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2019年9月 2日 (月)

指揮者ラドミル・エリシュカが亡くなる~日出ずる国に愛された老年のミューズに捧ぐ

指揮者ラドミル・エリシュカの訃報が、徐々に広がってきています。9月1日、この愛情ぶかき指揮者は恐らくプラハで、88年の生涯を閉じたとのことです。世界中で活躍した高名な指揮者ほどには大きく伝えられていないけれど、例えば、twitter で「エリシュカ」というキーワードで検索するだけで、彼がこの国で残した足跡の大きさが窺えます。ついに、この事実を受け止めるべき時が来ました。まずは、深い哀悼の意を捧げ、同時に感謝の言葉を記したいと存じます。彼が指揮台に立つというだけで、全国の音楽ファンがその場に足を運ぶべきか悩み、多くの方が実際に動かれたことは記憶に止めておきたいと思います。そして、いちどそれをやってしまうと、もはや、その誘惑に二度と逆らいがたくなるような誠が、彼の演奏にはありました。

個人的なことをいえば、エリシュカさんの札響での2回目の演奏会から、そういう立場になったのです。氏の来日は年間2回ほどでしたが、そのペースに合わせて、札響の定期を中心にずっと聴いてきました。その最初の機会となった演奏会では、私がこよなく愛するドヴォジャークの交響曲第6番がプログラムされており、ヤナーチェクの演目も入っていました。これがのちに続くドヴォジャーク交響曲シリーズの初回に当たります。正直、感心しないロビーでの室内楽に不安感を覚えながら聴いた、本番の素晴らしさはどうして、筆舌に尽くしがたいものがありました。当地では、それ以外の人たちとの出会いもありましたが、これに限らず、エリシュカをめぐる旅を通じて、多くの人々を実際に繋ぎ合わせたことも、彼の功績のひとつだといえます。人々から注目を集めることで、オーケストラは確実に自信をもち、急速にレヴェルアップしていきました。たまにしか聴かない分、その進歩が客観的によくわかるのです。最近はロビコンも素晴らしくなり、メンバー交代もありながら、楽団の方が確実に階段を上っているのがわかります。いまでは、待遇のよいN響、読響、京都市響などにも、尾高=エリシュカ時代の同志たちが散る一方、若く優秀なアーティストが穴を埋めて、北の大地を楽しませています。

その後、日本にも様々な変化がありました。エリシュカさんがコツコツと人気を高めていく中で、2011年には東日本大震災と大津波が発生し、原発事故が起こって、日本に来ないアーティストが多くなる中でも、エリシュカ氏は予定通りに日本を訪れて、指揮を振ってくださいました。震災からまだ1月余しか経っていない4月、札幌でのドヴォジャーク『スターバト・マーテル』の公演はディスク化されなかっただけに、いっそう、胸のなかにふかく鳴り響く音楽となっています。エリシュカさんがしっかりした作品と認めるドヴォジャークの5番以降の全交響曲に加え、チャイコフスキーの後期3交響曲、スメタナの連作交響詩『わが祖国』、そして、最後となったリムスキー・コルサコフの『シェヘラザード』を録音したレーベルは、エリシュカの招聘とプロモートに関わった個人的なところでした。また、Altus は、ブラームスと大阪フィルの録音に手を貸してくれ、日本コロンビアは佼成ウインドオーケストラでの録音に関係しています。

ある意味では、私たちのオーケストラと、それを支えるコミュニティは晩年のエリシュカの功績を引き出したともいえます。それがなければ、エリシュカはチェコの音楽学校で、ヤクブ・フルーシャをはじめとする後進に対し、知る人ぞ知る影響力を与えた指導者としてしか、知られなかったかもしれません。願わくはもっと広い世界に向けて、今日、まったく忘れられている誠実そのものの、滋味に満ちた、本物の演奏を発信できればよかった。そうはならなかったとしても、私たちは十分によくやったと思っています。

ところで、氏のプロ―ヴェは厳しく、やや不器用なものだったと聞いています。初めてのオーケストラでは、関係者は彼のこころがちゃんと理解されるのか、不安に感じていたと聞いています。結果的には多くの仲間たちが、彼の発する ’Ne!’ の声を温かく受け容れることができるようになりました。特に札響と大阪フィルが、体調悪化による引退まで、彼の仕事の重要なパートナーになりました。関係者の多大な苦労は想像だにもできません。一方で、それぞれの地で音楽を愛する者たちが彼のことを家族のように迎えたのです。

