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声楽

2019年9月 7日 (土)

東欧の調べ スロヴァキアのユース合唱団 Cantica Nova を迎えて ミクロコスモス(主催)+アンサンブルAMU 9/7

【奥ゆかしい Cantica Nova】

スロヴァキアのトルナヴァで、設立から50周年を迎えるユース合唱団 Cantica Nova の来日に合わせて開かれた「東欧の調べ」というコンサートを聴いた。国の重文に指定されている上野の東京音楽学校旧奏楽堂には今回、初めて入った。中身はリノベーションされ、古き木造建築のクオリティはさほど感じず、音響はややデッドな上に、壁も薄いが、小規模なオルガンが設置され、舞台と客席の間にある空間は多分、ピットとして使用できるものと思われる。限られた空間に、当時(明治23年建設)の音楽活動に当面、必要であった施設がコンパクトに詰め込まれていたことが想像できる施設だ。外観が、特に建設当初からの雰囲気を保存する。

日本でいうところの中高生あたりで構成されたスロヴァキアのアンサンブルは、その歴史のなかで国際的にも繰り返し評価を受けてきたようだ。高度な訓練を受けてきたとしても、それを露骨には示さない奥ゆかしさ、ナチュラルで人間くさい歌唱が特徴である。今回は男声の3倍くらいの女子で構成され、特に女声の内声部に厚みがあるのが印象ぶかく、高音は滑らかだ。主旋律をシンプルに盛り上げ、敢えてハーモニーを立たせず、和声が自然に追従していく薄味のアンサンブルに味わいがある。響かないホールだったこともあるが、声量も派手に使うような傾向ではない。これは以前、レオシュ・スワロフスキーが都響と共演させ、私が深い感銘を受けたスロヴァキア・フィルハーモニー合唱団の特徴ともちかく、同国コーラスの伝統の一端を教えるものだ。

トルナヴァはかつて、ローマ教会の司教座が置かれた伝統をもつ都市であり、そのレパートリーには当然ながら、宗教的なモティーフをもった作品が多いが、当夜、歌ったもののなかにもルネサンス期のヤコブス・ガルスという作曲家のものがあり、より深い音楽の伝統とも自然に結びついている。一方で、アンコールで歌った作品のひとつはオーストラリア出身の作曲家のもので、神を讃える内容であるといいながらも、ポップス調であり、しかも、英語であるが、それもきれいに歌っており、アンサンブルがインターナショナルな感覚にも満ちたモダンな集団であることも窺わせる。祖国を代表するスホニュの『美しいわが祖国』に始まり、つごう10曲、9人の作曲家の作品には、隣国を代表するドヴォジャークなども含まれ、「離婚」後も、両国が文化的には高く認め合っている印象を感じさせた。

【ヤシュルドヴァーとケドロフ】

この日のメイン・プログラムはスロヴァキアで学び、同地で活躍したソプラノ日向野菜生を独唱に立てたマーリア・ヤシュルドヴァーの作品で、『ポリャナで』という佳品である。合唱がクラスタ気味に息づかいで示す風の音に始まり、独唱と合唱が起伏ゆたかに対話する3曲構成。この日、最初の2曲は切れ目なく歌われた。何気ない日常のやりとりをユーモラスに象り、子守唄や、別れゆく恋人同士のかみわない対話、愛情のなくなった夫婦などのモティーフが歌われる。ララバイは死や不幸への不安と向き合い、自然災害が恋人たちの間にあったひびを決定的なものにして、7年妻と会わない夫を誰かが誘惑する。単純なモティーフに多義的なものを忍ばせつつ、反対に、猥雑な比喩を想起させておいて、実はその邪推を裏切る自然的な美しさとを意図的に対置する仕掛けに満ちたポエジーが窺える。押し出しの強い日向野の声は、淑やかで慎み深いフレッシュな歌声と完全に調和していたのだろうか。また、言葉がきれた後にまた最初のように、風の音が鳴るはずだったようだが、流れが途絶え、客席からも拍手が起こってしまったがために、そのままおわるというアクシデントも発生した。別段、飛び出し気味の拍手だったわけでもないのだが。

