい。観なければならない。そうした欲求が生じることを、監督が期待したかどうか、わからない。商業的には、それが欠かせない要素であることは間違いないのだが。

不可視なもの、あるいは、見逃されがちな存在に対する想像力や、気づきの力、思いやり、そして、直向きな想いというのが、この作品の中心的なテーマとなっている。こうしたものが、思春期の男女の恋愛と相性が良いのは理解できる。あるいは、高齢者にとっても、これは切実な問題で、本作の2人の主人公も初盆について語ってくれる老婆と、仕事を通じてこころを通わせる。今回はその役に倍賞千恵子が起用されたが、前作で重要な役を担った故市原悦子さんのことを想うと、二重に涙が出るのであった。『君の名は。』では、同様の想像力が遠く離れた男女の入れ替わりというモティーフに結びつき、まだ出会っていない恋人との関係というロマンティックなストーリーを生み出した。しかし、考えてもみれば、ひとのこころ、特に恋ごころといったようなものこそ、もっとも身近な不可視である。

【視点と価値の枝分かれ構造】

とはいえ、新海誠の作品は、誰がどう観るかによって、まったくちがう表情をみせる。甘い恋愛をモティーフに、思春期の少年少女がメイン・ターゲットにはなっているが、例えば、私のようなロスト・ジェネレーションなどは、異なった視点を示す。また、筋書きや内面性に共感しない場合でも、その鋭い表現や、言葉の力、映像の詩的な美しさに共鳴する層がいる。反対に、歪んだ性的表現にNGが出る可能性も大いにある。大人がみるような映画ではないと感じる層もあるだろう。とはいえ、この監督の作品がもつ著しい特色として、異様なほど、多くの切り口をもつことがあり、誰がどの要素について、いかに語るかは予想がつかないということを指摘したいのである。私の場合には、視点の温かさというものをつよく感じた。この作品は社会のなかに隠されたものを、なるべく多く見ようとするものではないか。そして、それを監督の独特な発想に基づいて異化してみせる。視点は増え、価値は分化する。

代表的なものとしては、ラブ・ホテルがあった。大雨の夜、子どもたち3人が楽しそうに絶望的な、最後の夜を謳歌するラブ・ホテルは、そのカテゴライズから受ける陰湿なイメージがなく、一種の遊興施設として機能する。結果的に、ここは3人がバラバラにされる場所ともなったのだが、そのことによって、異化の価値は死ぬことがない。ドストエフスキーの『罪と罰』で、ラスコーリニコフがスヴィドリガイロフと会見する店が、ひどく印象的に記憶のなかへ刻まれるのとよく似ている。朝、陽菜はこの世を捨てて天に昇り、帆高は警察へ連行され、陽菜の弟の凪は児童相談所に保護される。大事を前に、ハイな状態で現実逃避するかのように少年たちが笑いあい、楽しむ表現は『君の名は。』にもあったものだ。そして、最初の頓挫を経て、やりなおすシナリオの流れまでが共通している。この過程で、少年が警察による勾留から抜け出したり、凪が計略によって児相を抜け出す表現は、やや現実味を欠くのだが、最近は容疑者や被告が逃げ出したりする事件がつづき、児相のほうも失敗を繰り返して、現実がフィクションに追いついて監督を助ける。

引きのつよい監督は、あわや小惑星を地球に衝突させるところであった。唯一の誤算は、丸山ほだか氏の活躍であろう。

【監督の構想に寄り添う音楽の工夫】

音楽面では前作につづけてRADWIMPSを起用し、『君の名は。』よりもいっそう深く、巧みな操作が行われている。意識的な異化であったのはわかるが、前作の主題歌『前前前世』がいかにもTVアニメーション風のもので、強くは響かず、結びのテーマ曲であった『なんでもないや』のほうが染みるものだったのと比べると、今作では主題歌の『愛にできることはまだあるかい』が映画の主張とよく噛み合い、決定的な浸透力をもっている。この主題歌の旋律は映画のなかで早めに登場するが、歌ではなく、ピアノによるインストゥルメンタルとして織り込まれるのだ。ピアノ版の『愛にできること・・・』の魅力が、この作品をどれだけ押し上げているかしれない。挿入的なものを除けば、RADWIMPSの作品だけが響く映画だが、一部では歌い手に女優の三浦透子を起用し、二重の異化を実現して、監督の構想に応えている。『愛にできること・・・』そのものもピアノ版による場面との対応でいくつかのヴァリエーションを経由し、ついに歌が出る瞬間と、さらに、もっとも大事な場面で「愛にできることはまだあるよ」と歌詞が変わる(といっても1曲の歌詞の最後である)異化で、次々に変容を遂げていくことになる。

ひとつのものが異なるいくつかの視点からみられ、さらに、それが筋書きのなかで微妙に変容していく。大きな驚きはないものの、その小さな変化が実に楽しく、感動的な映画だといえる。この作品は皆に多くのものを提供してくれて、すこしだけ優しい視点を育てる。見えないものを見ようとするようになる。あるいは、見慣れたものにも、また別の見方を与えようとする。汚いものが神聖に、見慣れたものを新鮮に、単純なものに複雑さを与えるのだ。そのような愛おしい映画としてみたいのである。まずは、空を見上げてみること。いまの季節、空の表情がひときわゆたかなことは、作品を後押ししている。

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