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舞台芸術

2019年8月30日 (金)

ヤナーチェク 歌劇『イェヌーファ』 演奏会形式 イェヌーファの会(主催)

【2017年からのアップグレード】

2017年に第7回「ヤナーチェク・ナイト」で披露された『イェヌーファ』の形式は、予想以上に多くの実りを与えた。イェヌーファとコステルニチカの養母子に、ラツァを加えた3人だけのキャストを用意した抜粋で、司会メンサー華子がストーリー・テリングを担い、伴奏はピアノに、一部、シュテヴァが歌うはずのモティーフを演奏するなどの目的でヴァイオリン1本を加えたものにすぎなかったが、どうして、その成果は素晴らしいものだった。関係者はそれに満足せず、2年後にキャストをすべて揃えた全幕上演を実現した。ピアノとヴァイオリンに加え、今回は歌劇のなかで、同様に重要なモティーフを担うシロフォンを追加。新国立劇場(2016年2月にイェヌーファを上演)スタッフの城谷正博が指揮に加わり、演出家の粟国淳が全体のステージングをサポートする立派な公演へとアップグレードされた。東京文化会館の小ホールは、ほぼ満席にちかく埋まった。

前奏曲の冒頭から不安のモティーフとして鳴るシロフォンの響きが加わり、ヴァイオリンのモティーフも頻繁に奏でられる第1幕の音楽的構成は密度が高く、室内楽的に完成している。2年前の公演から、上記の三役は変更せずに上演できたことも大きい。加えてブリヤ家の女主人は当役ではお馴染みの与田朝子で、イェヌーファ、ラツァとともに、序盤の展開をソツなく埋める。題名役の小林厚子は前回の公演で特に印象的な存在であったが、今回はさらに深みを増した歌唱で、役に馴染んだといっても過言ではないようだ。その見せ場はなんといっても第2幕にあるが、その模様については後述する。

ラツァ役の琉子健太郎は高音が詰まり気味になり、居丈高に振り下ろすような声になってしまうときがあり、技術的にはいくつかの課題があったものの、内面的な表現には優れている。彼が魅せたのは第1幕のおわり、ラツァがイェヌーファの頬を傷つけてしまう場面で、直後に動揺して、彼女の名前を連呼するとき、一瞬だが、深い愛情を示すところだ。彼の行動はいわば元カレによるストーカー行為に値し、自分自身が難しい状況に陥った後であるとはいえ、イェヌーファがみずから彼の行動を赦し、共に歩み出すまでの過程は現代人にとって疑問が多い。粉屋の親方などは、ラツァがわざと刃傷に及んだと思っている。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。ヤナーチェクはオペラのなかで、多義的に解釈できる要素を多く入れるのが特徴だ。ラツァにも弁護の余地はある。

【ラツァによる刃傷の意味】

仮にコステルニチカを神であるとすると、そして、また、イェヌーファがイエスであるなら、ラツァとシュテヴァはそれぞれユダとペテロに値する。面白いのは、ヤナーチェクがユダに同情的である点だ。神(コステルニチカ)は自らと、イエスを拒んだペテロをふかく憎み、実際、ともに沈む。これと比べると、ユダはイエスを傷つけたにもかかわらず、最後にはすべてを正しい方向へと導くのだ。まるで、ユダがもっともイエスをよく理解した使徒であり、イエスが特に彼を選んで裏切りを指示したという、グノーシスの一派『ユダによる福音書』を遺したグループの考えにちかい解釈ではなかろうか。ラツァが暴力によってイェヌーファを裏切った、その瞬間にこそ、最高の愛があるのだ。その後の物語は、これを読み解き、確認していく過程にすぎないともえいえる。

この愛について、私はこれまで、何回か接した『イェヌーファ』の公演では気づくことができなかった。むしろ、そこにあるのは生煮えの素材であり、その後、熟成していく想いの、尖った欠片のようなものにすぎないと感じていたのだ。人間は成長するという単純至極な見方によって、このような解釈は容易に根づきやすい。だが、現代的にみれば、女性の側からみてラツァによる刃傷は許しがたく、後戻りのできないものにみえるだろう。それならば、やや出発点が複雑なものにはなるものの、ラツァの行為がもともとイェヌーファの訴求によるものだとすれば、矛盾はずっと小さくなる上に、第3幕の台詞などにもよく整合する。