私が気に入ったのは、ニコライ・ケドロフの『主の祈り』である。この作品で知られるロシアの作曲家は1871年、ペテルブルクの生まれ。子孫も音楽家である。いくつかの楽区が構造的につくられ、ミルフィーユのように薄い響きの層を丁寧に重ねながら、Amin が重なって祈りがおわる。ややしめやかな Amin のあと、最後、顔を持ち上げて元気よく締めるのが Cantica Nova 風だろうか(いくつかのヴァージョンがあるような気がする)。お国もののパヴォル・プロハースカ、イヴァン・フルショフスキー、ヤーン・バラフといったところは、特に歌いやすく、それぞれにモティーフは異なるものの、親しげな雰囲気を感じられた。「離婚」してよき友達にもどった両国、イジー・ラブルダ、ドヴォジャークというチェコの作曲家も、言葉の共通点などあり、比較的、理解もしやすいのだろうが、幾分、おとぎ話のようにも聴こえるのが面白い。このような批評が正しいかどうかはわからないが、それに比べると、スロヴァキアの歌はどちらかというと素朴で、人間や、生活に根差している感じがする。ところが、同時代のヤシュルドヴァーは、チェコ的にファンタジックな曲想も加え、コスモポリタンであった。

【ユニークなマドリガーレ・ソナタ】

彼らを迎える日本側のホストとしては、アンサンブルAMUが2曲を披露した。ピアノの沢由紀子さんを中心として、他にヴァイオリンとフルートで構成されるトリオは、全員がHAMU(プラハ音楽アカデミー)の出身でそれをもじって・・・というわけでもなくて、沢の実家のおばあちゃんが営んでいた編み物やにちなんだ名前というのは意外なとことである。ヨゼフ・スクの短いバガテルは舅であるドヴォジャークを受け継ぐ大らかな旋律の上で、ヴァイオリンの小技が効き、その部分はヤナーチェクの発話的な旋律に倣うかのようであった。

2曲目のマルティヌー『マドリガーレ・ソナタ』はきわめて技巧的だが、ユニークな楽しみのある作品だ。ソナタと称するように、やはり構造的な作品にはちがいない。第2部の宴たけなわなるところで、おもむろに流れが打ち切られ、最初のほうに現れたシーケンスに遡る。同時代フランスの華やかで、活気のあるアンサンブルに乗せて楽士登場というエントランス風に奏でられた響きは、おわりのほうでは、舞踏会がはねる寂しさを告げる響きへと転回し、すぐにはコーダに入らず、おずおずと、しかし、最後は華麗に幕を締める。「マドリガーレ」は周知のように、中世の歌曲の形式のひとつで、モンテヴェルディの作品群などが特に有名である。マルティヌーの作品は殊更に新古典的ではないが、フルートの細かいタンギングや、ヴァイオリンのピッチカート、それぞれの躍動的な動きを通じて、これまた声楽的なアヤをつけている。このような特殊技能を駆使した作品が、この3人は特に巧みのようであった。なお、ピアノ=沢のほかはヴァイオリン=生方真里、フルート=鈴木真紀子。それぞれ大学や音楽スクールで講師を務め、マルティヌー協会日本支部のプレジデント、もしくは会員という。

【慣れるしかないわ】

スロヴァキア側からは指揮者で、Cantica Nova の会長である ガブリエル・カラポシュ氏が参加。アカペラ曲が多いものの、一部の曲で共演したピアノのマルティナ・トマソヴィコヴァもジャンルを選ばず、好演であった。今回のツアーの世話役でもあり、演奏会の司会は、「ミクロコスモス」というアンサンブルを主催する指揮者の久保田洋氏。MCではカラポシュ氏に体重を聞いたり、合唱団で青毛に染めた令嬢をつかまえて、「お父さんはどういっているの?」と質問するなど、自由すぎた。「慣れるしかないわ」とのお答えがもっともだろう。なお、ほとんどの子はブロンズや栗毛である。最後、手を振って去って行くのが可愛らしかった。8日に町田市のプロジェクトに参加して、国際版画美術館のロビーで30分ほど歌い、帰国するそうだ。台風の影響がなければいいが。日本でのことが、よい思い出になるなら幸いだ。

2018年9月20日 (木)