エリシュカは日本で吹奏楽団を含む8つのプロ・オーケストラ(9つ目になるはずだった新日本フィルは引退決定によりキャンセル)に客演し、その多くで再登場を果たしていますが、もうひとつ、恒例の音大フェスティバルでも指揮し、首都圏の意欲ある学生たちとも交流した結果、彼らの発する鮮度の高いなエネルギーもまた、エリシュカの人気に一役買っていたと考えます。そして、引退して容易にお会いできなくなった後も、日本のことを気にかけて、札幌での電力ブラック・アウトや、何か大きなことがあると、逸早くメッセージを送ってくださいました。私たちのことを絶えずこころにかけて下さっていた紳士も、いまや天に召されたのです。札響で彼の応援団長だったヴァイオリニストの石原ゆかりさん、彼の活動の基本となるものを教えたブルジェティスラフ・バカラ先生とも、旧交を温めていらっしゃるのでしょうか。日本にもつきっきりでいらした素晴らしい奥さまのお気持ちを思うと、とてもやりきれませんが、エリシュカさんも愛を注がれていた、ご家族が支えて下さるにちがいありません。

この悲しみはチェコに行かれないのであれば、札幌で雪ぐよりほかにないでしょう。札響の10月定期『ヨハネ受難曲』の演奏会に行くかどうかを悩んでいましたが、この報を聴いて、一気に手配済みとなりました。尾高=エリシュカ体制を継ぎ、現在のマティアス・バーメルトにバトンを繋いだマックス・ポンマーの指揮です。これ以上の演目はありません。

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クラシック・トピックス」カテゴリの記事

コメント

 茂木大輔氏の新刊「N響で出会った名指揮者たち」(2020.10)には、『(エリシュカ氏)西側ではほとんど活動しておらず、「遅れてきた巨匠」などと言われていた。少なくとも個人的にはあまり感心せずに終わる。p189』との記載があり、N響の演奏がそんなに落胆したものだったのかとエリシュカ氏を検索したところ、本ブログに辿りいたりました。
 エリシュカ氏とN響との「我が祖国」は、その年のN響一番の演奏という評があり、ネットの上では観客の感動で溢れており一安心したところです。小生も札響での「我が祖国」演奏には、休憩時間のワインの影響もあり、なんと美しい音楽かと聴き惚れておりましたが、曲が進むうちに、だんだんと音楽が熱してきて、ついにブラニークでは背筋がピンと伸びました。
 エリシュカ氏の音楽は、茂木大輔氏が信奉するレコード(CD)を出している大家との共演が最高の経験という価値観とは、全く別のものです。初めてエリシュカ氏を聴いた時、「ハッ」という気合で開始される音楽に心が奪われてから、札幌での演奏会はほぼ全てを聴くことになりました。エリシュカ氏の音楽の価値とは、エリシュカ氏の指示するテンポのもと、他の指揮者では聴くことのできない音の綾がいく層にも聴こえること、エリシュカ氏が指示する独特の弦楽器管楽器の調和に酔い、観客がエリシュカ氏の音楽への愛に共感し満たされることではないでしょうか。
 エリシュカ氏と唯一合わなかったと言われる日本のオーケストラ「都響」、「東京都交響楽団の将来像に関する有識者懇談会第2回議事録」でも分析されていましたが、茂木大輔氏の陥った落胆も、都響同様に「何であんなおじいさん、今さら必要なんだ」という構えが災いとなって、エリシュカ氏の音楽を受け入れることを妨げていたのではないでしょうか。もう、録音の巨匠の楔から抜け出た方が良いです。ブログ「エリシュカ三部作」を読むと、聴衆と演奏者との奇跡の出会いが記録されています。
 アリスの音楽館ブログに「彼の応援団長だったヴァイオリニストの石原ゆかりさん」の記載がありました。懐かしいお名前です。残念ですがエリシュカ氏の最後のコンサートの時は、石原ゆかりさんは亡くなられていました。舞台袖に生前のヴァイオリンが飾られ、横に佇むエリシュカ氏の写真を見ました。合掌です。

すべての演奏家に支持される指揮者はいないでしょう。茂木さんの著書についての直接的な論評は避けますが、わざわざ、そのような形で触れられるからには、多少、含むところもあったのだと思われます。同じ「物書き」として言わせてもらうならば、行儀のいい表現とは思えませんけどね。

もっとも同じチェコ人の間でさえ、エリシュカさんは簡単に理解されるような受けのいい音楽家としては見られていなかったようです。そのなかでも、チェコで活動される日本人の音楽家のなかには、彼の音楽を高く評価する人もいて、その推薦がきっかけで、エリシュカさんを日本にお招きし、大きな事務所の助けもなく、個人的なコネクションを辿って、彼を日本の楽壇に導いた方がいたのです。その方も昨年、お亡くなりになったと伺っています。

彼の音楽をより素直に信じた人たちのほうが、ステイタスの高いN響よりも立派な仕事を残されました。札響や大フィル、九響といったプロ・オーケストラの面々や、瑞々しい学生たちです。既に書いたように、録音レーベルの人たちや、それなりに名前のある記者たち、楽団関係者、そして、私たちファンが、彼の音楽の素晴らしさを信じ、その活動をサポートしました。どのような当てこすりを行ったとしても、この絆を断ち切ることはできないのです。

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