もっとも、この日はプレトークでピアノ版で披露された序曲『嫉妬』が作品冒頭に置かれていたことから導かれる解釈を重くみており、序曲が最終的に破棄されたとはいえ、音楽的モティーフからみても、異父弟に対する嫉妬がラツァの刃傷にとっての起因であったことも疑いがない。このオペラがヴェリズモ的な単純さを示す印象もまた、否定できないのだ。作品に描かれる心理的に複雑な過程にもかかわらず、ラツァだけではなく、コステルニチカも衝動的な行動をとる。第2幕でシュテヴァへの希望がほぼ完全に絶たれたのち、次に期待を賭けるラツァがシュテヴァの子を育てねばならないのかと嘆いた瞬間に、彼女はまだこの世に在る嬰児が既に亡き者であると断言してしまうのだ。この場面には息を呑む。この決定の裏にはシュテヴァへの深い憤りや、自らの立場を守りたい社会的な防衛本能が働いているにちがいない。しかし、よく見てみれば、ヤナーチェクはそのような衝動だけでは、人は動かないと断じているのである。第3幕でみられる、コステルニチカの自己分析は正しくない。やはり、これは打算的なものよりは、愛情に導かれていると思うほかない。人々は他者への特別な愛情のためなら、罪をも犯すだろう。

【イェヌーファは夢の中にいたか】

全幕上演に変わり、イェヌーファ&ラツァの関係だけに止まらず、もっとも存在感を増すのはコステルニチカであった。ベテラン歌手の森山京子は2回目の上演で、いっそう強烈な役づくりを披露したが、それでも音楽や技術のフォルムが一向に崩れないのはさすがというほかない。赤子をおくるみに包むような仕種をみせたあと、舞台のやや前方に進み、まるで歌舞伎役者のような大見得を切ったあとで、裏に消えていくときの迫力は一種のトラウマになりそうなほどだ。こんな強烈な「打算」などあるわけがない。G.プライソヴァーが事実に基づいて仕立てた戯曲『あのひと(女)の養女』を、ヤナーチェクはほとんど変えずに使ったそうだが、それにもかかわらず、音楽や構成の妙により、強烈な異化が生じている。

第2幕はコステルニチカの決断と、つづくイェヌーファの夢遊病的な「狂乱の場」が対応的に書かれている。彼女は聖母マリアに祈り、美しい晩祷が旋法的な響きで歌われる。ここでイェヌーファは、コステルニチカと同じ(そして、マリアとも重なる)母としての格を獲得するのである。今回の舞台は照明をうまく使い、第1幕を夕べの薄暗さ(むしろ明るみ)のなかに、第2幕はより深い暗闇、そして、第3幕でやや光量を上げて描き上げる工夫をみせた。粟国淳がそれ以外でアイディアをみせたのは、コステルニチカとシュテヴァの会談が決裂し、シュテヴァが逃げ去っていく場面で、裏から姿を現したイェヌーファが母と声を合わせて、シュテヴァの名を呼ぶところである。このドキリとする場面は、またも解釈を複雑にする。既述のように、コステルニチカは嬰児を亡き者にしようと連れ去ったあとで、イェヌーファの独白が始まる。これが、まだ夢のなかである可能性が露骨に生じたのだ。実際、第3幕でコステルニチカはイェヌーファが数日、目を覚まさなかったと言っている。それは普通、咄嗟にでた嘘だと思われるのだが、事実と受け取った場合には、当時のイェヌーファは夢のなかで歌っていたことになるのだ。

その後、イェヌーファは夢心地から醒めて、帰宅したコステルニチカ、使いから戻ったラツァと話す場面があるのだが、やや強引ではあるものの、これもまた夢として解釈してみるとしよう。すると、イェヌーファは第1幕の最後から、ほぼ直接的に第3幕の結婚式に飛んだことになる。その間に起こった、様々な逸話については省略されているのである。ここで重要になるのは、第1幕で示されたラツァの深い愛情だ。それが明確ならば、結婚式の場面も決して矛盾とはいえない。この詩的な跳躍は、私の気に入るものだ。粟国やキャストたちが、それをハッキリと意識したかどうかはわからない。だが、私にはもうひとつの道がみえたのだ。