高橋悠治(pf)&波多野睦美(Ms) シェーンベルク 架空庭園の書 @ムジカーザ 9/19

【私の旅が始まった】

高橋悠治(pf)と波多野睦美(Ms)によるシェーンベルク『架空庭園の書』の演奏は、代々木ムジカーザを舞台にたった50席という贅沢さだったが、どこか、イメージどおりにはならなかった。客観的に楽曲分析するほどの楽識はなく、私の拙いイメージなど全く問題にはならないだろうが、そこはかとなく思う点を書き残してみたい。最初に言っておくが、イメージどおりではなかったが、まったく胸に響かなかった演奏というのともちがう。おわったあと、私の心臓はこころなし強いリズムを打っていた。それなのに、右の脳も、左の脳も、まだ鍵をかけたままだ。

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2017年8月 4日 (金)

フーゴー・ヴォルフ 『イタリア歌曲集』 太田直樹(Br)、天羽明惠(S)&花岡千春(pf) 7/20

【ヴォルフのイタリア歌曲集】

フーゴー・ヴォルフの『イタリア歌曲集』全曲(46曲)を、ソプラノの天羽明惠、バリトンの太田直樹が歌い分け、花岡千春がピアノを弾いたリサイタルを楽しんだ。日本にいると、ドイツ歌曲の演奏会はシューベルトとシューマンの作品がほとんどで、女声は他にリヒャルト・シュトラウスを取り上げてくれることもあるが、他ではベートーベン、メンデルスゾーン、マーラーを時々やるぐらいのものでしかない。ブラームスやシェーンベルク、現代のアリベルト・ライマン、そして、ヴォルフなどは、もっと意欲的に成果を積み上げてほしいレパートリーだと思っている。

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2016年6月 4日 (土)

澤江衣里 ソプラノ・リサイタル R.シュトラウス 4つの最後の歌 など 東京音楽コンクール入賞者リサイタル 4/29

【さすらい人を継ぐシュトラウス】

ソプラノの澤江衣里は、バッハ・コレギウム・ジャパンをはじめとして、宗教曲のソリストや合唱のなかで活躍しているイメージがつよい。そうした演目で必要とされるのは、シンプルで、情感を内に秘めるような静かな語りくち、さりげなく高度な歌の技巧である。しかし、その彼女がまったく対照的なリヒャルト・シュトラウスの歌曲だけでリサイタルをおこなったのは驚きに値する。今後、コルンゴルトでのプロジェクトにも関心をもっているということで、後期ロマン派の歌曲は彼女のもうひとつの重要なフィールドと見做せるのであろうか。まったく異なる2つのキャラクターがなぜか、私には自然に重なってみえるのだ。

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2014年3月 2日 (日)

三澤洋史 バッハ ヘ長調ミサ曲 BWV233/カンタータ第40番 BWV40 ほか 東京バロック・スコラーズ 「バッハ自由自在Ⅰ」 2/23

【静かに、ゆったりと】

ニコラウス・アーノンクールはその著書のなかで、英国バロックを高く評価し、それほど大きくはない会場で、親密に音楽を囲む雰囲気が、大陸の事情とは異なることを述べている。三澤洋史の主宰する東京バロック・スコラーズ(TBS)の活動も、なんとなく、そんな雰囲気を醸し出していたのではなかろうか。この日の演奏会場、ティアラこうとうの大ホールは1200席もあるから、決して小さな規模ではないけれど、私が言っているのは音楽的表現のことである。

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2014年2月17日 (月)

岡山バッハカンタータ協会&岡山フィル バッハ『ヨハネ受難曲』 特別演奏会 @東京公演 2/11

【バッハの書いた意図に忠実な公演】

近年になって、古楽アンサンブルや声楽家のレヴェル向上と、質的な多彩化は著しく、バロック・オペラや宗教曲などの表現に多大な進化をもたらしていることは間違いない。日本の状況とはいささか異なり、従来のレパートリーが徐々にクローゼットに仕舞われ、これまで見向きもされなかった古い時代や同時代の作品がオモテの舞踏場を彩ることが求められるようになった結果、そのスペシャリストが一定の役割を得たことは、その原因のひとつだろうし、古楽ならレザール・フロリッサンや18世紀オーケストラ、イングリッシュ・コンサート、ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスなど、現代音楽ならアンサンブル・アンテルコンタンポランやアンサンブル・モデルンといったような主導的団体から、派生して独立した人材がまた一山を構え、世の中に価値を問うという好循環が生まれたことも大きいかもしれない。

