アレクセイ・リュビモフ ピアノ・リサイタル オール・モーツァルト・プログラム 9/29
【ボーリングしながら1曲】
アレクセイ・リュビモフの、すみだトリフォニーホール(小ホール)でのピアノ・リサイタルを聴いた。東京公演のモーツァルトは当初、ここ1公演の予定だったが、全席完売を受け、前日に同会場で追加日程が設定された。モーツァルトに加え、リュビモフが温める同時代の作曲家にも目を配った公演で、初めからわかっていれば、そちらを選んだにちがいない。括弧付きの引退公演というプレミアもつき、出遅れた私が手に入れたのは「オール・モーツァルト」のほうの、最前列の席だった。
しかし、この位置ではペダルがよく見えた。鍵盤は見えないものの(もともと手もとが見える位置に布陣することは稀だ)、響きはよく聴こえ、足もとの動きと聴こえてくる音から、両手のアクションも完璧にイメージできた。河童の水かきの如く、自由自在に足もとを操り、操作されるリュビモフのペダル・アクションは繊細で、綿密に考え抜かれている。彼の演奏をみていると、むしろ、足もとの動きが全体を生かしているようにも思えた。新井健歩という作曲家/ピアニストが一時期、MIDIなどのコンピュータ技術を使って、新しいペダル機構をもつピアノを開発し、既存の曲であってもより自由に、思いどおりの表現ができることを追究していたのを思い出す。無論、それとはちがう発想だが、ピアニストの足もとについても当然のことながら、より慎重に注意してみる必要がありそうだ。
放送機材か空調の音だろうか、常になにかのノイズまじりではあったが、音量が増えると、それは目立たず、条件の悪さを吹き飛ばすインパクトのある演奏内容となった。なお、このホールには新日本フィルの室内楽などでも多く足を運んでいるが、そのときに、同様のノイズが聴こえた経験はなかった。例えば、絶対音感のある人だったら、相当なストレスだったかもしれない。誰よりも繊細なはずのピアニストには、どのように感じられるのだろうか。私は凡人なので、そこまでではない。リュビモフらしく、どこか現代音楽のようだと思えば、笑って済ませることもできた。
リュビモフのモーツァルトは悪くいえば、無邪気なイメージである。モーツァルトにはいくつかの固定したイメージがある。①シンプルで耳ざわりがよく、きれいで、誰にでも楽しみやすいというものと、②何を考えているのかわからず、神秘的で、意外な不協和音もあり、デモーニッシュだというものである。後者のイメージとして、フリーメイソンだったというような逸話も補強に使われる。だが、今回のパフォーマンスで、特に思い起こしたエピソードといったら、いわゆる「ケーゲルシュタット・トリオ」で、ボーリングをしている間に1曲を仕上げたというような筆の早いイメージである。一気呵成に、新鮮で、勢いのある作品を書く。そして、いくらかは・・・否、だいぶん挑戦的だ。歴史的には舞踊的なものが重くみられ、歌劇も重大な影響力をもった時期である。そのような注文にも応えながら、宮廷に仕える異端児、モーツァルトの独特な仕事の真実が明らかにされた。
【モーツァルトの未来をめぐるシュタッドラーの冒険】
演奏されたのは短調を基軸に、幻想曲とソナタ3曲である。K311 と K457 のソナタは、先に行われた仙台国際音楽コンクールでもどちらかを必ず弾くレギュレーションになっていたように、モーツァルトならばこの曲というほどの代表的なものであり、誰もが知っている作品を敢えて選ぶことで、彼の演奏や解釈を明瞭に伝える意図が明らかである。しかし、最近、武蔵野文化事業団から当の主催者であるMCSヤングアーティスツに移籍した「ミスターヤマネ」自筆による解説文をみると、少なくともモーツァルト晩年の幻想曲(未完)2曲については、A.エバーハルト・ミュラーと、A.シュタッドラーの手が入っていることが明らかにされている。前者は演奏される機会も多く、完成の度合いもより高いために、補筆者の個性を感じることはないが、後者はほとんどがシュタッドラーの作品といっても間違いではなく、よく耳を傾ければ聴こえてくるメッセージに満ちている。