【隠された行動原理~発話旋律】

第1幕と第3幕で共通するものとしては、スラヴ的な祝祭の音楽がある。第1幕ではシュテヴァが帰郷した兵隊の若者たちをおおぜい引き連れて、楽士を招き、ドンチャン騒ぎをする。第3幕では、乙女たちがイェヌーファの晴れ舞台をせめて華やかにするために騒ぐのだ。前の公演で活躍したメンサー華子を中心に、こころから楽しげなアンサンブルは見ているほうが羨ましくなるほどである。目的はちがうものの、これらが一直線に貫かれることも、夢を飛び越して現実が繋がる構造を感じさせる。なお、この作品におけるヤナーチェクの音楽は大きく3つの要素にわけられる。「発話旋律」と呼ばれる、苦心して生み出されたデクラメーションによる心理描写を、詩的に構成する音楽が、もっともみごとであるのは明らかだ。しかし、いまのような祝祭的な活き活きとした音楽や、堅固な伝統に基づく宗教的な音楽の構造美も見逃せない。

第一の要素についてもっとも印象的なのは最後の幕で、式に割り込んできた子ども(演じたのは複数の端役をこなしたメンサー華子)が嬰児発見を慌てたような早口で報告する場面だ。この1分にも満たない局面が、2時間にわたる歌劇の種明かしになっていることはなかなか気づかれないし、私も当夜、初めてそれを意識した。だが、この場面を境に祝祭的なムードは消え、罪の告白と贖罪が行われる。ほとんど神としてのコステルニチカは転落し、社会的な富貴であるシュテヴァも同時にすべてを奪われる。これはいわば、それまで神秘主義的、カヴァラ的に展開した物語と音楽の秘密が曝露されたときの罪科のようにも聴こえるのだ。この歌劇には見かけ上の激情や、ヴェリズモ的な振る舞いのほかに、とりわけ言葉と密接に関連した隠された行動原理が潜んでいるのかもしれない。それはもちろん、グノーシス主義やユダヤ教の教えの一部にも似た具体的な対象から直接、導かれるものではなく、いわば書いた者にしかわからない秘密というべきであり、表向きとは異なる飛躍が面白い。そして、この場合、子ども(牧童ヤノ)による罪の告発は二重三重に譬喩的なのだ。

この日の公演は、そうした秘密に限りなく近づいたように思えてならない。正直、ここまで揃えればオーケストラでの上演が恋しくなるが、それ以上に見どころのある舞台であった。音楽スタッフはピアノに北村晶子(藤原藍子もプローヴェをサポート、プレトークで『嫉妬』連弾演奏にも参加)、ヴァイオリンにピルゼン(プルゼニ)で長く音楽活動に携わって帰国した山﨑千晶、シロフォンは竹内美乃莉。北村は複雑なスコアを緻密に再現、山﨑も相当の訓練を積んで、この日に臨んだことがわかる。言語指導は、このグループの活動に指導的な役割を果たす西松甫味子だった。

【プログラム】 2019年8月22日

ヤナーチェク 歌劇『イェヌーファ』(演奏会形式、室内楽伴奏)
 
 於:東京文化会館小ホール

2019年2月21日 (木)

オペラシアター こんにゃく座 オペラ『遠野物語』 (吉川和夫、萩京子、寺嶋陸也:作曲) 2/16

【オペラ『遠野物語』の人間関係について】

オペラシアター「こんにゃく座」は今季の新制作として、柳田國男の『遠野物語』に基づくオペラを3人の作曲家の共作によって完成させた。吉川和夫、萩京子、寺嶋陸也という3人で、それぞれにインディペンデントな活躍が目立つクリエイターたちである。台本は長田育恵が担当。俳優座の眞鍋卓嗣が演出した。私自身はこんにゃく座の公演には初めて接するが、その水準の高さには驚いた。音楽、演劇(文学)、美術、照明などの諸分野における一級のスタッフが、この小さな舞台を支えているようだ。そして、国文学と民俗学、現実とまぼろし、いまとむかしの汽水域をめぐる『遠野物語』に、新たな光を当てる一作となった。

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2018年10月29日 (月)