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2013年10月21日 (月)

尾高忠明&東京フィル ベルシャザールの饗宴(ウォルトン)/海の絵(エルガー) 文化庁芸術祭オープニング公演 10/1

【芸術家=尾高忠明】

尾高忠明はついに、新国立劇場での任期中にオペラ公演の指揮を振ることはなかった。肩の故障があり、舞台上演に不可欠な高い打点を保っての指揮ができないことが理由であろう。尾高は上背もないし、ピットの下から、低い打点で全体のアンサンブルを捉まえることは難しいはずだ。普通に、リハーサルどおり進んでいる場合はよいのかもしれないが、それならそもそも、指揮者が必要なく、舞台で想定されるあらゆるアクシデントに対応したり、舞台ならではのドキドキする大胆な音楽の運びをつくるためには、腕が自由に上がらないようでは話にならないだろう。指揮者でありながら、本業がビジネスマンであるT.ノヴォラツスキー元監督のように、ひとつも公演を振れなかったのは不本意なことだろう。例えば、昨季の『ピーター・グライムズ』などは自分でやりたかったはずだ!

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2013年9月 1日 (日)

小森輝彦&服部容子 デュオ・リサイタル vol.9 ブラームス 4つの厳粛な歌 ほか 8/25

【4つの厳粛な歌】

ブラームスの『4つの厳粛な歌』(歌詞作品)がメインと聴いて、多くの聴衆は多分、それほど心ときめく感じはしない。20分にも満たない作品で、メインというのはやや軽い印象がするからだ。しかし、バリトン歌手にとって、この4つのリーダーを歌いきることは、多大なエネルギーを要することなのであろう。この日の歌手、小森輝彦の態度からもそれとわかる。プログラミングをみても、この歌を含むオール・ブラームス(リストはピアノ独奏)の前半から対照的に、後半はリヒャルト・シュトラウスの管弦楽伴奏つきの歌曲(この日はピアノが代替)もあるが、モーツァルトのブッファ系のもので肩の凝らない作品を並べて、コントラストをつけている。それは多分、前半でああした内容を歌ったあとでは、そういうことぐらいしかできないということなのだろうと思う。

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2013年3月31日 (日)

クラウス・フロリアン・フォークト シューベルト 美しい水車小屋の娘 東京・春・音楽祭 歌曲シリーズ vol.11 3/27

【成長期のステージにあわせて】

テノール歌手のクラウス・フロリアン・フォークトによる、シューベルト『美しい水車小屋の娘』のパフォーマンスは甚だ未熟なものであった。しかし、フォークトは通常の歌い手よりも、長い人生をこの歌のなかで生きたと言えそうである。休憩のときに、ある見知らぬ女性が彼の歌を評して、「ウィーン少年合唱団のようだ」と言っているのが耳に入った。そのときは「ウィーン少年合唱団にローエングリンは歌えまい!」と思ったものだが、その人の考えとはちがうところで、生きてくる言葉というものもあるものだ。そういえば、フォークトが序盤の部分を我々が思うよりも、幼い少年のイメージで歌っている可能性はあるな・・・と思い当たったのである。

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2013年3月14日 (木)

Trina vol.1 メンサー華子 ほか 歌曲のコンサート 3/10

【手を抜かないプロ精神】

このイベントのタイトルにある’trina’とは、レース編みの「レース」のことを指すのだそうである。あの美しい模様をつくるために、どれほどの苦労が要るのか、私にはわからないが、手の込んだものなら、何週間もかかるにちがいない。今回の演奏会もきっと、そんな手間のかかる準備を経て本番に辿り着いたのであろう。出演した3人のソプラノ歌手と、それを支えたピアニストについて、技術的にはもっと上のレヴェルにいる人はたくさんいるはずだ。それなのに、彼女たちはそれを補って余りある発想のゆたかさと、枠に捉われない感性で、私に大きな感銘を与えた。たとえ聴き手が内輪の人たちを中心とした、ごく少数のものであったとしても、一切、手を抜かない厳しいプロ精神も際立っている。

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