アントン・シュタッドラーは当時の著名なクラリネット奏者としても知られ、ウィーン時代に、モーツァルトと親交があったとされる作曲家である。モーツァルトと同じ世代ではあるが、寿命の短かった彼より、数十年もながく生きた。未亡人コンスタンツェへのお悔やみでもある、この作品は、モーツァルトが開けなかった未来を探るように、新鮮な味わいに満ちている。コンスタンツェにどれほど音楽に対する理解力があったかは存じ上げないが、彼女にはシュタッドラーの想いが伝わっていたものと考えたい。つまり、それは音楽によって、モーツァルトの未来を甦らせるという、彼の友人にしかできない偉業であった。
同じ未完の幻想曲ではあるが、K396 と K397 は、かなり異なった特徴をもっている。シュタッドラーは教養人らしく、古典的な書法をいちおう守りながらも、例えば、一瞬でも後世の近代フランス音楽などを思わせるように自由で、メランコリックな筆致で、孤独にして神秘的、余人にとって予想もできないモーツァルトの未来を描き上げたと思う。やはりクラリネットの曲がよく知られているシュタッドラーであるが、それらと比較して、この作品はきわめて異質であり、いくぶんモダンな旋律の流れをもち、多分、バロック音楽などを参考にして、しかも、そこから大胆に逸脱した未知の領域を探ったものといえるだろう。これはシュタッドラー自身にとっても、大きな冒険だったはずである。
【棺桶から甦った死者は未来をめざす】
美しいフォルムの K397 は、いわば、この日の演奏会でもっとも模範的な古典的作品で、当時のオーソドックスな書法を示すものだ。幻想曲2曲では、リュビモフはこころなし丁寧な筆致をめざし、特に冒頭の K397 では徹底的にパーツを磨き上げた、ほぼ完璧といえる演奏を披露する。そこからスタートして、K311 のソナタでは思いもよらない無邪気さで、インパクトの強い打鍵、コントラストの強烈さを演出している。一瞬、あけすけなパフォーマンスは、明らかに先述の ① のイメージとはちがう。近年では、喪われつつある解釈といえるかもしれない。例えば、録音ではフリードリヒ・グルダにちかい。リュビモフがやるから、私たちもそれを即座に正当なものと認められる。だが、例えば無名な若いピアニストがこれとそっくり同じようにやったとして、彼のパフォーマンスを同様に素晴らしい解釈であると認めることは難しかろう。それほど、オーソドックスとはちがうモーツァルトだった。
静かで、優美なモーツァルトしか認めない、ある意味では趣味のよいマニアな聴き手がいるとして、そのような人からすれば、到底、認めがたい演奏である。打鍵は粗野で、きれぎれに聴こえるだろう。あるいは、死んでいると思っていた死者が、棺桶から甦るような感覚で、ぎょっとするのではなかろうか。
今回のリサイタルで特徴的なのは、素朴を旨とする最近のモーツァルト演奏の常識からは遠く、ペダルを細かく使用し、ダイナミズムにも拘り抜いたパフォーマンスである。モーツァルトの時代的な楽器では、オルガンの名残りでペダルが豊富にとりつけられ、足鍵盤を備えたものもあったという。私たちが古い楽器について誤解しがちな、素朴で機能の制限された・・・というイメージとは異なっていたのだ。リュビモフの演奏は、それを連想させるのではないか。殊更に(巨匠時代の)古いスタイルを追ったのではなく、モーツァルトの時代の音楽が楽器の面からみても、十分な活気に満ち、個性ゆたかに演奏され得たことを示すパフォーマンスだ。また、モーツァルトがより高度な技術のなかに生きていれば、当然、対応したであろう可能性を探る意味もある。