ラインダート・ファン・ヴァウデンベルク 歌劇『出島~シーボルトの愛』(ハイライト版) 演奏会形式 アンサンブル・ノマド 64th定期演奏会 10/25

【一体、誰がつくった?】

アンサンブル・ノマドの上演した歌劇『出島~シーボルトの愛』の世界初演は、あらゆる意味で型破りな成功だったといえる。今回は全曲WPという予定だったが、作品が長すぎたせいか、最終的には日本公演のハイライト上演への変更を決断。また、演奏会形式と謳っていたが、実際には演出と衣裳付きのセミ・ステージ形式で行われ、これに肉付けする形で作品は欧州に旅立っていくことになる。いつかまた、例えば新国立劇場のような、パヴリックな興行主などが作品を日本に呼び戻してくれる日を夢みるばかりだ。諦めなければ、夢は必ず叶うだろう。

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2018年9月12日 (水)

二期会 プッチーニ 三部作 『外套』『修道女アンジェリカ』『ジャンニ・スキッキ』 ダミアーノ・ミキエレット(演出) 上江隼人/北原瑠美 組 9/8

【幸福に生きるのは難しい】

ジャコモ・プッチーニは生前から尊敬され、裕福になった珍しい作曲家のうちに入るが、その私的生活は必ずしも幸福とは言い難かったようである。大恋愛をして、相手の夫の死を待って結婚したほどの奥方はなぜか猜疑心が強く、無欲の使用人を追い詰めて死に至らしめるほどであって、この事件はプッチーニに大きなトラウマを与えた。甘い音楽と壮麗な音楽で売ったプッチーニであるが、どこか寂しく、孤独な愛を多く描き、移ろいやすく、ときに残酷な人情を描くことでは右に出る者がない。『つばめ』でオペレッタ風の軽い作品を請け負ったはずのプッチーニだが、彼のスタイルは、この作品をもの悲しい別れの作品へと変えてしまった。ヴェルディの歌劇『トラヴィアータ』のプッチーニ的解釈ともいえる『つばめ』では、主要役の娼婦がヴィオレッタのように愛へと殉じることもなく、若い相手を捨ててしまうだけである。熱い夢もいつかは冷めるのか、あるいは、相手の将来の幸福について忖度したせいなのか。

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2017年11月20日 (月)

西澤健一(作曲、脚本) 歌劇『卍』 (原作:谷崎潤一郎) 世界初演 11/17

【作品と背景】

作曲家・西澤健一の作品をはじめて耳にしたのは、2012年の個展においてであった。西澤氏がどのような立場にある作曲家なのか、私はそれほど詳しいわけではないが、自らの才覚だけを頼りに、インディペンデントな活動をしているように見えるのは間違いではあるまい。前衛主義というのとはちがう。もともと私に彼のことを紹介した人によれば、もとは斬新な手法に基づく作風であったのが、勇気をもって転身し、聴く人とのコミュニケーションを重くみる作風に変えていったということだ。

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2017年11月13日 (月)

日生劇場 ドヴォルザーク 歌劇『ルサルカ』 演出:宮城聰 田崎組(一般公演/初日) 11/9

【芸術の使徒】

日生劇場のオペラ公演は、教育面や、契約者へのサービスという側面ももつ都合上、ユニヴァーサルな演出が求められる。それにもかかわらず、モーツァルトのほか、ヤナーチェク、アリベルト・ライマン、そして、今回の『ルサルカ』など、なかなか日本の舞台にかからない作品を手ごろな箱のなかで見せてくれる貴重なシリーズでもある。より開かれた対象に、本物の舞台を観てもらうという正攻法である。券売所で並んでいると、案内の女性が「オペラ」を「ミュージカル」と呼んでしまう微笑ましい劇場は、生音の音響としてはややデッドな弱点があり、グランド・オペラの上演にはオーケストラのためのスペースが足りないという問題があるが、ライマンのオペラを上演した際、オーケストラを一部、舞台にあげてしまう工夫が当たった。それぞれの公演の演出チームは変わっているものの、実践の蓄積のなかで得た知見は、年を経ても劇場のなかで確実に踏襲されているようだ。今回はさらに、合唱や管弦楽のバンダをときどき、客席を取り巻くように配置した山田和樹らしい趣向で、一歩前進というところである。劇場としては狭い空間を、効果的に拡張するアイディアであった。

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2017年9月26日 (火)