さて、K311 の演奏に戻れば、第1楽章はロンドー的に同じモティーフが重ねて演奏されるときに、その声がいつも違うように現れたのが印象ぶかい。一方で、中間楽章はひとりの声による祈りの歌、もしくは、オペラ的なアリアが丹精に歌われる。終楽章は技巧的な歌唱のようにも聴こえるし、シンフォニーの終楽章のようにダイナミックな味わいも持っている。そのように聴くと、ひとつひとつの音に意味と役割をもたせ、それらの個性を描き分けた上で、みごとに関係させていくリュビモフの神業が理解しやすい。
【ロングレールと、con esperssione】
前半の最後となった K310 は、非常にロマンティックな作品と思っている。やや音質も枯れぎみのリパッティの録音などで親しんでいたこともあり、必要以上に深刻なイメージで捉えていたが、リュビモフの演奏はまた独特なものだ。この作品が成立した背景には母親の死などが関係しているともいわれ、その雰囲気がないわけではないが、むしろ、第1楽章は技術的に興味ぶかかった。それは兄弟のように成立した K311 の短いクラスタの組み合わせとは異なり、いわば鉄道のロングレール(継ぎ目のない長めのレールで、騒音が少ない)のような形で製作されている。モーツァルトは父からの英才教育により、フィグーラと呼ばれる音楽の修辞法や、高度な対位法の技術を幼くして身につけ、そのために天才と呼ばれたが、これらを駆使する場合、音楽は細かく分断され、明確なアーティキュレーションを伴う形となりがちだ。K310 の作曲法は、それとはまた異なったクオリティを示している。これはあとの時間で、シュタッドラーの創作によって示したものにちかい。親しい友人が必死で考えた未来にも、モーツァルトは一足先に端緒をつけていたようである。あるいは友人もまた、それを知っていて、モーツァルトによる新しい書法を忠実に蘇らせたつもりだったのかもしれない。
アンダンテ・カンタービレの演奏が、なんとしても印象的だ。リュビモフのパフォーマンスはどの瞬間にも、深い緊張感が宿り、当該の作品の演奏で、しばしば悩まされるような con espressione を忘れた変化の乏しさとは無縁である。そこには必然的に組み込まれた音符の動きがあり、人間の複雑な感情の襞が描き込まれている。おわりの楽章で、慎重に組み立てられた対位法をクリアに描き出す手法もさすがだ。ベートーヴェンではそれが必須になるが、モーツァルトの鍵盤単独の作品で、その境地を感じさせる演奏は意外に簡単でなく、素朴で、淡い構造のなかに消えがちである。こういう音楽が聴きたかったのだ。やっとである。リュビモフはこれを序奏のように使い、その後の部分は多彩な響きで、一輪一輪の花々を丁寧に描き上げるように、複雑な響きの唱和を聴かせ、あるいは、踊り手がひとりひとり個性を放つコール・ド・バレのように振る舞わせる。みごとであった。
【死と再生、そして、未来】
休憩を経た後半は、愛らしい K545 から始まる。これは確か、ヤマハの音楽教室か、楽器の宣伝に用いられていたものではなかったか。当日の楽器がヤマハであったことを踏まえ、それをもじるわけでもなかろうが、前にも増して無邪気な演奏で始まった。あまり深く考えずに、子どもが弾くような感じだ。ところが、小節を経るごとに響きは熟れていき、ゆたかに、重みを増して、大人の音楽へと成長していく。そして、先の幻想曲を経て、K457 は愉悦的な演奏というしかない。既に、この演奏会のなかで馴れてきた野性的な響きも、この曲ではいくぶん熟成している。優雅で、気品のある音楽だ。それまでのオペラやバレエ、あるいは、管弦楽曲のようなイメージと比べると、彼自身が部屋のなかで楽しんでいた音楽のように聴こえるのだ。これを私は、「熟成」と呼びたい。