第7回チェコ音楽祭「ヤナーチェク・ナイト」 歌劇『イェヌーファ』(抜粋) ほか 9/7

【顕微鏡で覗いたような緻密さ】

第7回を数える「チェコ音楽祭」だが、今年はオール・ヤナーチェク・プログラムで、歌劇『イェヌーファ』の抜粋公演がメインという意欲的なものだった。歌劇はピアノ伴奏に、一部にヴァイオリンが参加。キャストはイェヌーファのほかに、コステルニチカとラツァだけに絞られたが、予想以上に素晴らしいパフォーマンスとなっていた。前半の室内楽プログラムも含めて、どの演目も顕微鏡で覗いたような緻密さを示している。よく考えられ、限られたリソースでも、それをどのように使うと、作品の魅力がもっともよく伝わるのか、考えた人のアイディアが素晴らしいというほかないのだ。

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2017年9月20日 (水)

ラモー 歌劇『レ・パラダン』 ジョイ・バレエ・ストゥーディオ 再演 9/1

【正統派の舞台づくり】

ジョイ・バレエ・ストゥーディオは、2012年の『プラテー』を皮切りに、再演を入れながら、『レ・パラダン』『優雅なインドの国々』とラモー作曲の3つの作品を、フル・スペックでレパートリー化した素晴らしいカンパニーである。私は初回の『プラテー』をみて、このブログのなかで好意的な評価を示した記憶がある。その後、このカンパニーの公演に関心は強かったが、なかなかタイミングが合わずに、これが2度目の視聴となった。『レ・パラダン』は2013年プレミエからの再演であるが、この日の指揮も担当したパリ市立音楽院(CRR de Paris)教授であるステファン・フュジェと、過去の公演でプラテー役を歌った著名なテノール歌手、エミリアーノ・ゴンザレス・トーロのサポートを受けて研究を進め、未だ公刊された現代譜のない作品から、いくつかのピースを現代譜に起こして世界初演する栄誉にも恵まれた。

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2016年9月10日 (土)

神田慶一 歌劇『青い海よりおおいもの』 国立オペラ・カンパニー「青いサカナ団」 9/3 (初日)

【オペラ・シンフォニア】

クラシック音楽は、筋書きのあるドラマだ。何百年にもわたって、誰かがそれを大切に守りつづけてきた。もしもそれが演劇だとするなら、台詞、演じ方も、舞台装置や演出のあり方、間の取り方に至るまで、数百年の歴史のなかで受け継がれてきたものが確かにあるはずだ。新しい時代の人々はそうしたものへの敬意を払いながら、できるだけ丁寧な再現を試みることで芸術家として認められている。こうした態度はオーセンティック、あるいは、オーソドックスと呼ばれている(後者は批判的な意味でも使われる)。一方、ピエール・ブーレーズは歴史的なものの権威に胡坐をかき、博物館で大切にしまわれた宝物のような姿で、伝統音楽があることを強く否定した。現代では、オーセンティックなあり方を守りながら、芸術家が独自の個性で伝統にぶつかり、これを刷新するという考え方と、時代と対話するなかで生じる、まったく未知の領域を切り開く表現という考え方が融合し、これらのグラデーションのなかで、理想的な創造と再現のあり方が模索されている。

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2016年3月19日 (土)

クリストフ・ロイ(演出) ヤナーチェク 歌劇『イェヌーファ』 新国立劇場・オペラ部門 2日目 3/2

【ワールド・スタンダードな舞台】

ヤナーチェクの歌劇『イェヌーファ』は、世界的にはポピュラーな演目のひとつであるが、日本国内での上演は2004年の二期会の公演が最後であったと思う。ドイツ語上演ではあったが、舞台全面に土を敷いたマルティン・オタヴァの演出、そして、題名役であった津山恵の鮮やかな変身の演唱は独創的なものであり、終幕の最終場に移る際、イェヌーファとラツァの背後の深紅の緞帳が下り、2人だけが肩を寄せて歌う場面の神々しさなど、今日までも記憶に残るプロダクションであった。このドイツ語訳はフランツ・カフカの友人としても知られる、大文人マックス・ブロートが苦労して織り上げたもので、そうしたものが長くドイツ圏をはじめ、世界の広い地域で上演の主流を占めていたことは理解に値する。

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