アダージョもやはり、深刻にはならず、多彩な歌い方で聴かせる。シューベルトのリートのように。そして、オペラの優しいアリアのように。あるいは、ベートーヴェンの「悲愴」ソナタのような部分もある。構造をみごとに使い、これらの関係がシンプルな素材を深々と彩っていくのだ。ここに未来が、コンパクトに詰まっているようであっても、そうした一瞬の興趣は次第に薄れ、モーツァルトの深い内面世界へと共にダイブしていくことになる。いま、「沈んでいく」と書こうとして、私は表現を変えた。自ら潜っていくイメージだ。
この作品の終楽章にも舞踊的な音楽は潜んでおり、リュビモフはそれを活き活きと写し取っているのだが、それまでのパヴリックなものとは異なっている。これは正に、生き返ったモーツァルトが親しげに、大事な人と踊るパ・ド・ドゥのようなものだともいえるだろう。
この日を前に、リュビモフと同じように時代的な楽器を愛で、巧みに演奏したウィーンの巨匠で、高名な指導者のパウル・バドゥラ・スコダの訃報が届いた。同氏は以前、PCM(パシフィック・コンサート・マネジメント)によるサポートを受け、最後の来日と称する演奏会も済ませていたが、欧州ではなお精力的に活動しており、この程、リュビモフと同じMCSの招聘で、再び来日することになっていた。それとは無関係に組み立てられたプログラムではあり、演奏者からは特に、彼の死に対するコメントもなかったが、バドゥラ・スコダのことも大事に思う私からしてみれば、リュビモフの演奏会は素晴らしい追悼のようにも思えた。
この演奏会のテーマは死と再生、そして未来である。リュビモフは、既に将来の引退をちらつかせている。少なくともある程度の規模をもつコンサートホールでの、一般的なコンサートには乗り気でないと聞く。彼の特別な音楽哲学に基づいた、そして、愉しみでもある親密な演奏機会を除いて、最後の「遺言」となるような、お別れの旅が始まっていると思ったほうがよい。今回のメッセージのひとつは、モーツァルトに対する固定されたイメージをテコ入れし、伝統的な自由さへと誘うことだった。彼は敢えて、楽器も古いものを使わなかった。楽器の面でも、多様な解釈があり得るからである。日本の新しい技術に基づくピアノでも、十分に時代を感じさせる表現が成り立つのだ。しかし、それだけのことに飽き足らなかった。彼はシュタッドラーと、エバーハルト・ミュラーを配して、モーツァルトの知らない未来を描き上げようとした。特にシュタッドラーの創作は未亡人への思いやりとともに、亡き友人がもっていたであろう無限の可能性への想像力に満ち溢れている。長くモーツァルトによる真筆と信じられた幻想曲はシュタッドラーにとって、恐らく、もっとも優れた創作であり、すべての演奏家(ピアニスト)と作曲家、そして、私たち愛好家の気持ちを代弁するものともなった。リュビモフの声が聴こえるようだ。私が言いたいのはそれだけのことではない。私たちは過去を省みるだけでなく、未来を描くべきなのだと。
彼らの描いた未来とは、モーツァルトの僅かに先かもしれないし、あるいは、既に別の人類が辿り着いた港だった可能性もあれば、遠く後世に花開く世界であったかもしれない。これに加えて、アンコールではシューベルトを加えて、モーツァルトが切り拓き、別の個性が拾ったリアリティの凄まじさに迫っている。早書きで、悪戯っぽく、挑戦的なモーツァルトの演奏と、より素朴で、優美さに憧れながらも、孤独に世を去ったシューベルトでは、演奏法も異なるはずだ。だが、歌うことの素晴らしさと、神への感謝の気持ちではすこしも変わらない。アンコール1曲目の即興曲 D899-2 は、正直、こうしたリサイタルでよくある例かもしれない。つづいて、D899-3 も珍しくはない。しかし、リュビモフは急にインスピレイションが湧いたかのように、続けざまに D899-4 を弾き始めた。これには驚き、思わず涙が溢れた。シンプルな旋律と、フォルムの重ね合わせ、そして、その巧みなずらしである転調。よく知っている曲なのに、途中から、まるでモーツァルトの作品を聴いている気持ちがした。この偉大な才能に、未来がひれ伏しているのだ。
【完璧な精度と一回性】
ロンドーやソナタ形式のもつヴァリエーション的な側面も、この日の演奏で印象に残った部分のひとつだ。こうした形式が将来、ロマン派の寵児となり、ブラームスの決め技になっていく。古典における繰り返しは後世からみて無駄であるともされ、当時の主な聴取者が真剣に集中した音楽愛好家ばかりでなく、むしろ、音楽よりも社交に関心のある王侯貴族らであったことも考えると、なるほど、今日的には無駄と考えるにも一理がある。だが、そのような遊びの部分にこそ、演奏者と聴き手の立場でのコミュニケーションの余地を探ることもできるのだ。この点で、リュビモフの演奏は特筆してメッセージゆたかである。シューベルトの即興曲がアンコールに選ばれたのも、この流れから必然だったとみるべきである。
ピアニストにとって、即興とは何だろうか。往時にはある意味では曲芸的な、自己PRとしても用いられた。例えば、モーツァルトはライヴァルの音楽家たちと腕を競い、J.S.バッハは息子のエマニュエルが仕えるフリードリヒ大王の御前で、多声フーガの即興演奏を所望され、いちどはみごとに応えてみせた。次の日に出された難しすぎる要求にあとから綿密に応えたのが、『音楽の捧げもの』である。このようなPR活動や、顧客とのコミュニケーションが当時は欠かせないものだった。
通常、クラシック音楽の演奏においては即興性より、精確で、根拠に基づく蓋然性の高い再現性、一貫性のほうが重要視される。しかし、リュビモフがもっとも重くみるのは、たとえ同じアーティストによる、同じ曲の演奏であっても、二度と出会えない音楽の一回性だ。完璧であり、初めて出会うような音楽であるという矛盾した条件を満たすのが、プロの音楽家の本分である。モーツァルトは、1回1回がそれこそ特別な音楽になる要素が深い。ある瞬間に印象ぶかく受け取られたものは、一生ものとして胸に残るだろう。例えば、私にとっては、ユベール・スダーンと東響による交響曲第40番の演奏などは、そのひとつに数えられる。一方で、そこまで到達するのに邪魔するものが多い作曲家なのかもしれない。今度のリュビモフの演奏は、墓場まで引き摺っていくことになりそうだ。
予定どおりであれば、彼は来年も日本を訪れて、演奏を披露してくれるはずである。その先のことは、まだ誰にもわからない。モーツァルトはともかく、シルヴェストロフやウストヴォリスカヤでさえも人が呼べるピアニストといったら、彼以上の存在は今のところないわけで、彼がどんな形であれ、演奏を披露しつづけてくれることを願うファンが多い。彼の響きから受けとる、一期一会の体験をまだまだ重ねたいと思う。一方で、彼が伝えたかった音楽を継承する若者たちの探索にも身を削らなくてはならないだろう。例えば、モーツァルトに用意されていた未来を探るのに、シュタッドラーでは明らかに力不足であったろうが、それでもあれだけの仕事をしてのけたのだ。ある意味、そこがいちばん印象に残った。今回、リュビモフが仕込んだオール・モーツァルトの裏に隠れた、別の作曲家の存在について、私は深い感銘を受けた。素晴らしい仕掛けだった!
【プログラム】 2019年9月29日
オール・モーツァルト・プログラム
1、幻想曲 K397
2、ソナタ K311
3、ソナタ K310
4、ソナタ K545
5、幻想曲 K396
6、ソナタ K457
於:すみだトリフォニーホール(小ホール)
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